森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

苦労は幸福のための貯金

2010年04月11日 19時33分47秒 | 脳講座
 新年度を迎え、新たな目標を立てて生活している方も多いでしょう。学生たちも学年が進行し、それぞれどのように過ごすかを想像する季節です。目標というのは予期・期待などを統合したものですが、その目標が到達するのに時間がかかったり、難易度が相当に高ければ逆に意欲を減退させてしまいます。

 意欲の減退の大きな要因がストレスです。長期にわたって、ストレスから逃れられなくなると、動くことをやめます。学習性無力感と呼ばれるもので、期待しているけど、結果が「負」が繰り返されると、動物は「動き」を止めてしまいます。古くは犬に対しての電気ショックを与える研究で明らかになりました。何度も挑戦するけれど、挑戦すればするほど、負の報酬が与えられると、結局は動かなくなるという結果を示しました。これは最近のロボット実験でも明らかになっており、目標を高くしすぎてしまい、結局何回もチャレンジしても達成できないと、動く範囲を狭めてしまいます。
 
 これはもちろん人間でもいうことができます。英会話やダイエットなど。すぐさま英語がしゃべることができるという妄想・イメージを湧かせ、それを目標にしますが、結局は自分は無理と決断し、それをするのをやめてしまいます。病院の組織にも同じことが言えます。若い時はいろんなことがやりたく、そして病院の問題点も見えますが、問題を指摘すればするほど、もうすでに学習性無力感に支配されている上司に、「やっても無駄だよ」と負の指摘を受け、それが繰り返されることで、仕事を懐疑的に見ていくようになります。人の心のなかの負のスパイラルだけでなく、組織・ネットワーク自体も負のスパイラルに陥ります。

 「鉄は熱きうちに打て」と言いますが、その目標が大きすぎると、いつしか無力感を学習してしまうようです。目標は大きなものを持ちつつ、細分化した達成できそうなものも同時に設定するのも必要です。

 ドーパミンやセロトニンといった神経伝達物質によって意欲が操作されている以上、やはり、自己の内的な達成感も必要です。そして、それを更新していくのが正の学習です。患者さんも同じようです。「歩きたい」という願望、そしてそれを目標にしてエクササイズを行いますが、すぐさまそれが達成できるわけではありません。特に病気になる前は当たり前に行えていたものが、それによってできなくなると、「歩く」ていうのは些細な易しいものと潜在的な意識をもってしまいがちですが、すぐさまそれができるようになるわけではありません。だから、もっとも単純な神経回路を利用して、単純な運動で達成するように自己組織化していきます。

 時間を飛ばしてしまうと、人は単純な回路のみでその行為を実現しようとします。特に大人の場合はすでに神経ネットワークの構造が完成されており、その構造をどのように機能させるかがポイントになりますが、単純な高速道路により、トップダウン的に達成してしまうと、他の回路を全く利用しなくなります。だから、ある環境では歩けるけど、違う環境では全く対応できない脳と身体を創ってしまいます。多様性はボトムアップの連続性によって創られます。辛抱が必要なのです。

「苦労は幸福のための貯金」

 あるルートだけでのリハビリは幸福を創りません。時間をかけることも重要なのです。子どもが環境と身体を相互作用させながら、数年かけて自己の身体内感を育てていくように。しかしながら、大人の脳にそれほどの可塑性はありません。それを見極めるセラピストの視点も必要でしょう。

秩序のなかの自由

2010年04月08日 11時36分43秒 | 脳講座
 秩序のなかの自由は美しい.たとえば,雪の結晶なんかはその一つです.結晶の大きさや形はいくつのもの種類があり,多様性があるけれども,その一つ一つの空間世界はシンメトリーで美しさが際立っています.神経細胞の興奮は多様性があり,人はそれぞれ個性を持ち,対象に対してさまざまな感受性の違いを持っています.ただし,その興奮はあくまでも意識の顕在化に基づくものでして,あくまでも灰白質の神経細胞の興奮ですし,さらにその興奮も意識を顕在化した際に違いが起こるもので,白質の細胞や,さらには潜在的な神経細胞の興奮ではありません.

 神経細胞の潜在的な活動はゆらぎ現象の安定化に向けて作用します.一見無秩序に思う神経細胞の自発活動は,秩序立っています.特に,複数の神経細胞が同時に活動する現象であるsynchronizationはその典型で,潜在的に経験なくとも実は,神経細胞の興奮の順序は決められているようです.シナプス結合,そしてそこでの伝達物質の行き来は不安定ですが,この神経活動の同期化現象によって,皮質回路の連結を安定させるという特徴を持っています.そう考えると,これ自体,物理的に埋め込まれたものであるとも考えられ,人は個性があれども,ヒトは生物学的にヒトであるという,埋め込まれた存在であるともいえます.いわゆる非意識における自己創発性であり,外部入力だけの認知行動科学だけの接近では限界があると思います.将来的に認知行動科学や認知神経科学は頭打ちになる可能性が大きいです.いわゆる外部入力がなくとも内部状態を自発的に生み出している脳内現象を明らかにしないと,脳科学自体が壁を乗り越えないことになるでしょう.

