■炎のクリエイター日記

美味しいもの・史跡が持つ歴史のご紹介。お料理はプロ・自作を問わず鮮明な画像で、どんな素材も関西仕立てにクリエイトします。

炎のクリエイター 撮影 & 画像補正

このブログに使用の画像は、殆んどを「iPhone15 pro」で撮り「CANON Power Shot G7XⅡ」と「CANON一眼」などの撮影機器でフォローしています。画像に補正を施せば、とっておきの一枚を奇麗にできます。 ※画像の転載・転用は禁止させて頂きます。 サンタクロースの、モデルとなった聖ニコラウスの隣に住む貧乏な家族は、3人の娘に身体を売らせて生計を立てようと考えた。それを知ったニコラウスは、金塊を布に包み隣人の家へ投げこんだ。隣人は神に感謝し長女の結婚式を挙げたが、その後も金塊を投げ込み続けた結果、聖ニコラウス(サンタクロース)だと悟られたのが起源と聞く。

南禅寺界隈の桜の古木 ~風流で趣きある盆栽のよう~

2018年03月31日 20時46分05秒 | 史跡・歴史巡り
先日ご紹介した「びわ湖疎水」を、京の都へ通すにあたって、ルートの計画に入ったのは「南禅寺(なんぜんじ)を横切る格好で、これには相当な周囲関係者の反対があったようだが、たび重なる疫病・流行り病の撲滅という大義の前に反対の声はかき消されたようだ。今では横切る水路も南禅寺に欠かせない名所となっているのが皮肉なものだが‥‥‥てなわけで桜の古木に拘ってのご紹介。


▲向こうに見えるは南禅寺の勅使門

▲駐車場に一番古そうな桜の古木

▲南禅寺の敷地を横切る水路

▼南禅寺の中門


勅使門あたりの参道から、桜の古木が顔を揃えているので、これもまた風流と、インクラインの付録のような形でご紹介する。桜の種類や名前なども付けてあるかも知れないが、そんな知識はワシには無いので、それぞれ自分でネーミングは、鶴亀の桜・伏見桜・勅使桜・清涼桜・見返り桜など盆栽のように風流。


▲塚のような小さなお堂がある横にも

▲枝垂桜と松のコンビネーションが良い感じ

▲向こうに見えるは南禅寺の三門


また湯豆腐は、南禅寺周辺参道の精進料理が起源で、お出汁の昆布を北前船で運んだと言うが、その帰りの便には逆に「南禅寺豆腐」が運ばれ、山形県の酒田市・鶴岡市には伝わって今も南禅寺ブランドがあるようだ。参道脇の豆腐料理「順正」の豆腐は、一般の豆腐に比べて数段美味しいし、お値段の方も「豆腐丼/2800円」と立派な設定だが感想は人それぞれ。


▲▼豆腐料理「順正」の店先

▼順正の「豆腐丼/2800円」

▼金地院側の桜と順正の幟





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インクラインは桜の名所 ~傾斜鉄道跡地が、お花見スポットに~

2018年03月29日 21時00分30秒 | 史跡・歴史巡り
京都には「蹴上インクライン」という桜並木観光スポットがある。インクラインという運河の工程の中の一部分で、明治中期から昭和の終戦直後まで、実際に稼働していた「びわ湖疏水」を利用した舟運ルートのシステムのことだ。滋賀から京都まで荷を運んだのちの舟を、高低差がある滋賀へ引っ張り上げるシステムを「インクライン(傾斜鉄道)と呼ぶそうだ。









近江のお米を伏見の酒屋さんまで運ぶと同時に、伏見からは出来上がった清酒を近江へ運ぶといった用途などもあり、本来の目的のびわ湖疎水自体は、水不足による京都の疫病蔓延を阻止するのに多大な貢献をしたとある。びわ湖の自然の恵み無くして、近代の京都は考えられないのだ。平和な京都で、串カツとおむすびだけのビールランチを楽しんだ。ワシは何十年も以前から何回も通って撮影・お花見などを繰り返しているが、恥ずべき大きな勘違いをしていたのだ。













このセンターに幅狭く走っているレールが、本来の鉄道だと勘違いしていたワシは、まさか大外にあるレールと、センターの2本のうちの一本が対になっているとはつゆ知らず、単線ではなかったのだ。来られていた観光客の方にお聞きすると、その方もセンターの二本が対だと思っていたそうで。(笑) 暫し、蹴上インクラインの桜並木観光スポットをご覧あれ‥‥‥。






















