◇感覚ではなく理解が決め手なのです◇
なぜ、至福等の感覚的な手掛かりでは不十分なのかを書きますね。
端的に言えば、何らかの感覚があるということは、まだそこには私という自我があるということだからです。
自我とは、私が抱え込んでいる執着によって誘発される分別、あるいは分別の連鎖そのものですから、ここが終着点であると言っている場所でまだ何らかの感覚があるということは、まだ執着を掴んでいるということなのです。
至福感は、真我の外縁に触れたときに得られる感覚なのです。
真我を完全に捉えたなら、私という自我は完全に不在となりますから、そこでは一切の感覚は無くなるのです。
完全に真我を捉えているとき、限りなくうっすらと自我が目覚めているときがあります。
しかしそのとき、一切の感覚はありません。
事がただ起こっていくのをただ目撃するだけなのです。
しかし、この真我もまた考えであり、幻なのです。
真我を絶対なものとして掴まないで頂きたいのです(各自の自由ではありますが、笑)。
真我を盲信することなく、真我に対しても、これは何かという疑いの目、問いをぶつけていただきたいのです。
徹底的に問いをぶつけたとき、真我の本質が理解できると思います。
そしてそのとき、無明の迷いも晴れます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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なぜ、至福等の感覚的な手掛かりでは不十分なのかを書きますね。
端的に言えば、何らかの感覚があるということは、まだそこには私という自我があるということだからです。
自我とは、私が抱え込んでいる執着によって誘発される分別、あるいは分別の連鎖そのものですから、ここが終着点であると言っている場所でまだ何らかの感覚があるということは、まだ執着を掴んでいるということなのです。
至福感は、真我の外縁に触れたときに得られる感覚なのです。
真我を完全に捉えたなら、私という自我は完全に不在となりますから、そこでは一切の感覚は無くなるのです。
完全に真我を捉えているとき、限りなくうっすらと自我が目覚めているときがあります。
しかしそのとき、一切の感覚はありません。
事がただ起こっていくのをただ目撃するだけなのです。
しかし、この真我もまた考えであり、幻なのです。
真我を絶対なものとして掴まないで頂きたいのです(各自の自由ではありますが、笑)。
真我を盲信することなく、真我に対しても、これは何かという疑いの目、問いをぶつけていただきたいのです。
徹底的に問いをぶつけたとき、真我の本質が理解できると思います。
そしてそのとき、無明の迷いも晴れます。
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