あきらめるの語源は「明らかに極める」で、真実を極めて明らかにすることである。すわなち、やるだけのことをやったがダメだったのでしょうがないということである。「真実を明らかにしたら、執着心は薄れる」ということである。
*柏木哲夫*
おそらく、死ぬということ自体が、人にとってのあきらめなのかもしれません。
これほど、人にとって残念なことはありませんから…。
死ぬまでにも、たくさんのあきらめ、つまり自分からいろいろなものが奪われていく経験を積み重ねなくてはなりません。
人の役に立つこと、人に「迷惑」をかけないこと…、人に認められること、人とつながっていること…、手に入れたいものを手に入れられること…。
これらが失われることが、生きていても死んでいるような感覚を持たせるのだと思います。
また、失ってしまったと思う「もの」や「程度」は人それぞれで、その人が失ってしまったという感覚は、他人がその程度を何かと比較することは何の意味もないものと思われます。
さて。
私たち、医療者は、そんなつらい思いをされている方々に、何ができるのでしょうか。
ひとつ、思うのは、医療者だからといって、こうあらねばならない、こうしてあげるべきだ、という自分の価値観は「横においておく」ことも必要なのではないかと思います。
看護師は、特に、何かをしてあげてるという感覚がないと、自分の役割を果たせていないのではないかと不安に思う人種です。
何もなす術がない時もあること、看護師自身が、自分自身が、誰かに何かをして「あげられる」ことには限界があるということは認識しなくてはならないのではないかと思います。
押しつけもよくないし、行き届かないのもよくない。
「見守る」という言葉はありますが、苦しんでおられる方への「見守り」は緻密な匙加減が求められます。
患者さんの様子や思いをくみ取ったなら、何もできないことになるかもしれないけど、何もできないと思われがちな「見守る」ことこそが、患者さんにできることということもあります。
ひょっとしたら。
執着心を持っているのは、もっと生きていたいと思っている患者さんよりも、「もっと生きてもらえるようなケアをしないといけない」と思っている私たちの方かもしれない…、と思う時がしばしばあります。
患者さんにとって、息苦しいことが、私たちの価値観にあるのなら、それは考え直すべきことだと思います。
自分たちの価値観が、患者さんを息苦しくさせてしまったとしても、それに気づいて方向転換を試みることができれば、それはそれで、「ケア」としての価値があると思います。
医療者にとっても思い込みは、残念ながら、避けられないことかもしれません。
でも、
自分の考えや解釈は本当にこれでいいのだろうか…と、常に患者さんと対話する姿勢があるのなら、思い込みが避けられないとしても、思いこんだまま患者さんを苦しめるということは避けられると思います。
患者さんと、話をしよう。
患者さんの思いを理解できるように試みてみよう。
それが医療職に求められていることだと思います。
あ。
ちょっと、柏木先生がおっしゃっていることと、ずれちゃいましたね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます