blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

かまってほしい人の話 PART2

2017-04-21 22:23:46 | 日記
前回この話題を書いた時は、数年前にいた富山の職場での話だった。
休み時間もプライベートも毎度のようにつるんでいる大の男2名が、実のところは互いを尊敬する気持ちなどなく、ただただ自分を相手にしてくれることに依存した中身の薄い関係であった(今もそうだと思う)ことは前回指摘した通りである。

他人の注目を集めていないと落ち着かない人というのは、私が昔そうだったからということもあるが、ほんのひと月ばかり観察していればだいたい分かるようになった。
その努力たるや、見ていて涙ぐましく思えるほどである。
当地でも、いろいろ観察していれば「ああこの人は寂しいんだな」と感じる人はけっこう多い。

例えば、ネットで何か面白いニュースを見つけたかした時に、必ず「お!」と一声発してその後しばらく何も言わず他人の「何?」という反応を待つ人がいる。
反応があれば、我が意を得たりとばかりに今見つけたばかりのニュースの説明を自慢げに始める。
仮に反応がないか薄い時は、ガマンができなくなって聞かれもしていない内容を自分から明らかにし始める。

あるいは、通常あまり職場にはふさわしくないはずの自分の家庭の中の話を延々とやる人もいる。
家庭を持てば持ったなりのいろいろなストレスがあることは理解するが、周囲はそもそも他人の家庭の事情をそれほど詳しく知りたいという気持ちはない。
周囲は本人に対して何の責任も取れないし、ましてや何か手助けをすることもできない。

この手の人たちは、どんな状況でもとにかく注目や同情をほしがるから付き合うのも疲れる。
昔話でも自慢でも付け焼き刃の知識でも材料は何でもいいから他人から「すごいね」と言われたい、自らの家庭の状況をそれはそれは饒舌に休み時間も潰そうかという勢いで話し続け「大変だね」の一言をほしがる、こういう人々は年齢がいくつであっても精神的には大人にはなっていないのだから、一緒にいて疲れるのは当たり前である。

今、2種類の「寂しい人」の例を挙げたが、恐ろしいことにこういう人どうしが、やっぱり「つるむ」ことが多いのである。
見た目にはそれほど親密には思えないが、互いの言動から「まんざらでもない」のかなと感じることが多い。
両人にとっては、互いが唯一「自分を相手にしてくれる」と感じているから、そこにひとまず寄りかかって何とか寂しさから逃げようとしているのが分かる。

不幸なことだが、他人から心からの尊敬を受けた経験もしくは本人の実感が乏しい場合、いわゆる「自己肯定感」が不足している場合だと、それほど自らを大切に思っていない人間とでも平気で一緒にいられるようになってしまう。
孤独を恐れ、寂しさに負け、絡んでくれる人間だからと寄りかかったところで得られるものはほとんどないどころか、結果的には相手に奪われるだけ奪われて返って来るものなど何もないことに、自己肯定を外部に依存しているうちは残念ながら気づくことはできない。

他人とは無縁ではいられない生活の中でも、「自分は自分」という気持ちがないことには他人に振り回されて疲弊してしまう。
その上で、他から奪おうとするのではなく、他に与えようというくらいの気持ちの余裕があればいい。
そうやって生きていれば、口先だけの賞賛や同情ではなく、心からの「感謝」が求めなくても周囲から入って来るものである。
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