百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

早々 年賀状が来た」

2012年12月29日 17時38分56秒 | 日中友好

 

歩 い て 世 界 一 周  12月29日(土) 晴

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

 

16,314

11,420

 

今  月

29

446,541

312,579

15,365

今  年

364

5,555,657

3,888,960

15,260

2005年から

2,929

41,287,527

28,901,269

14,095

70歳の誕生日から

6,461

123,237,663

86,266,594

19,075

ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 1,041,594m

          

 中国河北省邯鄲市の梁小六君から早々と年賀状が来た。彼は一九九〇年に河北省科学技術委員会の招きで訪中した時の通訳で、それ以来の老朋友だ。大学を卒業したばかりで私が最初の日本人であったかもしれない。好奇心の旺盛な彼は私を良く観察したし、興味を持って対応して呉れた。

 訪中するたびに私の通訳をして呉れるので、兄弟のようにリラックスして何かにつけ気楽に付き合った。委員会の上司に聞くと、是非私をと懇願して買って出たのだという。毎回、2週間ほどの滞在中、24時間同じ部屋で一緒に寝起きして、世話して呉れるのだから情も移って弟のように可愛がって来た。

 会議で質問された時など、私は「知りません」「判りません」と回答すると、「先生は何でも知って居る」というので、「取敢えず知りませんと通訳しろ!」と良く叱ったりもした。「先生今晩ダンスに行こう!映画観に行こう」と誘われると、疲れて居ても私は付き合ったものだ。映画は中国語でシナリオも判らないので居眠りしていた。

 彼は商才にも長けて居て、邯鄲駅に着いた時、地下に案内してくれた。邯鄲市科学技術委員会に席を置きながら、そこで彼は「パチンコ屋」をやって居たのである。私は「儲かるだろうが、人生の汚点になるゾ。社会の為になるやり方で金儲けを考えてくれ」と言うと、直ぐにやめて呉れた。私は彼が好きだったし、信頼もしていた。邯鄲で中国船舶工業からきのこ栽培での合弁事業を持ち掛けられた時も、彼を「董事」に加えて呉れないならばと最後まで頑張った。

 彼は日本の片田舎 飯山まで2回も単身で訪れて呉れた。20年以上の付き合いだ。こんな付き合いの老朋友が4人も居る。日中関係は「政凍経冷」などと云って、冷え切っているが、私たちの交流は常に温かい血が流れている。