暑中見舞いが届いた。再任用の3年目に入っている方である。教育実践一すじという方だが今年の年賀状は元気がなかった。「らしくないなぁ」ということを真っ先に思った。年賀状だけのやりとりでお会いすることもないが葉書きを見ると暮らしぶりや心境などが何となく伝わってくる。勝手な思い込みも多々あるとは思うがちょっと心配をした。
暑中見舞いをもらうのは初めてである。詩が印刷されていた。今までの年賀状では谷川俊太郎のものが多かったが、今回は風変りなものだった。
『おれはかまきり』
かまきりりゅうじ
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ
おう あついぜ
おれは がんばるぜ
もえる ひをあびて
かまを ふりかざす すがた
わくわくするほど
きまってるぜ
出典を調べてみた。工藤直子さんの詩集「のはらのうた」の中にある一編だとわかった。詳しくはクリックしてもらって工藤さんの話を読んでもらうとよくわかる。講演をテープ起こししたものだが目次にもどって通しで読むと面白い。かまきりりゅうじの『おれはかまきり』は詩集の中で人気のある両横綱の1つであるらしい。小さい子とともに40代前後のお母さまたちも贔屓にしているという。
ここで少し考えた。今の私が暑中見舞いに何か詩を添えようと思った時、かまきりりゅうじを選ぶだろうか?と。人間、年をとればできないことが増えてくる。この自然の摂理に強くあらがえば「アンチエイジング」となり、年齢によるさまざまな変化をマイナスにとらえずに心身とも知的に成熟していく過程と受け止めれば「スマートエイジング」となる。
しかし、「アンチ」であれ「スマート」であれ、あえて「エイジング」の前に冠をつけること自体、その根底に「エイジング」を受け入れ難いものであるという思いが強く存在することでは同じである。
年をとると「まだ、自分にはこれだけのことができる」と「できること」ばかりに目を向けてしまいがちだが、大切なことは「できなくなってきたこと」ことを一つひとつ受け入れていくということではないだろうか。そのことでそれまで見えていなかった新しい世界も開けていくのである。
「エイジング」によるマイナス、プラスを合算すると不思議とプラスとなる。言い換えれば年々楽しみが増えていくということである。
とりとめのないことを考えさせてくれた一枚のハガキであった。
暑中見舞いをもらうのは初めてである。詩が印刷されていた。今までの年賀状では谷川俊太郎のものが多かったが、今回は風変りなものだった。
『おれはかまきり』
かまきりりゅうじ
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ
おう あついぜ
おれは がんばるぜ
もえる ひをあびて
かまを ふりかざす すがた
わくわくするほど
きまってるぜ
出典を調べてみた。工藤直子さんの詩集「のはらのうた」の中にある一編だとわかった。詳しくはクリックしてもらって工藤さんの話を読んでもらうとよくわかる。講演をテープ起こししたものだが目次にもどって通しで読むと面白い。かまきりりゅうじの『おれはかまきり』は詩集の中で人気のある両横綱の1つであるらしい。小さい子とともに40代前後のお母さまたちも贔屓にしているという。
ここで少し考えた。今の私が暑中見舞いに何か詩を添えようと思った時、かまきりりゅうじを選ぶだろうか?と。人間、年をとればできないことが増えてくる。この自然の摂理に強くあらがえば「アンチエイジング」となり、年齢によるさまざまな変化をマイナスにとらえずに心身とも知的に成熟していく過程と受け止めれば「スマートエイジング」となる。
しかし、「アンチ」であれ「スマート」であれ、あえて「エイジング」の前に冠をつけること自体、その根底に「エイジング」を受け入れ難いものであるという思いが強く存在することでは同じである。
年をとると「まだ、自分にはこれだけのことができる」と「できること」ばかりに目を向けてしまいがちだが、大切なことは「できなくなってきたこと」ことを一つひとつ受け入れていくということではないだろうか。そのことでそれまで見えていなかった新しい世界も開けていくのである。
「エイジング」によるマイナス、プラスを合算すると不思議とプラスとなる。言い換えれば年々楽しみが増えていくということである。
とりとめのないことを考えさせてくれた一枚のハガキであった。