獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その22

2025-02-05 01:30:51 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 ■森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


森・プーチン会談の舞台裏で

1月17日、私たちはモスクワでプーチン大統領との会見日時の連絡を待っていた。丹波實大使がロシア外務省と掛け合ったが、なかなか返答が来ない。同日夜になっても確実な返事は来なかった。
森前総理とプーチン大統領の会見については、外務省以外のチャネルも用い、会談は成立するとの返答を得ていたのだが、ロシア外務省からは、連絡が来なかった。私は森氏に呼ばれ、「プーチン大統領との会談の見通しが立たないならば、記者会見を行って帰国するので、君の正直な見通しを述べろ」と言われた。鈴木氏は私の眼をじっと見つめた。
私は、「何か異変が起きています。どこかで妨害が入っているのでしょう。それを確かめるチャネルがもう一つあります。あまり借りを作りたくないチャネルなのですが、全ての手を尽くせと言うならば使いましょう」と言った。
鈴木氏は、即時に「あらゆる可能性を試してくれ」と言った。私はある民間の外国人に電話をし、その人物に事情を話すと45分以内に返事をすると言った。30分も経たずに返事が来た。
「イーゴリ・イワノフ外相と電話で話した。プーチンは森総理と会う。心配しないでよい」
その後、ロシア外務省から、大使館に週末、プーチンが別荘で森総理とゆっくり会見するとの返答が来たが、日程上不可能なので、18日中に是非とも会いたいと再折衝した。18日の朝早く、プーチンは森総理と昼食を伴った会見をするが、同席は通訳のみにして欲しいとの連絡があった。丹波大使はロシュコフ外務次官に電話し、「鈴木氏も同席させて欲しい」と強く要請したが、ロシュコフ次官からは「これ以上は逆効果だ」という最終回答が来た。
森氏と鈴木氏が相談した結果、クレムリンまで同じ車で行き、森氏が鈴木氏に挨拶の機会をつくることを試みることになった。私は、ロシア政府のチャネル、民間チャネルの双方を用いて、鈴木氏の同席を認めるように頼んだ。二人とも「できるだけのことをする」と約束した。その内のひとりが「これはロシア側の問題ではない」と述べた。要するに、日本側で誰かが鈴木氏の同席を妨害しているということである。
「大使館では丹波大使以下、鈴木氏の同席実現に向けて全力を尽くしている。大使館が裏表のある行動をとることは考えられない。そうすると東京で妨害をしている者がいるということだ。しかも、ロシア側に影響を与えうる人物だ。誰なんだ。外務官僚にその胆力はない。田中眞紀子外相か。彼女はそのような仕掛けはできないし、田中女史が働きかけてもロシア側は反応しないだろう。そうなると官邸か。誰だ。いったい誰が仕掛けているんだ」と私は考えを巡らせた。しかし、私はこの情報を鈴木氏に伝えなかった。
一行が宿泊するメトロポール・ホテルから、三台の車が出発した。第一号車には、森氏、鈴木氏と通訳、第二号車には、カメラマンと大使館の書記官、第三号車に私と大使館の篠田研次公使が乗り込んだ。篠田氏と私の任務は、クレムリンの現場で折衝し、何としてでも鈴木氏の同席を確保することだった。
クレムリンの正門に着いた。検問で、私と篠田氏の乗った車はクレムリンへの立ち入りを拒否された。私と篠田氏は、クレムリンの裏門に回り、そこから駆け足で、大統領府建物に近付こうとした。この間、十分程度であったが、二、三時間の如く感じられた。モスクワは氷点下だったが、私は汗だくになった。
大統領府建物に向かって走っていくと、クレムリンの警備員に制止された。事情を説明していると、向こう側から鈴木氏が走ってこちらに向かってきた。「いや、入口で髭のおじさんにあなたはダメだと制止されちゃったよ。まあ、森さんがプーチンと会えたんだから、これでよかったんじゃないか」と笑っていたが、眼は笑っていなかった。
ホテルに戻ると私は鈴木氏とサシで話をした。鈴木氏は怒りで震え、「佐藤さん、この経緯がどういうことだったか、東京に帰ってから徹底的に調べてくれ。誰が俺の同席を邪魔したのか。ロシア側なのか日本側なのか、徹底的に調べてくれ」と言った。
私は「わかりました」と答えた。本格的な政争に巻き込まれると感じた。

 