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丹波亀山城 ~明智光秀への誤解をとく城址~

2017年07月13日 21時06分53秒 | 史跡・歴史巡り
信長の天下布武の号令に合わせ、明智光秀が丹波攻略の拠点として「丹波亀山城(現亀岡)は築城された。本能寺の変の際には、光秀の軍勢はここから中国毛利攻めに向かって進軍する予定を、「敵は本能寺にあり」と本能寺へ向かったことで有名だ‥‥って、あの名言はNHKの大河ドラマが創作したものだが、妙に解りやすいので敢えて引用した。

■内堀の外から天守台付近を望む。


■この上の新興宗教の館があるところが二の丸だろう。


■尾根をわざと断ち切った防御「掘り切り」の名残り。


■当時この橋は木造で有事の時は焼き払う。渡ったところが太鼓門跡。


信長没後は、豊臣の支配を経て、徳川の江戸時代には天下普請により、藤堂高虎の縄張りで大修築が行われたのが今も姿を残す「丹波亀山城跡」で、今は無き天守閣は3層から5層5階の立派なものに改築され、3重の堀を持つ城下町が整備された記述がある。明治の廃城令で建物は破却、土地は新興宗教団体が買収し、当時の遺構は壊された。

■三の丸から大手門へと続く。この先に京口があり馬出しだったと推測できる。


■くぐりを進むと本丸跡・天守閣跡へと続く。


■籠城戦時の井戸は飲料水確保で最重要。


本丸跡の方角へ進もうとすると、掘り切りの名残を残す石垣を発見。尾根を仕切るように作られた堀を「堀り切り」と呼んで、敵側の攻撃をここで防ごうという仕掛けである。丹波亀山城の天守閣や石垣は、明治の廃城令に従った破壊などがあって失われているも、いま見られる石垣は、藤堂高虎の監修によるものが僅かに残るのと、戦後に新興宗教の信徒達の手により復元・積み直しなどがおこなわれたとある。

■天守台の全容は、新興宗教の聖域に阻まれ下からしか見られない。


■本丸・天守台の石垣は藤堂高虎積みで、上部になるにつれ急角度にそっくり返っている。




■珍妙な積み方の石垣は、宗教関係者の庫裏近くで自らが積んだものと推測できる。


本丸から更に奥へ進むと、天守台の石垣が待ち受けている。下3段程度は築城当時の石積みが残っているというが、最上段のそっくり返る藤堂高虎積みは、古さや馴染み具合から、当時の現存石垣積みであると推測できる。素人衆の信徒達が積めるものって、この庫裏の珍妙な石垣くらいだろう。天守台跡には、明智光秀手植えのイチョウがあるというが、新興宗教の聖域とやらに阻まれて確認はできなかった。

■この聖域とやらの「とうせんぼ」の向こうが本丸と天守台。


亀山城の本筋とは逸れるが、皆さんはどうも「明智光秀公」を臆病者と勘違いされている節がある。信長への謀反も、冷遇されたのが原因と思っている方が多いと思うが、ワシの見解は信長による比叡山に続く高野山の焼き討ち阻止と、下積み時代は越前朝倉家で光秀と親交もあった、四国を制圧した長曾我部元親への四国攻め阻止を阻止したかったのが真の狙いだったと推測できる。それを実証される記述もチラホラ発見されているにも拘わらず、大河ドラマ側は反映するそぶりも見せないのが不思議だ。

■苔でビッシリ覆い尽くされたところにキノコ‥‥。


■まるでお菓子の「きのこの山」みたいだ。



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真田信繁 幽閉の地 ~高野山 蓮華定院・九度山~

2017年06月20日 21時11分31秒 | 史跡・歴史巡り
高野山には、信州真田家の宿坊でもあった「蓮華定院(れんげじょういん)がある。西軍に属していた真田幸村こと真田信繁と、父=昌幸とが、上田の合戦で徳川秀忠率いる東軍本隊を足止めし、関ケ原の合戦に行けなくして戦勝したが、関ヶ原で石田三成率いる西軍本隊が、家康軍に敗北を喫して負け組となってしまう。この天下分け目の戦いは、数時間で勝敗を決したと歴史で習うが、一説では3ヵ月も続く激戦だったとある。





