獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その21)

2024-04-15 01:19:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
■3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放

 


3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
大蔵省内では、初めて迎えるジャーナリスト出身の異色大臣、しかも同省本来の健全財政に反した積極財政を唱える新大臣に反発する空気が強かった。これに対して湛山は、固い信念と熱情と実証的論法をもって官僚たちを次第に心服させていった。当時主税局第一課長兼第三課長であった前尾繁三郎(のち衆院議長)は、「大体、大蔵省の役人は伝統的に緊縮財政が習性となっているので、本当の石橋先生を知らず、先生の就任を歓迎する者はいなかったといってよい。現に私なども、野放図な国債論や赤字財政を主張されるようなら皆で結束して食い止めなければならないと、手ぐすね引いて待ち構えていた。ところが、就任された石橋先生は私どもが想像していた人とはまる切り違っていた」と回想している(同著『続々政治家つれづれ草』439頁)。とくにGHQ側に対し毅然たる態度を失わず、しかも自ら心骨を砕いてESS側との折衝に当たる態度は、部下から信望を集めることとなった。このような湛山に心酔した人物に池田勇人(当時主税局長、のち蔵相、首相)がいた。後述の戦時補償打切りと財産税の問題で湛山を頼りになる大臣だと惚れ込んだ池田は、湛山によって待望の事務次官にも抜擢され、いっそう湛山との絆を深めた。10年後、湛山と池田は改めて首相・蔵相のコンビを組むこととなる。なお湛山は財政演説でも、放送原稿でも、すべて自分で執筆するという珍しい大臣でもあった。

では戦後財政史に特異な一頁を残した「石橋財政」とはどのようなものであったのか。いわゆる石橋“積極”財政は、既述のとおりケインズ理論を基盤としたが、当時社会党や共産党など野党、新聞・雑誌などジャーナリズム、学界、さらにはGHQからも、石橋“インフレ”財政と酷評され、集中砲火を浴びたことは広く知られている。つまり、「金融緊急措置でいったん鎮静したインフレーションを、赤字財政と復興金融金庫融資をテコとした生産第一主義によって再燃させたものであって、資材が絶対的に不足していた当時においては、生産拡大よりインフレ促進的であった」と批判されたのである(長幸男「百年の日本人 石橋湛山③」『読売新聞』1983年6月30日)。しかしそのような批判は、瀕死の状態にあった日本経済に対する湛山の即応速効性の高い処方箋を十分考慮しておらず、しかも戦後日本資本主義の再建と発展のための「資本蓄積機構の原型を整備した点における石橋財政の役割」を軽視している(高橋誠「石橋湛山」)。石橋財政の戦後経済財政史における学問的再評価が望まれるが、ともかく現実上、このようなインフレ論に基づく批判が湛山の公職追放の伏線をなすわけである。
さて湛山が大臣在任中に直面した主要課題とは、(1)戦時補償打切り問題、(2)石炭増産問題、(3)終戦処理費問題であった。

(1)は戦時中に政府または軍部が軍需会社に対して約束した補償を打ち切る問題であった。湛山は大臣就任直後、ESS局長のマーカット (William F. Marquat) 少将より「戦時補償100パーセント課税案」を実施するよう指示された。湛山としては同案に根本的に反対ではなかったが、補償打切りによる損害が諸銀行に及び、預金者に不安を与えることになれば、日本の経済復興をますます困難にすると考えた。そこで湛山側は戦時補償の打切りを財産税で処理しようとしてESS側と折衝した。しかしESSは戦争の懲罰的意味からこれを容認せず、そのため湛山は吉田に辞意を伝えた。ここで吉田がマッカーサーに善処を要望したものの、押し切られる結果となった。結局10月にアメリカ側の意向を容れた「戦時補償特別措置法」が成立したが、大蔵省は事前に補償打切りの被害を最小とするための「会社経理応急措置法」等を国会で成立させた。しかもインフレの進行により、経済界は補償打切りの打撃を減らすことができた。GHQはこの点を重視し、湛山が資本家層を庇護するために意図的にインフレを拡大したと考え、湛山への反感を強めたのである。

(2)は大蔵省の直接の管轄ではなかったが、予算歳出上関与することになった。石炭は当時唯一のエネルギー源であり、石炭の欠乏はまた唯一の交通機関であった汽車の運行を困難とし、それは食糧輸送を停滞させ、都市に餓死者さえ予想させた。したがって湛山は石炭増産を死活的問題として重視した。そこで当時の年間産出量2000万トンを3000万トンに供給拡大することを商工省(現在の通産省)と申し合わせ、緊急措置として資金(しかも業者が望む「新円」)を供出した。石炭関係業者の自主的増産を期待したからである。ただしGHQ側の金融財政政策の重点は、猛威をふるうインフレの終息にあり、その意味で大蔵省側の補助金支出の方針は、「財政支出の削減」と「財政収支の均衡」に逆行する政策とみなされた。それでも湛山は石炭増産のためには金の出資以外にないと判断し、補助金だけでなく、復興金融金庫からも大いに融資させた。この方針はのちに「傾斜生産方式」へと受け継がれて石炭増産を実現することになるが、この措置がGHQ側の不評を買い、石橋蔵相はインフレーショニストであるとのイメージが出来上がったのである。

