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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い、後日談編パート1ー借金返済への道、クレジットカード会社解約への道(1)

2022年10月03日 15時30分52秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 (後日談)
 その後、私は、そのたしか前年か、いまから数えると、その買い物が、結局借金の元になるんだが、その実際、K島電気で買ったパソコン(Windows10,東芝ダイナブックノートPC)を十万前後以内、そう、その画像が、私の残してあったわたしのブログ記事がそっくり、誰かが私と同じ当時のブログの題名タイトルで、(この場合、私の個人的なブログの著作権はどうなるのか?)結局、又、k島の中古買取を利用して、10分の1か、5分の1か、非常に格安の値段で、私は私のパソコンを売った。
 そして、その、k島を寄ったその足、つまり、自転車、法律、道路交通法では軽車両での移動で、何とか太田西ノ内病院へたどり着き、そして、受付に、先日救急で伺った、wainai○○子の息子、○○です。郡山市○○町の者です。
 と言うと、受付の係の人が「wainaiさん、wainaiさん、あった、じゃあ、金額は合計で、○万○○円です。
 と言うと、やはり高いな、とは思いつつ、k島で現金調達が出来て助かった、とこの時は、ぬか喜びしていたのである。

 しかし、この、クレジットカードなる、悪魔の札、は、その頃から、漫画家で共産党のシンパで、「ナニワ金融道」なる漫画を描いて好評を博した、青木雄二という、作者が発した名言、
 「クレジットカードは、借金札である」
 という言葉、一節を、私はネットか新聞か本か、めったに漫画は嫌いで読まないので、その前者のいずれかで、その時、彼のその言葉を知った。正に言い得て妙、名言だと思った。

 とにかく、カードの返済に困り果て、とうとう私は、借金が雪だるま式に膨れ上がり、正に自転車操業であり、その様子を母の福祉担当員、地域包括支援センター、あんしんセンターのOW田さんは、しっかり、私のうちにも玄関から実際に上がり、母と共に過ごす私をずーっと見続けていて、私のカード払いの頻繁さ、使用のし過ぎ、キャッシング(現金引き出し)は全くやってはいなかったが(母は、頭がいいから、それらキャッシングを利用したが、やはり借金を抱え、五、六、七、八、九、十年以上位まえに借金を完済し、そのカードはハサミを入れて処分し、カード会社とも母はきっぱりと解約し、以後、二度と使う事は全くなかった)、全く私はATMのキャッシングが判らず、今もそれが、利用できたのかも判らないが(結局、母の大借金、と言っても、二十万位の額だったが)私は母の例を見て知っているので、ショッピング枠でのみ使った、とにかくOW田さんその人は、私の金遣いの荒さを、彼女なりの目で気付いていた。 

 それを、見抜き、底の底を、字ずらの、文章の間と間との、行間を読み込むが如くの、正に、文の底、底意を知る、日蓮正宗の、大聖人様の極意極説の、法華経の「文底秘沈の大法」の特別に大事の法門を彼女なりに、我ら正宗信徒でもない、一介の、一般の人が、素人の人が、恐らく先祖代々邪教を信ずる、あのOW田さんなりに、福祉の世界を生きて来て、自分で編み出した、ど素人がそれを体得、見事やってのけた、素晴らしい、正宗気質を地でゆくような、感覚を私は今も、思い、最近もそれに正しくそれを気付いたばかり。 

 とにかく、OW田さんは、私を特別な見方で誰よりも心配し、その、後に私に関わる福祉関係者の中では正に大恩人の内の一人となる。

 何でもかんでも、今の世相、今の現金軽視、カード社会の闇を、私は嫌になる程、知っている。

 母のキャッシュカード借金の時、私ら親子は、月報こおりやま、という郡山市が出しているミニコミ広報誌を見て、今から遡る事十余年以上前の、私も自身のクレジットカードを止める時から(註:ここでお断り。ー・母がうちから去り、施設に入り、私一人の生活が続く、今から二、三、四年前のかなり最近に、私は借金を全額無事完済し、やはり、ハサミでカードを切る母の流儀を守り、そのカード会社をきっぱりとあと腐れなく解約した)十数何年前の、冬の日のある日に、弁護士会で法律相談をやると見出しがあり、母は俄然、行く気になり、その予定を取り、予定日になり、母と共に行った。

 そこの、郡山市堂前町にたしかある、弁護士会館は、街の中の、低い街並みの建物が続く一角にあり、そこの玄関に私と母は入って行った。
 すると、女性らしい、頭を掻きむしりかき上げた、ボサボサ頭の人、何か借金のことで、泣いたり叫んだり、その場でしゃがみこんだりしている人、立ち上がって、何か、夫婦喧嘩、痴話げんかの最中の、あんたがパチンコばっかりやって、皆パチンコにつぎ込み、家の金全部を使っちゃったから、こんな目に遭うんだ、アンタ、とか言う悲しい、この世の修羅のような、むしろ地獄界の境涯の、最低な部類の、本当にこの世の地獄がここなんだ、という実感。

 この後、私達親子は、受付で予約の者だと言い、次の部屋に通された。

 そこで、さすがに頭のよさそうな、本当に日本一難しい(その当時においては。昔の司法試験は合格率1%いるかいないかの超激戦難関試験だったが、いまは、司法試験も、新聞紙で読む限り、合格率が4,50%の緩い試験で、試験に受かっても、コネが無いと法律事務所にも就職も出来ず、普通に司法試験合格者が職にあぶれて、自宅の牛乳屋を手伝っている話も聞いている。
 裁判官になるのも、その地方裁判所の、実際の所は、司法実習生、今でいう、インターンになるのだが、そこの裁判所に、或る程度、コネ、も必要であり、カネ、も或る程度、必要だと聞いた事がある。公務員社会もコネ、カネ、であり、公務員になるのに、三百万かかったとか、母は福島交通の駅前から我が家への帰りのバスに乗った時、何人かの乗客が、公務員にそんなに金がかかる話を大声で話していたと、母が家に帰って来てからすぐに、家で勉強してから何か飲み物を飲みに、台所へ来ていた私に母がビックリして語ったのを、確か昭和の頃の話を、今も思い出す。)司法試験を通って来た、いい感じのした弁護士さんだった。

