症状というのは、主観的なもの。
確かに、つらそうだな、というものは、外見や画像でみえるには、みえる。
だけど、客観的なものが示すものがその人にとっての、つらい症状のすべてではないことは、緩和ケアをやっていると容易くわかります。
患者さんにとっての、症状のつらさ。
その人が苦しんでいる症状そのものを、コピーしたかのように、100%そのままで、理解することは、その人ではない以上、無理なことだと思います。
だからといって、理解できない、と諦めてしまうことは、ケアに携わる者にとっては、ご法度。
今日、ふと、思いました。
その人の、苦しい症状を。
たとえば。
10秒ルールで、そばにいる人が経験または体感できる何か、システムいや、人間の機能があれがいいのに…、と。
経験または体感できるのは、感覚のこと。
患者さんとそっくりそのまま経験してしまうと、10秒でもえらいことになる可能性があるから。
さて。果たして、こんなシステムが人間にあるとして、経験したくない人もいるだろうに。
その時には、経験させてもらう側が選択できるとして。
そうしたら、今の医療や緩和ケアはもっと、もっと、患者さんのニーズにお応えすることができるのかしら…。
おそらく。
答えは、No!でしょうなー。
自分が、相手が経験していることそのものを経験していなくても、相手のことを気遣って、または文献や先駆者さんたちがどう言っているのか、などをいろいろ加味して、相手の経験を理解しようとし続けることが大切だからでしょうなー。
ひょっとしたら、患者さんの感覚そのものを、経験できても、残念な医療者なら、「そんなはずはない」と判断してしまうかもしれない…。
子宮がんや卵巣がんの患者さんの気持ちは、男性には全く分からない。
前立腺がんなどの患者さんの気持ちは、女性には全く分からない。
そんなことはないはず…。
私は、患者さんのつらさを、どんな感じだろう?と本気で同じ感覚に置かれてみたいと、個人的な興味範囲で思うことがあります。
もちろん、それがないと、ケアできないということはありません。
本当につらそうにしている、または、つらいと判断できるけど、ケロッとしている患者さんをみていると、同じ感覚をもらえないかな?と思うことがある…。
あまりにも簡単に、自分以外の人のことを理解できることが、もともとの人間の機能に備わっていると、人間の他者に対する思いやりって、意味がなくなるのかもしれません。
過不足なく、相手を思いやったりお手伝いをしたりすることは、本当は不可能かもしれません。
でも、過不足があったら、もう一度考え直して、またやってみる。
そんなやり取りが、医療または看護に必要とされているのだと思います。
それが、対象が「人間」である、医療または看護の定めだと思います。
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