(3)の「終戦処理費」とは進駐軍の諸経費のことであり、連合国はそれを敗戦国日本の義務と定めた。この費用がほぼ日本の国家予算の3分の1程度を占めるほど膨大であり、実はインフレ膨張の一要因でもあった。日本政府に対してインフレ防止を要求しながら、実は占領軍側がインフレを助長するとの矛盾があった。この終戦処理費および同質の占領軍用「特別住宅建設資材費」を一種の賠償とみなしていた湛山は、7月の昭和21年度財政演説において、それら費用の合計が総歳出の約36パーセントを占める事実を明らかにした。しかも当時は歳出が歳入を大きく上回る“変態予算”であったため、いかに占領軍関係予算といえども、黙視できないと判断した。そこで湛山はこれら費用の削減を決意した。
11月、GHQに対して地方の進駐軍が発注する工事の乱脈ぶり(将校などが日本の業者から賄賂を取ったり、業者が甘い汁を吸う例も少なくなかった)を通知すると同時に、占領軍があらかじめ6ヵ月前に建設計画を立て、日本政府が独自の立場から請負業者を選択できるようにすること、支出を最低限に切り詰めること等を列挙した要望書を提出した。当時の占領軍と日本政府との不平等な関係を考えれば、要望自体、相当な勇断であった。続いて12月、湛山は国会の秘密会でこれら占領費の詳細を報告し、住宅地やゴルフ用地費、生鮮野菜用のプール建設費、将校への花や金魚などの宅配費など実例を挙げて現状を説明した。そしていかに戦争勝利国とはいえ、日々の食事も儘ならない窮状に喘ぐ日本国民の立場からすれば、許容の限度を超えていると訴えた。『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲイン (Mark Gayn) の『ニッポン日記』(213~4頁)は、その際に石橋蔵相は、終戦処理費が「日本経済を破綻に瀕せしめようとしている」旨説明したと記述している。
ここに至り、GHQ内部のみならず地方の占領軍からも、石橋蔵相は占領行政に抵抗する反米的国家主義者であるとの空気が強まった。彼らからすれば、終戦処理費は戦勝国の特権であり、敗戦国側が口出しするとはもってのほかとの聖域意識が一般的であったからである。湛山追放工作が本格化するのはこの頃からであった。

 

 


解説
ここに至り、GHQ内部のみならず地方の占領軍からも、石橋蔵相は占領行政に抵抗する反米的国家主義者であるとの空気が強まった。彼らからすれば、終戦処理費は戦勝国の特権であり、敗戦国側が口出しするとはもってのほかとの聖域意識が一般的であったからである。湛山追放工作が本格化するのはこの頃からであった。

GHQの湛山追放工作は、理不尽としかいいようがありません。


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その20)

2024-04-14 01:39:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
■2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放


2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
1946年(昭和21)2月、湛山は戦後初の総選挙に立候補することを決意した。直接の動機は、1月4日のGHQによる衝撃的な公職追放(パージ)指令により、多くの保守的政治家が立候補資格を失い、各党ともに候補者難に陥っていたことにあったが、根本的理由は、前述のような独自の日本再建構想の実現に尽力したいと考えたからであった。つまり、この際「緊縮財政」を実施すれば、容易ならざる結果を生むので、それを阻止したいと考えたのである。かつて金解禁論争で自己の正当な見解が現実の政治に十分生かされなかった無念さ、言論活動の限界を湛山は身に染みて感じていたことも、今回の立候補と無縁ではなかったであろう。あるいは自己の深層心理に潜んでいた政治家志向が突如顕現したというべきかもしれない。
ただし今回の湛山の決意は周囲にとって一驚でしかなかった。松岡駒吉や片山哲など友人の多い社会党からの誘いを断り、あえて自由党から立候補を決意したことも湛山関係者の驚きを重ねた。実は湛山は前年11月の自由党結党以来、請われて同党の経済財政問題の顧問を務めており、党首の鳩山一郎とは懇意といえないまでも、戦時中から顔見知りの間柄であった。社会党が社会主義イデオロギーに拘束されて思想の自由を欠いているのに比して、この自由党の方が自己の主張を取り入れてくれる望みがあると判断したのである。
当初郷里山梨県からの出馬を考慮したが調整がつかず(前掲『湛山日記』3月2日には「山梨県よりの立候補はむづかしきものと判断せらる」とある――102頁)、結局湛山は東京二区から立候補した。しかし準備不足がたたり、戦後初の4月の総選挙では、2万8000票を獲得しながら、順位20位で落選となった。一方自由党は141議席を得て第一党となり、鳩山総裁の首相就任が確実視されていた。ところが日本の非軍事化・民主化を強力に推進する民政局(GS)、とくに実力者の次長ケーディス (Charles L. Kades) 大佐は、鳩山を頑迷な保守政治家とみなし、その首相就任を阻止するためパージに処した。そこで急遽、吉田茂外相が後任に選出され、5月22日、第一次吉田内閣が発足した。奇しくも湛山はこの内閣の蔵相として入閣し、戦後再建の大役を担うことになった。落選の身でありながら大臣の椅子を拾う例など世界でも稀であろう。吉田は湛山について、「平素親しく交際していたわけではなかったが、戦前から自由主義的な経済雑誌『東洋経済新報』の主宰者であったことや、“街の経済学者”として相当な見識の持ち主である」旨を聞き知っていたので、党側から湛山を蔵相に推薦してきた時は、「何の躊躇もなく」湛山に決定したと述べている(同著『回想十年』182頁)。ここに湛山は35年に及ぶ言論人時代にピリオドを打ち、政界へ転身することとなった。時に61歳、晩年での再スタートであった。

