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今日はいつもの担当を離れていつもの現場も飛び出してひたすら体力勝負の仕事にいそしむ日であった。
午前中は人数も少なく途方に暮れていたが徐々に人数が増えて予想よりはずいぶん早く収束することができた。
仕事の中身は単純で人数は多ければ多いほどいい状況であったし、日頃はそれほど接することのない人との接点を持つこともできた。
いまどき土曜が完全休でないのは我が社がどうこうというよりは業界の構造的なものですぐに変わるものでもないだろうが、平日とは違った体験が多いのも土曜勤務の特徴なのでひとつひとつを楽しめたらいいのだと思う。
さて、本日はあるメンバーの在籍一周年記念の日であった。
誰かの周年を祝うなどの雰囲気は毛頭ない我が社ではあるが、私がそれを覚えているのは当人と私の入った時期が近いからである。
当人のひと月後に私が入っているが、当人は病欠の期間がひと月ほどあるため我が社で過ごした時間とすれば当人と私はほぼ同じである。
年齢や契約形態こそ違っても入ってきた時期が近いことそれだけで比較の対象にはなりやすい。
ほぼ同時にヨーイドンでスタートした者どうしの「現在地」は果たしてどうか。
同じ時間を同じ場所で過ごして覚えたことできるようになったことに有意な差は果たしてあるか。
願わくば差はない、と言いたい。
縁あって近い時期に入った者どうし、互いに高めあって一年前よりも同じくらいずつ仕事がうまくなっていれば私は嬉しいと感じる。
だが現実は違う。
ほぼ同期の当人がこの一年で積み上げたものは私と比較してあまりにも少ない。
フォークリフトを一台与えられていながら機能を生かし切る技術がないし、安全確認も十分とはいえず時に激突しそうになるのを何度見たか。
フォークリフトと関係のないところではごく簡単な贈答品の荷造りもできない。
毎朝のように荷造り担当の手伝いはするが荷造りそのものを覚えようとしない。
担当が朝からいない時にただただ立ち尽くす場面も何度見たことか。
しかし、ほぼ同期の意識は当人にはいまだ根強いようで、ある日には私の担当業務に突然黙って入り込んできて担当業務でない仕事を担当者が見ている前で堂々とやってのけた。
他人(私)を意識するあまり、自分が運んでいるものが何なのかの理解すらなく担当者である私に何か聞くこともなくただただ勢い任せで動かれてはたまらない。
体調のからみで最近は会社を空ける時間も長かっただけに、せめて出てきた時にはがんばろうと思うのはいい。
が、やみくもに動いたところでことごとく適切でないため至るところからお𠮟りを受けることになっている。
日々の蓄積を怠ったこの一年の穴を埋めることは簡単ではない。
当人のいちばん悪いところは、できないことをできるようになろうと思っていないことだ。
思っていないから当然他人にも聞かないし、できることだけで一日を乗り切ろうとするがそれではヒマな時間がどうしてもできる。
こちらが忙しく動いている時にヒマを持て余してストレッチなど始めることもあるからそれこそたまらないというものである。
最近、向こう一年契約が延長になったことをわざわざ人に話している場面を見た。
個人の契約というデリケートな事柄をいちいち他人に言わなくてはならないのは自分に自信がないからである。
自分はまだ組織に必要なんだと認められたと言いたいのであろう。
しかし契約が延長されたからあと一年安泰かと言われればそれは違う。
車検を通ったばかりのクルマが必ず向こう二年もつとは限らないのと同じだ。
同じ時期にスタートしたはずの相手の背中はもう霧にかすんで見えない。
それくらいの現在地の差がなぜできたか。
進歩と現状維持、どちらを選んで日々を送ってきたか、今見えているものはその積み重ねの結果としか言いようがないのである。