一方、東軍に組した兄=真田信之とは、直接の攻防はないにしろ、関ヶ原の合戦・大坂の冬の陣・大坂の夏の陣で、兄弟が東西に分かれて戦ったようだ。天下分け目の戦いに、東西のどちらが勝とうとも、息子のどちらかが真田家を存続させるような画策が父=真田昌幸にはあったようだ。





敗戦時に、真田昌幸・信繁父子が蟄居謹慎を命じられ、身を寄せた場所が「蓮華定院」だったのだ。山門には、同家の家紋である六文銭の提灯が下がる。下は高野山の山門。



高野山と九度山を結ぶ山道は、熊野古道と見間違うばかりの、高野参詣道・女人道があって、ハイウェイをバイクで45分のところ、ここを一歩一歩行くと何時間かかるのだろう?





真田家との縁の深さはあるが、幽閉された史実はわずかな期間で、不便なことを理由とし、麓の「九度山」へと幽閉場所を移されたとある。



木戸の家紋には六文銭と、結び雁が紋所の兄=真田信之の家紋が並ぶ。徳川家の重臣である本多忠勝の息女で、徳川家康の養女を正室に迎えた信之は、その縁で東軍の支持にまわった経緯がある。





兄=信之と、その息子=信政の五輪塔も「蓮華定院」に建てられ、死して初めて誰はばからず、親子3人が一緒に行動できるようになったようだ。





日蓮上人ご旧跡や、弘法大使ゆかりの龍光院など、歴史的にも奥が深い高野山。



麓の九度山では、真田衆の僅かな家臣の評判も良く、地元にも貢献していたようだ。しかし「真田十勇士」なる英雄伝や「真田紐」で収入を得ていたのは作り話のようだ。



従って大坂の陣へ出陣する真田信繁は、栄養も行き届かなく、白髪で歯が一本もない精気のない老人姿で、精悍な赤備えの甲冑は豊臣からの支度金で発注したようだ。





麓の村「九度山」では柿が有名で、真田幸村茶は柿の葉茶であるし、柿の葉寿司は保存食として、吉野川流域(紀の川)では有名だ。景色の画像は、上が高野山で麓が九度山、下を流れるのが紀の川だ。




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詫び寂びのティータイム無鄰菴 ~日本の美意識は静かなこと~

2017年06月04日 20時00分09秒 | 史跡・歴史巡り
京都の三条蹴上から下ってきた、南禅寺交差点の横に「無鄰菴(むりんあん)がある。実は、この無鄰菴と言う「山縣有朋の別邸」は山口県と、京都に二カ所の計三カ所にあった。長州藩の下級武士の息子として生まれたが、のちの内閣総理大臣となり日本の最高権力者まで上り詰めた男で、富国強兵策を推進し旧日本軍隊を作り出し、戦争への道筋を敷いた男なのだ。





第一の無鄰菴は、山縣の出身地山口県にあり、この草菴に隣家がないことから「無鄰菴」となったのが名前の由来で、第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条の高瀬川二条苑を改修して作られたが、現在は寿司レストラン「がんこ高瀬川二条苑」となっている。そして第三の無鄰菴が、今回ご紹介する南禅寺の傍らに建てられたもので、京都を訪れることがあれば是非立ち寄って頂きたい。





無鄰菴は、明治の代表的造園家の小川治兵衛(植治)の作庭。特徴は、びわ湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園で、実物の京都東山の背景が庭園と一体化され、水の流れでゆったりとした曲線を描いている。京都のチマチマした街中にあるが、一切周囲の家々の存在を感じられないのが驚きだ。醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝・池・芝生を配した池泉廻遊式庭園は、現在も七代目小川治兵衛が手入れをしているという。



先日、ランチに恩師を招いた時の訪問だが、喫茶店やスタバは無粋だし、いくら味の良い老舗「上島珈琲」や「イノダ珈琲」でも慌ただしいのが実情だ。そんな折には、ワシはこんな「無鄰菴的」な庭園で、詫寂(わびさび)のティータイムとして抹茶を戴くことにしている。拝観料410円・抹茶400円を高いとみるか、風情があって良いものとみるか‥‥人それぞれだが、恩師は自然の涼風と畳の部屋に感動され、居心地が良いと2時間ほど昔話に花が咲いた。






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本能寺ホテル ~歴史フェチは生殺し~

2017年01月20日 21時52分29秒 | 史跡・歴史巡り
かねてから気になっていた映画「本能寺ホテル」を見てきた・・・普通の物語としては、面白おかしくドタバタっぽく作り上げていて、普通に惹き込まれるのだが、ひと度歴史の観点から見ると、いきなり四つ菱旗を立てる騎馬軍団との戦いが始まり、ナレーションもテロップも無いままであれば、最近のお若い方達は対戦相手を把握出来るだろうか?