ところで戦後日本が辿った道は「吉田路線」と総称される。吉田路線の特色は、いうまでもなく経済優先主義と軽武装主義にあり、この基本枠では湛山と吉田との間に相違がない。それ以外にも湛山と吉田とは奇妙に符合する点がある。一つは、もし日本が敗戦というかつてない国難に直面しなかったならば、おそらく両者とも戦後政治の表舞台に登場することなく、平穏な余生を送ったであろう。ところが日本の敗北が二人をそれぞれ言論界、官界から政界へと導き、素人政治家として国政に参画させた。もう一つ共通するのは、多くの日本人が降伏と降伏後の混乱によって自暴自棄に陥り、ともすれば事大主義が横行する社会風潮の中で、この両者の強烈な個性が例外的に主体性を貫いたことである。

ただし二人は、第一に、政治家のタイプとしてはかなり異なっていた。湛山はそもそも言論人であると同時に思想家であり、それゆえ自己の見解を明確に前面へと押し出す「理想先行型」(ゾレン型)政治家であった。これに対して吉田は、元来外務官僚であり、権謀術数を含めた外交上のノウハウを知悉する人物であり、現実をリアルに認識して対処する「現実重視型」(ザイン型)政治家であった。この相違がのちに占領軍への基本姿勢の差となって現われる。また経済重視・軽武装の路線では、両者は一致していたとはいえ、湛山の場合、“自力更生”を基軸としていた。つまり占領軍に頼らず、極力日本自身の力で自己改革に着手すべきであると考えていた。その背後には、自らは戦時中もリベラリストとして軍部、右翼たちと戦ってきたとの自負心があり、もう一方では、占領されていることは事実であるとしても、アメリカに全面的に国家改造を委ねることは新日本建設のための真の改革とはならないという彼の理念、いわば生真面目さがあり、加えて、アメリカは占領改革に失敗すれば帰国するだけだとの対米不信感もあった。とすれば、連合国側からみた湛山は、日本の敗北を敗北として完全に認めていない国家主義者(ナショナリスト)に映ったであろう。
実際、日本文化史研究の権威として名高いサー・ジョージ・サンソム (Sir George B. Sansom) は、46年1月25日付の日記に湛山との会見について次のように記述している。「『オリエンタル・エコノミスト』誌の荒廃した事務所で、主幹石橋湛山と、ジュネーブに長くいた鮎沢巌に会い、食事をともにした。二人は日本の犯した大失敗と罪業を、第一に大失敗、第二に罪業という順序で認め、敗戦への帰結を受け入れながらも、占領政策には批判的である。広範な知識人階級の典型と思われるこれら二人は、私見によれば、その根底は反白色人種主義者である(以下略)」(岡本俊平「『湛山研究』発表とアメリカ学界の反響」)。
一方吉田は、連合国側に対しては「まな板の鯉」の心境であると同時に、戦争の負けを外交で取り返すとの基本姿勢を持ち、時には面従腹背、弱者の恐喝も辞さず、アメリカ政府や占領軍の力を徹底的に利用して日本の改革を進める方針であった。しかし湛山の立場からすれば、これは他力本願、アメリカ本願と映った。かつて元老伊藤博文が「袞竜(こんりょう)の袖に隠れて勝手なことをした、明治天皇を利用した」と非難されたように、吉田はその語学力を生かして連合国最高司令官マッカーサー (Douglas MacArthur) 元帥に取り入り、彼の権威を最大限活用し、その外圧を内圧に 転化して自己の政治的足場を固めようとしているだけではないか、それは非民主的手法であって、新日本にはふさわしくないと考えるに至った。逆に吉田からすれば、「長い物には巻かれろという。負けは負けとして潔く認め、書生みたいな生硬なことは言わずに、もっと占領軍に協力してくれ」となった。要するに、二人はともに明治人的ナショナリズムが旺盛であり、国家再建の目標で一致しながらも、目標達成に向けての基本姿勢に大きな開きがあった。ここに両者が離反する主原因があった。

