私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

私の体験談(見性後から大悟まで)(1)

2014年11月20日 22時37分13秒 | 私の体験
◇私の体験談(見性後から大悟まで)(1)◇

悟りの階梯の方を先に書こうと思っていたのですが、気が変わりまして、見性後から解脱の悟りに至るまでの私の体験談を何回かに分けて書いてみたいと思います。
まずは、見性から大悟に至るまでの体験について書きたいと思います。

まずはじめに、私のこれまでの経過を簡単にまとめて起きたいと思います。
私の場合は、最初に、2012年12月20日に明け渡しを経験しました(いわゆる真我の外縁に触れる体験です)。
それに続いて、2013年4月2日前後に、自我を捉える悟りである見性を得、これに伴って天界の悟り階層に入りました。
(一般に見性は緩やかな悟りであり、私の場合もそうだったので、見性のタイミングをこの日だと断定するのは難しいのです。)
続いて、同年10月19日に、大悟を得ました。
そして、翌2014年2月11日に、解脱の悟りを得ました。

それでは、本題に入っていきます。

私は、2012年暮れに明け渡しを体験した直後から、智慧が働くようになっていました。
その智慧とはどんな感じかと言いますと、内面から湧き起こるようにして、あるいはハッとひらめくようにして、自分自身の内面のことや、この世界の仕組みに関することを理解するようになっていました。
2013年4月初めに見性を得た後は、その智慧の働きがさらに深くシャープになったようでした。

そして、見性を得た直ぐ後の4月9日のマスターゲートさんの講話を聞いているときに、智慧の働きにより、私にとって大きな契機となる理解を得ました。
その理解が生じた後の数分間は、大小複数の智慧の発動というか理解が生じ、自分の内面に没頭していました。

その理解とは、この世界のすべてのことは考えであり、私という自我を通してつくり出されているんだという理解でした。
この理解は、私に二つの派生的な理解を起こしました。
まず派生的な理解の一つ目として、どうして私たちに創造主としての自覚や主体性が必要なのかを理解しました。
どういうことかと言いますと、私が考えによりすべてのことをつくり出しているのだから、自分自身からつくり出されている考えに自分が翻弄されていてはどうしようもない訳であり、自分はそのことにしっかりと気づいているべきだということが分かったのです。
この派生的な理解により、私は創造主としての私なりの心持ちと言いますか、立ち位置をある程度確立したんだと思っています。

それに続いて生じた派生的な理解の二つ目は、すべては考えに過ぎないんだという理解そのものに対する着眼でした。
その着眼は、あらゆる対象を幻想として打ち壊していく破壊の目でした。
まさにそのときから、私は創造主としての立脚点を確立するのと同時に、その破壊の目により、創造主である自分自身や、創造主として自らが立っているその足場を破壊し始めたのです。

そして、その破壊の目は私自身に対する大きな直感的理解を直ぐに誘発させました。
その理解とは、この世界だけでなく、世界をつくりだしている私という自我そのものも考えに違いないという確信でした。

しかし、そのときの私は、その直感的な理解が絶対に正しいものであることを確信しただけで、それがどういう意味なのかが今ひとつ分からずにいました。
そして、その「私自身も考えである」ということの意味を解き明かそうとする追求心と、「すべては考えに過ぎない」という理解から生じる破壊の目が、それ以後、私が大悟を得るまでの案内役となりました。


次回は、私が天界の悟り階層にいたころの前半部分の様子等について書いてみたいと思っています。

続きます。


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読んで頂いてありがとうございました。

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