解説
18日の朝早く、プーチンは森総理と昼食を伴った会見をするが、同席は通訳のみにして欲しいとの連絡があった。丹波大使はロシュコフ外務次官に電話し、「鈴木氏も同席させて欲しい」と強く要請したが、ロシュコフ次官からは「これ以上は逆効果だ」という最終回答が来た。(中略)
「大使館では丹波大使以下、鈴木氏の同席実現に向けて全力を尽くしている。大使館が裏表のある行動をとることは考えられない。そうすると東京で妨害をしている者がいるということだ。しかも、ロシア側に影響を与えうる人物だ。誰なんだ。外務官僚にその胆力はない。田中眞紀子外相か。彼女はそのような仕掛けはできないし、田中女史が働きかけてもロシア側は反応しないだろう。そうなると官邸か。誰だ。いったい誰が仕掛けているんだ」と私は考えを巡らせた。

前回、佐藤氏が「小泉総理周辺が外交に与える鈴木宗男先生の急速な影響力拡大に危惧を抱いている。半年後に鈴木氏は政界から葬られているだろう」との深刻な警告を外国の政府関係者から受けたという話がありました。
小泉総理周辺=官邸が、鈴木宗男氏の力を削ぐために横やりを入れたということでしょうか。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その21

2025-02-04 01:04:32 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 ■警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


警告

2001年11月30日から12月2日、フリステンコ・ロシア副首相が訪日した。フリステンコ氏は、エリツィン時代からの閣僚で、プーチン大統領側近グループとはいまひとつソリが合わないので、解任されるのではないかという憶測も強かったのだが、鈴木氏はフリステンコ氏を大切にし、日露関係を発展させる上でフリステンコ副首相は最適の人物であるというシグナルをクレムリンに流し続けた。
フリステンコ氏はクレムリンのサバイバルゲームを勝ち抜き、プーチン大統領の信任を得るようになった。年齢が近いこともあるせいか、フリステンコ氏は私をとても可愛がってくれ、東京でもモスクワでも外交儀礼上は考えられないことであるが、私とサシで会ってくれた。訪日期間中、フリステンコ副首相は、毎晩、鈴木氏と懇談した。その懇談には、丹波實駐露大使、角崎利夫外務省欧州局審議官、パノフ駐日大使、ロシュコフ露外務次官などの主要プレーヤーも同席した。
その席で、フリステンコ副首相が大きな声で次のように言った。ロシア語には、丁寧語と身内の間で使う、荒っぽい表現があるが、非公式な席でフリステンコ副首相、パノフ大使、ロシュコフ外務次官といった人たちは私に荒っぽい表現を使う。私も荒っぽい表現を使う。
「サトウ、元気をだせ。人生ではいろいろなことがある。いったい何でそんな悲しそうにしているんだ」
「僕は別に悲しそうになんかしていない」そこで、パノフ大使が茶化して言う。
「田中眞紀子外相にいじめられているんだ。佐藤さんがいじめられて弱くなると、日本の交渉力が弱くなるんで、ロシアとしては都合がよいのだけれども、これは由々しき事態なんだ」
ロシュコフ次官が言う。
「佐藤さんはたいへんな愛国者だ。僕たちも愛国者だから、タフネゴシエーターでも愛国者を尊敬するんだよ。田中外相だって、もう少し経てば佐藤さんの価値をきちんと評価するよ。昔のように頻繁にモスクワに来いよ。いつだってサシで会うぜ」
フリステンコ副首相が私の方を向いて聞く。
「俺もサシで会うぜ。何とか言えよ。何で元気がないんだ」
ロシア高官達の気遣いはとてもありがたかった。こういうときに生真面目な返答をしてはだめだ。ユーモアで切り返す必要がある。
「僕は元気だ。世の中の政治家は、とてもよい政治家とよい政治家に分けることができる。橋本龍太郎、森喜朗はとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。フリステンコもとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。鈴木宗男もとてもよい政治家で、僕はとても尊敬している。それに較べて田中眞紀子はよい政治家だ。だから何も問題はない。よい外相に巡り会い、人生にはいろいろなことがあると思っているだけだ」
ロシア人はみんな大笑いした。「嫌い」という言葉を一言も使わないで、私の気持ちを率直に伝えることができた。
この時の会談記録が、後に鈴木宗男事務所から押収され、このときの会談内容についても私は取り調べを受けた。検察は何としても私と鈴木氏の間に犯罪を作り出そうとし、猟犬の如く嗅ぎ回ったのである。しかし、東京地検特捜部は犯罪を作り出すことができなかった。
私はモスクワ出張を再開した。ロシア人の友人たちはとても喜んで、心の仕事を助けてくれた。
翌2002年1月、鈴木氏は再度タジキスタンを訪問し、帰路、モスクワで森喜朗前総理と合流し、1月18日にクレムリンでプーチン大統領と会談する予定ができた。ここでちょっとした異変が起きる。
今から考えると、この時に、その後、国策捜査の対象として鈴木宗男氏、そして私が狙われる伏線が潜んでいたのだが、そのことに私は気付かなかった。正確に言うと、いくつかのシグナルが入っていたのだが、その情報の評価を私は誤ったのである。
深刻な警告は02年初め、ロシアではない別の外国政府関係者から寄せられた。
「小泉総理周辺が外交に与える鈴木宗男先生の急速な影響力拡大に危惧を抱いている。半年後に鈴木氏は政界から葬られているだろう」
それから暫くして、ある外交団の幹部が、山崎派参議院議員の実名をあげ、「この人が、鈴木宗男排除を小泉総理は決めたので、鈴木を窓口とする国は早くチャネルを変更したらよいとの話を流している」との情報が入った。
日本人情報ブローカーからも少しタイムラグを置いて、同内容の情報が入るようになった。情報の筋が一貫しているので、どこかに司令塔のある情報であることは間違いなかった。