ついに当日の「本能寺の変」がやってきた。ここでも、謀反人の背中がスクリーン一杯に映し出されるが、それは桔梗の紋どころだけで顔は映らない。これで明智光秀と判らなければならないし、随所に歴史の苦手な方はついていけない場面もあるような気がする。断っておくが「ホテル本能寺」とひっくり返せば、現在も営業のホテルが実在するのでご注意! それにしても予告が始まったのに、ワシから前は全席空席でポップコーンだけが目立った。



一方で、戦国時代のお話は、当然詳しく紹介されることはなく、現代と過去のはざ間を、行ったり来たりのヒロインの婚約話など、どうでもよい事のように思うのだが・・・・これも好みの問題だろうか? ついでに「食」のブログを毎度書かせて貰っている以上、本物の信長が実際に食べていたお膳をご紹介しておく。食材は、鶴・ひばり・キジ・鳩・びわ鱒・鯉・フナ・塩鱈・ハマグリ・サザエなどと、野菜や海草・ご飯類・麺類であった。

   


■あらすじ■

主人公の倉本繭子(綾瀬はるか)は、働いていた会社が倒産し、吉岡恭一(平山浩行)のプロポーズをうけ婚約した。恭一の両親の金婚式パーティーに出席するため、京都で宿泊することになったが、手違いで「本能寺ホテル」という聞いたこともないホテルに泊まる事となる。その本能寺ホテルのエレベーターは、戦国時代へタイムスリップできる不思議な空間だったのだ。繭子は知らずに、1582年6月の戦国時代の「本能寺の変」の前日へ迷い込み、ちょうど織田信長が本能寺に滞在していた。繭子は信長の家臣である森蘭丸(浜田岳)と、何回も顔を合わせるうちに仲良くなり、主人である信長の人格に惹かれていく。秀吉による中国大返しが実現した謎解きも意外なものであったし、歴史上で信長が殺される「本能寺の変」を未然に防ぎ、信長を助けようと奔走する。下の動画を見れば見たくなるかも・・・・。




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第三土曜日は、奈良でお仕事のあと、プチ同窓生宴会に参加しますので、コメントへのお返事・訪問が滞る場合があります。まことに勝手ながら、留守中の応援を宜しくお願い致します。

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赤コンニャクの味噌田楽 ~永源寺赤コンニャクは信長公の町興し~

2016年12月10日 22時33分38秒 | 史跡・歴史巡り
滋賀県(近江)は、紅葉もすっかり終焉を迎えている「永源寺」へやってきた。この地方には「永源寺赤コンニャク」なるものがあるが、なぜ赤いのかと言うと、毎年3月の火祭りで有名な日牟禮八幡宮の、左義長祭りの「火」の中、城主の織田信長が長襦袢姿で踊り狂ったと云われている。その火祭りにちなみ、派手好きな信長がこんにゃくを「赤」くするよう命じたとある。今回は「味噌田楽」をご紹介する。





永源寺近くの駐車場のオッサンは、駐車料金一回/500円で荒稼ぎをしながら、永源寺コンニャクを自家製(穴が多いので自家製と勝手に断定)で作って「永源寺赤コンニャクの味噌田楽/2本150円」で販売している。柚子味噌の香りに山椒もはいっての、アツアツのコンニャクをかじった。



物理的には、「永源寺赤コンニャク」の赤色原料は、三二酸化鉄(さんにさんかてつ)という食品添加物で赤色を出していて、しかもこの物質は人体に有益な鉄分の補給にも役立つのも明記しておく。しかも普通のコンニャクと同様、食物繊維やカルシウムといった栄養も豊富に含んでいる。



食べ方としては、普通のコンニャクと何ら変わりはないが、ワシの実感としてキメが細かく、滑らかさがあるように感じているので「生レバーに見立てた煮込み」も作ってみた。食ったらただのコンニャクの煮付けである。信長ファンとしては、知名度がない安土の「安土城址」と、京都の「本能寺」を併記してご紹介しておく。