第二に、右記の相違性の根底には、両者の政治理念の差異があったといえる。吉田はイギリス風の貴族的自由主義者であって、反ファシズムの立場の親英米論者であり、政党を重視せず、世論やマスコミをさほど信用していなかった。また吉田は治者の学ともいうべき儒教倫理を強く持っており、賢者と愚者、為政者と一般大衆とは風と草の関係、つまり「風が吹けば草はなびかねばならない」と理解していた。そして熱烈な皇室崇拝者であり、「臣茂」を名乗って憚らなかった。他方の湛山は庶民的自由主義者であって、再三指摘したように、明治末期から個人主義と自由主義の確立を社会に広く訴え続け、政党中心の議会制民主主義や普通選挙制度確立に意を砕いた進歩的言論人・思想家であった。また湛山には吉田のような天皇制に対する信奉の精神は見られず、単にプラグマティックな観点から天皇ならびに天皇制を評価したにすぎなかった。総じて吉田の政治手法は、湛山がかつて批判の矢を向けた秘密主義と権威主義に基づく官僚政治、非民主的な寡頭政治そのものであった。

そのほか社会主義・共産主義イデオロギーに関しても、湛山は吉田のような反共一点張りという頑なな姿勢はなく、むしろ資本主義も社会主義も、自由主義も共産主義も、国民生活の向上や社会発展を志向する点で大差はなく、もしも社会主義・共産主義思想の中に人類の利益に供する利点があれば、我が方も摂取すればよい、何も恐れる必要はないなど、きわめて実利的かつ柔軟な発想を示していた。それは当然ながら、冷戦下のソ連や中国など共産主義陣営に対する両者の外交的アプローチの差となっていく。
以上のような戦後に処する基本姿勢の相違や政治理念の差異が、当時の混沌とした政治情勢と複雑に絡み合って、湛山と吉田との間に確執をもたらしていくわけであるが、それと並行して、湛山は経済財政問題をめぐりGHQとも摩擦を生んでいく。

 

 


解説
5月22日、第一次吉田内閣が発足した。奇しくも湛山はこの内閣の蔵相として入閣し、戦後再建の大役を担うことになった。

このようにして、湛山は戦後の経済危機を救うために大蔵大臣として腕をふるうことになるのでした。

 


獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その19)

2024-04-13 01:13:38 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに

 

第5章 日本再建の方途――1940年代後半
■1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
□2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放


1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり

終戦を疎開先の横手で迎えた湛山は、8月18日の日記に次のように記した。「今朝床中にて早く醒む、考へて見るに予は或意味に於て日本の真の発展の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦つてゐたのであった、今回の敗戦が何等予に悲みをもたらさゞる所以である」(前掲『湛山日記』昭和20―22年』47頁)。湛山としては珍しく感情を吐露している。彼にとって、日本の敗戦はすでに予期していたことであり、少しも落胆すべきことではなかった。むしろ、日本がドイツのような壊滅的打撃を被る以前に無条件降伏したことは、戦後の再建のためには喜ぶべきことであった。まもなく湛山は、戦争末期に大蔵省の戦時経済特別調査委員会で検討を重ねてきた日本再建案を『新報』誌上に次々と発表していく。
まず1945年(昭和20)8月25日号社論「更生日本の門出――前途は実に洋々たり」(『全集⑬』)では、「昭和20年8月14日は実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である。……今は勿論茫然自失し、手を拱(こまね)いておるべき折でなく、又徒(いたずら)に悲憤慷慨時を費す場合でない。……かの米英支三国提示の対日条件(ポツダム宣言の意味)の如きは何等新日本の建設を妨げるものではない」と明言し、今後の日本は「世界平和の戦士」として全力を尽くすべきであり、ここに「更生日本の使命」がある。また「科学精神」に徹するべきであり、そうすればいかなる悪条件の下でも、「更生日本の前途洋々たるものあること必然だ」と訴えた。日本国民全体が敗戦のショックに打ち拉(ひし)がれていた際に、実に剛毅で楽観的見解を打ち上げたわけであるが、それは単なる虚勢とはいえない。「小日本主義」という長年温めてきた構想をようやく実現する好機が到来したと心底信じたからである。

 