 


解説
深刻な警告は02年初め、ロシアではない別の外国政府関係者から寄せられた。
「小泉総理周辺が外交に与える鈴木宗男先生の急速な影響力拡大に危惧を抱いている。半年後に鈴木氏は政界から葬られているだろう」
それから暫くして、ある外交団の幹部が、山崎派参議院議員の実名をあげ、「この人が、鈴木宗男排除を小泉総理は決めたので、鈴木を窓口とする国は早くチャネルを変更したらよいとの話を流している」との情報が入った。

こうして有能な外交力をもった政治家が失脚させられていくのですね。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その20

2025-02-03 01:44:01 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 ■眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


眞紀子外相の致命的な失言

一方、同時多発テロ事件を契機に田中眞紀子女史を巡る状況も変化した。
テロ事件から数時間後の9月12日未明、田中女史は、米国務省の避難先を記者団に漏らしてしまうという、致命的ミスを犯したのである。テロリストの攻撃が続く可能性があるなかで、大臣自らが極秘中の極秘事項を公開してしまったことは、日米の外交関係者に大きな衝撃を与えた。外務省では危機管理の観点から、「田中大臣には一切機微な情報を与えない」ということがコンセンサスになった。「もう一度ミスをしたらアウト、つまり、田中外相は更迭されるという密約が官邸と外務省の間でなされた」という噂がまことしやかに駆けめぐった。
こうして鈴木氏の活躍がマスメディアで頻繁に報道されるのと対照的に、田中女史の外務省内における求心力が衰えてきた。この状況に田中女史が満足できるはずがない。
鈴木宗男氏がいかにアフガニスタンやタジキスタンの外交問題に通暁していようとも外務大臣ではない。大臣は「正妻」だ。鈴木氏は「妾」にすぎない。眼に触れないところで「妾」が何かしていようとも、それはそれ程気にならない。しかし、家庭(外務省)のなかに平気で入ってくるようになると「正妻」としては我慢できない。
そういう観点からすれば、田中女史が鈴木氏そして氏と行動を共にする私を排除しておく必要性を改めて感じたとしても、不思議ではない。しかし当時、私にも鈴木氏にも田中女史の受け止めにまで気を回す余裕はなかった。9・11同時多発テロ事件という国際社会の「ゲームのルール」を変更しうる事態に直面して、日本がその主要プレーヤーになる枠組みを作ることに熱中していた。

この時期に限らず、私と鈴木氏の日常的なつきあいとは、次のようなものだった。日中、鈴木氏と30分以上のまとまった時間をとることは不可能である。鈴木事務所は陳情客や官庁から説明に来る役人であふれている。例えば、午後2時15分にアポイントをとって訪れたとしても、鈴木氏の日程は押せ押せになって、1時間くらい待たされ、そして実際に説明できる時間は2、3分しかない。
もっともこれは鈴木氏に特有のことではなく、政治力のある政治家は皆このような状態である。ロシアでも、有力政治家の事務所に約束の時間に訪れても、3、4時間待たされることは普通であった。そして、その政治家と会える時間は数分に過ぎない。もちろん、待ちくたびれて帰ってしまう客もいる。あるいは憤慨して、二度とその政治家を訪れない外交官もいる。
しかし、政治家は長時間待たせた客のことを決して忘れていたわけではない。内心では何時間も待たせて済まないと思っている。私は逆転の発想で、待ち時間が増えることは、その政治家に対して貯金をしていることと考えるようにした。
この貯金はいつか必ず利子をつけて戻ってくる。いくら待たされても不平を一言も言わない外交官にはいつしか優先権が付与されるようになり、アポイントを取らずに会えるようになり、また、私邸に招かれるようになる。このロシアでの経験を私は鈴木氏に対しても適用した。そして、同じ結果が得られたのである。私は鈴木氏の私邸に招かれるようになった。
鈴木氏は、新聞記者との懇談を週2回ということにしていたが、毎晩、私邸の前で十数名の記者が鈴木氏の帰宅を待っている。国会議員の中には、そのような時は記者を家にあげない場合が多いのだが、鈴木氏は一階の応接間に通し、ビールやワインを飲みながら懇談した。この懇談は政治部記者にとって重要な情報源である。私が記者たちと席を一緒にすることもときどきあった。後に出た怪文書では、「宗男の私設秘書ラスプーチンが、鈴木邸で毎晩記者との懇談の仕切役をやっている」と書かれたが、それは事実ではない。私の目的は、記者たちが去った後、鈴木氏に十分時間をとってもらい、説明や相談をすることであった。鈴木邸を辞去するのは午前2時頃で、それからメモを整理し、その時、鈴木氏に依頼された資料を準備する。これが終わるとだいたい朝の4時近くになる。そして、翌朝午前9時には、鈴木氏に依頼された資料を届ける。もちろん鈴木氏とのやりとりの概要は外務省の上司にも報告する。こんな毎日が続いた。これが外務省員としての私の仕事だったのである。

