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偉大な音楽家として知られるアマデウス・モーツァルトは、父親から才能を見出され、幼少期から音楽教育を受けました。神童と呼ばれ、3歳でチェンバロを弾き、最初に作曲をしたのは5歳のとき。その後も、誰もが知る数々の名曲を残すことになります。
ところが才能や人気とは裏腹に、高給な仕事には恵まれず、晩年は収入が減ることに。また私生活においては品行が悪く、ギャンブルを好み、浪費癖もありました(借金を申し入れる直筆の手紙が複数残されているのは有名な話です)。
その結果、35歳という若さで世を去ったのです。しかもモーツァルトと同様に浪費癖があり貧乏だった妻には葬儀も出してもらえなかったという話もあり、一般の人と同じ共同墓地に眠っているといいます。
一方、ジャコモ・プッチーニはといえば、モーツァルトに匹敵するほどずば抜けた才能があったわけではないかもしれません。
しかし大衆にわかりやすく「親しみやすい作品が特徴で、オペラ作曲家として人気を博しました。死に際しても葬式は国葬扱いとなり、イタリアでは国を挙げて喪に服し半旗が掲げられたそうです。
このふたりのそれぞれの「成功」を比べたとき、その基準が「音楽家としての、作曲家としての作品の質」という観点であれば、比べることそれ自体さえ無意味なほどの差がそこには存在するかもしれない。
ところが、その音楽性ではなく、その作品がもたらした経済的な「成功」という観点では、失礼ながらモーツァルトは格段に劣ると言わざるを得ない。プッチーニに圧倒的な軍配が上がるのだ。
あなたは歴史に名を残しながら、孤独と貧困の中で死んでいかざるを得なかったモーツァルトと、名声と巨万の富の中で生涯を終えるプッチーニと、どちらの人生を選択するだろうか。(「推薦のことば」より)略
なぜモーツァルトはお金持ちになれなかったのか
芸術家というものは下積み時代が長く、貧乏で当然だという考え方もあるでしょう。とはいえ、モーツァルトと同じ時代を生きた音楽家がみな貧しかったわけではありません。
もともと家が裕福だったり、芸術で成功していたり、さまざまなパターンがあったとはいえ、「芸術家でも裕福な者」は確実に存在していたわけです。
当時の音楽家は、宮廷や貴族、教会などに雇われ、雇い主の意向に沿って作曲をすることで生計を立てていました。それはモーツァルトも同じでしたが、雇い主と折り合いが悪くなったり、仕事が気に入らなかったりと、その仕事は長くは続きませんでした。
自分の意に沿わない曲をつくらなくてはならないことに不満を感じていた彼は、いまでいうフリーランスの音楽家として数々の傑作を生み出し、成功していきました。ところが充分な収入があったはずなのに、生活は貧しかったと言われています。
その理由は、彼と彼の妻の浪費癖。ギャンブルや高価な服を好んでいた彼らは、入ってきた収入のほとんどを使い切ってしまうことが多かったのです。
にもかかわらず、夜な夜な友だちと飲み歩き、飲み代のすべてをモーツァルトが支払うということを繰り返していたのだともいいます。
もうひとつ理由があります。
当時から、お金持ちになっていた多くの作曲家は、自曲についての権利(現在の著作権にあたるもの)を自ら管理し、その使用料で生計を立てていました。
しかしモーツァルトはそれをせず、曲をその都度切り売りしてはお金にしていたのです。なぜなら、権利を活用する必要など感じないほど豊富な作曲能力があったから。
だからこそ、他の作曲家のように権利の管理や活用をせずとも、次々と創作する曲の切り売りでやっていけたということ。そして、それで充分に食べていけたため、権利を利用する必要性に気づくことさえできなかったのです。
もし彼が権利で儲けることを考えていたとしたら、どんな使い方をしても使いきれないほど莫大な財を成していたに違いないと著者。
いいかえれば、長所は短所の裏返し(長所は短所をつくるもの)だということ。そしてこれこそが、モーツァルトがお金持ちになれなかった理由だということです
ずば抜けた才能はなくても、優雅な一生を送ったプッチーニ
一方、その約100年後に生まれたプッチーニは、音楽家の家庭に育ち、伝統ある音楽院で教育を受け続けたものの、子どものころは目立った音楽の才能を発揮することはありませんでした。
生活のため、オペラをつくってコンクールに応募するも落選。しかしリコルディ社という大手楽譜出版社に見初められて契約を結ぶことになります。
こうして作品の出版権はリコルディ社に帰属することになりますが、上映権料のような性質の「ギャラ」を受け取れるようになったため、生活が安定していったといいます。
もちろんプッチーニも、偉大な音楽家として現在もその名を轟かせている天才のひとり。しかしその才能は、モーツァルトとは比較にならないのも事実です。
もしプッチーニが曲の切り売りで生活していこうとしても、途端に創作が枯渇し、行き詰まることになっただろうということ。本人もそれをわかっていたからこそ、食いつないでいくための別の方法を探す必要があったということです。
