素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

高坂正堯著『世界地図の中で考える』を思い出す

2010年02月25日 | 日記
 N.Yさんのコメントに、オーストラリアに旅行した時、世界地図の見え方の違いに驚いたという話がありました。私は大学時代に高坂正堯(まさたか)氏の著書の中で同じような思いをしました。『日本辺境論』をきっかけに古ぼけた地球儀を持ち出して、あちらこちらから眺めていた時、一冊の本を思い出し、昨夜から並行して読み始めた。

 1968年発行だから42年前に書かれ、20歳前後の時読んだと思う。『世界地図の中で考える』というタイトルで5つの部から成り立っている。その中で、第一部“タスマニアにて”というのが、すごく印象的で記憶に残り続けている。

 京都大学で国際政治学を専攻していた高坂氏に、タスマニア大学から客員教授に来ないかという招待があり、5ヶ月ばかりタスマニア島で暮らし、考えたことが書かれてある。

 タスマニア島はオーストラリアの南東端にある、北海道ぐらいの大きさの島である。ということもその時知った。その招待を引き受けた時、周りからは「なぜ?」という質問をされたということから話は始まっている。

 1つは好奇心をそそられたためだが、他にタスマニア島の原住民の滅亡の話を子供の時に聞いて以来、タスマニア島という名前が記憶から離れなかったということも大きな理由だった。

 『私はこのタスマニア土人の滅亡の話を小学校の三年生か四年生のときに聞いた。それは今日から見れば奇妙に見えるかも知れない。タスマニア土人の滅亡の話などは、現在、高校の教科書にものっていない小さな事件だからである。しかし、私が小学校に通ったのは太平洋戦争の間だった。正確に言えば私は国民学校に通ったのである。私が入学したとき、小学校は国民学校と改称され、私が卒業したとき、それは小学校という名前に戻された。

 この国民学校の教育は当然戦時色を持っていた。日本の敵であるアメリカやイギリスは“鬼畜米英”と呼ばれたし、その悪行はくり返して教えられた。大東亜戦争は西欧の白色人種のアジア侵略を撃退するのだというイデオロギーにしたがって、イギリスの帝国主義の暗黒面も詳細に教えられた。イギリス人がタスマニア土人を絶滅したことは、そのもっとも典型的な行為として語られたのである。そして、ひとつの民族の絶滅というのは、きわめて劇的な話だから、私の頭にはっきりと焼きついたのである。』

 このあたりは、内田さんの“学ぶちから”という話とつながっていると感じた部分である。高坂氏は、タスマニア島での5ヶ月の間に、タスマニアの原住民の滅亡についての考察をすすめ、本の中でふれているが、とてもおもしろかったし、もう一度読み返しても新鮮さは変わらない。

 ただ、タスマニア土人滅亡の物語だけが、氏をタスマニア島に行かせたのではないということも述べている。

 『私は南半球から地球を見上げたかったのである。われわれは北半球に住んでいる。われわれが地球と地球上にくり拡げられる人間の営みを見る目は、北半球からの見方である。南の端から地球のできごとを見るとどうなるのだろうか、私はそれを経験してみたかった。(中略)異なった土地の人が地理に対してどのように異なった見方をしているかを知ることも意義がある。それはわれわれに異なった地理的視野を教え、それによってわれわれの地理的視野を豊かにしてくれるからである。つまり、北からだけでなく、南から地球を見ることは意義のあることなのである。たとえば、あるオーストラリア人は日本のことを描いた彼の著書に“二階にある国”と題名をつけた。それは日本人には思い浮かばない名前だが、たしかにオーストラリアから見ると日本はそのように見えるかも知れない。』

 この視点は、当時の私には「目から鱗が落ちる」という感じであった。できるだけ多くの視点を味わう必要がある。ということを学んだ本である。本からのメッセージは無意識の世界に沈み込んでいたが、あらためて読み直し、40年近く経験を重ねた自分の意識の世界で、もう一度味わってみたい。
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一気に春本番の陽気

