今の大人も子供も、どうしてああも飴玉がすきなのだろうか。
例えば、電車の中で飴をグループみんなに配りまくるおばさん達。授業中にこ
っそり飴をほおばる女子高生。会社でさえも、各課ごとに小さなキャンディーポ
ットが置いてあって、そこにはつねに色とりどりの飴玉がぎっしりと詰まってい
たりする。
私の両親も外出の際には、必ず飴玉をポケットに幾つか忍ばせることを忘れな
い。コンビにやスーパーには、人々の飴好きを証明するかのように、多くの
種類の飴が所狭しと並んでいる。
けれども、私はその多くの飴の味を知らない。私は、飴があまり好きではないの
だ。だいたい私は”ながら食べ”という行為自体が好きではないし、特にあの飴玉
の甘ったるさを、お口の友にする気になんてなれない。
それに飴を食べた後には、なんだか頬の内側に砂糖粒がプチプチと残っている
ような感覚があって、落ち着かないのだ。
飴の甘さが嫌いな私は、実は他人に対しても甘くなれないような気がする。
母親曰く「あんたは他人にも自分にも厳しすぎる」。思い返してみると、私は思春
期を過ぎた辺りから、親からアメを貰うことが少なく、ムチばかり貰っていたよう
な気がする。
その為か、現在では両親のことをかなりクールに、かつ客観的に観察する癖が
ついてしまった。
親にしてみれば、いわゆる「愛のムチ」であって、批判は心外のようだが、今と
なっては仕方がない。味わっていない甘さを人に伝えるのは困難なことだ。
人のことを思いやる時、徹底的に甘やかす人と突き放す人がいるとしたら、私
は後者のほうだろう。そのやり方の一番の被害者は、私の周りの男達だろうと
思うのだが、彼らは私の親ゆずりの「愛のムチ」をたくさん受け止め、確実に強さ
を増してゆく。甘いだけがアメでも痛いだけがムチなわけでもない。
甘い暴力的なアメや、痛くて甘い?ムチがあっても変じゃない。
例えば、電車の中で飴をグループみんなに配りまくるおばさん達。授業中にこ
っそり飴をほおばる女子高生。会社でさえも、各課ごとに小さなキャンディーポ
ットが置いてあって、そこにはつねに色とりどりの飴玉がぎっしりと詰まってい
たりする。
私の両親も外出の際には、必ず飴玉をポケットに幾つか忍ばせることを忘れな
い。コンビにやスーパーには、人々の飴好きを証明するかのように、多くの
種類の飴が所狭しと並んでいる。
けれども、私はその多くの飴の味を知らない。私は、飴があまり好きではないの
だ。だいたい私は”ながら食べ”という行為自体が好きではないし、特にあの飴玉
の甘ったるさを、お口の友にする気になんてなれない。
それに飴を食べた後には、なんだか頬の内側に砂糖粒がプチプチと残っている
ような感覚があって、落ち着かないのだ。
飴の甘さが嫌いな私は、実は他人に対しても甘くなれないような気がする。
母親曰く「あんたは他人にも自分にも厳しすぎる」。思い返してみると、私は思春
期を過ぎた辺りから、親からアメを貰うことが少なく、ムチばかり貰っていたよう
な気がする。
その為か、現在では両親のことをかなりクールに、かつ客観的に観察する癖が
ついてしまった。
親にしてみれば、いわゆる「愛のムチ」であって、批判は心外のようだが、今と
なっては仕方がない。味わっていない甘さを人に伝えるのは困難なことだ。
人のことを思いやる時、徹底的に甘やかす人と突き放す人がいるとしたら、私
は後者のほうだろう。そのやり方の一番の被害者は、私の周りの男達だろうと
思うのだが、彼らは私の親ゆずりの「愛のムチ」をたくさん受け止め、確実に強さ
を増してゆく。甘いだけがアメでも痛いだけがムチなわけでもない。
甘い暴力的なアメや、痛くて甘い?ムチがあっても変じゃない。