一方、外務省における田中眞紀子女史の“奇行”は次第にエスカレートしていった。
10月29日、田中女史が突然人事課に乗り込み、その内の一室の鍵を内側から閉め、「籠城」し、女性事務官に「斎木昭隆(さいきあきたか)を官房付に異動する」という人事異動命令書をタイプで打たせ、斎木人事課長の更迭を試みたのである。事務当局は、そのような横車は認められないと、再び田中女史と事務当局の緊張が激化する事件があった。その過程で再び私が田中女史のターゲットになった。
11月初旬のある日、鈴木氏から私に電話がかかってきた。
「今、野上(外務事務次官)から電話がかかってきた。田中の婆さんが、斎木(人事課長)の異動は諦めるから、その代わり佐藤優を異動させろということなので、鈴木先生の了承が得られるならば動かしますという話だった。俺の方からは、『今、テロで情勢がこんなに動いている中で佐藤を動かすことがどういう意味をもつかわかっているんだろうな。野上さん、あんたが言うのは、斎木はダメだが佐藤さんは構わないということか』と言っておいた。
野上は『佐藤を動かすことは今のところ考えていない』と言っていたが、『佐藤も今のポストに相当長いのでいつかは異動させなくてはなりません』という話だった。 野上は、『勿論、田中大臣の勝手にはさせません』と言っていた」
私は鈴木氏からの電話の内容を直ちに分析第一課長と今井正国際情報局長に伝えた。
局長室から戻ってくると事務次官室から「野上次官が至急お呼びです」という電話がかかってきた。野上氏とサシで話すのははじめてのことである。次官室に入ると、髭面で、身頃は水色、袖と襟は白色のワイシャツを着た野上氏が執務室の椅子に座ったまま、その前にある事務用椅子にすわるように私を手招きした。
「婆さん(田中女史)が君を異動させろと暴れている。何か聞こえているか」
「鈴木大臣から先程、電話がかかってきました」と言って、私は鈴木氏からの電話の内容を正確に再現して伝えた。
「だいたい正確だ。ただし、俺は鈴木さんの了承が得られれば動かすなんていうことは言っていない。君ももうこのポストが長いので、いつかは動いてもらわなくてはならない。しかし、俺にも君にもプライドがあるからな。婆さん(田中女史)の言うなりにはならない。君自身、人事について何か希望はあるか」
「私は組織人です。組織が決めたことに従うだけです。私個人の希望はありません。国益のために私をどう使ったらいいかというのは組織の考えることです。ただし、私にはプライドはありません。侮辱されようとどうしようとそれが組織として国益に適うと考えれば、それでよいのです」
「いや、俺たち外務省員のプライドが大切なのだ。田中大臣なんかに負けられない」
「その点について私は意見が違います。プライドは人の眼を曇らせます。基準は国益です」
「わかった。いずれ動いてもらうことにはなるが、当面は今のままだ。いいな」
「それからこの話は、課長にも局長にもするな」
「それはもう遅いです。鈴木さんからの電話の内容は直属の上司である課長と局長には話してあります」
野上氏は困ったように顔を歪め、右手を後頭部にあてた。
「今後は、誰にも話さないでくれ」
私は、「はい」と答えたが、野上次官とのやりとりについては、課長、局長に正確に伝えた。これに対して、今井正国際情報局長は「嫌な雰囲気だね。佐藤さん、いざとなると自分の身は自分でしか守れないからな。残念ながら、そういう組織なんだ。外務省は」と淋しそうにつぶやいた。
その日の夜遅く、私は鈴木氏とホテルでざっくばらんに私を巡る状況分析をした。
9・11以降、田中眞紀子女史と官邸の関係が緊張し、官邸と外務省事務当局が接近するという形で情勢に変化が生じたので、この機会に鈴木氏の影響力を削減することを外務官僚は考えている。しかし、鈴木氏の政治力は今後も利用したい。そのためには、鈴木氏に情報を提供し、相談相手になっている佐藤を鈴木氏から遠ざけ、鈴木氏が外務官僚の立てたシナリオにおとなしく乗るようになることを望み種々の画策をしているのではないか――というのが私と鈴木氏のとりあえずの見立てだった。
私は、外務省幹部の職務命令に基づいて鈴木氏との連絡係をつとめているのだが、外務省内部には私を鈴木氏から遠ざける動きもある。外務省がアクセルとブレーキを同時に踏んでいると考えた。
それから半月ほど経ってから、鈴木氏から電話があった。
「今日、田中大臣が俺のところを訪ねてきて、『私、佐藤さんを異動させろなんて言っていませんからね。鈴木先生、誤解しないでくださいね』と言ってきた。実は、この前の野上の話が田中眞紀子の耳に自然に入るようにとある政治家に流しておいたのだが、うまく聞こえたようだ」