 その弁護士の方は、うちの最近までの、そのカードはイオン一社だったがそれら、毎月の請求書類に目をじっくりしっかり通した弁護士さんは、開口一番、

 弁護士さん。
 「これくらいなら、じぶんで払えるでしょう、充分、払える額です」
 と仰る。

 弁護士さん。
 「この、二十何万、この額、ここに今日も、いつも来て頂いている他の皆さんは、ハッキリ言って、こんな額じゃあ済みません。こんな恵まれた、少量の、年金でも十分返済してゆける額、こんな人、滅多にうちなんかに相談になんか来ないですよ。」

 弁護士さん。
 「ここにきている方々は、余り大声では言えませんが、皆、多重債務者、一人で何社もカード会社を渡り歩き、その額も五百万、八百万、一千万以上と、そういう方々がとても多くいらしていて、とてもじゃないが、それと比べても、あなたがたは恵まれた方の、本当に最小の、かなり少ない額の、むしろ幸せな部類の、自分たちで毎月返済して十分払える金額だと思いますが…。」

 私が言う。
 「でも、余りに借金が首に回って、返すのが毎月やっとなんですよ。毎月の買い物の品数も多すぎるんでしょうが。本当に大変です。自己破産とかって、…。」

 弁護士さん。
 「自己破産なんて、とんでもないことです。あなた方の借金の金額は、それ程、ここの人達と比べるのもなんだが、そんな大した額じゃありません。絶対に返済は可能で、あなたがたが、日頃の貯蓄に励み、ちゃんと借金を月々返済し、その暁には、きっと、あなたがたは、借金とは無縁の生活が出来るはずです。保証はできないが、私は長い弁護士人生の中で、そう確信します。長い人生、必ず返せます。頑張って、一度、やってごらんなさい。」

 お母さん。
 「今日は、大体の所の意味、私たちの現状がすっかりはっきり判りました。御迷惑を御掛け致しました。今日の所は、これで失礼します。(wainai、息子の私の事)君、さあ、もう出るわよ、さあ、もう帰りましょう。それでは、有難う御座いました。」

 私。
 「有難う御座いました。お母さん、足元、気を付けて。それでは。」

 とお辞儀をして、部屋のドアを二人の親子はその日の借金相談会合開始後ものの十分程度で弁護士さんとのお話もあっけなく終わり、私など、あっけにとられて物も何もその場では一切言えず言わずに、その場、弁護士会館をあっさりとした軽い気分で出て来た。

 こう、その前の、その言葉、その日の担当弁護士さんは仰られ、私達も帰りに際して、弁護士さんに別れの言葉を言い、弁護士さんとも別れ、その弁護士会館の、悲鳴やら呻きやら、非業の衆、集団が身を寄せて一生懸命そこの弁護士たちにすがっていた苦しみの声を背後に聞いた。

 私達親子は、何か、きつねにつままれたような、何か神業を見たような、不思議な感覚を抱きながら、その帰り道、その福島県郡山市堂前町一帯は、正に司法の街、郡山地方裁判所はあるは、近くには、各々の弁護士法律事務所、公認会計士事務所、司法書士事務所、行政書士事務所、弁理士事務所、等々、本当にそこの街一帯は、郡山市の法律法曹法学機関関係には強い、正に法律の街、の感を呈している、その街を、私達親子は、これも足取りも軽く、時には鼻歌混じりで、しかし、一生懸命借金返してゆこうね、とお母さんと歩きながら,その道なりにその街を歩き通し、私も答え、話し、私も母も何者かにその道すがら強く固く念じ誓いつつ、母の乗って来た車に乗り、一路、悠然と、気持ちもテンション上がり気味で、我が家へと帰って行った。

(用事が多々あり、夕べの勤行唱題、夕ご飯、皿の水洗い、片づけ、服薬等等、一杯作業、仕事、途中の用途があり、中途で中断失礼。書きかけ記事、その後に続く。読者の皆様、乞うご期待。長文失礼。書きかけは時間によっては明日以降になるかも。明日以降も、目まぐるしく、私の日常は常に忙しく少しは多忙であり、いつ全体が完成するかは見通せないが、そろそろ結論を急ぎ、終幕、フィナーレを狙っている所。しかし、中々、ノートの文字起こしも大変で、中々解読不能文字も多々ある。悪筆失礼。はっきり言って、自分の書いた文字なのに、読めない文字も多いんです。その分、ロスが発生し、多大な時間をかけ、皆様にご迷惑?かけてるかもしれませんが、数少ない、読者の皆さんん、いいね等を下さる皆さん、なるべくいいね等は礼儀として、無礼無きよう、必ず返礼し、返す事を基本にはしていますが、見落とし等があれば、御許し、御容赦下さい。読者の方々、私をかなり寛大に広い心で扱い、気長に付き合って下さい。必ずいつか、完成させて見せます。それまで、御開きさらばです。午後五時半、一、二分前。現在。電波時計による。以上。よしなに。wainaiより)。

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(8)