 これは学習にも言えます.従来は環境との相互作用を強調し,フィードバック情報の蓄積に基づく,フィード・フォワード制御への転換と考えられていましたが,いわゆる非意識における脳内の自発的な神経現象の読み解きを行わないと,やはり学問としての限界が見えてきます.これは社会現象にも同じことが言え,非意識ながら秩序を生み出し,その秩序のなかでの自由度の増大が社会性を構築していくものだと思います.先日,あるテレビを見た際に,取材のルール,秩序(制限)があるからこそ,思考が鍛えられ,良きジャーナリストが生まれジャーナリズムが生まれるという発言を聞いたときに,秩序を生み出す暗黙知というものが自由の底辺にないと,思考(脳)は鍛えられないと思いました.これは教育にも同じことが言え,大学は自由なところですが,それは秩序の上に立つものであり,今の学生の「自由」のとらえ方は,少々,構造的に違うと思っています.神経現象が内部でゆらぎを自発的に変化させながら,秩序を生み出し,そのうえで神経細胞の活動の自由度が生み出されるように,教育もそうあるべきだとつくづく思うのです.これは私自身にもあてはめることができ,脳の神経ネットワークが忙しさから混線になると,その秩序だった揺らぎ自体も奪っていってしまう気がしています.いろいろ反省することが多いです.揺らぎの安定化が自発的にはかられるよう,行動を統御する志向性を身につけないといけないと思っている次第です.






初心忘れべからず

2010年04月04日 23時36分26秒 | 脳講座
 私たちの脳のなかには今までの経験が蓄積されています。しかしながら、記憶として再生できるのはすべてではありません。そのほとんどが忘却されていきます。忘れたくない意味を忘れてしまったり、忘れたい出来事を忘れなかったり、記憶はその時々の情動によって彩られてしまいます。さらに、記憶が予定といった先々に向かえば、今起こっている出来事すらも認識できなくなってしまいます。

 連合野が発達していない時期は、記憶の蓄積がなかなか難しいのですが、その典型的な出来事が「歩けた(歩いた)」というシーンです。「自転車に乗れた」というシーンは映像化される人も多いと思いますが、「歩いたという瞬間」というシーンはおそらくすべての人でリアルには映像化されないでしょう。おそらく、映像化されたとしてもそれは後に誰かからの聞き伝え、あるいは写真やビデオから記憶の蓄積がされ、それを再生したものだと思います。

 もし、その時の感覚が残っていれば、私たちの仕事にとってどのような影響を及ぼすのだろうと思うと、ワクワクすると同時に、とても残念な気持ちにもなります。子供のときの身体経験を大人の脳でのぞいてみたいという気持ちによくなります。私たち人は歩いて当たり前とついつい思ってしまいますが、歩くというのは、とてつもない経験の蓄積であると私は思うのです。赤ちゃんの時に経験した「歩けた」という瞬間の記憶やそのプロセスの記憶は大人の脳には全くありません。そして誰かから「あなた歩きなさい」とか指示を受けるわけでもありません。自らの動きから、その経験をつくっていくのです。赤ちゃんには言語を用いて論理的にプロセスを分析することはできません。自分自身の身体内感を頼りにして、歩くための経験を構築していきます。その際、シナプスはつながったり、消去されたり・・・と。立つこと、歩くことは人が進化の過程で身につけ、遺伝子として私たち現代人にも伝えられてきましたが、その立つ、歩くの経験は、自ら自身の経験をつないできた、まぎれもなく環境におけるプロセスなのです。いつしか私たちは、身体内感を通して歩いた(歩けた)経験といった初心を忘れ、知らぬ間に三人称言語である「歩行は人間にとって当たり前のもの」そして「歩けて当たり前」と思うようになってしまいました。そして、親が子どもの「歩き始め」を待つように、くしくも卒中などで倒れた人たちの回復をゆっくりとした気持ちで待てなくなってしまいました。

 歩くという経験は、外界からだけの刺激では構築できないと思います。一方、リハビリテーションにおいては、安易に「カンニング」という手法、すなわち、内感が起こらないからといって、外部からのフィードバック情報をすぐさま与えるように、セラピストも患者さんも待てなくなりました。内感は経験の構築です。すぐさま生まれるものでもありません。待てない心、急ぐ心が、実は脳内のネットワークを単純なものにしているのかもしれません。

