◇何かを求める衝動に気づく◇
私という存在である自我に関する表現の一つとして、それは衝動そのものである言うことができます。
衝動そのもの、あるいは衝動の連鎖そのもの、それが自我です。
私という自我は、常に何かを探し求め、追い求めています。
その何かを求める衝動が自我です。
そのような自我の変遷の過程で、これはという何かを手に入れることがあります。
そのときには、喜びも生じますし、思わずそれを誰かに伝えたくもなります。
「これだ」などと言ったりしながら、伝えようとします。
しかし、そうやって手に入れた「何か」も、自我がつくる考えであり、幻なのです。
やっと手に入れたという喜びの余り、それが幻だということに目が直ぐには向きませんが、いずれ気づくときがきます。
「これでもなかった」と。
そして、また探し始めるのです。
何かを手に入れる等の結果や結末にばかり目が行っていると、気づくことができません。
ヒントは、何かを探し求めているその衝動にあります。
あるいは、何かを「これだ」と掴むその自我の衝動にヒントがあります。
あなたの視線を、探し求めているその対象から自分自身に戻してください。
そして、何かを探し求める自分のその衝動に気づいてください。
延々と彷徨っている自分自身の姿に気づいてください。
気づくと、終わります。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私という存在である自我に関する表現の一つとして、それは衝動そのものである言うことができます。
衝動そのもの、あるいは衝動の連鎖そのもの、それが自我です。
私という自我は、常に何かを探し求め、追い求めています。
その何かを求める衝動が自我です。
そのような自我の変遷の過程で、これはという何かを手に入れることがあります。
そのときには、喜びも生じますし、思わずそれを誰かに伝えたくもなります。
「これだ」などと言ったりしながら、伝えようとします。
しかし、そうやって手に入れた「何か」も、自我がつくる考えであり、幻なのです。
やっと手に入れたという喜びの余り、それが幻だということに目が直ぐには向きませんが、いずれ気づくときがきます。
「これでもなかった」と。
そして、また探し始めるのです。
何かを手に入れる等の結果や結末にばかり目が行っていると、気づくことができません。
ヒントは、何かを探し求めているその衝動にあります。
あるいは、何かを「これだ」と掴むその自我の衝動にヒントがあります。
あなたの視線を、探し求めているその対象から自分自身に戻してください。
そして、何かを探し求める自分のその衝動に気づいてください。
延々と彷徨っている自分自身の姿に気づいてください。
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