2022年10月03日 15時07分31秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 太田西ノ内、
 I田医師、は、皆、医療関係者同士、楽しそうに談笑し、笑い合い、看護婦たちとからかいの言葉を投げ、そのうち、医師同士で話をして、クイズ(医学ゲーム)のような質問と回答をその場の医師と競い合う、そんな事を互いに出し合い、やっていた。
   
 私は、何か寒気の様な、外は冬の、外気温が、朝の十二月の末の頃の話で、雪が降っていなかったのが幸いであり、(私の以前私が被害者となり起こされた交通事故が、この前年の、同じく十二月の末にやはり近く、警察署が年末の仕事納めの時に、私は調書を取って頂く為、郡山警察署に出向いた、その日から、このあたりの日付の月、日は、丁度、一年を回った。)
 私は、I田医師に、お金の相談をした。
 その時、彼は、意外にも、お金は要らない、と言い出した。
 御金は要らない、が、特別に、払ってあげる…。
 (私)「ん?」
 つまり、私らが、その医師及び看護師、医療スタッフたちが、見なかったことにして、この払いを止めて、しかし、諸君らは、二度と、うちの病院には来れない…。いい…?
 と聞くので、私はただ程コワいものはないとおもいつつ。
 私「ハイ」と答え、
 その場を母は、幸い、その時は車いす介助ではなく、そのまま母自身も、歩いて、普通の営業タクシーに乗り、無事、帰って来た。

 その前の、I田が、医師として、その態度、そんな訳、理由はないと私は思い、
 私「それでほんとうにいいんでしょうか?」
 と言っても、その医師は何も答えず、
 その場で、わたし達親子は、そのまま、そこではそこの一切の人々に、会釈なんか一つも返し交わすことなくただだその場を去り、別れた。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(7)

2022年10月03日 14時26分41秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 とにかく、話を五年前の、太田西ノ内病院救急外来室での、そこの麻酔科医師I田なる、トンヅラ男に話を戻して、

 私は、事実を、自身の私も、私の家族の唯一の母も、同じ全き信仰信心、「日蓮正宗」である事を何故かその場でわざわざ名乗り、誇らしげに私は語ると、先程まで、腰をさすり痛がっていた母が、今は何ともなくなった風に見え、顔には笑顔さえ見える。私達、私とその医師との会話を、少し耳の遠くなった母も静かに聞き入り、母なりに、私共の会話を聞き取り、理解し、何か助言する事はないのか、との母の気持ちを私はその時、かすかな、しかし依然太い、親子の絆を確かめ、私は尚も、その医師と話し続けた。
 
 私達が、日蓮正宗と言う、今は創価と絶賛対立、喧嘩中で、非常に仲が悪く、犬猿の仲、というのは、その医師の頭の中にも、既に入り、判っていたようで、
 (I田医師)「ほう、それは面白い。じゃあ、何で、あなた方は、その、公明党と結託している、自民党を支持するのですか?」
 、」
 これに対して、少し動揺し、ぐうの音も出ない私は、母の方を見ると、先程よりもなお一層、顔色も良くなり、それまで、昨日の夜中、今朝と、半日、一日中、痛がっていた、腰痛、風邪の症状も良くなり、何とか治まり、笑ってこちらを母は見つめ、わたしたちの会話の、黙ってニコニコしながら聞いている。
 私は、もう、これ以上、問答が嫌になり、これ以上、こんな所にいたら、私のストレスも大変に辛い気がしたし、この、医師の彼に対する私の答えは、永遠に、出てこないような気がして、正に、将棋の世界で、詰み将棋と言うのがあるが、正にあれで、詰んだかな、詰んだな、と勝手に自己流の判断をして、もう、私が負けたのかな、この問答?それより、母を連れて、一刻も早く、ここ、この場から立ち去らねば、という思いの方がはるかに優り、負けたにしろ何にしろ、とにかく、無事に母を連れて、うちに帰ろう、との念を強く持った。
 逃げるが勝ち、逃げる算段をし始めた私だった。
 I田医師の方を見やると、何やら、母と一緒に、
 「ほら、こうやって、お母さんを、片手一本、何なら、指一本でも、大事に簡単に介護が出来るんですよ」
 とI田医師は言った。
 その場面を見た私の感想は、母を自分勝手に、I田医師は、こちらがヒヤヒヤする程、片手一本で本当に母を弄(もてあそ)んで、自分の実験台にしているようにも見えた。貧乏人だから、何かあっても、文句も言えず、返す言葉もないだろうと、その男性の医師は、私達を完全に見くびっていたのを、今の、目が開かれた、入院生活を送り、思索に思索を重ねたこの時分だからこそ、今になって、やっと分かった。
 (I田医師)「こうかな、こうだ、こうやったら、こうで、あれ、こうだった」
 と母を、自由自在に片手で持ち上げとられる筈はないが、、しかし、何も知らない、無邪気な母を使って、I田は、私にレクチャー、講義をし始めていたが、私の視線は、依然、母の方を最大限に、何かその男に危害を加えられはしないかをただ、警戒心配し続け、私はふと、段々馬鹿らしくなってきて、視線を別の、他に働いている看護師達や、その話す人の方をぼうっと見つめた(この時、ひょっとすると、夜も朝も、母は痛いと泣くように叫び、私は心配で、母に起こされたか、私は今日の、正確には昨日からの、あの、何か、その、今日と言う日の、一瞬間だけ、地獄界に自分が突き落とされたかのような、私は何か判別がつかなくなり、その日の私は、母の看病・介護には、ちょっと疲れてはいた)。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(6)ついでに、日蓮正宗の御事。