興味がおありの方は、つつくと拡大写真が見られます。
 


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びわ湖と瀬田川の境いめ ~粟津の晴嵐ふきん、八真道(やまと)の鶏塩そば~

2016年11月07日 22時10分05秒 | 史跡・歴史巡り
びわ湖から流れ出る唯一の河川「瀬田川」を溯っていくと、まず新幹線ガード下をくぐっても認可標識には瀬田川高架橋と表記されている。次は唐橋を通過し、国道一号線をくぐっても同様、広々としていても瀬田川がまだまだ続くって事になる。



近所のラーメン屋さん、イケ麺バトルでお馴染みの「八真道(やまと)」の鶏塩そばで昼食。




高架橋では、野生の鳩が「ここはまだ瀬田川だよ」と教えてくれ、最後のガス管・電線設備の橋にも瀬田川共同橋の表示であったが・・・・・。いったい瀬田川からびわ湖に変わる場所は何処にあるんだろう?と、河川にしては幅が広過ぎる対岸を見て困惑気味になった。



粟津付近で雰囲気が一変する松林に出るが、かつては旧東海道を歩けば、びわ湖岸の瀬田辺りから広大なびわ湖が顔を出す。当時は瀬田から膳所へと続く湖岸には、三保の松原のように松がズラリと並び、びわ湖の景観を美しく見せていたという。そんなコバルトブルーのびわ湖を背景に、松の枝葉が比叡颪の強風に暴れるさまを「青嵐」と言った事から、歌川広重が湖岸の松並木を歩く旅人の姿を浮世絵に描いている。







大津のなぎさ公園には「粟津の晴嵐」の石碑があり、近江八景の一つとされている。日本海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機の名にもなっている「晴嵐」は、現在一本目の松の木が、瀬田川とびわ湖との境い目だそうだ。一見眺めても何ら区切りが無いので、色分けした風景写真を貼りおく。左がびわ湖で右が瀬田川という境いめであった。






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今回は瀬田川とびわ湖の境目近くの、近江八景「粟津の晴嵐」をご紹介したので、ラーメン屋さん「八真道(やまと)の鶏塩そばは、優れたアッサリ味とだけ記しておく。


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龍馬 vs 軍鶏 ~土佐の三銘酒~

2016年08月27日 22時35分43秒 | 史跡・歴史巡り
京都三条木屋町付近に「池田屋」がある。勿論、現在の建物は「池田屋はなの舞」っていう居酒屋チェーン店だが、実際に新選組の不逞浪士狩りがあった池田屋事件の現場跡でもあるのだ。京都の「池田屋・寺田屋・近江屋」と言えば、都の治安維持組織であった新選組・高台寺党・伏見奉行所などによる、長州藩・薩摩藩・土佐藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件の現場となった場所だ。



池田屋の斜め向かいに、軍鶏料理「龍馬」がある。軍鶏のむね肉・もも肉のタタキで、土佐の味わい辛口銘酒「船中八策・四万十川・土佐鶴」を、尊皇攘夷派の「志(こころざし)」胸に飲めば、窓の外には鴨川の流れと、三条大橋のシルエットがくっきり・・・・・文明開化の騒乱時に色んな思惑がぶつかり合った場所での一献には風情がある。



ここまで言えばワシの好きな分野なので少々つたない解説をしたい。池田屋事件は、京都を火の海にしようと企てた尊攘派浪士達を新選組が襲撃した事件で、寺田屋事件は、薩摩の過激派の尊攘派浪士たちを藩主島津久光の命で薩摩藩士が粛清した事件で、近江屋事件は、潜伏していた坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された事件で、犯人は新選組とも高台寺党とも薩摩藩とも噂される。



近江屋では、尋ねてきた浪人が自分の右ひざ元に置いた刀を、その方向から抜かれた痕跡も発見されている。武士が帯刀する時は大体が右利きなので、右ひざ元に置くことによって、抜く気になっても左手でしか抜けないこと・・・つまり抜く気はないんだよと、相手に伝えるのが礼儀だ。しかし、右ひざ元に置くことは左利き武士の戦闘状態でもあるということだ。ワシは人斬りから新選組に入隊した左利き「斎藤一(さいとうはじめ)が関与していると推測する。




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玉城(たまぐすく)城跡 ~残された一枚岩を刳り抜いて造られた城門~