2010年02月24日 | 日記
 今週に入って、ホップ・ステップ・ジャンプと気温が上昇し、4月並みの暖かさとなった。梅の蕾も一気にほころび、近所の枝垂れ梅も明日には“満開”となりそうだ。今朝、通りかかった時、枝にとまっているうぐいすを写真に収めることができた。朝と夕方にたくさんみかけるのだが、枝から枝へと飛び回っているので写真は無理だろうと思っていたが、ラッキーであった。鳥たちが一息ついている日中には甘い香りに誘われて小さなハチが群がっていた。自然界の精緻なシステムを垣間見た感じがした。


 
梅の花咲きて散りなば 桜花継ぎて咲くべくなりにてあらず 薬師張氏福子『万葉集』巻第五・八二九

 週末に、喫茶店で30分だけ自分だけの時間をつくっていた頃があった。そこで「ビッグコミックオリジナル」を読むのを楽しみにしていた。「あぶさん」「三丁目の夕日」「釣りバカ日誌」などが連載されていたが、なかでも ジョージ秋山作で、幕末時代の江戸・東海道の宿場町『品川宿』の問屋「夢屋」の主人・仕事そっちのけでいつも遊んでばかりで、無類の女好きな雲(くも)と妻・かめ、11歳の長男・新之助(しんのすけ)、8歳の長女・お花(おはな)の家族・庶民の人間模様を歴史上実在する人物も多数登場させながらコミカルかつシリアスに描いている『浮浪雲』(はぐれぐも)が一番好きだった。

 その中で、新之助の教育をめぐる話があった。要は、教育にはタイミングというものがあるということを雲は「卵から雛が孵るとき、母鳥が卵の殻を外からつつき、雛鳥は同じ殻を内からつつく。そのふたつがぴたりと一致しなければ雛は孵化できない」というたとえで話し、これを『』というんでありんす。と言った。これは使えるなと思ったが、いざ使おうとした時にこの漢字4文字を忘れてしまっていた。内容は覚えていても、漢字4文字がないとしまらない。
 
 前置きがずい分長くなったが、『日本辺境論』の中の“「機」の思想”という章にこの話が出てきて、ずうっと気になっていたことが解決してとてもスッキリしたということを伝えたかっただけです。顔は出てくるが名前が出てこないモヤモヤ感がスッキリしたのと同じである。『啐啄同機』(そつたくどうき)という漢字四文字。

 そういうこともあって、朝、鳥の写真を撮ってみようと思った。
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内田樹著『日本辺境論』読書中

2010年02月23日 | 日記
 息子の部屋の本棚の上で、埃をかぶって忘れ去られていた地球儀を自分の部屋に持ってきて眺めている。ロシアがソビエト連邦となっているからずい分昔のものだが問題はない。昨年の9月末にあった高校の同窓会で講演した同期の西村くんの「ユーラシア大陸を逆に見ると日本の違った姿が見え、昔の人が“伊勢詣”“熊野詣”に出かけたかを解くヒントがある。」という話がずうっと頭の中に残っていたことと『日本辺境論』を手にしたことが相まって、地球儀のことがふと浮かんだのである。

 平面の世界地図は、どんな図法であれ何かを犠牲にしているから駄目だと思った。そこでユーラシア大陸を逆に眺めてみた。

  この発想、20年以上前になると思うが、地理で“表日本”“裏日本”という言い方が問題になった時にも聞いたことがあると思い出した。『日本辺境論』でもふれられているが、中国、朝鮮から文化、制度を取り入れてきた日本の玄関は“日本海側”である。長崎も都(太平洋側)から陸路で行くと、山越えをいくつもしなければならない、とても不便な場所というのを先の旅行であらためて思ったが、海路で見るとまったく逆になることがわかる。

そういうことを考えていた時、下の記事が目に留まった。真意はともか、日本の政治をになう議員としては見識の低い、視野の狭い人物だと思った。


民主・石井氏「鳥取、島根は日本のチベット」
読売新聞 02月22日23時39分

 民主党の石井一選挙対策委員長は22日、都内で開かれた川上義博・同党参院議員(鳥取選挙区)のパーティーであいさつし、「鳥取県とか島根県と言ったら、日本のチベットみたいなもので、少し語弊があるかもわからないが、人が住んでいるのか。牛が多いのか。山やら何やらあるけど、人口が少ない所」と述べた。

