◇私の成り立ち(1)◇
今日は、私という存在について現時点で得られている私の理解を書いてみたいと思います。
それが分かって何がいいの?、というような内容ですので、興味のおありの方だけお読み下さい。
私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があり、これらが交互に顕在化することで成り立っています。
なお、ここでいう自我とは肉体に付随した肉体感覚の自我感覚とは違います。
私は、自我とは私に起こってくる考えそのものであると理解しています。
考えとは、自我に起こってくる各種の認識や、感覚、感情、思考等のすべてを含めたものです。
つまり、いかにも実体として存在しているように見えるこの宇宙も、それが実体して存在しているのではなく、宇宙という認識である考えが起こっているに過ぎないのだということです。
そして、その起こっている認識である考えそのものが自我だということです。
考えは連続して起こるものではなく、一つ一つの考えが断続的に起こります。
ですから、私に何らかの考えが起こっているときにだけ自我が顕在化し、それ以外のときは、基本的にすべて真我が顕在化します。
つまり、自我は考えと同時に断続的に生じるものだというとです。
考えが起こってくると、それと同時にその考えに対する認識がまず生じ、自我の感覚が生じます。
そして、その認識した考えに付随する(あるいは関連する)考えが派生的に生じ、さらにその考えに派生した考えが生じていきます。
この考えの連鎖がどのように展開するかは、まさにケースバイケースであり、起点となる最初の考えから数えていくつかの数だけ連鎖すると一旦終了となります。
この考えの連鎖のことを「縁起」と言ったりするようです(私は詳しくは知りません、笑)。
考えの連鎖の一例として例えば、学校や職場で終了のチャイムが流れていることを認識したとします。
このチャイムが鳴ったという認識がこの場合の起点となる考えで、この考えと同時に自我が顕在化します。
そして、そのチャイムの認識に派生して、授業等が終了したという認識が生じ、その認識に関連して帰宅等の次の行程に関する考えが生じます。
さらに、次の行程が帰宅なら、帰宅行動に関連する考えや、帰宅後のことに関する考えなどが起こっていき、考えの派生が一段落するまで断続的に続いた後、終了します。
また他の例として、ふいに何かを思い出し、その思い出したことに関連して考えが派生していくことがありますが、この場合も、ふいに起こってきた記憶に対する認識が考えの起点となり、その記憶の認識と同時に自我が顕在化します。
真我が顕在化しているときは、基本的に自我が完全に不在となるため、自我が普段認識するすべての感覚等(五感と意の六根)に対する認識も不在となります。
よって、自我が完全に不在となっているときは、すべて消え去った状態となります。
正確には、消え去るという概念さえもない状態となります。
(この最後の段落の記載を訂正しました、2014年6月19日)
続きます(一応その予定です、笑)。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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それが分かって何がいいの?、というような内容ですので、興味のおありの方だけお読み下さい。
私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があり、これらが交互に顕在化することで成り立っています。
なお、ここでいう自我とは肉体に付随した肉体感覚の自我感覚とは違います。
私は、自我とは私に起こってくる考えそのものであると理解しています。
考えとは、自我に起こってくる各種の認識や、感覚、感情、思考等のすべてを含めたものです。
つまり、いかにも実体として存在しているように見えるこの宇宙も、それが実体して存在しているのではなく、宇宙という認識である考えが起こっているに過ぎないのだということです。
そして、その起こっている認識である考えそのものが自我だということです。
考えは連続して起こるものではなく、一つ一つの考えが断続的に起こります。
ですから、私に何らかの考えが起こっているときにだけ自我が顕在化し、それ以外のときは、基本的にすべて真我が顕在化します。
つまり、自我は考えと同時に断続的に生じるものだというとです。
考えが起こってくると、それと同時にその考えに対する認識がまず生じ、自我の感覚が生じます。
そして、その認識した考えに付随する(あるいは関連する)考えが派生的に生じ、さらにその考えに派生した考えが生じていきます。
この考えの連鎖がどのように展開するかは、まさにケースバイケースであり、起点となる最初の考えから数えていくつかの数だけ連鎖すると一旦終了となります。
この考えの連鎖のことを「縁起」と言ったりするようです(私は詳しくは知りません、笑)。
考えの連鎖の一例として例えば、学校や職場で終了のチャイムが流れていることを認識したとします。
このチャイムが鳴ったという認識がこの場合の起点となる考えで、この考えと同時に自我が顕在化します。
そして、そのチャイムの認識に派生して、授業等が終了したという認識が生じ、その認識に関連して帰宅等の次の行程に関する考えが生じます。
さらに、次の行程が帰宅なら、帰宅行動に関連する考えや、帰宅後のことに関する考えなどが起こっていき、考えの派生が一段落するまで断続的に続いた後、終了します。
また他の例として、ふいに何かを思い出し、その思い出したことに関連して考えが派生していくことがありますが、この場合も、ふいに起こってきた記憶に対する認識が考えの起点となり、その記憶の認識と同時に自我が顕在化します。
真我が顕在化しているときは、基本的に自我が完全に不在となるため、自我が普段認識するすべての感覚等(五感と意の六根)に対する認識も不在となります。
よって、自我が完全に不在となっているときは、すべて消え去った状態となります。
正確には、消え去るという概念さえもない状態となります。
(この最後の段落の記載を訂正しました、2014年6月19日)
続きます(一応その予定です、笑)。
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読んで頂いてありがとうございました。
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