百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

選挙

2012年12月15日 22時37分04秒 | 政治

 歩 い て 世 界 一 周  12月16日(日) 雨

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

2,190

1,533

 

今  月

16

245,066

171,546

15,317

今  年

351

5,354,182

3,747,927

15,254

2005年から

2,916

41,086,052

28,760,236

14,090

70歳の誕生日から

6,448

123,036,188

86,125,332

19,081

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 1,182,627m

         第46回衆院選挙は世論調査では自民党は民主党を抜いて一位ではあったが20%台、その差は僅かだったが、開票結果は単独過半数を確保して圧勝した。私は、これは小選挙区制の恐ろしい魔力だと感じた。

 民主党は3年3ヶ月の政策運営が公約したことが思うように実行されなかったことや公約になかった野党の政策に同調しなければならなかったことを評価されたので、予想通りの惨敗は当然の結果であると評価する。

 私の感覚では、日本維新の会は200人近い候補を立てて第三極を目指したが、小党乱立で小選挙区での票の奪い合いとなって、却って自民党を利する結果となった。さらに言わせれば、橋本氏が石原氏の唱えた大同団結に同調した結果、大きく足を引っ張られた結果だという思いがする。

 民主党は選挙推薦に当たり、世襲性を認めない、党の政策に反対する者は公認しないと誓約書までとって公認をしたが、TPP交渉参加に反対するなど党執行部と異なる発言を公然として唱えた篠原氏の行動は、農民票を得るための方策と思惟して、私は小松氏に投票した。

追記 長野一区の市長村で全地区で篠原氏が一位の票を集めて当選したが、二位の小松氏も比例代表制で救われて議席を獲得できたことは慶事だ。

 


今日は忠臣蔵の日か

2012年12月15日 14時24分24秒 | 随想

 歩 い て 世 界 一 周  12月15日(土) 晴

             日  数  総歩数(歩)   平均歩数(歩)   総距離(m)

今 日

 

14,695

 

10,287

今 月

      15

   242,876

    16,192

   170,013

今 年

     350

  5,351,992

    15,291

  3,746,394

2005年から

    2915

 41,083,862

    14,094

 28,758、703

70歳の誕生日から

   6447

123,033,998

    19,084

 86,123,799

 

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 1、184、160m

 

12月14日は大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、主君浅野内匠頭の仇を討った日として今もその壮挙を称えられている。確かにその通りだ(正確には15日未明)。今も泉岳寺を始め各地で12月14日に【義士祭】が行われている。だが、これでイイのか?この元禄16年12月14日は旧暦の話だ。グレゴリオ暦(太陽暦)では1703年1月30日のことだ。そして仇討ちが達成された日は翌日の15日未明だ。従って正確には1703年1月31日ではないか。

 飯山でも12月中旬の大雪は珍しい、まして東京(江戸)で師走に雪降りの中での仇討ちは腑に落ちないとかねがね思って居たので、やはり太陽暦が一般化している現在は1月31日の方が妥当じゃないかと思うのだが・・・。私は東京に居て、12月14日の晩、忠臣蔵で、神田から歩いて泉岳寺へ詣で、夜明けに戻って温かい「トン汁」を啜った懐かしい思い出がある。

 赤穂浪士の仇討ちは快挙であり、義挙として日本人の心に永久に受け継がれていくが、壮挙であるために真実とはかけ離れていつの間にか、美化されてしまって居るものも有るのではないだろうか。そんな事を詮索するのは野暮なことかもしれないが、いくつか疑問や異説も有ることも知って居てもイイだろう。

 〇 「四十七士」と言うが「四十六士」という説もある。寺坂吉右衛門は討ち入りのあと一行から立ち退いている。大石内蔵助の命を受けての立ち退きだから入れて置くべきだという説がもっぱら。切腹はして居ない。

 〇 大野九郎兵衛は大石良雄と対立して逐電した不忠者の代表として悪名高いが、14日の討ち入りが失敗した時には、二陣として備えての事だという説もある。

 〇高田郡兵衛は強硬な急進派であったが、突然変心して脱盟している。養子縁組を持ち掛けられ、断れば仇討ちの義挙を幕府に訴えると脅されこの壮挙が幕府に知られるのを恐れたのが原因という説もある。

 〇 天野屋利平衛 赤穂浪士の武器を調達したと伝えられているが、これは作り話で事件とは無関係の人という説もある。

 〇 討ち入りの装束が江戸火消の支度に袖に三角の白地が着けれている画が多いが、そんな事は無かったようだ。

 〇 討ち入りの時に、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らしたと聞いているが、太鼓などは持って行かなかったようだ。

 〇 討ち入りの晩は雪が降っていたと言われているが、色々な記述から晴天だったというのが真相のようだ。