 川上氏が夏の参院選に向けて鳥取選挙区の候補者を発掘したため、保守地盤の鳥取での活動を評価した発言とみられる。しかし、会場からは「失礼だ」との声もあがった。

 さて、『日本辺境論』という本であるが、著者が“はじめに”で「この本もそうです。[お掃除本]ですので、とりあえず[足元のゴミを拾う]ところから始める。一つ拾ったら、目に入った次のゴミを拾う。最初のゴミが空き缶で、次のゴミが段ボールで、という時に[拾い方に体系性がない]とか[サイズを揃えてもってこい]とか言われても困ります」とことわっているように、まったく相互に関連のなさそうな文化的事例を列挙し、論じる中で『辺境性』というものが見えてくるようになっている。

 読みながら、今まで自分の中にあった“漠然とした疑問”を解く鍵が見つかればよいと考えている。今、60%ぐらい読み進んだが、その中で、私の中にあった霧が少し晴れたように思ったことがいくつかある。

「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度こそはまさしく日本人のふるまいの基本パターンである。という指摘。

「大東亜戦争」を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにもかかわらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に基づいて私たちは主体的に戦争を選択したと主張する人だけがいない。戦争を肯定する誰もが「私たちは戦争以外の選択肢がないところにまで追い詰められた」という受動態の構文でしか戦争について語らない。という指摘。

「国際社会はこれからどうあるべきか」という種類のイシューになると、日本人は口を噤んでしまう。人種や信教や言語や文化を超えるような汎通性を持つような「大きな物語」を語る段になるとぱたりと思考停止に陥る。「世界はこれからこのようなものであるべきだ」という強い指南力を持ったメッセージを発信することができない。という指摘。

「日本」という国号が選ばれ、「日の丸」の国旗が選ばれ、「君が代」が国歌として制定されたのにはそれなりの歴史的条件が整っていた。その判断はおそらくその時点での最適解であった。そのことについての国民的合意をつねに形成しておくべきではないか。という指摘。

人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いたほうがいい。これは私の経験的確信です。人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。という忠告。そして、自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。という指摘。

 これらのことが鍼灸の針のように脳みそにちくちくささり、こりみたいなものが取れていく感じがする。これから先が楽しみである。

 

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約1ヶ月ぶりに80kgを切る

2010年02月21日 | 日記
 今日は寒さがゆるみ、日差しが柔らかに感じられた。近所の枝垂れ梅も6部咲きとなってきた。鳥たちも動きが活発になってきた。すずめ、めじろ、うぐいす他名前の知らないのが2種類、朝から入れ替わり各家の木の実をついばんでいる。おかげで我が家の南天の実はすっかりなくなってしまった。

 ウェイトコントロールのために、1年近く、寝る前と起きた直後の体重を記録している。去年の12月順調に80kgを切ったのに、年末年始の食べすぎと運動不足で1月2日に82.3kgを記録した。やばいと思い、体を動かすことを心がけ、やっとこさ1月25日に79.6kgまで戻した。しかし、ホッとしたのやら、旅行があったりでその後80~82kgをウロウロしていたが、今朝わずか100gではあるが、79.9kgの数字を見た。単純にうれしいものである。

 食べたいものを制限しないでのウェイトコントロールだから遅々たる減少は仕方がない。2月も残り少なくなったが、は80kg未満をできるだけ維持したいものだ。

 昼から、山田池公園の梅林に歩きがてら行って来た。結構咲いていて、人も多かった。ついでに意賀美神社も覗いて帰ろうということになり行ってみたが、こちらは「つぼみ」。3月に入らないと花は楽しめそうにない。

 春は確実に近づいている。  
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デジブック 『大阪天満宮⇒住吉大社』