 


解説
一方、外務省における田中眞紀子女史の“奇行”は次第にエスカレートしていった。
10月29日、田中女史が突然人事課に乗り込み、その内の一室の鍵を内側から閉め、「籠城」し、女性事務官に「斎木昭隆(さいきあきたか)を官房付に異動する」という人事異動命令書をタイプで打たせ、斎木人事課長の更迭を試みたのである。事務当局は、そのような横車は認められないと、再び田中女史と事務当局の緊張が激化する事件があった。その過程で再び私が田中女史のターゲットになった。

田中眞紀子は、「斎木の異動は諦めるから、その代わり佐藤優を異動させろ」と迫ったという。
外務大臣としてはろくな仕事もせず、省内をかき乱して、とんでもない婆さんですね。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その19

2025-02-02 01:19:42 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 ■「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「9・11事件」で再始動

そんな状況下で、2001年9月11日、米国同時多発テロ事件が起こったのである。同日午後10時過ぎ、外務省分析第一課の部屋で私はNHKニュースを見ていたが、突然画面が切り替わり、ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が衝突したようだという臨時ニュースが伝えられた。しばらくするともう一機が衝突した。
これは偶発事故ではない。このビルは以前、アルカイダに狙われたことがある。北海道にいる鈴木宗男氏から「佐藤さん、アメリカでいったい何が起きたんだ」と照会の電話がかかってきた。
私は「よくわかりません。先生がおっしゃっていたアフガニスタンで北部連合のマスード将軍が殺された件と連動しているかもしれません。それならばイスラーム原理主義者でしょう。他方、アメリカには白人至上主義のテロリストがオクラホマシティーの連邦政府ビルを爆破したことがあるので、その線も洗ってみなくてはなりません」と答えた。
実は、その日の早朝、私は鈴木氏から「アフガニスタンの北部連合の指導者マスードが暗殺されたという確度の高い情報が入ってきた。タリバンの攻勢が始まり、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン国境地帯で紛争が発生するかもしれないので、情勢を注意深く見てほしい」という連絡を受けていた。鈴木氏は、アフガニスタン問題についても知識の蓄積があり、この分野で最高水準の情報源をもっていた。
しばらくすると、NHKのアナウンサーが「パレスチナ解放民主戦線(DFLP)が犯行声明を出した」と報じた。私はすぐに中東某国の専門家と連絡をとった。
この専門家は「DFLPは弱小組織で、このようなテロをしたいという意思はあるが、能力がない。常識的にはアルカイダの線だろう。アフガニスタン情勢が緊迫していることとも関連していると思う。但し、蓋然性は低いが、アメリカの白人至上主義者の線も排除されていないので、まずこの可能性を潰しておく必要がある」と答えた。
各国の情報調査・分析専門家の世界では、何か大きな事件があれば、深夜でも連絡を取り合う体制ができている。24時間、休暇で旅行中の場合も含め、このような体制ができてはじめて、国際情報クラブのメンバーとして認められたことになる。その日は、徹夜で各国関係者と連絡をとったが、見立てはほぼ満場一致で、中東某国専門家の述べた線に収斂した。
この日から、鈴木氏も私もフル回転で活動する。このことに田中女史が苛立ち始め、それから暫くして、野上事務次官を巻き込んだある事件が起きるのである。そして、それが翌年のアフガニスタン復興支援会議NGO出席問題を契機とする鈴木氏、田中女史、野上次官の三つどもえの闘いの序曲となる。
これまで、田中女史、小寺課長の眼を考慮して、目立つ作業は避けていたが、今回の同時多発テロ事件は、情報収集、調査・分析の特別な訓練を受けた者にしか理解できない面が多いので、私自身も積極的に動き、また「チーム」もテロ絡みでの資料作成や、情報収集にシフトし、ユニークな成果をあげた。
「チーム」ではこの事件が発生する数ヵ月前に、チェチェンでアルカイダとつながるイスラーム過激派(ワッハーブ派)の動きが強まっているという情報を掴んでいた。既に中東とチェチェンのイスラーム過激派ネットワークについては、日本語で基礎資料を作っており、これが情勢を分析する上でとても役に立った。これまで、ロシア、イスラエルなどで培ってきた人脈が役に立ち、国際水準で見ても十分対抗できる仕事ができたと自負している。外国から面識のない専門家が何人か、私に会うために日本にまで訪ねてきたこともあった。

