華族の娘と生まれたがゆえの社会的な縛りの中で、一人の人間として苦悩しながら自分の道を探し求めていく一柳満喜子の姿を縦糸に取り巻く社会とその中で生きる人々を横糸にして巧みに織り上げられた物語にぐいぐい引き込まれていった。
京都文化博物館への往復の電車の中でも読み耽っていて、「もう乗換えか」と本を閉じるのを惜しむ気持ちを味わうのは久しぶりのことである。新田辺から烏丸御池までは30分余り乗らないといけないのだがあっという間に着いた感じで乗り過ごしかけて思わず苦笑。
《上巻》では独楽が大切な役割を果たしている。満喜子と同い年の乳兄弟、斯波(しば)佑之進と言葉をかわすシーンが《上巻》を象徴している。
「佑が回す独楽は、いつもとても長く、まっすぐ立っていましたね」
「こつを掴めば簡単なことです」
人もそうありたい。軸足を揺らさず立って、誰にも影響されずまっすぐに。
「私やチエは、まだまだ独楽のようには立てません」
父が家を移ると言えば意志なきもののようにともに移る。やがて父が嫁げと強引に言えばゆかずにはいられなくなるだろう。みずからの回転を停めて倒れる独楽のように。
「いいのではないですか? 独楽はここ一番の見せ所でしっかり立てばいいのです。まだその時ではないのでは? それに・・・」
親元を離れ他家の息子となった歳月が、彼をそのように人当たりのいいことを言える大人に磨きあげていた。彼の言葉の続きを、満喜子はもう待っている。
促すような満喜子の視線にためらいながら、佑之進は照れたように笑って言った。
「それに、おマキさまは、独楽のように立つというより、そう、跪座(きざ)、のような」
「跪座?」
立ち居振る舞いの作法の言葉だ。正座の位置から膝立ちで、つま先に全体重を乗せ、これから立つ、という姿勢をいう。これから立ち上がるのか、また座り込むのか、どちらにでもなる“動”のかたちだ。
彼は正しい。立つか、それとももとにもどって静かに坐るか、どちらにでも動くかまえをした満喜子は、まさに、膝立ちをして様子を窺う跪座の状態にいる。
すぐれた小説は、登場する人物が実に生き生きと動き話すのである。この本でも魅力的な人が多く登場するが、中でも三井の家から大阪の豪商加島屋に嫁いできた廣岡浅子は存在感がある。本のタイトルも彼女の言葉からきている。
友人の絹代がアメリカへ留学するという決意を伝えに大阪の浅子の家に寄宿している満喜子に会いに来た時のやりとり
いつまで・ここで・こうしているのか。佑之進の言葉がよみがえり、頭の中で反響した。
いいえ、もうここだけにはいない。・・・突然、たしかな重力をもった思いが結晶する。
「私も、何かやらなければ・・・・・」
浅子がのどかに受けて答える。
「ええこっちゃ。絹代はんに刺激されましたんやな。切磋琢磨、能力のある者がくすぶってるんは、見ている方も、なんやパッとしませんよってにな」
まず浅子はそのように笑いとばした。そして大阪言葉でこう付け足した。
「おマキはん、負けんとき」
言われて満喜子はそれをオウム返しにつぶやいた。負けんとき?黙ってうなずく浅子。
何かに勝てというのではない、負けるな、そしてあきらめるなと、浅子はそう言うのである。
跪座の状態から立ち上がったところで《上巻》は終わっている。270ページ余りある単行本なのでこんなに早く読み進むとは思っていなかった。急いで《下巻》の注文をしたが、届くのは明日。
京都文化博物館への往復の電車の中でも読み耽っていて、「もう乗換えか」と本を閉じるのを惜しむ気持ちを味わうのは久しぶりのことである。新田辺から烏丸御池までは30分余り乗らないといけないのだがあっという間に着いた感じで乗り過ごしかけて思わず苦笑。
《上巻》では独楽が大切な役割を果たしている。満喜子と同い年の乳兄弟、斯波(しば)佑之進と言葉をかわすシーンが《上巻》を象徴している。
「佑が回す独楽は、いつもとても長く、まっすぐ立っていましたね」
「こつを掴めば簡単なことです」
人もそうありたい。軸足を揺らさず立って、誰にも影響されずまっすぐに。
「私やチエは、まだまだ独楽のようには立てません」
父が家を移ると言えば意志なきもののようにともに移る。やがて父が嫁げと強引に言えばゆかずにはいられなくなるだろう。みずからの回転を停めて倒れる独楽のように。
「いいのではないですか? 独楽はここ一番の見せ所でしっかり立てばいいのです。まだその時ではないのでは? それに・・・」
親元を離れ他家の息子となった歳月が、彼をそのように人当たりのいいことを言える大人に磨きあげていた。彼の言葉の続きを、満喜子はもう待っている。
促すような満喜子の視線にためらいながら、佑之進は照れたように笑って言った。
「それに、おマキさまは、独楽のように立つというより、そう、跪座(きざ)、のような」
「跪座?」
立ち居振る舞いの作法の言葉だ。正座の位置から膝立ちで、つま先に全体重を乗せ、これから立つ、という姿勢をいう。これから立ち上がるのか、また座り込むのか、どちらにでもなる“動”のかたちだ。
彼は正しい。立つか、それとももとにもどって静かに坐るか、どちらにでも動くかまえをした満喜子は、まさに、膝立ちをして様子を窺う跪座の状態にいる。
すぐれた小説は、登場する人物が実に生き生きと動き話すのである。この本でも魅力的な人が多く登場するが、中でも三井の家から大阪の豪商加島屋に嫁いできた廣岡浅子は存在感がある。本のタイトルも彼女の言葉からきている。
友人の絹代がアメリカへ留学するという決意を伝えに大阪の浅子の家に寄宿している満喜子に会いに来た時のやりとり
いつまで・ここで・こうしているのか。佑之進の言葉がよみがえり、頭の中で反響した。
いいえ、もうここだけにはいない。・・・突然、たしかな重力をもった思いが結晶する。
「私も、何かやらなければ・・・・・」
浅子がのどかに受けて答える。
「ええこっちゃ。絹代はんに刺激されましたんやな。切磋琢磨、能力のある者がくすぶってるんは、見ている方も、なんやパッとしませんよってにな」
まず浅子はそのように笑いとばした。そして大阪言葉でこう付け足した。
「おマキはん、負けんとき」
言われて満喜子はそれをオウム返しにつぶやいた。負けんとき?黙ってうなずく浅子。
何かに勝てというのではない、負けるな、そしてあきらめるなと、浅子はそう言うのである。
跪座の状態から立ち上がったところで《上巻》は終わっている。270ページ余りある単行本なのでこんなに早く読み進むとは思っていなかった。急いで《下巻》の注文をしたが、届くのは明日。
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