「化石山」という児童小説は、私にとって特別なものとなりました。
ノンフィクションの部分を交えたフィクション。フィクションの中に真実を見つけるべき小説
大人になって改めて読み、また違ったテーマを突きつけてきた本でした。
私の両親は戦争時、父は静岡の西部、工業地帯の街。母は岐阜県東濃の田舎で(化石山の舞台からは離れています)それぞれ少年少女時代を過ごしていました。
親二人にして、戦争体験が結構違うのです。
父の地方ではしょっちゅう空襲があり、以前書いたこともありましたが避難時にすぐ背後でクラスメイトが爆弾で吹っ飛ぶような体験をしており
そのくせ生き延びて戦後を迎えると、典型的なギブミーチョコレート風景を見てきたそうです。もっとも父の家は八百屋だったので食料は何とかなっていたそうですが。
対する母は、ひもじいながらも戦災とは無縁な地域。疎開で人は多かったけど幼かったので詳しいことまでは知らず。
空襲の避難訓練はしたものの、一度も空襲はなく、農家中心の地域で「ひもじい」とは言ってもたかが知れていたとのこと。
水木しげるさんのコミックエッセイ「従軍慰安婦」など見ると、彼らの生々しい体験が伝わってきます。
威張っていて殴り続けてくる上等兵も、同じ人間として淡々とつづっています。
これも間違いないのでしょう。
しかし、地方によっては、また立場によっては、それほど劣悪でない戦地で過ごした「戦争体験者」もいたでしょう
後の世になって世の中に発言権を持つようになった人の中には、偏見もあるかもしれませんが、そっち方面の「戦時」を体験していて、
「強制連行された従軍慰安婦などなかった、本人たちが志願しただけだ」「ありゃ売春婦だった」という人も多いと思われます。
でも、水木さんのような現場を体験した人も当然いたわけで。
要は、一言で戦争体験と言っても、実は本当に多様だったということです。
全部が本当とは言えないし、全部が嘘ともいえない。
「化石山」での事実は悲惨で、「日中不再戦の碑」というものが今瑞浪インター近くの化石山一角に立っていて、毎年9月には慰霊の行事が行われています。
しかし厳密には「日中韓」かな?とも思ったりしますが、当時は日本の支配下でしたから…
それでもここでの悲劇は半年と続いていませんでした。
わずか半年間の「立ち入り禁止区内のできごと」でありながら、その惨状は地域の人にも察することができたらしく、こっそり芋を差し入れに行った同地区住民の記録も残っています。
もちろん当時としては「叱られた」事案としての記録でしたが。
きっとほかの地区では、それ以上の長い期間、惨劇が繰り返された地域もあったのだと思います。
なんという悲しい現実
私たちが「直視すべき」戦争の一面であります。
しかし私が「化石山」で感じたことは、「戦争は悪い、日本人はひどいことをした」「反省をしなさい」「戦争など決してしてはいけない」などという
薄っぺらいキャンペーンメッセージとは、何かが違っていたのです。
私が感じたのは、「もっと学べ」でした。
罪を知りつつも、我々は立ち止まるべきではない。多様な戦争の要素をもっとつまびらかにしつつ、相手の痛みを知る人間になること。
そして次の世代には、恨みではなく、希望を引き継いでいくのだ。と。
「化石山」は、昭和47年(日中国交再会、沖縄復帰の年です)、間もなく中央道瑞浪インターが完成し、
この悲惨な山の工事で取れた膨大な化石から、「化石博物館」がもうすぐできるんだ、そしてこのあたりは、市民の憩いの公園として生まれ変わっていくんだよ、という
会話で締めくくっています。
あれから40年。
まさに予言されたとおりの風景が、今その現場に広まっています。
しかし現在、いびつな財団による広報活動によって、印象操作を伴った、妙な「戦争の時代、歴史を直視せよ」運動が起こっています。
韓国の少女像など、その最たる例です。
知らなければいけません。「それがすべてではない」「それを全てにしてはいけない」「その反対もすべてにしてはいけない」「その向こうに何を望むのか」
化石山で生き延びた外国の方々は教えてくれました。地元を「お礼をしながら」回った後帰国したというのです。
私たちは、人間としてつながっているということです。