2016年06月07日 23時50分20秒 | 史跡・歴史巡り
沖縄では、お城のことを「ぐすく」と読むが、あの甲子園で有名になった豊見城高校も、実際の市となれば「豊見城市(とみぐすくし)」と読むのは、こちら本土の方にはあまり知られていない。沖縄本島南部に位置する「玉城(たまぐすく)城跡」に寄ってみると、規模こそ小さいが自然と目を引く本丸への城壁は、ほぼ完全に近い形で残っており、自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門が特におもしろい。そんな主郭跡の城壁・石敷などの遺構も石垣フェチとしては見どころ充分だ。







台地上のさらに高い天然の要害に築かれた「玉城(たまぐすく)城跡」は、石垣の積み方から約600年前のものと推定されている。主郭跡だけは完全な形で残っているが、沖縄地上戦後の米軍統治下で、二の郭・三の郭の石垣を荒らされ、建築用石材に崩され利用されてしまっているのが残念で、米軍は沖縄の心や人だけでなく史跡も破壊していったのだ。







唯一残されている本丸跡には、琉球開闢の七岳の一つとされる「あまつぎ御嶽(うたき)」があり、玉城城跡は別名アマツヅ城とも呼ばれ、巡礼行事の聖地となっている。沖縄のぐすくと呼ばれるお城は、単に琉球国の軍事的なものと言うより、祭祀的な性格も兼ね備わっていて、宗教的要素が特に強かったと考えらる。本土のお城とは少々違った観点での城づくり・・・ワシ自身、常識にあてはまらない「沖縄式ぐすく」には少々戸惑った感じもある。






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お花見 de 彦根城(国宝) ~お花見のMyスポット教えます~

2016年04月10日 23時00分26秒 | 史跡・歴史巡り
国宝「彦根城」の桜は美しい。それは井伊直政公の居城であるお城のシチュエーションがあってこそで、佐和山口から天守閣を見上げると、お堀の水面に移るは、満開を迎えた桜と、佐和山城から移築された防御の要「佐和山多聞櫓」が待ち受ける。地元の武将ということで脚光を浴びだした、関ヶ原敗戦の将「石田三成」の佐和山城から移築された櫓(やぐら)は、佐和山多聞櫓・天秤櫓・太鼓門櫓と数多い。







彦根城のMy桜スポットは、西の丸三重櫓の見える城外の石垣上に立ち、天守閣を見上げると桜の花に覆われて華やかな姿が顔を出す。佐和山口や、京橋口のメジャーなスポットは、観光客で溢れかえっているので、人ごみを避けるように辿りついた西の丸城外がおすすめスポットかも知れない。西の丸三重櫓は地元の武将「浅井長政」の小谷城から、長浜城を経て彦根城へ移築されたもので、天守閣はこれも地元の武将「京極高次」の大津城からの移築である。





主な建造物は、上記にあげたもので総てのような雰囲気だが、考えてみれば侵略者の根城のような、それでいて立派なお城の城主である「井伊直政」だが、ワシは気性的にどうも好きになれない。贔屓の地元の武将は?と問われれば、最近になって滋賀県がプロモーションビデオも製作して全面的にPRしている「石田三成」をあげたい。こんな歴史の背景も考えて桜花と彦根城を併せ見ると、興味深い戦国の世の中が見えてくる。

興味のある方は、更に詳しく「彦根城」をご紹介しています。


おやつ感覚で販売されている「近江牛のコロッケ」は、肉質が違えばジャガイモの味も変わるかのようで、用意できているコロッケもあったが、揚げたてを待ってのブツは、大変美味しゅうございました。




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沖縄 ひめゆりの塔 ~沖縄決戦の犠牲者慰霊碑になみだする~

2016年04月02日 21時28分05秒 | 史跡・歴史巡り
沖縄の慰霊碑「ひめゆりの塔(下の画像手前の小さい石塔)」の呼び名は、吉永小百合さんの映画で殆どの国民が知るところとなったが、戦争中に学徒隊として従軍していた「ひめゆり学徒隊」からの引用で、看護役として学徒動員で召集された、県立第一高等女学校の校誌「乙」と、師範学校女子部の校誌「白百合」とを組み合わせた言葉であって、植物のヒメユリとは関係ない。





そもそも学徒隊とは、政府命令で女学生に対して動員の声がかかり、沖縄決戦に向けて負傷した兵隊などの看護を任ぜようと「ひめゆり隊222人」を含めて、沖縄の在住の女学生に白羽の矢が立ったのだ。「ひめゆり学徒隊」が看護活動を行っていた最後の場所は、校歌にも歌われているように「波の上のほこらおごそかに」と、学徒達が掘ったほこらで救護活動をしていたのだ。





