〽空の広さを~ 雲の行くヘを~ 知り~た~い~
(1)きのうまでの「2つの私的所有」の違いをわかっていただけましたか。
「自分の労働に基づく私的所有」で成り立っている経済社会のままでは、近代資本主義経済社会は成り立たちません。ですから、開拓時代の、初期のアメリカでは、雇われる人を作り出すために、ヨーロッパから来た移住者をすぐには西部に行かせまいとする政策が唱えられたりしたわけです。
もちろん、「自分の労働に基づく私的所有」=小経営(個人経営)は現在も存在していて、たとえば、町の商店などはいまも重要な役割を果たしていますし、農業なども、「農家」というように小規模経営で、アメリアのような大規模資本主義経営ほとんどありません。
しかし、社会経済の主要部分からは淘汰されて無くなり、経済の中心には自動車・鉄鋼・金融などののように大経営=「他人の労働に基づく私的(資本主義的)所有」が座っています。
(2)繰り返すと、歴史的には「前者」の墳墓の上に「後者」が築かれました。
ヨーロッパでは、15・6世紀から徐々に本源的蓄積のその動きが始まり、1800年頃の産業革命を経て本格的な大規模経営としての資本主義になりました。
日本では、明治15年頃の松方財政でとられたデフレ財政政策からその動きが始まり、明治期を経て大規模経営の資本主義が出来上がりました。
小さくてもシック
(3)この場合、大事なことは、この転換が一度におこなわれたのではなく、資本主義(=大規模経営)への動きが、小規模経営を淘汰してきたということです。
ちょっと、最近の例をあげますと、歴史的時期も条件も違いますが、似た例として、コンビニができたり、スーパーやデパートができると小さな商店が、お客を奪われてしまうために廃業に追い込まれるということがあります。
なにが言いたいかというと、同じ私的所有でも、2つの私的所有は敵対していて、前者=「自分の労働にもとずく私的所有」は、後者=「他人の労働に基づく私的所有」によって否定される、後者は前者を否定して成り立ってくるということです。
これは大事なことです。
よく「社会主義が私的所有を否定する」という事が言われますが、それよりも前に、実は資本主義こそが私的所有を否定して成り立ってくるということです。「大規模経営である資本主義的私的所有」は、「小規模経営である私的所有」を否定して成り立ってきたということです。
(4)つまり、社会主義が私的所有を否定するよりも前に、資本主義が私的所有を否定して成り立ってくるということです。
ところが、いまの日本や世界のように、資本主義自体が自らの存在を疑問視させるような事態を引き起こしてきています。自分で自分を否定する材料を作り出してしまっています。だから、改革とか変革とかが言われるようになるわけです。
アジサイの上に見えるのは蝋梅の実
(5)前に、生は死を射程に入れる・・・といいました。
これは、ここでは、資本主義の始まり(出生)は資本主義の終わり(死)を射程に入れる(入れている)・・・ということです。しかし、どう終わるかも、終わった後の社会も、なにか決まっているわけではありません。それを決めるのは現代に生きる我々だということです。
最近は、意見を言う人が増えました。苦痛を苦痛とはっきり訴える人が増えました。いままで、そういう人が少なかったですね。だから、いまのような世界や社会になっているんですね。
たぶん、生命体だって、出生・成長・老化そして死と、淡々と経過しているのではないのだと思います。わかってないだけだと思います。人間の社会のように、あっちに傾き、こっちに動揺し、そのうち、温暖化みたいににっちもさっちもいかなくなって終っていくことになっているのだろうと思います。
(6)違うのは、そして、大事なのは、生命体は死んで滅びますが、人間の社会は死んでなくなるわけではないということです。
生命体の死は、それ一個の上に起こる不幸ということになります。しかし、社会や世界は行き詰っても死んで滅び去るわけではありません。
いうまでもなく、「人間社会そのもの」を終わらせるわけにはいきません。終わらせるのは「行き詰った社会経済の仕組み」です。
行き詰った人間社会をより良いものにする、それは、武器輸出して利潤を上げようとするような利潤一辺倒の資本にはできません。できるのは、勤労者・国民です。
また、頑張りすぎました。では。
ようやく今年も咲きました
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