2022年10月03日 13時46分03秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、自身の思想信条の、宗教思想、その背景、信仰信心する対象が、ずばり、大東洋大日本国駿河の国静岡県富士宮市上条に存し、そこの昔で言う、大石が原に、第二祖、開山上人日興上人が、甲斐山梨県の身延山久遠寺にて、大聖人様に次いで、第二祖の、管長、詰まり、法主となられていたが、そこの地頭の波木井実長により裏切られ、他の、大聖人の弟子だった五老僧共も皆、本山久遠寺に出向かず、大聖人様が、唯授一人、血脈相承の、法水写瓶の、一人の御方からまた、たったお一人の御弟子ただその方一人のみに、その御教えの極意を伝授し続ける、大法を一人からまた一人と、法灯連綿として止まることなく、絶えずこの御法門、御宗門は、どんな時代にも関わらず、時代に一切関与せず関知せず、ただ豊饒な富士の清流は、ただどこまでも、いつの時代も清く濁らず、その姿は、まるで泥中に咲く、一輪の白蓮華の如くに、富士宮市にある、大日蓮華山富士大石寺の立派で奥ゆかしく、清楚な佇まい、広大な敷地内の大伽藍を、一度でも目にした者は、その威厳に感服し、ただ自己を反省懴悔しつつ、皆法華講の仲間同士本当に仲良く、大御本尊様に拝謁したその時には、その感激感動で涙し、それが滂沱となって溢れ、とてもハンカチの一枚や二枚では事足りず、私などは、その時つねに、大きなタオルを一枚、用意する程である。それ程の感動を、あの大御本尊様には頂ける。
 大御本尊様は、鎌倉時代の、弘安二年十月十二日御建立、勿論、建立したのは末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様である。
 数年前には、宗祖御誕生八百年を迎え、令和の御代の新時代の到来を予見させる。信徒数は国内八十万人御遺命達成、国外、海外には、二十万と(現在)、国内海外合わせると、約百万人の陣容が整った事になる。
 これでは折伏、破折、広布、広宣流布にはまだ程遠く、遠く創価には、現有信徒一千万、八百万世帯の怖ろしい数の学会員、海外でも多く、その数は、日本国内では最大、の信者数を誇り、遥かに日蓮正宗を凌駕している。
 私達日蓮正宗法華講員たちは、日夜、正当な、本当の正統派を名乗れるのは、我が日蓮正宗、大御本尊様、日蓮大聖人様の、人法一箇、それに、血脈相承の正嫡の、正しい血統、サラブレッドの、本師の御法主上人猊下様、末寺の手次ぎの弟子、小師の各地方お寺の御住職様、弟子と檀那が御僧侶方に絶対、心服の服従を誓い、それは決して差別ではなく、差別の中の平等、平等の中の差別と、この御法門にはちゃーんとした筋目、立て分け、順序、手順が宗内に確実にしっかりと存在し、誰も差別だなんだと騒ぐ者は一人としていない。
 それを弁えた上での、この信心なのである。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(5)御法主上人様御言葉、等々、長文失礼!

2022年10月03日 11時03分02秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 私は、ここで論点を代え、自身の、宗教上の、信教、信仰信心の、自分が信ずる大事を、この場で述べて、母が回復次第、うちに真っ直ぐ帰ろうと心に決めた。

 (私)「私は、邪教創価学会が嫌いだから、邪悪な政治団体、公明党は全然、全く支持、支援、応援せず、彼らの全てを、全く信用もしていないです。私たち親子、母も私も、二人とも、日蓮正宗の信徒ですから」
 と答えた。
  
 しかし、ここまで私は、自身、そして母が何一言も言って語ってなどはいないのに、それを、認知症の母を差し置いていい事にして、つまり、親不孝をしてまで、ズバリ、安易に、自分の自己、自身の思想信条を、相手から軽く聞かれ、質問されたからって、それに簡単に乗っかり、全ての私の個人情報にもあたるであろう、そんな大事な話を、たった行きずりの、その場限りの間柄でしかあり得ない、その、もっとも私の思想信条にとっては極めて危険、危険人物の、そのI田とかいう男に、自身の全ての手の内を明かし、開陳してしまい、話過ぎた。後悔先に立たずである。
 後は、そのI田とかいうチンピラ医師の手によって、私の事を、自由自在に料理されるだけの運命が待っているだけであった。正に悲劇が、今、起ころうとしていた。その運命に、ただひたすら、従い、従うしかないと、自身でも思うしかなかった。
 後年、この五年間、悩みに悩み、ひたぶるに日蓮正宗の正真の御本尊様にただ、日々祈り切り、この大難が見事晴れ、見事抜け出し、脱して行って、あと腐れなく又、元の、元気な私に戻れるよう祈り、御仏智でそれが、現証実証が出て、功徳となって顕れて来たのは、今言った、実に、五年の歳月が掛かったのである。今年の私の入院生活で、本、書籍を大量に持ち込み、安倍元首相の国葬に立ち会い、その様子を病院テレビで確認、時代の生き証人ともなったあの日のもっと前、
 九月中旬頃には、私は個人的な思索が私の頭の中で頂点を極めた。
 毎日欠かさずに行ってきた私の信仰、多時間にわたる、かなりの年季の入った、私の日々の願掛け、御祈りである、朝夕の勤行唱題行、私の精神、心の中で、大体の決着、結論、結果、終結、大団円、終幕、フィナーレの、諸行無常の鐘の音は、私の心と身体を駆け巡り、もはや、誰を恨むでもなく、自己の罪業罪障を深く悔やみ、懺悔し、改め、次は、絶対にこの、今度こそは、二度と同じ轍、失敗は踏んだり、繰り返してはならぬと強く自戒し、自分に鞭打ち、己に厳しく、他へは優しく仏の如くの有り余る慈悲の心を、仏法で説く和顔施で接し、誰にでも、公平に、何なら、その、I田なる、自尊心の恐らく人一倍高い、社会的地位も高く、その職業故、人の尊信を一時でも集め、おそらくここまで彼自身、身を持ち崩す前の段階の、人生の当初の、大学医学部六年間の学生身分の時には、ここまで意地悪、陰険、腐れの、人生を彼自身、歩むなどとは露も思わず過ごしていた筈であり、その分、彼も、人生何があったのか知らぬが、むしろ彼も人生の被害者、その彼のむごたらしい人間性、仏法仏教でいう所の、十界論の中の、最低の世界、チャンネルの、「地獄界」、第二段階のむさぼり尽くす「餓鬼界」、人と常に争い、自分も傷つける「修羅界」、これも動物同士の争いで、つねに自分と相手が、食うか食われるかの瀬戸際の世界「畜生界」、これら四つを仏法上「四悪趣」と言い、仏教では最低な世界の部類の属する野蛮なチャンネルだと、忌み嫌われている。恐らくI田氏は、この四悪趣の世界を行ったり来たりの境涯なんだと私は睨んだ。
 だから、仏様の子供、仏子の、日蓮正宗の正当な、正常な目、眼(まなこ)から見れば、この人、この男も、哀れな、仏様の常に救いの御対象であり、それに本人が気づいても気付かなくても、この仏法に仮に敵対し、反旗を翻したとしても、その罪は、今生、現世で問われなければ、問われなくとも、来世で必ず問われるが(堕地獄決定けつじょう)、この日蓮正宗の御法門、御教えの中に「毒鼓の縁」という大事の法門があり、第六十八世日如御法主上人猊下様も度々この法門を話され、昨日のうちのお寺の会の中の御住職様の御説法でも、勿論これが読み上げられ、取り上げられた。
 
