まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句のサバイバリズム】私はやっぱり結社とも《座》とも無縁だった!/新俳句入門(22)

2017-10-31 21:43:32 | エッセー・評論

私の最初の俳句入門は1979年だった。ニッポン放送【オールナイトニッポン】の俳句コーナーである。それから、いくつかの結社と称する俳句雑誌と総合誌などに投句し、1985年には句作そのものを休止した。それから長い長い28年が過ぎて、2013年にブログ上で句作を再開した。今月で、ちょうど4年経った。二つの結社にも入り、同人にもなったが、今回もやはり結社はダメだった。一誌は同人昇格わずか1年で終刊となり、もう一誌も同人辞退を余儀なくされた。俳句形式の定型性そのものが自分には合わないのだ。今夜、つい先ほどその主宰と話したが、やっぱり主宰に収まっているだけあって話がどこか決定的に食い違っていた。現代の俳句はポエジーというのが主宰のモットーだが、俳句がポエジーであるために結社は必要なのだろうか?むしろ桎梏にならないか?俳句はあくまでも純然たる個人の手による一行の短詩であり、結社という《座》の独占形態は無用である。ここにも俳句は《座》の文芸であり、結社の所有物とのドグマが生きていた。かの高柳重信が、俳句総合誌としての『俳句研究』と同時に同人誌の『俳句評論』を刊行し、最後まで結社を主宰しなかった理由がわかった。最近、旧知の俳人の好意で参加した同人誌があってよかったと思う。この同人誌の代表は『結社は化石以前の非存在』と語っていた。ちなみに彼は、これまで一度も結社には加わっていない。・・・《続く》

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著者の沢好摩は『俳句評論』の元同人で、現在同人誌『円錐』代表。やはり、入門時の一時期を除いて俳句結社とは無縁だった。


【俳句ゼロ】没自我の反定型言語としてのサブカル俳句/新俳句入門(21)

2017-10-31 09:53:35 | 新俳句入門

10月は総選挙と2度の台風襲来、そして私的ながらカラオケバトル(年間チャンピオン決定戦)・・と続いた。同時期に所属結社と同人誌の大会が行われたが、とてもそれどころではなかった。俳句というものがいかに重要度が低いかの証明である。俳句とは、もはや生きてゆくために必要なもの(1970~80年代の坪内稔典の主張)ではあり得ない。と言うより、俳句・俳諧とは元々そいう存在ではなかったのか?現代に於いて、結社・俳壇と称する文芸利権団体の有力者が、世間並みに文化勲章を受けてシャーシャーとほくそ笑む姿を見ると、近代俳句の本質がありありと浮かび上がって来る。すべてが欺瞞であり、偽装に過ぎないことがあまりにも明白だ。さらに、俳句はJ-POPやカラオケ文化などの先端的かつ日常的な表現形態に比べると、何の普遍性も客観性もない。わずかに可能性があるのは、30歳代以下の【団塊ジュニア】や【さとり世代】の〈おたく文化〉の一ジャンルとしてのハイクであろう。そこでは、戦後の自我がいったん完全消滅し、ゼロから何事かが【俳句定型】とシンクロしているからだ。ニホン語の定型性(暗黙の言語規範)は、俳句形式のどこにも存在せず、没自我・没主体の所謂サブカルチャーとしてのハイクの表層に、21世紀の俳句・俳諧の痕跡が見つかるかもしれない。反世界(みちのく)への旅に出て、おのれを更新しようにも、元々の《おのれ》からしてどこにも存在しない。・・・《続く》

芭蕉の不在歩けばわかる花の昼   まほろば  旧作

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