 片麻痺は感覚障害ではなく知覚障害です。なぜなら、末梢の受容器の問題というよりは、脳内の問題ですから。だとすれば、安直なカンニング的フィードバックでなく、患者さん自らが感じ取ることができるように援助することがとても大切だと思うのです。これは学生教育も同じことだといつも思います。本人の中で生まれるもの、それを共同注意することが、二人称の関係ですし、私が常日頃言っている「ロマンティックリハビリテーション」というわけです。


畿央大学 神経リハビリテーション春季セミナー

2010年04月03日 18時15分29秒 | インフォメーション
畿央大学 神経リハビリテーション 春季セミナーのご案内


 痛みは組織の実質的または潜在的な傷害と関連した、あるいはこのような傷害と関連して述べられる不快な感覚的・情動的体験と定義されている。痛みは「どのぐらいの強さか」「どこに発生したか」等の痛み刺激を識別する感覚的側面、痛みに対して不快や嫌悪を感じ、これに伴い心拍数が上昇し発汗が生じる等の自律神経反応を起こし、不安を出現させる情動的側面、脳内の記憶と照合し与えられた刺激が自己においてどのような痛みかを認識する認知的側面に分類される。脳科学の進歩に基づき、これら三つの側面に関連する脳内機構が近年明確にされつつある。これはペインマトリックス(Pain matrix)と呼ばれ、末梢器官である身体(からだ)に病変がなくとも脳の活動の変化によって、しばしば痛みを生じさせることが明らかにされている.とりわけ、慢性疼痛はその様相が大きく、身体に対して直接的に治療を施しても対症的治療としかならない場合が多いといった問題点が指摘されている。
 そこで今回、痛みの脳・神経機構に関する研究にセラピストとして挑戦している2名の若手研究者を招いて情報提供していただき、痛みで悩む対象者に対する神経リハビリテーションについて考えたい。

                   記

日 時:平成22年4月18日(日)

内 容: 9:30 ~    受付
     9:45~11:15  痛みの神経機構 
            甲南女子大学 准教授 西上 智彦 先生
    11:30~13:00  痛みの脳内機構 
            自然科学研究機構生理学研究所 博士研究員 大鶴 直史 先生

場 所:畿央大学L102教室

参加費:無料

申込先:畿央大学 森岡 周 s.morioka@kio.ac.jp(@を@に変更お願いします)






脳を学ぶ(2)

2010年04月02日 18時07分31秒 | 脳講座

脳を学ぶ(2)
~写真家、古谷千佳子さんとの対話

ISBN 978-4-7639-1061-5
A4変形判 118頁 2010年4月下旬刊行予定
予価 3,675円(税込)

沖縄の海人と海の暮らしに魅せられて漁師、そして写真家となった古谷千佳子さんの作品世界をめぐる対談の中から、脳のコミュニケーションの仕組みとその意味について解説。人と人、人と自然との繋がりについて深く考えたい方々、そして人と関わる仕事に携わる方々に役立つ脳の知識を提供します。


動きが生命をつくる

2010年04月02日 18時04分20秒 | 脳講座
 新年度を迎え,ニュースには新入社員の入社式の映像が多く流れています.New faceは新しい細胞として,社会のシステムに対して少しずつですが影響を与えていきます.そのさい,上司からの軸索の伸長が彼ら彼女らの樹状突起と結ぶと新たな結合が生まれます.これは逆もしかり.新入社員自らが軸索を伸ばすように.いずれにしても双方向性の結合が起こることで,新たな神経ネットワークの働きに生まれ変わっていきます.組織が大きくなればなるほど,その影響は微弱なものから始まりますが,小さいところではすぐさま構造にも大きく影響を与えるでしょう.子どもの発達における柔軟性と同じように,まだ構造が完成していない場合はNew face一人一人の仕事が大きく組織を動かす原動力になります.研究会発足なども同じことがいえます.

 大きな組織では,そのような変化がもたらされないかというと,この際,組織が大きければ,実際メインに機能しているルート以外の領域でどのように静かに結合していくかが実は発達において重要と考えられます.つまり,細胞一つ一つのネットワークではなく,小集団同士のネットワーク構造化です.最終的には遠隔地同士で小集団がコミュニケーションをとりはじます.太陽系とそれ以外の系とネットワークを結び交信するようなものです.そう考えると宇宙は魅力あふれる科学材料ですね.

 さて,New face自らが組織にどのように貢献・関与していくかは,やはり「自らが動く」という視点です.どのような生物であれ,その生命は動きからつくられます.「動きが生命をつくる」のです.だから,「動きが脳をつくる」といっても良いでしょう.私たち大人は心を持ち得ました.だから,なんとなく心が動かなければ身体が動かないという二元論的な意識を持っています.しかし,生まれたての赤ちゃんがすでに我々大人と同じような心を持ち得ているでしょうか.心は身体による動きから生み出してきたのではないでしょうか.赤ちゃんの一見無意味に思える(大人の目線でありますが)動きが心を形成していく上でとても大切です.動くことで心が宿っていくのだと私は思うのです.

