二次大戦の沖縄戦
(1945年)で、首里城はアメリカ軍の攻撃により重要な建物の正殿・北殿・南殿などが総て全焼後、終戦後は琉球大学のキャンパス使用を経て、沖縄の
本土復帰20周年を記念して復元復旧事業が進められ現在に至っている。世界遺産に「首里城跡」として登録
(2000年)され、鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり沖縄のシンボルと言えるだろう。
発掘調査の結果で首里城の建築は、14世紀前半頃と言われ
「尚巴志(しょうはし)国王」が、琉球王国支配のための居城として以来、18世紀に明治政府に明け渡すまで、約500年に渡って政治・外交・文化の中心として琉球王国は栄華を誇った。首里城には中国・日本・東南アジアなどとの交易から、漆器・染織物・陶器・音楽などにおける琉球独特の文化が栄えたのだ。
首里城は、周囲の地形を巧みに活用した内郭と外郭に分けられ、
強固な城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、規模は総延長約1,080m、高さ6~15m、厚さ約3mは頑強そのもの。いよいよ首里城、まずは礼節を守るという意味の「守礼門
(しゅれいもん)」から進入し「園比屋武御嶽石門
(そのひゃんうたきいしもん)」を経て、歓んで迎える意味の「歓会門
(かんかいもん)」は、首里城の正門。中国皇帝の使者など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられている。別名「あまへ御門」とも言い、沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味している門の両側の一対の獅子像
(シーサー)は、ご存知の通り魔よけの意味をもっている。
瑞泉門手前右の階段を下ると「龍樋
(りゅうひ)」があり、綺麗な湧き水が国王一族の大切な飲料水でった。櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた「漏刻門
(ろうこくもん)」では、身分の高い役人も
国王に敬意を表して手前で籠を降りたと言う。「広福門
(こうふくもん)」と「奉神門
(ほうしんもん)」を経て、城内にはいると礼拝所のひとつ「首里森御嶽
(すいむいうたき)」がある。
南殿と番所の建築は日本風のようで、黄金御殿・寄満・近習詰所を見学しながら
首里城正殿へと進むと、2階の御差床は、国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。儀式の際には床の間に香炉・龍の蝋燭台・金花・雪松などが置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。
壇の形式は日本の寺院に似ており、側面の羽目板には、ブドウとリスの模様が彫刻されている。高欄
(こうらん)は正面に1対の金龍柱が立ち、その他の部材には黒漆
(くろうるし)に沈金
(ちんきん)が施されていた。正殿から出たところに、本州の城の鯱
(しゃちほこ)にあたる竜頭が見える。沖縄の龍は、
中国に敬意を表して指が1本少ない4本であるのも奥ゆかしい点だろうし、本州の龍は3本の場合もある。
帰り道順は、左側の城壁を見ながら、下側の遺構石積・上側の復元石積にロマンを見て、石垣フェチのワシは石畳道を歩きながら、
遥か古の琉球王朝を空想するのに忙しくて足が前へ進まなかった。その他色々な画像もあり、右のお城コレクションに
アルバムを貼り置きブックマークして置くので興味のある方はご覧戴きたい。
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