かくして私は、半年振りに、海外出張を再開した。モスクワ、テルアビブでは、貴重な情報をいくつも得ることができた。鈴木宗男氏も自らのロシア人脈、アフガン人脈、国連人脈、中央アジア人脈を最大限に活用した。
鈴木氏が最重要視したのは、中央アジアのタジキスタンだった。タジキスタンはアフガニスタンと隣接し、双方の国境にまたがってタジク人が住んでいる。暗殺された北部連合のマスード将軍もタジク人だ。また、十年近く続いた内戦の結果、イスラーム原理主義勢力も台頭し、現在の連立政権は、この原理主義勢力を取り込んでいるが、権力基盤は脆弱だ。タジキスタンの安定を担保しているのが、駐留ロシア軍(第201自動車化狙撃師団)だ。
ラフモノフ大統領は、親露政策を基調としているが、隣国ウズベキスタンのカリモフ大統領はアメリカの支持を権力基盤とし、反露政策をとっている。過去の国境問題から、タジキスタンとウズベキスタンの関係はよくない。今、ここでタジキスタン情勢が混乱し、過激派が中央アジアで権力基盤を構築すれば、ユーラシア地域の秩序が極めて不安定になる。鈴木氏にはそのような絵柄がよくわかっていた。
鈴木氏は、小泉純一郎総理との面会を求めた。
小泉・鈴木会談が行われた日の夜、私は鈴木邸を訪れた。鈴木氏は久し振りに興奮していた。
「総理もタジキスタンの重要性はよくわかったようだ。俺に総理親書をもって、タジキスタンとウズベキスタンに行けという。たいへんな仕事になるが、あんたの力が必要だ。頼む。タジキスタンを巡って、アメリカとロシアの綱引きが始まっている。ここに日本がうまく噛めば、北方領土問題を動かすことができるかもしれない」
鈴木氏の戦略は、ダイナミックなものだった。アメリカがアフガニスタンのタリバン政権を軍事的に叩くために中央アジアに進駐することは必至である。ウズベキスタンはこれまでも親米路線をとっていたので問題ないが、タジキスタンにはロシア軍が駐留していたこともあり、従来、アメリカはタジキスタンに対しては、旧共産政権の残党が支配している非民主主義国家ということで冷たい対応をしていた。
アメリカは札束でタジキスタンの頬を叩くであろう。タジキスタンもそれに応じる。しかし、中央アジアは19世紀からロシアの裏庭であり、ここにアメリカが露骨に進出してくることを面白く思うはずがない。現在のロシアにタリバン政権を叩きつぶす能力はないので、とりあえずアメリカの力を借りてイスラーム過激派を一掃することには理解を示すだろう。
問題はその後だ。タジキスタンを巡って米露の緊張が高まることは世界秩序の安定に貢献しない。日本、タジキスタン、アメリカ、ロシアの四カ国が反テロ国際協力のメカニズムをタジキスタンで具体的に作る必要がある。ここでは、アメリカの同盟国である日本の与党政治家で、かつ個人的にタジキスタン、ロシアの双方から信頼されている自分(鈴木氏)にしかできない役割があるというものだった。

