十人十色という言葉があるように、人それぞれは違っていて当たり前である。
持っている能力や感受性など、それこそ人と同じ数の人格・性格があると言ってもいい。
生きていく中では、山奥で自給自足の生活でもしない限りは、絶対に自分と同じではない他人との関係は避けられない。
自分と100%同じ人はいないとして、しかし会ったばかりの赤の他人であっても何となく合うとか似ているとか共通項が多いとか、そういったことから気の張らない付き合いが始まるケースも多い。
そういう出会いがいつ訪れるかは分からないが、幸い筆者は今の人間関係の中で、どこでどうやって、何がキッカケでここまで打ち解けられたのかと思う人もいる。
同じではなくても同じような感覚を持った人はいて、特別な努力をした覚えもないのにいつの間にか仲良くなってしまえる人もいるのだと特に近年、地元富山はもちろん当地に来てからの期間でも感じることが多い。
逆に、土地によってはどうにもこうにも、とタメ息をつきたくなるようなところも過去にあった。
どの地方とは言わないが、心理的な距離の詰め方があまりにも急に感じたし、腹の中では他の地方の人間を見下ろしているようにも思えたので、気持ち的には苦しかった。
せいぜい同じ目標を持ってがんばっていた運動サークルの仲間くらいとは表向き良好な関係ではあったが、共通の目標がなくなった途端に捨てられるように離れて行ったのは苦い思い出である。
人格には生まれ育った土地の雰囲気も多分に影響するので、合わない場所では合わない人間の割合が増えるのは仕方がないし、その時分はまだ私自身、人間として妙なコダワリがあり過ぎたりカドが立ち過ぎていたりで、実際の年齢よりもなお若く未熟であったことも大きいとは思っている。
諸外国ではあまり好まれないことらしいが、我が国では、日本人だけで一億ある人格をたった4つしかない「血液型」で分類して語るのが好きである。
血液型の分析については古くから出ているし、今にあっても傾向としてはそれほど変わった感じはしないが、私自身も血液型の話は嫌いではない。
私はB型で、我が国では2割の勢力しかない、大げさに言ってしまえば異端の型である。
世間的にあまりイメージがよろしくないことは横に置いても、様々な分析で語られているものと私自身の中身は一致する部分は多いから、ある程度血液型分析を信じてもいる。
外国人がこういった話題を嫌うのはそれだけ個人ひとりひとりの尊厳に敏感ということなのかもしれない。
B型人間の会話は無軌道で常識はずれなところがあり、辞書にない言葉を造ったりすることなど日常茶飯事、後は感覚を表現するために擬音語や擬態語を多用するという特徴がある。
常識を外れても、面白い会話がしたいという気持ちの方が優先するのでそうなる。
また、良くも悪くも自分が大好きなので、B型どうしはあっという間に意気投合するか、会えばケンカばかりかのどちらかである。
私はわりあいB型どうしで合わないという経験は少なく、むしろ対極として語られやすいA型の相手とはあまりいい思い出がない。
日本人の4割を占める勢力に楯突くつもりはないが、同じ面白いことを言おうとしても、A型のアプローチは決して常識の範囲を逸脱しないので、会話のどのあたりでオチが来るのかだいたい分かってしまう。
よく言えば真面目だし、悪く言えば意外性に乏しい。
私からすると会話にひとひねりや言葉遊びの要素がないため、時間が経てば経つほど飽きてしまうというわけだ。
血液型も人の分類方法としてはかなり乱暴な部類だが、我が国には「体育会系かそうでないか」という極端な二元論も存在するので、次回は久しぶりにそちらの方面について書いてみたい。
持っている能力や感受性など、それこそ人と同じ数の人格・性格があると言ってもいい。
生きていく中では、山奥で自給自足の生活でもしない限りは、絶対に自分と同じではない他人との関係は避けられない。
自分と100%同じ人はいないとして、しかし会ったばかりの赤の他人であっても何となく合うとか似ているとか共通項が多いとか、そういったことから気の張らない付き合いが始まるケースも多い。
そういう出会いがいつ訪れるかは分からないが、幸い筆者は今の人間関係の中で、どこでどうやって、何がキッカケでここまで打ち解けられたのかと思う人もいる。
同じではなくても同じような感覚を持った人はいて、特別な努力をした覚えもないのにいつの間にか仲良くなってしまえる人もいるのだと特に近年、地元富山はもちろん当地に来てからの期間でも感じることが多い。
逆に、土地によってはどうにもこうにも、とタメ息をつきたくなるようなところも過去にあった。
どの地方とは言わないが、心理的な距離の詰め方があまりにも急に感じたし、腹の中では他の地方の人間を見下ろしているようにも思えたので、気持ち的には苦しかった。
せいぜい同じ目標を持ってがんばっていた運動サークルの仲間くらいとは表向き良好な関係ではあったが、共通の目標がなくなった途端に捨てられるように離れて行ったのは苦い思い出である。
人格には生まれ育った土地の雰囲気も多分に影響するので、合わない場所では合わない人間の割合が増えるのは仕方がないし、その時分はまだ私自身、人間として妙なコダワリがあり過ぎたりカドが立ち過ぎていたりで、実際の年齢よりもなお若く未熟であったことも大きいとは思っている。
諸外国ではあまり好まれないことらしいが、我が国では、日本人だけで一億ある人格をたった4つしかない「血液型」で分類して語るのが好きである。
血液型の分析については古くから出ているし、今にあっても傾向としてはそれほど変わった感じはしないが、私自身も血液型の話は嫌いではない。
私はB型で、我が国では2割の勢力しかない、大げさに言ってしまえば異端の型である。
世間的にあまりイメージがよろしくないことは横に置いても、様々な分析で語られているものと私自身の中身は一致する部分は多いから、ある程度血液型分析を信じてもいる。
外国人がこういった話題を嫌うのはそれだけ個人ひとりひとりの尊厳に敏感ということなのかもしれない。
B型人間の会話は無軌道で常識はずれなところがあり、辞書にない言葉を造ったりすることなど日常茶飯事、後は感覚を表現するために擬音語や擬態語を多用するという特徴がある。
常識を外れても、面白い会話がしたいという気持ちの方が優先するのでそうなる。
また、良くも悪くも自分が大好きなので、B型どうしはあっという間に意気投合するか、会えばケンカばかりかのどちらかである。
私はわりあいB型どうしで合わないという経験は少なく、むしろ対極として語られやすいA型の相手とはあまりいい思い出がない。
日本人の4割を占める勢力に楯突くつもりはないが、同じ面白いことを言おうとしても、A型のアプローチは決して常識の範囲を逸脱しないので、会話のどのあたりでオチが来るのかだいたい分かってしまう。
よく言えば真面目だし、悪く言えば意外性に乏しい。
私からすると会話にひとひねりや言葉遊びの要素がないため、時間が経てば経つほど飽きてしまうというわけだ。
血液型も人の分類方法としてはかなり乱暴な部類だが、我が国には「体育会系かそうでないか」という極端な二元論も存在するので、次回は久しぶりにそちらの方面について書いてみたい。