“私は何ごとによらず注意深い人は好きではない。趣味とか、お金を若い人たちにかけることを怖れるような人々がどちらかといえば嫌いだ。1910年代にピカソの絵を買ったり、1785年にルイ16世の椅子を買ったりするのがほんとうに目のきく、賞賛に値する行為なのである。同じように料理人の仕事も、若いうちにこの人は、と思う料理人にいれあげる情熱が真の美食の道につながると信じて疑わない”とナオミ・バリーという人がいっていたと辻静雄さんが紹介しています。
そんな他者に対する関わり方全般の話で思い出しましたが.....
今週の硬い話続きついでに、ちょっと伝わり難いかもしれない抽象的な話。
着こなしの良さで知られるようなイタリア人に会うと、ほんの短い時間で相手のテイストを嗅ぎ分けて、趣味が合いそうかちょっと難しそうか、お互いに判定しているようなところがあります。
靴の趣味、シャツの選択、ラペルその他とノットのバランス、全体、ときりがありませんが視線が忙しく這いまわります。
もっとレベルが上がると、その日相手がさほどのカッコに見えなくても部分的なテイストから相手のレベルを推量するような感じもあります。
チョンマゲのある時代なら「推参な!」と言われそうです。
利害関係を抜きに、相手を認めて親愛の情を示したり、その着こなしの良さを称えるのも解かってこそなので、まず解からないことには始まらないかも知れません。
そんな他者に対する関わり方全般の話で思い出しましたが.....
今週の硬い話続きついでに、ちょっと伝わり難いかもしれない抽象的な話。
着こなしの良さで知られるようなイタリア人に会うと、ほんの短い時間で相手のテイストを嗅ぎ分けて、趣味が合いそうかちょっと難しそうか、お互いに判定しているようなところがあります。
靴の趣味、シャツの選択、ラペルその他とノットのバランス、全体、ときりがありませんが視線が忙しく這いまわります。
もっとレベルが上がると、その日相手がさほどのカッコに見えなくても部分的なテイストから相手のレベルを推量するような感じもあります。
チョンマゲのある時代なら「推参な!」と言われそうです。
利害関係を抜きに、相手を認めて親愛の情を示したり、その着こなしの良さを称えるのも解かってこそなので、まず解からないことには始まらないかも知れません。