以降、湛山が提言した新日本の針路とは、第一に、経済復興であった。国家再建の大前提は経済復興にあり、それゆえ経済優先主義が採られるべきであった。その場合、(1)生産第一主義(積極財政)、(2)賠償の削減、(3)財閥の利用を基本とするよう主張した。

(1)の生産第一主義は、当時多くの経済学者やジャーナリストの見解と根本的に異なるものであった。敗戦以来、大内兵衛東京大学教授らはインフレ必至論の見地から「緊縮財政」を唱えており、それが大勢を制していたが、湛山は「停戦後のわが国にはインフレの起る理由は断じてない。かえって警戒すべきはデフレである」と論断した。つまり、「終戦以来のわが国はフル・エンプロイメント(完全就業)の状態にあったといえない。それどころか、現にわれわれの見るごとく、多くの失業者を発生し、表面就業せる者も十分の生産活動をなすことができず、生産設備の、はなはだ多くの部分は遊休化している。これはフル・エンプロイメントではなく、逆にはなはだしきアンダー・エンプロイメント(不完全就業)である。かかる状態の下においての通貨膨張と物価騰貴とは、デフレ政策によって救治しうるがごとき普通の意味のインフレではないことは明らかである。……もしこの際デフレ政策をとれば、物価の水準は引き下げうべきも、おそらく生産はいっそう縮小し、国民所得は減じ、国民の生活難はむしろますます激しくさえなるであろう。人心の不安はもとより払い去ることはできない」(石橋湛山著『日本経済の針路』256~7ページ)。とすれば、この危局において日本の採るべき政策は、ケインズ理論に基づく「積極財政」、すなわちフル・エンプロイメントの実現に目標を置き、国民に仕事を与え、産業を復興させる「生産第一主義」に立脚する積極財政政策であり、決して収支の辻褄合わせに腐心する旧式の「健全財政」でも、インフレを極度に恐れた「緊縮財政」でもあってはならなかった(9月15日号社論「産業再建策の要領」、同月22日号~29日号社論「インフレ発生せず」『全集⑬』)。この基本方針は、 まもなく湛山が蔵相に就任することにより、実践される。

(2)の賠償問題に関しては、「わが国の力に耐える限度および方法においてなされることが必要である」と論じ、連合国側がかつて第一次大戦後のドイツに課した苛酷な賠償取り立ての二の舞を演じないよう主張した(9月22日号~29日号社論「賠償問題の解説」『全集⑬』)。その意味では、当初懲罰的色彩を帯びていたポーレー賠償計画が、のちに冷戦の影響を受けて、寛大な内容へと修正されたことは日本の再建上好ましい事態であった。

また(3)の財閥利用案とは、日本の経済復興のために三井・三菱など大財閥を最大限に利用すべきであるとの見解であった。

8月末に疎開先の横手から4ヵ月ぶりに東京に戻った湛山は、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の経済科学局(ESS)局長クレーマー (R.C. Kramer) 大佐に呼ばれた。9月末、出頭した湛山に対し、クレーマーは次のように言明した。
「私は戦前から英文月刊誌『オリエンタル・エコノミスト』の愛読者であり、戦時中も読んでいた。あなたは戦時中軍部に対抗して論陣を張った感心な人物である。是非GHQのために手伝ってもらいたい」(石橋湛山「今だから話そう②――議席のない大蔵大臣」24~5頁)と。同席した渡辺武(大蔵省終戦連絡部長)は、クレーマーが湛山を大変尊敬している旨を述べ、眼前で『新報』のためにあらゆる便宜を図るよう口述して指令したことを筆者に証言している。湛山は、ESSに協力すればGHQ側の考え方を知ることができるし、またGHQ側に対して多少なりとも自己の見解を投影できるかもしれないと考え、ESSのアドバイザーに就任し、定期的に意見書を提出することになったのである(前掲『湛山回想』306~10頁)。

そこで湛山は毎週一回程度レポートを提出することとなり(前掲『湛山日記――昭和20―22年』58~92頁)、財閥利用案(英文)もその中の一つであった(神沢惣一郎「石橋湛山と財閥」参照)。その骨子とは、日本の経済再建のために財閥を利用すべきである。なぜなら財閥を亡ぼせば日本経済界をいっそう混乱させるばかりで、しかもこれを安定させ収拾する中心勢力をほかに見出し得ないからである。大局的に見て、財閥が日本経済の発展に寄与し、またその困難期の安定勢力であることは否定できない、というものであった。これに対しクレーマーは、財閥がなくとも日本経済は過去において発達したし、より以上良くなったとの考え方を示し、自由主義者の湛山がなぜそのような主張をするのかと訝った(前掲『湛山回想310~1ページ)。すでにアメリカ側は「財閥が戦争協力に邁進した」と認識しており、財閥解体はGHQの既定方針であったため、湛山のプラグマティックな提案は一蹴され、11月、ついに三井、三菱、住友、安田の四大財閥の処理案が発表されたのである。