2001年10月8日、鈴木氏はラフモノフ・タジキスタン大統領と会見した。現地時間でその前日(7日)深夜、アメリカ軍がアフガニスタンに空爆を開始、戦争が始まっていた。対アフガニスタン戦争遂行上、タジキスタンの領空通過と基地使用が死活的に重要な問題だった。ラフモノフ・タジキスタン大統領がどのような態度に出るか。全世界の関心が集まっていた。
ラフモノフ大統領は、「初めて明らかにすることだが、米軍に対するタジキスタンの領空通過と基地使用を認めた」と述べた。鈴木氏が「このことを記者達に話してもよいですか」と尋ねると大統領は「どうぞ」と答えた。
大統領執務室から出ると鈴木氏は20名以上の記者に囲まれ、即席の会見がおこなわれた。記者達の関心は、タジキスタンがアメリカの軍事行動に対してどのような態度をとるかということに集中していた。鈴木氏は、ラフモノフ大統領の決断を伝えた。日本のマスコミのみならず、AP(アメリカ)、イタルタス(=旧ソ連のタス通信社、ロシア)、ロイター(イギリス)なども鈴木氏の会見を大至急で伝えた。この会見の後、鈴木氏は私にこう言った。
「ラフモノフも戦略家だね。俺をうまく使ったな。タジキスタンが米軍に協力する話が、アメリカの同盟国である日本の政治家だが、同時にプーチン政権ともいい関係にある俺から出てくるならば、誰からも文句がでないと考えたんだろうね」
鈴木氏は、タジキスタン・アフガニスタン国境地帯の難民キャンプを訪問し、アフガン難民の生活の実情を視察するとともに難民から直接希望を聞き取った。「医薬品、懐中電灯、子供の学用品が特に必要だ」ということだった。
ラフモノフ大統領からは、アフガニスタンに産業を復興させることが戦略的観点から重要なので、具体的にタジキスタン南部にある建設途上の水力発電所を完成し、電力を供給したり、物流のための道路を両国間に建設する計画をタジキスタンと日本、その他の外国と進めたいという熱のこもった提案がなされた。この考えは鈴木氏の構想と合致していた。
要するにイスラーム原理主義過激派勢力を封じ込めるためには武力だけでは不十分で、産業を起こし、失業をなくし、市民社会が成立する基盤を確保するという考え方である。その後、プーチン大統領もこの計画に関心を示すことになり、この構想については、タジキスタン、ロシア、日本の関係者の間で、鈴木氏が失脚するまで話が進められていくのである。
鈴木氏は、中央アジアにおける日露提携を北方領土交渉のあらたな動力に転化させることを考えていた。

 


解説
かくして私は、半年振りに、海外出張を再開した。モスクワ、テルアビブでは、貴重な情報をいくつも得ることができた。鈴木宗男氏も自らのロシア人脈、アフガン人脈、国連人脈、中央アジア人脈を最大限に活用した。
鈴木氏が最重要視したのは、中央アジアのタジキスタンだった。(中略)
2001年10月8日、鈴木氏はラフモノフ・タジキスタン大統領と会見した。現地時間でその前日(7日)深夜、アメリカ軍がアフガニスタンに空爆を開始、戦争が始まっていた。対アフガニスタン戦争遂行上、タジキスタンの領空通過と基地使用が死活的に重要な問題だった。ラフモノフ・タジキスタン大統領がどのような態度に出るか。全世界の関心が集まっていた。
ラフモノフ大統領は、「初めて明らかにすることだが、米軍に対するタジキスタンの領空通過と基地使用を認めた」と述べた。鈴木氏が「このことを記者達に話してもよいですか」と尋ねると大統領は「どうぞ」と答えた。

今回、佐藤氏と鈴木宗男氏がいかに有能な外交を展開する実力者であったことがよく分かりました。
それにしても、このように有能な外交官と政治家を表舞台から追いやってしまい、日本の国益は大きく損なわれました。
いったい誰が責任をとってくれるのでしょうか。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その18

2025-02-01 01:05:20 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 ■外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