ノンフィクションの部分を交えたフィクション。フィクションの中に真実を見つけるべき小説
大人になって改めて読み、また違ったテーマを突きつけてきた本でした。
私の両親は戦争時、父は静岡の西部、工業地帯の街。母は岐阜県東濃の田舎で(化石山の舞台からは離れています)それぞれ少年少女時代を過ごしていました。
親二人にして、戦争体験が結構違うのです。
父の地方ではしょっちゅう空襲があり、以前書いたこともありましたが避難時にすぐ背後でクラスメイトが爆弾で吹っ飛ぶような体験をしており
そのくせ生き延びて戦後を迎えると、典型的なギブミーチョコレート風景を見てきたそうです。もっとも父の家は八百屋だったので食料は何とかなっていたそうですが。
対する母は、ひもじいながらも戦災とは無縁な地域。疎開で人は多かったけど幼かったので詳しいことまでは知らず。
空襲の避難訓練はしたものの、一度も空襲はなく、農家中心の地域で「ひもじい」とは言ってもたかが知れていたとのこと。
水木しげるさんのコミックエッセイ「従軍慰安婦」など見ると、彼らの生々しい体験が伝わってきます。
威張っていて殴り続けてくる上等兵も、同じ人間として淡々とつづっています。
これも間違いないのでしょう。
しかし、地方によっては、また立場によっては、それほど劣悪でない戦地で過ごした「戦争体験者」もいたでしょう
後の世になって世の中に発言権を持つようになった人の中には、偏見もあるかもしれませんが、そっち方面の「戦時」を体験していて、
「強制連行された従軍慰安婦などなかった、本人たちが志願しただけだ」「ありゃ売春婦だった」という人も多いと思われます。
でも、水木さんのような現場を体験した人も当然いたわけで。
要は、一言で戦争体験と言っても、実は本当に多様だったということです。
全部が本当とは言えないし、全部が嘘ともいえない。
「化石山」での事実は悲惨で、「日中不再戦の碑」というものが今瑞浪インター近くの化石山一角に立っていて、毎年9月には慰霊の行事が行われています。
しかし厳密には「日中韓」かな?とも思ったりしますが、当時は日本の支配下でしたから…
それでもここでの悲劇は半年と続いていませんでした。
わずか半年間の「立ち入り禁止区内のできごと」でありながら、その惨状は地域の人にも察することができたらしく、こっそり芋を差し入れに行った同地区住民の記録も残っています。
もちろん当時としては「叱られた」事案としての記録でしたが。
きっとほかの地区では、それ以上の長い期間、惨劇が繰り返された地域もあったのだと思います。
なんという悲しい現実
私たちが「直視すべき」戦争の一面であります。
しかし私が「化石山」で感じたことは、「戦争は悪い、日本人はひどいことをした」「反省をしなさい」「戦争など決してしてはいけない」などという
薄っぺらいキャンペーンメッセージとは、何かが違っていたのです。
私が感じたのは、「もっと学べ」でした。
罪を知りつつも、我々は立ち止まるべきではない。多様な戦争の要素をもっとつまびらかにしつつ、相手の痛みを知る人間になること。
そして次の世代には、恨みではなく、希望を引き継いでいくのだ。と。
「化石山」は、昭和47年(日中国交再会、沖縄復帰の年です)、間もなく中央道瑞浪インターが完成し、
この悲惨な山の工事で取れた膨大な化石から、「化石博物館」がもうすぐできるんだ、そしてこのあたりは、市民の憩いの公園として生まれ変わっていくんだよ、という
会話で締めくくっています。
あれから40年。
まさに予言されたとおりの風景が、今その現場に広まっています。
しかし現在、いびつな財団による広報活動によって、印象操作を伴った、妙な「戦争の時代、歴史を直視せよ」運動が起こっています。
韓国の少女像など、その最たる例です。
知らなければいけません。「それがすべてではない」「それを全てにしてはいけない」「その反対もすべてにしてはいけない」「その向こうに何を望むのか」
化石山で生き延びた外国の方々は教えてくれました。地元を「お礼をしながら」回った後帰国したというのです。
私たちは、人間としてつながっているということです。
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