 

第二に、湛山が提言した新日本の針路とは日本の民主化の実現であった。大正デモクラシー期以来、もっとも急進的に民主主義・自由主義・平和主義思想を高唱してきた以上、これは当然の要求といえた。湛山は民主主義の本質について、(1)国民各自が皆等しく政治の責任を負うこと、(2)権利と義務を顧みること、(3)個を主張するとともに全体を尊重することと定義した(12月1日号社説「デモクラシーの真髄」『全集⑬』)。したがって、1946年(同21)3月、政府が発表した「憲法改正草案」を戦後日本の精神的基盤となるとみなし、上記の観点から明治憲法に代わる新憲法体制を積極的に支持した。
まず日本国民に衝撃を与えた第一条の「天皇象徴化」の規定について、湛山は、「従来の天皇制の致命的欠陥は陸海軍の統帥権を一般国務から分立せしめたこと」にあり、これは民主主義の勃興を不便とする軍閥藩閥、官僚等が(明治)憲法の趣旨を歪曲し、統帥権の条規を悪用したからであって、天皇自身は責任ある政治的実権を有せず、象徴的存在にすぎなかった。この意味で今回の改正は現行憲法の天皇制に変革を加えたものではなく、ただその精神を成文の上に一層明白にしたものであると論評した。他面、左翼陣営やソ連などが唱える天皇制廃止論については、明治維新や今回の終戦に際して果たした天皇の政治的役割に論及した上で、「社会学的に検討しても公正無私の無党派的権威として観念される天皇の存在は、民主主義下に於ても十分の意義を持つ」として斥けた。
政府の憲法改正案の中で湛山がもっとも高い評価を下したのが、第九条の戦争放棄の規定であった。これは「従来の日本、否、日本ばかりでなく、苟(いやしく)も独立国たる如何なる国も未だ曾つて夢想したこともなき大胆至極の決定」であり、「痛快極りなく感じた」と湛山は心情を露にした。そして、わが国はこの憲法をもって 「世界国家の建設を主張し、自ら其の範を垂れんとするもの」にほかならず、その瞬間、もはや日本は敗戦国ではなく、「栄誉に輝く世界平和の一等国」に転ずるとさえ言い切った。反面、湛山がこの草案唯一の欠点としたのが、国民の権利と義務に関する規定であった。「権利の擁護には十全を期した観があるが、義務を掲げることの至って少ないからである。「昔専制君主が存在した場合と異なり民主主義国家に於ては、国家の経営者は国民自身だ。経営者としての国民の義務の規定に周密でない憲法は真に民主的とは言えない」と批判した(1946年3月16日号社論「憲法改正草案を評す」『全集⑬』)。
ともかく新日本がアメリカの主導の下で新憲法体制を敷き、他律的にせよ、アメリカン・デモクラシーの下で自由主義・民主主義・平和主義社会を目指して大きく踏みだしたことを、湛山は心から歓迎した。もちろん戦後GHQ指令により実施される主権在民、完全選挙権、男女平等、地方自治拡大も、彼の戦後設計図に色濃く描かれていた。

 

第三に、湛山は国際政治経済面において、大西洋憲章、国際連合、ブレトンウッズ体制などを主軸として確立された新しい国際秩序を高く評価した。すでに戦前期に「世界開放論」を掲げ、また戦中期には軍国主義、全体主義、国家主義イデオロギーおよびドイツ型戦後構想を退けて、自由主義、個人主義、民主主義思想と英米型戦後構想に深い関心を抱いてきた湛山とすれば、当然といえた。したがって、日本のみならず世界からファシズムや軍国主義が淘汰され、平和的かつ民主的な国際システムが復活したことは、国内政治面と同様、湛山の年来の念願がようやく叶ったことを意味したのである。とりわけ国際経済面で保護貿易主義から自由貿易主義への転換が図られたことを、湛山はもっとも歓迎した。なぜなら戦後の日本経済の発展は、貿易の進展と一体化せざるをえず、とすれば、貿易立国日本にとって、保護貿易体制に代わる自由貿易体制こそ死活的条件であったからである。
以上のように、戦後期の日本の新体制にしても、米英主導下の新世界秩序にしても、内外の客観情勢は、湛山が戦前以来一貫して提唱してきた「小日本主義」の原理原則になんら矛盾するものではなかった。むしろ彼の眼には、戦前戦中期と比べて格段に好ましい状況と映った。「日本経済復興への道程は決して悲観すべきではない」との湛山の主張は、強弁でもなければ、修辞を弄したのでもなく、確固たる信念と見通しの上に立っていた。ともかく湛山の思想と行動には、戦前から戦後への断絶や変節といった軌跡がみられず、くっきりと一本の連続線が描かれる。戦を境に豹変した日本人の多さに思いを馳せれば、湛山のもつ対照性は、日本人の責任ある生き方を見事に示した一つの標本であったろう。こうして湛山の理想が30年の歳月を経てようやく 現実へと一歩踏みだしたのである。