外務官僚の面従腹背

外務省内部での田中女史と事務方(官僚)の対立も、2001年8月10日の川島裕事務次官の退官、野上義二新事務次官の就任により新たな局面に入った。
退任記者会見で川島次官が外務省員に「グッドラック(うまくやれ)」と呼びかけたのは、どんなに厳しい状況でもユーモアを忘れない川島氏らしかった。
野上体制の成立と共に田中女史を所与の条件とみなし、外務省幹部の中で田中大臣と折り合いをつけようとする雰囲気が強まってきた。「田中眞紀子はインフルエンザだが、鈴木宗男は癌だ。この機会に治療しておかないと命にかかわる」との話が私の蜘蛛の巣にも引っかかってくるようになった。他方、外務省は怪文書を継続的に作り、鈴木宗男氏に田中女史に関する否定的情報を流し続けた。
田中外相の長期登板が確実との見通しが強まると、外務省の機能低下が著しくなった。01年1月に発覚した内閣官房報償費(機密費)詐取事件に関する捜査が進み、腐敗の構造が明らかにされるにつれて、外務省課長クラス以下は、上層部に対する不信感を強めた。外務省内の権力抗争は複雑なモザイク画を作った。
親田中眞紀子の立場を公言する官僚は少なかったが、外務省の腐敗構造を暴き、膿を出し切るには田中女史の破壊力に頼るしかないと考える者は少なからずいた。それに自らの立身出世のために田中女史に擦り寄る人々が加わった。これらの人々にとって、第一の敵は鈴木宗男氏であり、その「御庭番」であるラスプーチン、つまり私だった。そのため、私の信用失墜を図る動きも活発になった。
親鈴木宗男の立場を公言する外務官僚は、私を含め少なからずいた。主として、これまで鈴木氏と外交案件を共に進め、鈴木氏の外交手腕と政治力に一目置いている外務官僚だった。しかし、この中にも温度差があった。カラオケバーで、ある後輩が酩酊して、私に絡んできた。
「僕だって鈴木さんは重要と思いますよ。しかし、あの人は総会屋だ。総会屋は病理のある企業に巣食う。だから病んだ外務省にとって与党総会屋の鈴木さんは重要なんです。佐藤さんは総会屋担当の係長だったんだけれども、今や鈴木さんの利益を体現する企業舎弟になってしまった。佐藤さんを慕っている後輩は多いんですから、少し鈴木さんと距離を置いてくださいよ。身内では鈴木さんに対する批判もきちんとすべきですよ」
私はその間には答えずに、「飲み足りないようだな。もっと飲めよ」と言って、ロックグラスにウイスキーをなみなみと注ぎ、ロシア風に右手を組み合わせて(ブンデルシャフト)、後輩と一気のみをした。そして、頬に3回キスをした。後輩は絨毯の上に倒れ、激しく嘔吐した。

私が見るところ、外務官僚の最大公約数は以下のようなことを考えていた。
「田中が狼なら鈴木は虎、眞紀子が毒蛇ならば宗男はサソリ、お互いに噛みつき合って、両方とも潰れてしまえばよい。そして、外務官僚によって居心地のよい『水槽』の秩序を守ることができればよい」――。
もちろん外交官が自己保身だけに走っていたということではない。外交を機能的に行うためには「水槽」がきれいになって、熱帯魚(外交官)たちが「水槽」の中で安心して生活することが不可欠と考えたのである。
外交政策上の観点からは、前述したようにアーミテージ国務副長官との会談をドタキャンし、その後、アメリカのミサイル防衛政策に批判的発言をする田中女史に外務省内「親米主義者」は危惧を強めた。一方、「アジア主義者」は、中国への思い入れの強い田中女史を最大限に活用しようとした。「地政学論者」は、田中女史がいる限り、戦略的外交は展開できないと、半ば諦めの気持ちでやる気をなくしていった。
こうした状況のなかで、これまでの鈴木宗男氏との距離関係、外務省内部の人脈が複雑に絡み合い、混乱状態に陥った外務省内では誰が敵で誰が味方か全くわからなくなっていた。
たとえば、中国語専門のある中堅幹部の例をとってみよう。
「チャイナスクール」の一員としては、田中女史が外務大臣にとどまることは好都合である。但し、中国は政府開発援助(ODA)の主要対象国であるのに、田中女史のODAに対する理解は薄い。鈴木氏は中国とも良好な人脈をもつ。外務省はODA予算で以前から鈴木氏の応援を受けてきた。鈴木氏の専門知識に裏打ちされた政治力の重要性もよくわかっている。
以上の要素を総合的に考慮すると、この中堅幹部は自らの立場を一方の側に置くことはできないのである。従って、田中女史、鈴木氏の双方と良好な関係を維持しようとする。外務省執行部は、この中堅幹部がもつ田中女史と鈴木氏との良好な関係を組織維持のために使おうとする。知らず知らずのうちに、中堅幹部は、危険な政治ゲームに巻き込まれて、イソップ物語の蝙蝠の機能を果たすことになる。私の場合は、田中女史にとって私は「使用人」ではなく、「敵」であったから、蝙蝠になる運命からは免れていた。これは私にとって幸せなことだった。

 


解説
私が見るところ、外務官僚の最大公約数は以下のようなことを考えていた。
「田中が狼なら鈴木は虎、眞紀子が毒蛇ならば宗男はサソリ、お互いに噛みつき合って、両方とも潰れてしまえばよい。そして、外務官僚によって居心地のよい『水槽』の秩序を守ることができればよい」――。(中略)
こうした状況のなかで、これまでの鈴木宗男氏との距離関係、外務省内部の人脈が複雑に絡み合い、混乱状態に陥った外務省内では誰が敵で誰が味方か全くわからなくなっていた。


当時の外務省内の複雑な人間関係を分かりやすく記述しています。
ある意味、とても貴重な記録です。

 

獅子風蓮