その法門とは、
 日如御法主上人猊下の御言葉を借り、申す。

以下、日蓮正宗機関紙「大白法」令和4年9月16日号、第1085号、2ページ目より、引用開始。

 『法華初心成仏抄』には、
 「当世の人何(なに)とはなくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は『毒鼓の縁』となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外(ほか)になきなり」(平成新編日蓮大聖人御書、大石寺「御書、一三一六頁」)
 と仰せであります。
 「毒鼓の縁」とは、皆様には既にご存知の通り、太鼓に毒薬を塗り、これを大衆の中で打つと、その音は聴こうとしない者の耳にも届き、聴いた者は皆、死ぬと言われて居ります。これは、法を聞こうとせず反対した者でも、やがて法を耳にしたことが縁となって成仏得道できることを、毒鼓を打つことに譬えているのであります。
 すなわち、一切衆生には皆、仏性が具(そな)わっており、正法を聴いたことが縁となって成仏できるのであります。したがって、たとえ初めは耳を塞(ふさ)ぎ、かたくなに反対した人でも、慈悲の心をもって根気よく折伏を続けていけば、やがて聞く耳を持ち、必ず救済することができるのでありますから、折伏は諦めず、粘り強く続けていくことが大事なのであります。
 更に折伏に当たって大事な事は、大御本尊様への絶対の確信と、何ものにも恐れない勇気と、相手を思う慈悲の心であります。」

以上、機関紙大白法、引用を終える。

 この男、医師のI田も、人生の被害者、だと考えつく時、何が原因、それが縁に触れて、結果となり、果報、報いとして現れて来る、何が起因し、結果がどう出るかなど、余人の知る由もなく、ただ、仏様のみ、知り得る事なのかも知れない。

