素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

新川さんから連想した3人の女性③澤地久枝

2024年08月23日 | 日記
先日、NHKニュースの中の特集で、澤地久枝さんが取り上げられていた。1930(昭和5)年に生まれた澤地さんの今の原点は一家で渡った旧満州(中国東北部)で迎えた敗戦の後に訪れた体験である。当時は14歳の女学生。戦時中は日本兵の非常食を作り、男性が召集された開拓団の応援にも行った。何事も「お国のため」と思っていたが、敗戦後関東軍は住民を置き去りにして逃走し、澤地さん一家も1年間の難民生活を強いられた。飢え、略奪暴行、発疹チフスの流行による理不尽な死との背中合わせの逃避行は深く心の傷として刻まれた。という。

 安倍政権下の2015年秋に成立した安全保障関連法に反対して始めた国会前のスタンディングデモは9年目に。折れない意志を貫き、国会前に立ち続ける澤地さんの姿は印象的だった。
 心臓は20代から手術を繰り返し、新型コロナが広がり始めた2020年春には自宅で転倒。腰骨を折り、一時は「要介護4」の状態に。だが「諦めたら終わり」とリハビリに耐え、数カ月後にはつえをついてデモに復帰した。折れた腰椎は今も治りきらず痛むが、デモは「私にとって最低限の行動」と言う。

澤地久枝が若者に語った戦争 | NHK | WEB特集

【NHK】78年前、14歳だった少女は戦争について何も知らなかった。ノンフィクション作家の澤地久枝さん(92)。これまで戦争をテー…

NHKニュース

 
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新川さんから連想した3人の女性②杉本苑子

2024年08月22日 | 日記
 1964年10月10日に開会した東京五輪の時、私は13歳、中学2年生だった。テレビが我が家に来て5年目、国際大会をリアルに見るのは初めてで繰り広げられる熱戦に単純に興奮していた。一番記憶に残っているオリンピックである。

 その明るいだけの記憶に一石を投じてくれたのが、直木賞作家杉本苑子さんが1964年の東京オリンピックの開会式を見て書いた「あすへの祈念」という文章である。2020年の東京五輪・パラリンピックを前に、毎日新聞の「余録」やNHKのドキュメント番組で取り上げられた。特に、NHKの学徒出陣壮行会と1964年東京五輪の入場行進の模様が交互に流れる映像は、私にとっては衝撃的だった。それぞれに何度も見てよく知っていた明と暗の極致のものが55年余りの歳月を経て私の中でドッキングしたのである。

  『二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押えることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。
(中略)
 オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
 あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四ヵ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。』


 1925(大正14)年に生まれた杉本さんは、2017(平成29)年に91歳で亡くなられた。2020年元旦の毎日新聞「余録」は杉本さんの「あすへの祈念」を取り上げ次のように結んでいる【▲56年の歳月を経て東京五輪・パラリンピックの2020年がやってきた。その間に人類が戦争の悲惨から解放されたわけではない。だが作家の祈りはともかくもかなえられ、未来は私たちの手の中にある。】だが?と私は思った。コロナ禍で1年延期され無観客での開催を余儀なくされ、加えて幹部関係者の不祥事が続発した東京五輪をもし杉本さんが存命だったらどう感じただろう。その1年後には北京2022冬季オリンピックと相前後してロシアのウクライナ侵攻が始まり停戦の道筋が見えないまま、さらにイスラエルのガザ地区侵攻も加わりパリ2024オリンピックを迎えた。

 私たちの手の中にある未来は、杉本さんの祈りに応えられるだろうかと考えてしまう。2028年のロサンゼルス五輪の時、台湾有事も加わるかもしれない。というのが杞憂であってくれたらいいと強く思う。

 「平和の祭典」という美名のもとで一時的で人工的な安寧の陰で歴史は逆回転を始めていることを直視しないといけない。

 
 
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新川さんから連想した3人の女性①茨木のり子

2024年08月21日 | 日記
 新川和江さんの詩「わたしを束ねないで」、を読み返していた時、茨木のり子さんが浮かんできた。新川さんより3年早い1926(大正15)年に生まれているので10代の全てを戦時色の中で過ごした。
 わたしが一番きれいだったとき 


「個」の存在を際立たせている点では新川さんと共通するものがある。違いをボクシングで例えるなら新川さんはフットワークとパンチのコンビネーションで攻めるタイプに対して茨木さんはハードパンチ一発で倒すタイプ。
『自分の感受性くらい』は代表格だろう。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 自分の「感受性」を自分で守る、という考え方の根幹には、茨木さんの青春時代に通った戦争の経験があるように思う。「社会が一つの方向に進む時に個人が無批判に同調していく恐ろしさ」を身をもって体験したことで、自分の目で見る、自分の頭で考える、自分で感じていることを、なるべく素直に捉える、毒されないように守る、ということが大事だという思いが、「自分の感受性くらい 自分で守れ」という一節に込められている。

 茨木さんは2006年79歳で亡くなったが、この思いを一貫して持ち続けていたことが最晩年に書かれた『倚りかからず』からも分かる。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ


 私は、茨木さんの2つの詩に「寄りかかって」生きていくかな。

 


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新川和江さん亡くなる95歳

2024年08月20日 | 日記
 今日、夕刊を開いたら詩人の新川和江さが亡くなったことを報じる記事が目に飛び込んだ。誇り高く生きる意思を猛々しい言葉ではなく親しみやすい平易な響きで表現した「わたしを束ねないで」は心に残っている。訃報で母と同じ1929年(昭和4)生まれだったことを知り心がより動いた。

 大正末期から昭和1桁に生まれた方のバックボーンには多感な思春期に潜り抜けた「戦争」があるように思う。新川さんは4月22日、私の母は5月15日生まれである。戦争に関連する主な出来事と年齢を重ねてみるとそのことを強く感じる。

 1931年(2歳)満州事変⇒1932年(3歳)満州国建国、五・一五事件⇒1933年(4歳)国際連盟脱退⇒1936年(7歳)二・二六事件
 1937年(8歳)日中戦争⇒1941年(12歳)太平洋戦争⇒1945年(16歳)ポツダム宣言受諾⇒1946年(17歳)日本国憲法公布

 そのことを頭に置いて詩を読むと若い時に読んだ時とは違った響きが伝わって来る。

わたしを束ねないで

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,コンマや.ピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩


 
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ノシラン

2024年08月19日 | 日記
「そんなに欲しけりゃ 熨斗を付けてくれてやら!」は時代劇でよく聞いた啖呵である。古くは祝儀の進物に、方形の色紙を細長い六角形に折り、中に熨斗鮑(のしあわび)の小片またはそれに模した黄色い紙を貼ったものを添えていた。近年は熨斗と水引を印刷した熨斗紙が使われている。


 葉の葉脈が筋ばっていてその熨斗に似ていること、花がラン(蘭)の花に似ていることから名付けられたノシラン(熨斗蘭)が見頃である。名前にラン(蘭)と付くが、ラン科ではなくユリ科に属している多年草。
  

 また、花の茎がきし麺のように扁平で「麺棒でノシたような形」に見えることから名付けられたという説もある。私は、花茎が平べったいことが珍しいなあと思ったので後者の説の方がピンと来る。

 はるか南方海上に発生した台風によって、暑い湿った空気が流れ込み形容しがたい蒸し暑さの中、ノシランの清楚な姿が清涼感を与えてくれる。

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