 


解説

あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。

 

獅子風蓮


増田弘『石橋湛山』を読む。(その18)

2024-04-12 01:06:42 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
■第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第4章 暗黒の時代――1930年代・40年代前半
□1)金解禁論争
□2)ロンドン海軍軍縮会議
□3)満州事変
□4)日英関係改善の提唱
□5)二・二六事件批判
□6)日中戦争批判
□7)日独伊三国軍事同盟批判
□8)大東亜共栄圏構想批判
□9) 太平洋戦争批判
■10)敗戦後に向けて


10)敗戦後に向けて

(前略)
……

「植民地の維持経営には案外に大きな負担がかかっている。戦敗の結果この負担が一挙になくなることは、それだけ日本が身軽になったことで、将来は大いに望みがある」と反論した。それは湛山の長年に及ぶ持論であった。のちに中山は湛山の慧眼に敬意を表している(中山伊知郎「達見」)。
さてこの頃戦局は日本にとって一段と厳しいものとなっていた。1945年(同20)4月、米軍が沖縄本島に上陸し、5月、ドイツが降伏した。7月、「ポツダム宣言」が発せられ、ついに8月、原爆投下とソ連参戦により、日本は無条件降伏を受諾した。この間湛山は次男和彦(海軍主計中尉)をケゼリン島で失う悲報に接したばかりか、東京芝の居宅を空襲で焼失した。また敗戦間際の4月、新報社の編集局などを秋田県横手町(現横手市)に移すと同時に、自ら疎開した。そしてこの地で湛山は敗戦を迎えるのである。


解説
(「第4章 暗黒の時代」は、湛山の活発な言論活動を紹介していますが、大幅に割愛しました)


やがて、日本は敗戦を迎えますが、湛山はけっして悲観することなく、新しい日本の未来にむけて、準備を開始するのです。
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮


『脳外科医 竹田くん』の恐怖 その4)

2024-04-11 01:25:55 | 犯罪、社会、その他のできごと

マンガ『脳外科医 竹田くん』について、週刊現代でも取り上げていました。

d-マガジンから引用します。

 


週刊現代2024年3月9日号

戰慄スクープ
大阪・兵庫 連続医療ミス事件
疑惑の脳外科医の正体
ネット上で話題になった、医療界騒然のマンガ『脳外科医 竹田くん』。
主人公は口だけうまく、やたらと手術をしたがるが、手術はミス続き。
そのモデルになった医師本人が初めて口を開いた――

(つづきです)

