偶然目の前に現れた2013年(平成25年)「巳年の年賀状」のホルダーの中に父からの年賀状があった。父は平成29年2月6日午後7時10分に永眠したので不思議なことではないが、タイムカプセルを開けたようで懐かしさが蘇ってきた。
この年賀状は私が作ったものである。70歳〈古希)を機に、父は地域の絵画教室で油絵を始めた。さらに、NHK学園の受講生となりスケッチ旅行などに参加しゴルフとともに老後の大きな楽しみとなった。自分の作品に自信がもてるようになった頃に、自分の作品を年賀状に使うことを思いついた。最初の頃は、弟が父の年賀状作りを請け負っていたが、まだ仕事を持っていたので父からのこまごました要望に応えて忙しい時期に年賀状作りをするのが大変だとギブアップ宣言をした。困った父は、退職をしている私に「できるか?」と言ってきた。この「できるか?」は「やってくれ!」の裏返し、断る余地はないと覚悟し引き受けた。
パソコンの操作に拙かった私にとって父の細かい注文に応えるのは大変だった。弟から聞いてはいたが色合いへのこだわりは強かった。自分の原画とスキャンして印刷されたハガキとでは微妙に異なるのは当たり前だが「よし!」が出るまでの調整は難儀した。弟だと車で40分弱で実家に行くことができたが私の場合は3時間30分はかかるので郵便と電話でのやり取りとなり大変だった。字の大きさや位置、色の濃淡など懐かしく思い出された。この巳年の年賀状のスケッチ画はちちにとっては十数年続けてきた油絵の集大成のようなものである。
このスケッチ画をもとに描いた作品「志摩の海岸」が平成24年の秋にあった『第20回NHK学園生涯学習美術展』の油絵部門で【審査員特別賞】に輝いたからである。
翌年の年賀状に「年賀状じまい」を入れた記憶がある。
三重県退職校長会発行の「いきがい」(近況報告)の平成25年には次のように寄稿していた。
昨年夏頃から足が痺れて歩行まゝならず脊柱管狭窄症と診断された。し ・新歌舞伎座が開業
かし、手術は術後のリスクを考え断念した。以後整形に通院、リハビリが ・テレビ放送開始60年
日課。気が向けば絵筆を取り、読書三昧と気儘な日々を過ごしている。 ・富士山世界文化遺産登録
“いきがい”投稿の矢先、伊勢市在住の同級生T君の訃報を知った。毎 ・楽天球団、初の日本一
年心に残る彼の記事を読む楽しみがなくなり心淋しく哀情の念に堪えない。 ・今年の漢字は「輪」
合掌(平成25年・第31号)
この時父は89歳。と考えると12年後の「巳年の年賀状」までは続けねばならないなと思い直した。『日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ』の気概で過ごしていくとするか。で「巳年の年賀状」は一件落着。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/18/cb7f949b804b4efbc97016db9089802d.jpg)
パソコンの操作に拙かった私にとって父の細かい注文に応えるのは大変だった。弟から聞いてはいたが色合いへのこだわりは強かった。自分の原画とスキャンして印刷されたハガキとでは微妙に異なるのは当たり前だが「よし!」が出るまでの調整は難儀した。弟だと車で40分弱で実家に行くことができたが私の場合は3時間30分はかかるので郵便と電話でのやり取りとなり大変だった。字の大きさや位置、色の濃淡など懐かしく思い出された。この巳年の年賀状のスケッチ画はちちにとっては十数年続けてきた油絵の集大成のようなものである。
このスケッチ画をもとに描いた作品「志摩の海岸」が平成24年の秋にあった『第20回NHK学園生涯学習美術展』の油絵部門で【審査員特別賞】に輝いたからである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/46/4b91ad289d92cf48e3ffc2169af6ff7c.jpg)
三重県退職校長会発行の「いきがい」(近況報告)の平成25年には次のように寄稿していた。
昨年夏頃から足が痺れて歩行まゝならず脊柱管狭窄症と診断された。し ・新歌舞伎座が開業
かし、手術は術後のリスクを考え断念した。以後整形に通院、リハビリが ・テレビ放送開始60年
日課。気が向けば絵筆を取り、読書三昧と気儘な日々を過ごしている。 ・富士山世界文化遺産登録
“いきがい”投稿の矢先、伊勢市在住の同級生T君の訃報を知った。毎 ・楽天球団、初の日本一
年心に残る彼の記事を読む楽しみがなくなり心淋しく哀情の念に堪えない。 ・今年の漢字は「輪」
合掌(平成25年・第31号)
この時父は89歳。と考えると12年後の「巳年の年賀状」までは続けねばならないなと思い直した。『日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ』の気概で過ごしていくとするか。で「巳年の年賀状」は一件落着。
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