つまり、モーツァルトがフリーランスの作曲家なら、リコルディ社に属していたプッチーニは、組織とうまく契約を結んだ作曲家。
安定した環境のなかでオペラのヒットを生み出し、経済的困窮を解決することができたということなのです。(28ページより)
歴史に名を残すも、貧乏音楽家で生涯を終えたモーツァルト
「貧乏モーツァルト」などというタイトルがつけられてはいるものの、モーツァルトはそこまで貧困にあえいでいたわけではないといいます。
当時の中産階級の年収が500万円程度だったのに対し、モーツァルトの年収は2000万円を超えていたというので、いまでいえば高収入のセレブだったと言えるかもしれません。
でも、クラシック音楽史に永遠に名を残す希代の音楽家の年収が2000万円だとすれば、それはあまりに少なすぎると言わざるを得ません。しかし、モーツァルトが生きていた時代のクラシック音楽の世界では、音楽家のマネタイズに関して、まったく異なるもうひとつの事実があったのも事実。
それこそ、モーツァルトが貧乏音楽家として生涯を終えざるを得なかった理由だと著者は推測しています。
そもそも芸術家とは生き方であり、職業ではないということです。先にも触れた通り、その芸術家の収入源は教会や王侯貴族のお抱え音楽家として給料をもらうこと。
しかしモーツァルトは、そんな束縛から解き放たれ、自由につくりたい曲をつくって収入を得るような人生を模索しはじめたひとりだったわけです。
王侯貴族の専属音楽家としての給料、演奏会の出演料、王侯貴族やその子弟へのレッスン料、パトロンたちからの寄付、そして作曲料で生計を立てていたと推測されますが、作品への評価とは異なり、モーツァルト自身の人間的評価は低かったといいます
オペラこそ金持ちプッチーニの最大の収入源
当時、プロフェッショナルの作曲家として成功するということは、オペラで成功を収める作曲家になることとされていたそうです。
それが、キリスト教会や王族・貴族の雇われ音楽家という地位から決別し、芸術家としての音楽家になるための条件だったということ。
いまでこそ著作権という概念が存在し、印税という報酬とともに楽曲が奏でられ、楽譜が売られていますが、19世紀以前の作曲家の収入といえば、自らの演奏料や出演料しかなかったわけです。
そんななか、唯一違っていたのがオペラ。映画もテレビもない時代において、演劇と打とうと音楽が融合し、豪華絢爛な衣装や舞台装置を背景にしたヒーローとヒロインの物語という、壮大な究極のエンタテインメントだったということ。
そして、そのオペラにかける膨大な費用、大劇場という舞台装置と観客席のための巨額の投資、そして、その成功を決定づける中心人物として作曲家は存在したのです。
しかし、「オペラ作曲家」という側面で見たとき、モーツァルトは成功を約束された天才オペラ作曲家ではありませんでした。
ところがプッチーニは、「マノン・レスコー」の成功を皮切りに、「ラ・ボエーム」「トスカ」「マダム・バタフライ」の3作によって人気イタリア・オペラ作曲家としての名声を確立したのでした。
プッチーニが、オペラが有する、音楽家としての多彩なマネタイズの方法、すなわち成功の黄金律に従ったのに対し、モーツァルトはそのオペラに背を向けたといっても過言ではないと著者は言います。
才能と成功は、同じ次元では存在しないということ。だからこそモーツァルトとプッチーニは、ある分野での天才性が、そのまま経済での成功に直結しないことをおしえてくれるというのです。(32ページより)
プッチーニのように自らの才能を知り、ビジネスにつなげた者だけが生き残る
プッチーニは、まっとうな音楽教育を受けてきたことにより才能が開花した努力型の音楽家。それゆえ自分の才能を理解していました。
そこで、モーツァルトのような曲の切り売りをしていくフロービジネスではなく、大きな企業に依存し、権利を活用するストックビジネスに切り替えたわけです。
実際のところ、才能のある人は事務的な手続きをあえてとって権利を管理し、当該権利を活用して自らを守り、安定した収入を得るなどという面倒なことを考えない場合が多いもの。
権利を取り、管理し、ときにはそれを得るのはむしろ逆の立場の人間。だからこそ、サラリーマンはサラリーマンという立場を活かし、組織に守られた自分の権利をしっかり主張するというのも賢い生き方だと著者は主張しています。
はっきり言ってモーツァルトは天才であり、それは疑いようのない事実である。むしろ、天才過ぎたと言ってもよい。
しかし、残念なことに、音楽の才能はあっても、ビジネスマンとしての商才はなかった。 プッチーニは自分をよく知り、どうすればその才能をマネタイズしていくことができるかを考えることができた。
ビジネスマンとしての才能と、音楽家としての才能の両方を持ち備えていたのである。(37ページより)
どちらがいいということではなく、それぞれに最適なやり方があり、それを見誤らないことが大切だというわけです。略