◇「自由」にも囚われない◇
悟りとは自由だとか、自由になっていくことだと言われることがあります。
自覚等により囚われの手放しが起こると、その囚われからの制限が外れることで自由になった感覚が生じますので、確かに悟りにはそういう側面はあります。
まずは、そうやって自由になった実感を味わわれたらいいと思います。
しかし、その自由にも注意をして頂きたいのです。
なぜなら、自由も考えであり概念なのです。
つまり、自由や自由な感じというのも、それ自体が囚われになることがあるのです。
取り立ててそれを過度に主張する方は、それに囚われている可能性が高いです。
そこには、自由が良いものだ等の囚われがあります。
また、こんなことも言えます。
その人が、何らかの自由を実感しているということは、そこには、その自由と言っていることに関連する何らかのことがらに対する複数の選択肢があり、それらの選択肢に対する選択の自由があるということです。
そしてその人が、それらの選択肢から自分の気に入った選択肢を自由に選んでいるということです。
その選択肢は、どういう基準に基づいて選択されているのでしょう。
多くの場合そこには、その選択肢を選択している基準に関する囚われが潜んでいます。
つまり多くの場合、自由には、まだ囚われが潜んでいるのです。
別の言い方をすると、囚われが、自由(つまり選択肢とその選択の自由)という錯覚(幻)を引き起こしているということもできるのかもしれません。
また、こんなことも言えるかもしれません。
あなたに、何かについてこうしようとか、ああしようという意思が生じたとします。
多くの場合そこには、その対象についてこうした方がいいとか、ああした方がいいという判断の基準となる囚われがあります。
つまり、こうしよう等の意思が先にあるのではなく、その意思を引き起こしている誘因となる囚われが先にあるのだと言うこともできるのです。
では、その意思の誘因となる囚われが無ければどうなるでしょう。
ここは非常に興味深い点だと思います。
自由も、意思も、そしてそれらを実感している私も、幻なのです。(^^)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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悟りとは自由だとか、自由になっていくことだと言われることがあります。
自覚等により囚われの手放しが起こると、その囚われからの制限が外れることで自由になった感覚が生じますので、確かに悟りにはそういう側面はあります。
まずは、そうやって自由になった実感を味わわれたらいいと思います。
しかし、その自由にも注意をして頂きたいのです。
なぜなら、自由も考えであり概念なのです。
つまり、自由や自由な感じというのも、それ自体が囚われになることがあるのです。
取り立ててそれを過度に主張する方は、それに囚われている可能性が高いです。
そこには、自由が良いものだ等の囚われがあります。
また、こんなことも言えます。
その人が、何らかの自由を実感しているということは、そこには、その自由と言っていることに関連する何らかのことがらに対する複数の選択肢があり、それらの選択肢に対する選択の自由があるということです。
そしてその人が、それらの選択肢から自分の気に入った選択肢を自由に選んでいるということです。
その選択肢は、どういう基準に基づいて選択されているのでしょう。
多くの場合そこには、その選択肢を選択している基準に関する囚われが潜んでいます。
つまり多くの場合、自由には、まだ囚われが潜んでいるのです。
別の言い方をすると、囚われが、自由(つまり選択肢とその選択の自由)という錯覚(幻)を引き起こしているということもできるのかもしれません。
また、こんなことも言えるかもしれません。
あなたに、何かについてこうしようとか、ああしようという意思が生じたとします。
多くの場合そこには、その対象についてこうした方がいいとか、ああした方がいいという判断の基準となる囚われがあります。
つまり、こうしよう等の意思が先にあるのではなく、その意思を引き起こしている誘因となる囚われが先にあるのだと言うこともできるのです。
では、その意思の誘因となる囚われが無ければどうなるでしょう。
ここは非常に興味深い点だと思います。
自由も、意思も、そしてそれらを実感している私も、幻なのです。(^^)
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