土曜,日曜と学会へ参加する.
色々批評したいが,ブログでは受け取り方が様々となるので,
直接的に対話から進歩を目指し,
お互いに成長していきたい.
この学会は私の心理的媒介道具である.
過去,現在,未来を感覚情報処理系に基づき比べ,
自己のシンボルファイルを増加させ,
新しい思考を生み出すよう,次の10年に向けて出発したい.
患者に話す,患者を指導するから,
患者と話す,そして,患者の脳を改変するのみでなく,
セラピストの脳(自己の脳)も脳間操作系にもとづき改変させていく.
ここが,物語医療(ナラティブ)やカウンセリングと違う視点である.
カウンセリングは患者の話を聴くであり,
対処方法は結局はその情報をある枠組みに落とし込むという手法にすぎない.
いわゆる要素還元的になってしまう.
見方を180度変えるためには
自らの思考を変えないとならない.
新しい思考を生み出し,それに向かう「コペルニクス的転回」となるよう,
20歳代の連中がそのムーブを起こしてもらいたい.
自身の30歳代はもう難しい.
みんな若くして,役がついてしまった.
マグマのような噴火にはならないであろう.
現代のコペルニクスよ.
ガリレオのように巨大な「志向・組織」に屈するな!
主観と客観を行き来せよ!
信念・理論を持て!
他人のデータに屈せず,自らの論理・思考を鍛えよ!
さて,私の緑本の評価が他の領域の研究室での評価が上がっている.
うれしい限りであるが2005年の作品であり,
私には古さを感じる.
ただ,その肯定的評価をある研究者が有名医師(研究者)に
言ったところ,その著者(私)は「認知かぶれ」だろ!と言ったらしい.
あなただって「・・かぶれ」でしょう?
という感情的論議は,ここではしない.
内容を見ず,その思考や論理,そして志向性を見ず,
ただ,先入観のみでそのような評価をする方は,
無意識のうちに人種差別に匹敵する言動を起こしている.
いくら質感ある著作を出しても,
その著者の背景が○人であれば,○卒であれば,あの人は○○法だから,
よくないというのに同じである.
あるいは,それは医師からみれば,セラピストのレベルの話だから,というのにも通じる.
脳外科からみれば,リハ医だからにも通じる・・・
研究者同士はいつも開門しているし,ボーダレスであるし,階層はない.
古典的な方にもそれは通じる.
古典的というものも時代のファッションなのだから.
それを強調している人もこれまた「原理主義」者である.
人間は人間を評価できない.
評価できるのはその作品・論文である.
その背景,学校,ソサエティーに基づいた人を酷評できるはずがない.
この事実は,リハビリテーションの世界がEBMだの言いながら,
いまだに科学というものを知らない者が多いというの露呈したと思う.
僕としては,そこまで医師の「情動」を喚起したことに喜びをもつ.
人は無意識に自分の主張が侵されそうだと予測すれば,
それに対して意識的に防御し始める.
人間はどうして自分の履歴を守りたいのだろう!?
本質を求める旅に出ようとしないのだろう?!
僕が学位を保健学でなく,医学にしたのも,
こうしたくだらん批評を封印するためでもあったし,
僕がRCT研究を雑誌に出しているのも,
こうしたくだらん科学感が蔓延しないようにするためでもある.
こんなところでこんな表現はしたくなかったが,
20歳代の者がそういう人種差別(セラピスト差別や,志向性を止めてしまう)を受けても強い精神をもつよう,敢えて,このブログで書かせていただいた.
私は,自分を肯定するために用いる論理のない批評には真っ向勝負するが,
論理のある批評には謙虚に受け止め,自己を修正する方向に向かわせる.
それが学習であることを,学んでいるから.
今回の総会で日本認知運動療法研究会から日本認知神経リハビリテーション学会へと変更され4月から定款が変わる.
人間をトータルで見る医療・リハビリテーションとは何かを考えていきたい.
一昨日,腰痛が激しくなり,レセプションも早々に抜け,
昨日も同じように,懇親会に出ず,帰宅した.
今日は痛みのなか,明日の授業資料をつくり,
共同研究者の抄録を添削し,
そして,今から和歌山に実習訪問に出かける.
めまぐるしく身体が空間・時間を移動していく.
忙しいということは,自己の脳の中だけで生きられないので,
妄想をしなくて済む.