散歩者goo 

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昨日記150226木(日本自慢 自慢と誇り)

2015年02月27日 13時32分59秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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昨日午前中、SNSを見ていて日本人優秀論に関連するマスコミの最近の風潮に関した毎日新聞の記事に関しての論評が載っていたので、損記事を読んで私の考えをツイートした。
以前にも、同様の発言を発信したことがある。
マスコミでもよく使われる優秀な日本人・民族性といった言葉がそうである。
こうした考えは、白人優越論やナチの考えと同じであり、嫌韓、嫌中論やヘイトスピーチにも通じる問題でもある。

そもそも、日本文化には謙虚さということを美徳としていた。
相撲や柔道で、礼を尊びガッツポーズをすることは見苦しいとされ、敗者に対する敬意を払うのもその伝統の表れである。
私は幼いころ、なんでも自慢していたので、自慢しいと馬鹿にされたことがあった。
自慢ばかりする人は、周囲から嫌われる。
日本では、能ある鷹は爪隠すというのが理想とされ、自慢ばかりする人は、奥ゆかしさのない人と思われた。

自慢と誇りを持つことは違う。
自慢は他者に対し、優越感を強調して表現することであり、誇りは本人の心の在り方の問題で、他者は関係しないのである。
しかし、同じ誇りでも、エリート意識になると違ってくる。
エリート意識には、差別意識があり、自分は優れ者でその社会で他者は自分より下の者と見下す傾向があり、謙虚さを忘れていることが多い。
人にはいろんな分野の才能があり、エリートといってもその分野だけの才能がすぐれているのであって、全人格的に優れているのではない。
教師や研究者や芸術や経営者にたまにあるタイプだが、世間知らずで、自分の考えがすべての分野で正しいと思いこんでいる人もいるが、一分野で非常に優れていて誇りを持っていても、すべての分野や社会常識にたけているとは言えないのであるが、その分野の社会で奉られ尊重されると、ほかの分野や社会の中でも偉いと勘違いするのだ。

自慢は、差別化の中から発生するもので、それが通用する条件は、価値観を同じくするグループ内で競争することにより優劣が生じ、優越者がそれをひけらかすのである。
競争はどこにでもあり、必要でもあり、それに伴い軽い自慢は日常茶飯で起きる。
例えば味自慢や歌がうまい、と言った軽い個人的自慢は全く問題ない。
ただ、絵がうまいことを自慢しても、美術に興味のない人にとっては、どうでもいいことであるし、お金持ちであることを自慢しても、欲を持たないことを目指す禅僧にとっては、ばかげたことに見える。
即ち、違う価値観のグループに自慢しても効果は通じないのだ。

ところが、大きなグループ国家や民族の優秀さといった自慢は、そのグループの特性を表すことが多く、例えば、ある民族は生まれつき頭が良くてという議論は実証性もなく(後天的環境の影響が強い)、裏返せば他民族は劣るという根拠のない話になり、危険である。(ナチの思考形式と同根)

振り返って、最近ある飲み会で、私も大阪の南北問題として、どちらが文化的又はガラが悪いかということを面白おかしく話していて、差別の問題を指摘されたが、その時は気にも留めず自説を曲げなかったが、今思うとその指摘は正しかったと反省している。

そもそも優秀な研究とか業績は、後天的な環境で生まれている場合が多いのである。
日本人の研究者や芸術家が海外に渡って、業績を上げるのもそうした例だし、海外の人が来日して日本で研究成果を上げるのも同じで、研究環境が成果を出すように育てているのである。
同様に、モンゴルの人に上位力士が多いのも、モンゴルの幼い時の環境が相撲に耐える精神や肉体の素質を育てたのが、原因だと思っている。
人間は、風土文化を含む環境と教育で、いかようにも変わることが出来るのだと思う。
個人レベルでは、遺伝により、様々な分野への得意不得意の傾向があることは、科学的に知られているが、後天的環境の影響のほうが、はるかに強いともいわれているし、経験的にもそう思っている。

午後からは、昨日記を書いたり、レシートの記帳をしたり、雨がほぼ上がったので出金を兼ねてファストフードにお茶を飲みに行った。


上記話は、ほぼエッセイになったので整理して後日昨日記から移動するかもしれない。
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スーパーの閉店の仕方

2015年02月27日 11時09分24秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
このスーパーは、私の自炊の暮らしを支える主要スーパーの中心でもあった。
新聞には、売り尽くしセールのチラシも入っていたので、そのスーパーには多くの客が来ていた。
ここ2週間の店内放送では、お客に対しての感謝の言葉も繰り返し流されていた。

今日は最終日なので、閉店謝恩セールに近いことでもあるのかと思っていた。
このスーパー府下に多くの店舗を展開している中堅スーパーなので、当然そのようなことは期待していた。

ところが先程行ってみると、多くの棚は前日通り空っぽで、謝恩セールの雰囲気は全くない。
価格も普段と変わらず、目玉商品全くない。
それどころか、私がいつも購入していたこのスーパーのオリジナル商品の多くがない。
1か月ぐらい前から、人気商品やオリジナル商品は、在庫売り切りの形にして補充はしていなかったようだ。

このスーパーの考え方は、収益のよい店に経営資源を集中し、収益が悪い店はあっさり切り捨てるという方針なのだろう。
経営的にはその判断は正しいだろう。

しかし、切り捨て方にも方法がある。
その方法を誤ると、企業のイメージが悪くなる。
多くの企業は、ブランディング化のために多額の費用を掛け、評判を良くし知名度を上げようとする。

日本では、顧客との関係に気を配り、信頼関係を大切にする。
また、何十年も営業してきた店に関しては、ある意味その地域との関係性もあり、社会インフラの一つとして公共性も持っている。
この地域の消費者は、閉店するスーパーに対しある程度親しみを持っていたはずである。
その意味で、顧客の心情を考えると、惜しまれて閉店できるような閉店セールをすることが望ましく、さらに望むなら、ある程度品ぞろえしての閉店セール程度はやってほしかった。
そうしたことが、企業イメージのアップにつながると考えられるが、今回の閉店の仕方は自社の都合優先のハードランディングで、消費者から見れば、このスーパーのイメージをかなり損なうものだったのかもしれない。

今日は、閉店時間が近づくと売れ残りの商品を大幅値下げして、放置すると廃棄処分にしなければならない商品を捨て値で売る可能性はある。
(それ以前に、日常必要と思われる商品の多くはすでになく、多くの棚も空である。)

結局、先程買い物に行って、日常よく消費する商品の棚は空だったのと、特価商品はなかったので、何も買わずに帰ってきた。
その結果、少なくとも、私の中では、このスーパーに対する評価は、それまで以上に低くなったことは事実だ。
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