 私のお母さんはこの後、施設暮らしになるが、そこも病院が共産党系の高齢者施設であり、そこで、私は、何か月か前に退職となったある女性職員から、こんな意見、忠告を私に、今では母の保護者の私当てに、皮肉たっぷりに言ってきた。
 「お宅のお母さま、施設ではとても元気で車いすで施設内を動いていますが、ちょっと、というか、何か、というか、少し、変わり者というか、他のメンバー利用者さんとはまるっきり違った発想、行動を取り、なさり、時々、私達職員も、困るというか、なんというか、他の利用者さんは、全く問題ないと言えばないんですが」
 回りくどく、婉曲に、言う。
 うちでは、保護者の息子の大方針で、母が、通常選挙、国政、地方問わず、国や市町村で、選挙が行われた時には、必ず母を参加させ、投票行動を母に取らせるよう、厳重に毎度いつも、選挙があるたびに、私は指示し続けている。
 おそらく今でも母は、健気にも、意識がはっきりしている限りに於いて、母と私との、長年、母子ともに結託して過ごした数十年の年月を、きっと母も片時も忘れず、あれだけ、「中国朝鮮人が嫌い、彼らは、日本の領土を狙い、恨み、事実、持って行って占領している」「外国人参政権なんて、絶対にダメ!一度外人にこの国の選挙権等々、一切の権利権限を彼らに与えてしまったら、直に早晩、日本は終わる、あんた、息子なんだから、後の日本をそんな国にしたらダメ、絶対に、一緒に、私も口添えして口述して私の意見も述べるから、代わりに、あんたブログに書いて、世に問いなさい!(私の2009年から書き溜めていた当時の「日々雑感、わたしが思う、あの事この事」のことを指して、言っている。母も一応、私の原稿、最終稿、決定稿に大いに関わり、母の意見は私のブログ記事、ラジオカメラなどの趣味以外の、政治思想に関しては、母御の御指導を大いに受け、ほとんど母との共同執筆、共著で、母と教導して、反民主党政権の論陣を張り、当時のブログ記事を、余白空白スペースを母と私は共に文字活字で埋めていった。母は途中から、認知症を患うも、東京都立戸山高等学校出身卒業の、前から何度も言う、三大都立というのがあって、日比谷、西、戸山、の三高校が、昔の昭和時代、東大などに数多くの人材群を送り出し、そのうちの母は、高校がそこの出身者なので、本来ならば私よりもずっと格上で頭は私なんか比べられない位切れて頭が凄く良く、何で母の人生は、こんな福島県の郡山なんかの、田舎と言えば田舎、まあ都会の、この土地に母が来てしまったのか、これもやはり、縁なのだ。)」
 やはり、今でも、私は途中から一抜けたで、立民、共産支持に回ってしまったが、母は、絶対に今でも、そこの施設が共産党系列でも、母は自分を曲げず、自分を押し通し、昔から母は賢かったが頑固でもあったので、私の現在今の、やっと気づいた支持政党、思想信条の第一義の政治団体は、母と同じ自民党だと、やっと親孝行の一端が、この息子の端くれの私めにも出来る、機会が回ってきたと、私は母と同盟を結ぶ関係から、自身、ぬか喜びにならぬように、しかし、気付けて大喜びである。コロナでなきゃ母に真っ先に報せに行く。
 認知症の母なりに、そこの施設で、投票用紙に、自分の思う候補者の名前を、書いたりしているらしいが、いつぞやは、左手は以前転んで使えず、利き手の右手は使えるが、何か不自由そうなので、職員が代筆した、と聞き、私は大ごとにはしなかったが(むしろそこでは、母は針の筵むしろの人質同然であり、私も懇意にしている以上、それ以上は何もはんろんできはしなかった)何か、釈然としないものは、その施設に対し、いつも思う。
 そこに掲げられている、新聞は、受付、待合室の様な所だが、共産党の機関紙赤旗一部のみの閲覧可能な新聞紙誌であり、壁には、「9条を守れ」「憲法を守れ」等々のプロパガンダ、フレーズのポスターのオンパレードであり、それから党の候補者の写真入りのポスターも散見された気がする。
 そこの施設に行くたびに、私は、無理に思想信条を強制されているようで、自分が以前、立民、共産を支持していたあの間違った、ボタンを掛け違えた日々の頃、時ですら、それら施設の主張が、ある種の違和感、幻想を今、自分は見に来たのか、不偏不党でない、公正な主義主張を構える、もっと立派な団体かと思ったが、実際実体は違った。私は今でもそれらが、自身、不愉快と感じ、母が思想統制、母が何かその施設で、共産党の意にそぐわないからと、懲罰等受けなければいいのに、とただ、現在のコロナ禍の最中で、全然監視、警戒して施設の中、職員の母への態度対応、その他、理不尽なことを、母が今、現在され、訴えても無視、母の貴重な意見が葬り去られてはいやしないか、等々、余り共産党を信頼してはいないので、(これは、立民、共産を支持していた時もあまり変わらなく、ほとんど信頼は無かった、介護してくれて、大変助かる、有難い、母に代わってお礼が言いたい、謝辞、感謝の念は常にあるが)。
 逆に、この母のホームで、母にとって良い点を書いてみる。
 トイレが各部屋に一つある。
 別に見学に行った所は、トイレは二人に一つ、うちに来てるヘルパーさんの親御さんの施設も一人に一つじゃない。集合トイレ。
 中々、一人一台のトイレはない。
 一人に一つだから、利点、トイレを待たなくて良い。これが大きい。
 トイレは人間にとり、最大に大切なので、この、野党系列の施設だが、そういった親切な心、精神は、大変に有難いです。これは、感謝に尽きます。
 母は、良い施設に入りました。施設の職員他、皆様、誠に有難う御座います。多少、私も、妄想、偏見もあるかも知れません。その点は、御容赦下さい!

 以上。よしなに。wainai

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(4)

2022年10月03日 07時50分06秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 私も自分の聞き方が、何か、詰問調、相手を人とも思わず、不思議で不審な点をつい、是非問い質したくなって、酷くしつこかったかも知れない。相手はそれで嫌な気分になったとしても、しかし、私達親子の方が、正々堂々と、最初から、自身の思想信条に誇りさえ抱き、きちんとはっきりと申し開き、私は秘密、内緒は大嫌いなので、自分の思想信条の一切を公開、公表しても尚、自身に恥じ入る所など一切なく、私は常にオープンで、開けっ広げであり、これが結局結果、ズルい、悪党に付け入られる隙を与え、バカにされ、騙される結果となる。
 しかし、この男が、私達、母子、を付け狙い、自民批判、自身の思想信条をぼかし、言おうとしないこの男は、一体何者なのか?正にヌエのようで、得体が知れず、全く霧が晴れない港か山か要塞のように、五里霧中で、この目の前の男の正体が掴めず、私は焦りもせず、じれもせず、ただ、じっと医師の男の言い分、長話を聞いているだけだ。(だんだん、この太田西ノ内病院の医師の男の権威権力権限、術中にハマり出し、私は洗脳されかかって来ていた。昔の私の学生時代からあった「睡眠学習法」なる、怪しい学習器具がうりだされていたが、正に、睡眠時間のその時全く足りない私は、やけのやんぱち、この怪しい男に、どうにでもなれ、とヤケを起こし、この男に賛同の意を向け、示す結果になるのかな、漠然と、この後の結論結果が、自分の一生を左右しかねないというのに、それには考えも及ばず、今からはたと、私の暗黒の未来が少し見えて来た気がした、その後の結果が悔やまれる、愚かな私であった)。