部隊が最後のほこらに移動して来た6月には、沖縄地上戦の戦況が激化し、医薬品や食糧も底をつく絶望のなか、看護役を任命されていた「ひめゆり学徒隊」に、突如軍より解散命令が下された。彼女達が脱出する直前には米軍無差別攻撃で、兵士や学徒の多くが死亡した。ひめゆりの塔は、第三外科壕の上に建てられているので、下を見れば中が見え、泥や雨や砲弾にさらされながら穴ぐら生活するのは想像を絶するものがあったばかりか、生き残った者も海岸へと追い込まれ自決したという。その理由は軍部の「生きて辱めを受けるな!」的な思想が、多数の犠牲者を出す原因となったようだ。ひめゆり部隊の犠牲者194人のうち解散後の死者が128人と、軍部の勝手な精神論が多数の犠牲者を出す原因となったようだ。



塔とは名ばかりで、実物の高さは数10cmと高くないのは、終戦直後の物資難と米軍統治下に遠慮した事情によるものだ。塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれたり、展示物の遺品を見るだけで涙が流れ落ちる……撮影禁止なのでお見せできないが、それらに涙しない人は少ないし「女性も戦った」というポジションではなく、日本軍が沖縄を捨て石にしたことが浮き彫りにされた記念館であった。■合掌




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この地を訪れて、戦没者慰霊で訪問したいところは、残すところ鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」のみとなった。太平洋戦争末期の沖縄戦において、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃を敢行した「特攻隊員」の聖地であるから。なお、近所にヤギ汁で有名なお店があったようだが、ひめゆり学徒隊の慰霊後には失礼だと考え、お腹をすかせて次の観光地へと向かった。

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沖縄世界遺産 中城跡(なかぐすくあと) ~石積みに見る技術水準の高さに驚嘆~

2016年03月30日 22時25分34秒 | 史跡・歴史巡り
沖縄本島の城は「ぐすく」と読んで、あの高校野球で有名だった豊見城(とみしろ)高校などを始めとする市は、豊見城市(とみぐすくし)と読む。前置きはこのあたりにして、石垣の積み方が素晴らしく世界遺産にも指定されている「中城跡(なかぐすくあと)」を訪問。正式には中城城跡となる訳だが、「ぐすく」と「しろ」が混在しているのも変なものなので。沖縄を見渡せる立地の、標高約160メートルの丘陵上にあり、南側丘陵を天然の要害とし「ぐすく」の中でも遺構が特に残っていることで知られている。一の郭に立つと西に東シナ海、更に東に太平洋まで見渡せる眺望は実に素晴らしい。







中城跡は、連郭式の山城で六つの郭で構成されている。城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、石垣には野面積み・布積み・豆腐積み・あいかた積み・亀甲乱れ積みが見られ、北の郭は城郭内に井戸をほり、水脈を確保してあるのが篭城戦も出来る優れた城の証しだ。





薩摩藩の植民地時代を経て、日本に開国を迫った米国のペリー提督が「中城」を見て、建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いたという。そのため、太平洋戦争の沖縄戦でも中城城は被害が少なく、城の石積みが良好に残った城だと言われている。戦後に補修が行われたが、お城ファンにとっては、紹介の通り一見の価値があると締めくくりたい。



興味がおありの方は、更に詳しく書いております。下記のアルバムをご覧ください。




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沖縄の食べ物と言えば・・・軟骨ソーキ。とろんとろんの中にも、軟骨の食感が珍味中の珍味で、豚肉を余すことなく食べる沖縄の食文化は素晴らしい。お酒に合うものばかりと言うのも共感が持てるポイントかも知れない。





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首里城をいく ~琉球国王の屋敷~

2015年09月09日 00時41分13秒 | 史跡・歴史巡り
二次大戦の沖縄戦(1945年)で、首里城はアメリカ軍の攻撃により重要な建物の正殿・北殿・南殿などが総て全焼後、終戦後は琉球大学のキャンパス使用を経て、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元復旧事業が進められ現在に至っている。世界遺産に「首里城跡」として登録(2000年)され、鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり沖縄のシンボルと言えるだろう。