手術する必要はあったのか

Xさんとその母は'21年8月、A医師と赤穂市に約1億1500万円の損害賠償を求める民事訴訟 を提起し、昨年11月にはA医師を業務上過失致傷の容疑で刑事告訴した。その過程では「手術前のカルテにA医師が『(Xさんの母は)前屈しなければ何mも歩けない』と実態と異なる病状を書いていたことや、発端になった『手術しないと人工透析になる』というA医師の診断自体に医学的根拠がなかったことも判明しました」とXさんは語る。そもそも手術を受ける必要さえなかったのだとしたら、あまりにもやるせない。
のちに赤穂市民病院が外部の有識者に依頼してまとめた「ガバナンス検証委員会報告書」などにもとづき、A医師の関与が疑われる医療事件を時系列順に総覧したのが46ページの図表だ。
報告書や地元紙「赤穂民報」などの報道によると、A医師はXさんの母を執刀した翌月にも、75歳男性の脳腫瘍の手術、84歳女性の脳梗塞のカテーテル治療を担当したが、ともに術後に重い脳梗塞や脳出血を起こし、亡くなっている。この時点で合計8件もの医療事故に 関与していたA医師は、病院から「手術・カテーテルなどの侵襲的(患者の体を傷つける)治療の中止」を指示された。その後の経緯は、記事の後半でもA医師の主張とともに触れるが、Xさんとその母に訴えられたA医師は、それから1年あまり経った'21年8月に赤穂市民病院を依願退職。ほどなく、先にも触れた大阪市の医誠会病院に勤務し始めた。
新たな事件が起きたのは、昨年1月のことだ。当時30歳の男性が、入居していた施設で新型コロナウイルスに感染し、医誠会病院へ入院することになった。その受け入れを担当したのは、ほかでもないA医師だった。
前出の遺族が、この男性の長女で看護師の50代 女性、Yさんである。
「慢性腎不全だった父は、毎週火・木・土曜日にHD(血液透析)という透析治療を受けていましたが、そのおかげで元気で、その日もコロナの症状はなく、自分で荷造りをして救急車を待っていたほどでした」(Yさん)
Yさんの父が医誠会病院へ搬送された1月7日は土曜で、透析の予定日だった。普段通う病院がコロナ感染者の透析に対応できないため、隔離も兼ねて大きな病院へ入院することになったわけだ。
だが、救急患者を担当していたA医師は、理由はわからないが「今日中に透析治療が必要」という前の病院からの申し送りを確認しなかったようだ。当時のカルテにA医師はこう書いている。
〈どういう適応で入院との判断となったかは不明です〉
連絡がないため、心配したYさんが病院へ電話をかけると「医師は忙しいので電話に出られません。病状と治療についての説明はできません」などと言われ、一切説明はなかったという。
「父にコロナの治療をしたのかどうかについても何も説明を受けていないのに、9日の夜10時すぎになって『容態が急変したので病院へ来てほしい』と突然電話があったのです。駆けつけたときには、父は心肺停止に陥って蘇生処置を受け、人工呼吸器につながれていまし た」(Yさん)
Yさんは翌日、救急科部長の医師に急変の理由を尋ねた。しかしその医師は「私はその場にいなかったのでわからない」と言うばかり。さらに翌日の1月11日、Yさんの父は帰らぬ人となった。
後日、Yさんがカルテ開示を請求したところ、入院後の透析治療が行われていなかったことがわかった。カルテはほとんど白紙だったという。
「そもそも90歳のコロナ患者なんですから、リスクが高いことはわかるはずだし、家族への連絡も緊密にして然るべきです。それなのに、カルテを見ると診察すらされていない。加えて、病院側の希望で開いた昨年6月の説明会では、病院側が突然『1月9日にCHDF(持続緩徐式血液濾過透析)という透析治療はしました』と、開示されたカルテになかったことを主張し始めたんです。
『維持透析を7日にしなければならなかったのに、なぜ2日も遅れた9日に特殊透析に変えたんですか? 医学的に説明してください』と私が言ったら、病院側は何も答えませんでした」(Yさん)
簡単に言うと、Yさんの父が日常的に受けていたHDと、主に急患に施されるCHDFは、同じ透析でも別物だ。そのため、自身も医療従事者のYさんは「CHDFを行ったからといって、透析をしたことにはならない」「適切な透析治療を受けさせなかったために父は亡くなった」と指摘・主張しているのである。


A医師が初めて語った

今年2月5日、Yさんは医療法人医誠会を相手取り、約4960万円の損害賠償を請求する民事 訴訟を起こした。訴訟提起がテレビなどで報じられた直後、Yさんのもとには「90歳の高齢者が亡くなったにしては、賠償金が高すぎる」という批判が多く届いたというが、事件の経緯や遺族の思いを鑑みれば、法外な請求ともいえないだろう。
前述の通り、A医師は'21年夏に赤穂市民病院を退職しているが、手術などの中止を指示された'20年3月からおよそ1年間 は「脳外科の一室に閉じこもるなど、普通でない行動が目立った」(赤穂市民病院関係者)という。
さらに、'21年と'23年には「B医師から長時間叱責されるパワハラや、殴られたり、病院の階段から突き落とされたりする暴行を受けた」などとして、B医師を刑事・民事の双方で訴えている(刑事は不起訴)。
現在、A医師は大阪府内の別の総合病院に勤務する。本誌記者との電話でこう語った。
「今、私を雇ってくれている病院は私を信頼してリスクをとってくれているので、迷惑をかけたくない。ですから、今は何もお話しできません。
ただ、世間で出回っている話は、事実無根のことが多すぎます。赤穂市民病院は相当に汚い病院で、私は裏側を色々と知っています。裁判が進めば、びっくりするような話も出てくるでしょう。直属の上司(B医師)には、都合の良いように事実をねじ曲げられ、信頼していたのに裏切られた。そもそも手術は私一人でできるわけではありません。問題を私一人に押し付けているんです」
なお、本誌が一連の事件にかかわる各医療機関に取材を申請したところ、赤穂市民病院は「係争中の事案に影響する可能性があるため、お答えは差し控えさせていただきます」と回答し、医療法人医誠会とA氏が現在勤める病院は、いずれも回答自体を拒否した。
私は陥れられた――。A医師はそう語る。その主張の当否はこれから裁判で明らかになるはずだが、いずれにせよ、失われた患者の命や健康はもう二度と戻ってこない。

 

 


解説
'21年と'23年には「B医師から長時間叱責されるパワハラや、殴られたり、病院の階段から突き落とされたりする暴行を受けた」などとして、B医師を刑事・民事の双方で訴えている(刑事は不起訴)。

マンガ『脳外科 竹田くん』でも、このへんは詳しく書かれていました。
竹田くんは、自分を採用し受け入れてくれた恩ある古荒科長に手術ミスの責任をなすりつけ、裁判で訴えたのですね。
まぎれもないサイコパスだと思います。


獅子風蓮