閑話休題。
 私達親子が、何十年にわたり、特に私など、二十歳の、誕生日の年から、ずうっと、長い間、一生懸命、私たちの親子の思想信条の一つ、宗教が、その頃は、昭和の頃から日蓮正宗創価学会の時から、御宗門に破門された平成三年からは、邪教新興宗教創価学会としての池田教としての数十年を過ごしても、それが支持母体の、邪義邪法邪説邪道邪悪な政治団体である「公明党」を何故か気が合わないのか、何となく胡散臭く(公明党は、民主共産と同じく日本国にとっては危険な売国奴法案「外国人参政権」を支持、賛成し、法案の成立を何度も狙った)、公明党には、不思議と一度も支持投票したことなど一度も、一切ない。
 比例も地方選挙区も、皆、そっくりそのまま、私ら親子は、ぜーんぶ、「自由民主党」様オンリーの、この信条だけは、誰にも、2009年の民主党「政権交代」ブームの時も、一切ブレなかった。
 何か、こちら、「自民党」の方が、むしろ私らの「信教、宗教」の類にしても良いんじゃないか、勿論自民党は政治政党なんだが、宗教みたいにうちでは信仰とも言えるという程である。
 うちの我が家では、いくらうちが貧乏家庭でも、決してバラマキの民主党、公明党、共産党などには決してなびかず、一票もそれら邪政党には決して一票を行使したり、入れたことなどは一度も今後も一切金輪際なく(そんなはずだったんだが)、全くそれら「邪政党」とは、一線を画し、私達親子は、思い思い、選挙があれば、いざ、自ら母と歩いて必ず選挙会場に向かい、そこで必ず自己の、母も自分の、貴重な一票を行使し抜いた。
 その選挙後の日曜の夜は、夜中まで、NHK、民放各局テレビの選挙特報特番に母と私は、深夜までかじりつき、大いに興味を抱き、持ち、「どこどこ地方の、何県の、何市の、何とか候補、この人は自民党だけど、お母さん、やったよ、彼、当選したよ、当確が、もう、今の七時(八時?)の段階で、早くも出たよ。えらいこっちゃ」
 と私がテレビに指差し、お母さんの方を向き、又、それもその寸暇の時間ももったいなく、惜しみ、又すぐに私は、じっくりしっかり、その選挙特番の画面に、食い入るように見守り、テレビの前で一人熱が入り、一生懸命、祈りを捧げるが如く、自民の一挙手一投足、一票が積み増してそれら自民党議員に入り加えられ、皆、その地域、現場で、圧倒的な優位を大抵はいつもつけ、自民議員に当確、自民党の、選対事務所、党本部などでは、時の首相がもう待ちきれなくて会場に駆けつけ、当選のバラの赤い花束を当選者の名前のプレートの上に花をくっつけ、会場はいつもの大拍手、大賑わいだ。
 お母さんも興奮気味で、例えば、小泉純一郎首相が、神奈川選挙区で、対立する、民主党、共産党、社民党、その他、下らない奴らばかりのクソ野党が、束になっても決して小泉さんには一度もその選挙区では勝てずに、情けなくも皆、小泉さんに敗れ去り、情けなく、敗戦の弁などを虚しく述べた束の間、次の瞬間には、その、小泉事務所から、テレビ中継で、輝かしいばかりの素晴らしく華々しい勝利の瞬間の笑顔の表情をテレビカメラは生放送で中継で捉え、画面いっぱいにあの小泉さんが、頼もしい言葉でレポーターの一声、質問に、実直に誠実に答え、今度は赤いダルマに目玉を書き出している。 
 わたしも声がつい上ずり、お母さんに、
 「やったよ、小泉さん、また首相として当選だって。本当に、最近の自民党は、軒並み強いね。すごい勝ち方、これはきっと、戦い方が他の野党とは全然違う、その議員なりの、悩んで、編み出した、戦法というものが確かにある筈なんだよ。すごいねえ、自民党は。
 今日のこの段階で、もう○○議席数も取って、早くも与党第一党に躍り出たよ。単独過半数も狙えるって。これで、確か国会議員の三分の二か過半数だったかが政府与党たちが占めれば、やっと、自民党の悲願だった、憲法改正まで、あと一息だね。お母さん。ほんとに長いね。
 何十年、戦後何十年、憲法憲法って、やってなくちゃならないのかねえ。あの日本国憲法って、硬性憲法とか言って、確か大学の法学部で習ったはずなんだけど、中々、あの憲法は元々改正が難しい、一度できたら、中々代えられない、時代遅れの、戦後何十年も経つ、おじいちゃん、おばあちゃんの代物の憲法で、今じゃ古すぎ、今の時代には何一つ合わず、本当に改正か、いっそのこと、自民党の有志で、今、憲法草案を作ってるのかな?出来たのかな?わからないけど、とにかく、今の国会の各党の議員の中で皆、民主党も公明党も「加憲」であり、一人自民党が「創憲」。」

 「最初に暫くの間は、自民党も加憲の立場なのかな、それが、実際に憲法改正が国民投票法で国民の過半数を得て、現実のものとなれば、その時は一回目は実験的に「加憲」であっても、次の二回目の憲法改正では、実際に、国民を巻き込んだ議論を自民党を中心にして世論を動かし、どういった、新しい時代の、日本人、日本国民が全員納得できる、占領憲法、GHQが命令して作った、植民地憲法じゃなく、明治憲法(大日本帝国憲法)以来の、本当に自分らで、自前の、日本人・日本国民自身が自らが心を砕いて作る、心の示すままの、この時代にあった、歴史上の素晴らしい(かどうかは、その時の憲法草案者の手にかかっているが)やっとアメリカから物も言われず、戦後初めての、自信を持って世界に示し、肝心の自衛権、正当な意味での正当防衛の交戦権を認め、天皇陛下の大事の地位権利、是も大事な、日本国憲法(昭和憲法)から基本的人権の尊重や信教の自由、思想信条の自由、すべての人権の、自由を、昭和憲法以上に、盛沢山に盛り込んで謳い、昭和憲法の、今は、その憲法を守るのは天皇、国会議員、公務員、国務大臣等々と、国の重要な地位に就く人たちばかりだが、今の自民草案のように、それを一般国民にまで、敷衍しても一向、かまわない気もするんだけども。」