発掘調査の結果で首里城の建築は、14世紀前半頃と言われ「尚巴志(しょうはし)国王」が、琉球王国支配のための居城として以来、18世紀に明治政府に明け渡すまで、約500年に渡って政治・外交・文化の中心として琉球王国は栄華を誇った。首里城には中国・日本・東南アジアなどとの交易から、漆器・染織物・陶器・音楽などにおける琉球独特の文化が栄えたのだ。







首里城は、周囲の地形を巧みに活用した内郭と外郭に分けられ、強固な城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、規模は総延長約1,080m、高さ6~15m、厚さ約3mは頑強そのもの。いよいよ首里城、まずは礼節を守るという意味の「守礼門(しゅれいもん)」から進入し「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」を経て、歓んで迎える意味の「歓会門(かんかいもん)」は、首里城の正門。中国皇帝の使者など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられている。別名「あまへ御門」とも言い、沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味している門の両側の一対の獅子像(シーサー)は、ご存知の通り魔よけの意味をもっている。









瑞泉門手前右の階段を下ると「龍樋(りゅうひ)」があり、綺麗な湧き水が国王一族の大切な飲料水でった。櫓の中の水時計で時刻を計ったことで名付けられた「漏刻門(ろうこくもん)」では、身分の高い役人も国王に敬意を表して手前で籠を降りたと言う。「広福門(こうふくもん)」と「奉神門(ほうしんもん)」を経て、城内にはいると礼拝所のひとつ「首里森御嶽(すいむいうたき)」がある。





南殿と番所の建築は日本風のようで、黄金御殿・寄満・近習詰所を見学しながら首里城正殿へと進むと、2階の御差床は、国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。儀式の際には床の間に香炉・龍の蝋燭台・金花・雪松などが置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。





壇の形式は日本の寺院に似ており、側面の羽目板には、ブドウとリスの模様が彫刻されている。高欄(こうらん)は正面に1対の金龍柱が立ち、その他の部材には黒漆(くろうるし)に沈金(ちんきん)が施されていた。正殿から出たところに、本州の城の鯱(しゃちほこ)にあたる竜頭が見える。沖縄の龍は、中国に敬意を表して指が1本少ない4本であるのも奥ゆかしい点だろうし、本州の龍は3本の場合もある。





帰り道順は、左側の城壁を見ながら、下側の遺構石積・上側の復元石積にロマンを見て、石垣フェチのワシは石畳道を歩きながら、遥か古の琉球王朝を空想するのに忙しくて足が前へ進まなかった。その他色々な画像もあり、右のお城コレクションにアルバムを貼り置きブックマークして置くので興味のある方はご覧戴きたい。




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大和郡山城 ~目的が変わる城~

2015年08月13日 22時12分09秒 | 史跡・歴史巡り
奈良の中心部に「大和郡山城」があるが、天守閣は残っていないし当時のものは石垣くらいしかないので、お故郷自慢(おくにじまん)とは行けないところが残念だ。しかし、敢えて郡山城の凄いところを紹介しておきたい。当初は奈良一帯に数多くある城の一つに過ぎなかったのだが、織田信長の命によって筒井順慶が城郭を築いたのが発端だという。







豊臣全盛期の頃は、秀吉の実弟「羽柴秀長」を100万石で据え、大坂城を援護するための城だったはずが、徳川に権力が移行してからは、大坂城を攻撃するための城と変わり果てた経歴を持つ。事実、大坂夏の陣が起こると、豊臣軍は徳川軍を抑えるために大和郡山城に攻め込み落城させた記録が残っている。水野・松平・本多を経て、徳川の家老「柳沢吉保」が15万石の大名とされ、柳沢家で明治維新を迎える。







現在では、追手門・追手東隅櫓・多聞櫓・追手向櫓と復元されているし、次の石垣は天守閣の土台となっている石垣だが、現在は2年計画で改修中で、立ち入り禁止状態であった。この向こうに側に迂回すると、当時の石不足を補う手段として、お地蔵さまが「逆さ地蔵」として組み込まれているのが見れるのだが。






城跡内に二校の奈良県立高校「郡山高校」と「城内高校」があるのは、全国的に見ても珍しいだろう。お城の、玄関口に当たる位置で営業されている、宮内庁ご用達の和菓子の老舗「菊屋さん」のお菓子を、次回ご紹介する。お城の口で営業されているので「御城之口餅」と呼ばれている、歴史あるお菓子なのだ。



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