2010年02月20日 | 日記
こうづデジブック 『大阪天満宮⇒住吉大社』


京阪電車の駅に置いてあったパンフレットがきっかけである。天満橋が起点だが、家からはJR学研都市線を使い、大阪天満宮駅で下車するのが便利だし、ゴールが住吉大社だから大阪府の2大神社を徒歩で結んでみるのもいいだろうと、1km余り北になる大阪天満宮を起点にした。

 大阪市内を北から南へと下る熊野街道の地図を見ていると、由緒ある寺社が街道に沿ってあることがわかった。「祈りの旅」でもあると思った。

 以前勤めていた学校で、3年生の担任をしていた同僚が、ちょうどこれぐらいの時期から放課後に時間が空いた時、学校の周り(1周約3km)を走り始めた。「どうしたんやろ」といぶかしく思っている空気を察したのか、クラブ指導をしている私に話しかけてきた。

 「クラスの生徒ががんばって勉強して、自分の第一志望に合格してほしい。きわどい子がたくさんおるんですよ。しかし、自分が代わって勉強することも、受験することもできない。こうやって走って、がんばれよと祈るしかない。自己満足かもしれないけど、僕にできることはこれぐらいのことしかないんですよ」と少々照れ気味に笑った顔が印象的だった。

 彼の教室には、走行した距離をぬりつぶすコマのある日本地図が貼ってあり、「俺は日本一周を目指して走る、君らは合格を目指して勉強しろ」みたいな内容の檄が書かれてあった。40歳そこそこの私は、「ふ~ん」ぐらいにしか思わなかった。

 しかし、よく考えてみると、人生においては、自分の大切な人が体や心に痛手を受け苦しんでいる時に、「何とかしてやりたい」と思ってもどうしてやることもできないということがある。そういう時は“祈る”ことしかない。ほとんどの社寺にある『百度石』もその一つであろう。石切神社で拝殿と百度石を往復しながら何かを念じている人を多くみかけた時、“人間の持つ悲しみ”のようなものを感じた。

 大阪天満宮を皮切りに、榎木大明神、高津宮、生國魂神社、四天王寺、堀越神社、安部晴明神社、阿部王子神社、宝泉寺、そしてゴールの住吉大社と祈りながらの旅となった。

 途中もいろいろな発見はあったが、印象に残った所が3ヶ所。

1つ目は、ビルの谷間の奥にあった近松門左衛門の墓。「なんとまぁ」という驚き。

2つ目は、高津宮の献梅碑。説明の中に、枚方と深い関わりのある「王仁博士」があった時は、「こんなところにも」という驚き。

  献梅祭(けんばいさい)  

浪速津に 咲くやこの華冬ごもり
今は春べと 咲くやこの花
              王仁

  高津宮の御祭神であられる仁徳天皇がまだ天皇になられる前の教育係、往古王仁(わに)博士が呼んだ和歌です。王仁博士は日本に漢字を伝えるために「千字文」を持って来た渡来人。
  仁徳天皇が皇位につかれた事を喜んで、王仁博士が梅花にこの和歌を添えて奉ったと伝えられています。この故事に習い、現在も年に1度、梅が辻の氏子らを中心に、代表者を「献梅司」に見立て、梅花を神前に奉献しています。
  仁徳天皇が皇位につかれるまで、数年間は皇位が決まらず民も荒れましたが、仁徳天皇が難波に都を定め、農業の推奨、開拓事業などの便をはかったことで大和朝廷の最盛期となりました。この和歌はそのような故事を思わせ、非常におもしろいといえます。

3つ目は、阪堺電車上町線の[北畠]と[姫松]間の道路。天王寺駅前から阿倍野筋を線路を真ん中に見て歩くのだが、そこはどこにでもある普通の路面電車の走る風景。[松虫]の手前で電車道とは離れ、再び[北畠]の手前で合流する。そこからの一区間の道路の様子が「なんやこれ!?」と思ってしまった。表現がむずかしいが、私は勝手に「自己責任道路」と即命名した。裏返して言えばとてものどかな空気が漂っている異空間。

 北から南へと大阪市内を貫く「熊野街道」。4時間余りの歩きであったが、少し違う大阪を見たという感じ。
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