昨日は和歌山にある愛徳医療福祉センターへ。
整肢園のトップのPTは高知時代の同級生の林である。
学生も「楽しいです!」とうれしそうだ。
対象者である子供へのまなざしもよい。
1期目では若いセラピストにこてんぱにやられたという。
24~5歳の指導者は、自らに余裕がないために、
そのような行動になる。
「エビデンスは?」「文献は?」と。
自分のセラピーに心のエビデンスを持てないと
どうしても、そのように他人の力を借りないといけない。
目の前の対象者に向けられるはずの視点が
いつのまにか、全体論、すなわち障害に向けられる。
子供の経験とは、そのような関係では作れない。
未熟児で生まれ、発達障害をきたした子供たち。
従来型、定義型のPTでは無力であることを学生は感じたという。
そこにはROMやMMTの世界は存在しない。
四肢麻痺の10代の女の子、いわゆる評価をすると、
何々筋の筋力低下や、どこの関節の可動域制限、
どこの筋のトーヌス低下などなど。。。
それを集めれば、その子になるのか???
ICFに変更されたとはいえ、いまだに評価スタイルは、
外から観察し、そしてその分析を外のみで行う。
その子どものポジティブな要素、
すなわち、こういう介・かかわりをすれば、このように表情が変わるとか、視線が向けられるとか・・・そういうポジティブ、使える要素を全く知ろうとしない、現在のアプローチは子どものリハビリテーションにはとても無力だし、
これは子どもだけでなく、すべての対象者にも同じことである。
意図をどのように引き出すか。
これはやる気をいっているのではない。
環境から意図性を生み出し、そしてその意図から行為をつくる。
「経験を構築」させるよう、セラピストは共有関係をつくり、一つの環境となる。
成人の回復期のPTは、
このような10年もその体で生きている、つまり定型発達を知らない、つまり、その外から見れば障害としてとらえられるが、
「それが私の見ている世界」、すなわち、障害世界ではない、というものにどのように関わるだろうか。
おそらく、手も足も出ないであろう。
子供は難しいとか、よく知らないとか、適応外とかと責任を転嫁するだろう。
ということは、回復期における回復は、セラピストの技術での回復でないかもしれない。
誰でもよかったのである。
「まっすぐ」の概念がない、「軽く」とかの概念がない、「もうちょっと」という概念がない、「もっと伸ばして」という概念がない子供たちに、そのような言語的指導・誘導アプローチは無力だ。
そういう言葉と身体の経験を構築しているのが発達だし、
そのことを知らずに紋切り型の教育しか受けてないPTは何もできない。
その教育が続く限り、PTのバイアスがかかり、
別の視点から見れないと、結局は、子供のリハは20年後も同じことが展開されているであろう。
よくなるのは技術開発に伴う周辺組織・環境だけであろう。
BMIもその一つである。
セラピストの力であるはずがない。
そう嘆いてもはじまらない。
一人の女子学生が、子供のリハを体験することで、
今までの自分の事象の見方が、なんて狭い範囲であったのかを知ることができた。
そして今年の卒業生もそのようなことをメールで言ってくれた。
「働き始めてからPhysicalTherapistの役割を考えることが多く、こども達にPTとして何が出来るかを考えた時、定義のままのPTでは限界を感じたり、でもPTらしいことをしないと、ともやもやがありました。今日もお話されていたみたいに先生のblogでのLifeTherapistのような話に、私の考え方も拡がりました。気付かせてくださる先生に出会えて本当にラッキーだと思います。また先生の授業を受けたいと思ってしまいます。」
体のことを知っていることは必要である。
しかし、それ以外の知識を知り、ものの見方を多様にする。
「身体」というもの、それは視点を変えれば、全然違った見方ができる。
私は10年後もエビデンスの名の下、子供たちの治療が
曲げたり、伸ばしたり、力を入れてろ指示したり、同じことがされている「不安」を感じている。
「力をどのように入れてわからない」人に、「もっと力を入れて」という指導は、
「どのように勉強したらわからない」人に、「もっと勉強しなさい」という指導である。
「どのようにしたら足が右に向くかわからない」人に、「このようの出しなさいとセラピストの手で強制する」指導は、
「どのように試験にのぞんだらいいかわからない」人に、「私がかわりに試験をとく」というカンニング的かかわりに近い。
キヨハラのからだでなく、イチローのからだ
アメリカンバレエでなく、ロシアバレエへ
知らないうちの「負のスパイラル」へと向かう。
トレーナーは重要である。
この比喩がわかるかな?
「経験を共に構築する」セラピスト―患者の関係はともに成長していくことで、
行為を生み出していく。
先日の学会での山田キクコさんの最後の言葉を引用したい。
「セラピストはUSNの私に左側から聴覚刺激を与え、左側の身体に刺激をして、もっとこっちを向いてください、とばかり刺激を入れて指示する。刺激ばかりである。私は、そっちの世界が不快だし、左側に立たれるだけで、そっちの世界を予測できないから不安になるし、それによってまた不快が増幅する。右側にたってくれれば、心も落ち着くのに・・・・・中略・・・・・・このようセラピストばかりであり、もっと患者の立場になって考えてもらいたい。」
もし、USNへの左側からの刺激がエビデンスがあるといって、
これを続けるであろうか
学校では依然としてそのような教育が蔓延している。
もっとその人の経験を知らないといけない。
脳の経験はどのようにされていくか、もっと勉強しなければならない。
文献にはそんなことを書いていない。
しかし、真の研究者たちはそれを知ろうとしており、ただ文章に表現していないだけである。
もっと複雑な思考をもち、
謙虚に向かわなければならない。
すべてはセラピストの責任である。
という視点を持ち続けること、これが発展につながる。
24~5歳で何もわかるはずがない。
それでも指導者としてできる世界は、
簡単な世界だ。
今日の私の経験は、
自らの人生を考える上で重要な日になった。
10年以上、その体で生きている、しか知らない、
子供に私なら何を経験させてあげるか、
そしてもし、0歳児のときに、
今の私なら何をしはじめるか(昔の私なら足を曲げたりしていただろう)。
まだまだやらなければならないことはたくさんある。
自分ひとりの魂で十分だが、
自分ひとりの身体ではその魂へ揺らぎを与えてしまう。
私に共鳴する人たちと仕事をしていかないといけない、
そんなことを思いながら、懇親会をして0時前についた。
来年も実習受け入れ可能か?と問いかけたところ「おまえが来るなら」と同級生の林に言われた。
そこには「膝をつきあわす」関係が構築されていると思った。
金などのメリットでないし、
どのような学生を送ったとしても、
僕との関係性から、「指導」でなく「教育」をしてくれるだろう。
いろんなところで、学生が駄目だといわれるが、
ひょっとしたら「教員・学校」-「指導者」の関係から生まれているかもしれない。
あまり、暴言は吐かないようにしましょう。
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