 もちろん,脳―身体―環境の相互作用の視点は大前提ですから,脳があって心を生み出して,そして身体を動かすといった二元論的な視点ではないのです.手を動かす,物を見つめる,足をバタバタさせる.そうした動きが我々の生命をつくる.これは胎児内でも同じことがいえます.特にその色は外界がないため強いでしょう.「動き」とは私たち生命体にとってとても重要なものなのです.

 動くことから新年度はじめてみてはどうでしょうか.そして,その時,「感じる」という脳の機能(内感)も置き去りにせずに. 動かない患者さんに対しては,患者さんの機能・能力任せや拘束せずに,動かしてあげてください(不快な刺激でなく).そして,同じく動きから身体を感じさせてあげてください.




春の季節に想う

2010年04月01日 08時20分10秒 | 脳講座
 三寒四温という言葉はつくづくよくできていると思います。三月の気候は気まぐれなもので、時に「春の嵐」によって私たちの身体を凍らせます。三月上旬の暖かい気候から一転して、時に冬に逆戻りします。この感覚が、余計に春が待ち遠しいという心の形成に拍車をかけるのです。「春を待つ」という心、そしてその春が過ぎ去っていくということを知っているがゆえに、その象徴である「桜」に対して「はかなさ」という想いを寄せることができると思うのです。「待つ」ということは、文化を超えて存在するものであり、スウェーデンの友人から送られてきたメールには、冬の日照時間の少なさを嘆くとともに、日照を期待する記述がありました。

 時に現代、文明が発達し、人は「待つ」ということに対して、「焦れ」が出てきたように思います。昔の人は何も連絡手段がありませんでした。たとえば、今はやりの龍馬伝から、龍馬を幼馴染の加尾が見送るという場面がありました。このときの加尾の心中はと考えた時、現代のような連絡手段がないとき、ただ単に自分自身がさみしい、つらいというよりは、むしろ、龍馬の安否だけを気遣い、自分が会えないという自己中心的な心ではなく、龍馬に対して身体だけは気をつけてほしい、そして、どこにだれといても無事にいてほしい。という他者を想う気持ちに変化しているのではないかと思うのです。これは戦時中にも同じことが言えるのはないでしょうか。あるいは、子を旅立たせる日など。

 携帯電話が普及した今、いつでもどこでも連絡がとれるという行動が、私たちの「待つ」という心を奪っているのではないかと思うのです。だからこそ、待てない、焦るという気持ちに変化し、自分を見失うのではないかと。これは私自身にももちろんあります。今は私自身「ありました」という過去形にしたいと考えているのです。

 たとえば、メール依存な若者の習性としてよく取り上げられている恋人と一日連絡とれないだけで「つらい」という気持ちになるのは、実は自分のことしか考えてない自分を露呈してしまっているのですが、それも脳の仕業であることは間違いありません。他者の安否を気遣うという社会的感情よりも、自己の嫌悪感という一般的情動を優先してしまうのも人です。しかし、それは待てないからこそ生まれます。大脳に余裕がないと、反射・反応脳である皮質下や脳幹で人は対応するようにできています。昔の人は、時間的余裕があったからこそ、実は私たちにとって、とても大切な社会的感情を創り、それをよき方向に進化してきたのではないでしょうか。

 「待つことができない」現代は、医療においてもその遍歴があります。時間的に区切られ、そして、効率性だけを求めてしまう。医療は人が人を癒すことから生まれたはずなのに、いつしかその手を離れ、どちらかといえば、オートメーション的になり、その効果だけが独り歩きしてしまっています。人の脳は身体プロセスが付加されることで、可塑的に変化を起こしていきます。プロセスを度外視してしまえば、それは機械的な脳を形成するだけにすぎません。いつしか、速度だけが優先されてしまえば、自然的・そして時間のかかる学習的な効果は無視される時代がくるかもしれません。

 そういう今こそ、「待つ脳」「待ち続ける脳」を再考してみてはどうでしょうか。脳は原則、前向きにならないとよい方向に作動しません。私自身もいろんなことを「待ち続ける」ことができるからこそ、いろんなものにチャレンジする心がわいてくるのです。しかし、待てなくなると自暴自棄になったり、あるいは砦をつくろうとしてしまいます。その典型が狭い枠組みだけで思考していくというものです。桜を待つ脳のように、人を待つことができたり、よき知らせを待つことができたり、幸せを待つことができたりする脳でありたいと思います。そして、そういう社会が幸福を伝染するものだと思っています。