◇迷いの構造について◇
以前から繰り返し書いているのですが、今日は私という存在の根本的な性について、少し具体的な例を挙げながら改めて書いてみようと思います。
私という存在は延々と考えを繰り広げているというか、繰り広げられている考えそのものが私というか、私とはそういうものです。
その延々と繰り広げられている考えの展開には、絶対的なあるパターンがあるのです。
絶対的というのは、常にそのパターン、つまり構造で考えの展開が起こっているのだということです。
そのパターンとは、私という存在が繰り広げる一連の考えは常に、苦や不足感等の負の感覚(考え)を起点として展開されているということです。
私がつくる考えの展開を数時間くらいの短いスケールで見た場合も、数ヶ月や数年、あるいはいくつかの人生に渡る長い期間で見た場合も、考えが展開される基本的な構造は負の感覚(考え)を起点としたものなのです。
そして、楽、喜び等の正の感覚(考え)は、起点となる負の感覚に対する一時的な反射としてあるものであり、それは苦等の負の感覚(考え)が解消されたときに一時的に得られる一過性のものに過ぎないのです。
これを具体例を挙げて説明してみます。
一番分かりやすい例は、空腹感です。
あなたが食事をする、あるいは食事をしようという考えや行動を起こすとき、その考えの起点には空腹感があるのです。
そして実際に食事をしたとき、あなたは満足感を得るでしょう。
しかし、その満足感は、食事を得るという行為そのものから直接的に得られる感覚ではなく、空腹感が解消されたことにより得られる反射であり、一過性の感覚なのです。
それは、空腹感はそれが満たされるまで持続されるのに対し、食事を得たときの満足感はさまに一時的なものである点からも理解できると思います。
また、あなたはよく、あなたを取り巻く状況について何かをしようとされると思います。
ここはこうした方がいいとか、こうあるべきだ等の考えや、それに基づく行動がそれです。
そうした考えや行動も、ここがダメだ、間違っている等の負の考えが起点となっています。
また比較的よくあるケースとして、ヒマだから何かしようという展開があります。
これもヒマという不足感を起点としています。
考えの一つ一つの展開をよく観察すればするほど、そこに同じパターンの構造があることが分かると思います。
それでも、そんなことはない、楽や幸せ等の正の感覚(考え)から始まる展開もあるはずだと思う方がおられるかも知れません。
確かに一定の期間、幸福感等の考えが連鎖的に展開されることがあります。
しかし、その展開は負の感覚(考え)の種を常に妊んでいるのです。
そこにはまず、幸福等の考えを失いたくない持続させたいという、それを失うことに対する恐れという負の考えが不可避的に潜んでいます。
そしていずれは、幸福等の考えが失われるときが到来し、喪失感という負の感覚(考え)をつくるのです。
また、幸福等の正の感覚は不可避的にいずれ必ず飽きがきて、自らそれを手放すことになるのです。
絶対そうなるのです。
これに対し、苦等の負の感覚(考え)は飽きがくることは決してないのです。
苦は楽と違って永久にそれを経験することも可能なのです。
ここまで書いといてアレですが、この題材は書いていてあまり気分がいいものではないです。(^_^;)
読まれる方もさぞ不快な気持ちになられるのではないかと思います。
しかし、これが私という存在が延々と続けている活動であり、私という存在の姿なのです。
ではどうしたらいいのでしょう。
そういう自分自身の姿を悟る、つまり理解するしかないのです。
これしかないのです。
そのためには、自分自身を観る自覚を続けていくしかないのです。
あるいは、すべてを受け入れてしまうしかないのです。
いずれ必ず、迷いから解放されるときが来ます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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以前から繰り返し書いているのですが、今日は私という存在の根本的な性について、少し具体的な例を挙げながら改めて書いてみようと思います。
私という存在は延々と考えを繰り広げているというか、繰り広げられている考えそのものが私というか、私とはそういうものです。
その延々と繰り広げられている考えの展開には、絶対的なあるパターンがあるのです。
絶対的というのは、常にそのパターン、つまり構造で考えの展開が起こっているのだということです。
そのパターンとは、私という存在が繰り広げる一連の考えは常に、苦や不足感等の負の感覚(考え)を起点として展開されているということです。
私がつくる考えの展開を数時間くらいの短いスケールで見た場合も、数ヶ月や数年、あるいはいくつかの人生に渡る長い期間で見た場合も、考えが展開される基本的な構造は負の感覚(考え)を起点としたものなのです。
そして、楽、喜び等の正の感覚(考え)は、起点となる負の感覚に対する一時的な反射としてあるものであり、それは苦等の負の感覚(考え)が解消されたときに一時的に得られる一過性のものに過ぎないのです。
これを具体例を挙げて説明してみます。
一番分かりやすい例は、空腹感です。
あなたが食事をする、あるいは食事をしようという考えや行動を起こすとき、その考えの起点には空腹感があるのです。
そして実際に食事をしたとき、あなたは満足感を得るでしょう。
しかし、その満足感は、食事を得るという行為そのものから直接的に得られる感覚ではなく、空腹感が解消されたことにより得られる反射であり、一過性の感覚なのです。
それは、空腹感はそれが満たされるまで持続されるのに対し、食事を得たときの満足感はさまに一時的なものである点からも理解できると思います。
また、あなたはよく、あなたを取り巻く状況について何かをしようとされると思います。
ここはこうした方がいいとか、こうあるべきだ等の考えや、それに基づく行動がそれです。
そうした考えや行動も、ここがダメだ、間違っている等の負の考えが起点となっています。
また比較的よくあるケースとして、ヒマだから何かしようという展開があります。
これもヒマという不足感を起点としています。
考えの一つ一つの展開をよく観察すればするほど、そこに同じパターンの構造があることが分かると思います。
それでも、そんなことはない、楽や幸せ等の正の感覚(考え)から始まる展開もあるはずだと思う方がおられるかも知れません。
確かに一定の期間、幸福感等の考えが連鎖的に展開されることがあります。
しかし、その展開は負の感覚(考え)の種を常に妊んでいるのです。
そこにはまず、幸福等の考えを失いたくない持続させたいという、それを失うことに対する恐れという負の考えが不可避的に潜んでいます。
そしていずれは、幸福等の考えが失われるときが到来し、喪失感という負の感覚(考え)をつくるのです。
また、幸福等の正の感覚は不可避的にいずれ必ず飽きがきて、自らそれを手放すことになるのです。
絶対そうなるのです。
これに対し、苦等の負の感覚(考え)は飽きがくることは決してないのです。
苦は楽と違って永久にそれを経験することも可能なのです。
ここまで書いといてアレですが、この題材は書いていてあまり気分がいいものではないです。(^_^;)
読まれる方もさぞ不快な気持ちになられるのではないかと思います。
しかし、これが私という存在が延々と続けている活動であり、私という存在の姿なのです。
ではどうしたらいいのでしょう。
そういう自分自身の姿を悟る、つまり理解するしかないのです。
これしかないのです。
そのためには、自分自身を観る自覚を続けていくしかないのです。
あるいは、すべてを受け入れてしまうしかないのです。
いずれ必ず、迷いから解放されるときが来ます。
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