 「とにかく、古くなったり、時代に合わなければ、時代に即して、明治憲法の「不磨の大典」じゃないだから、日本国憲法、これはアメリカの押しつけ憲法。ここまで一度も改正できなかった憲法は珍しく、日本位しか世界にはなく、アメリカも、イギリス(イギリスはお国柄が違い、他国の最高法規「憲法」がそもそも確かなく、一般法で全て確か解決、決裁していたような)も、フランスも、ドイツもロシアだって中国だって、どこの大国、小国、偏狭な国々でも、皆、時代に合わせて憲法改正をどこの国でも施行公布している。
 おかしんだよ、日本だけは。やっぱりおかしい。誰がこんな国にした、GHQ総司令官、ダグラス・マッカーサーか?誰だ一体?日本をここまで愚弄し、時代を迷い間違わせた狂わせた、元凶、犯人は一体、誰??」

 と私がテレビの前で、一人熱弁を振るい、興奮気味に語っていた刹那、時計ももう夜十一時を回り出し、私も何だか興奮したせいもあるが、何だか今日の選挙に会場まで出歩いて行って帰って来た疲れが今頃にわかに出て来て、あくびも出だし、本当に疲れ果て、テレビももう飽きて来てもうお眠(ねむ)の時間も近づいて来た。
 今現在のテレビ画面は、神奈川の小泉首相の事務所から、今度は敗戦、敗残者の民主党事務所、会場に場面を移し、その情けない民主党党首などを映し出し、彼はその日の、これまでの選挙戦を振り返り、主な敗因などをくどくどと、女々しく語り始めた。今日の主な選挙特番の目玉、主要な場面は、ほぼ、テレビ画面を通して見逃さずに、全て、見終わってしまったようだ。

 (母)「もうそれだけ話して、何も言う事はないわねえ。テレビも小泉さんが勝って、やっと終わって、よかったじゃない。それだけ話して、そんなにテレビも自民党が勝って、民主党が負けた。結果が判ったんだから、安心して、床について寝なさい。私ももう疲れて、眠いから、早くテレビと電気消して頂戴。お薬飲んで、お休み、眠りなさい」
 (私)「何か、心残りだけど、自民党は、勝ったのは確実。判った。薬飲んで、今日は明日の新聞がうちに来るし、詳しい事は明日の日刊毎日新聞見て、確かめるよ。おかあさん、おやすみなさい」
 (母)「おやすみなさい」

 といったような、選挙戦の時の、いつものwainai家の、これが、我が家のセオリー、選挙の流儀だったのである。
 如何に我が家が全家庭、心の限りを尽くし、天下国家を論ずる、自由民主党を、私達親子は、自民党党員では決してなかったが、母も私も、小泉さんの首相選挙の闘いでの選出の際、党員票がその大事な勝敗を決した事実を知っていたから、自民党党員に、母も私も、成ってみても良かった。お母さんも、成りたいと言っていたし、私も同意だった。
 しかし、その頃から、ネットはずっとやっていたが、肝心の、そういった、党費をいくら納めると党員票が一票行使できるとか、一切分からず調べず、私もネット検索無精であり、私達は、一介の、素人自民支持選挙マニアでしかなかった。
(この話、つづく)

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(3)

2022年10月03日 06時48分06秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 I田医師、「詰まり、自民党が、あんた方が一生懸命応援して来た?ふっ、その自民が、今の体制、金持ちが搾取して、資本家が上手い、美味しい汁をたっぷり吸い尽くすように、この世は、この日本は、出来上がってんだよ。
 今、東京都に、金持ちだけを優遇した、金持ちだけを対象にした、金持ちだけが利用できる、そんな特殊、特別な病院が、、確かにある、(とI田医師)
 それが、京都か大阪にもあり、皆、大金持ちたちだけが、いい思い、全てが揃い、何でも治してくれる、その金持優遇の病院を作った元凶が、自民党政治だって言うんだよ。 
 みんなで、自民党なんかに、一票を、尊い一票を入れるから、こないだの選挙の様な、おかしな、自民党、公明党、自公のやりたい放題の、変でおかしな政治になるんだ。」
 とI田医師が話に夢中になり、熱を、ボルテージを上げつつ、熱弁、熱狂の様なここでの何だか大げさな、中には或る意味押しつけがましい、自分の論理を自分なりに組み立ててはいるが、中には論点が狂ってるような、事実かどうかその場で確かめようもないが、一方的な空論、おかしな点、暴論、身勝手さが目立つような、人、ここでは私達親子を何とかねじ伏せようといった感じで私達親子を睨み見据えて、何か私達を説得にかかって来ているのを、私は個人的に思い、今、感じている。
 何か、私達は朝早くから、急いで母の急病の為、わざわざ救急車を使ってまで来て、何でこんな悠長に、この困った変質者の様な医師の問答に、昨日寝てない私は千枚通しでギリギリと切り刻まれるような、難行苦行を、何でこの、救急病院で、私達親子をこの医師は、持論を手前勝手に述べて得意になってるんだろう、余程の自信家なんだろう、まあ付き合ってみてみよう、ここまで来ると私は完全なマゾ、被虐者愛好だ。
 私みたいな、少し他人様からはwainai君は頭がいい、とか時々褒められて、しかし、私は自分がちっとも頭がいいとは自身、今もかつても微塵も思った事はなく、確かに知識の量は人よりは多いかも、とは思うが、肝心の、仏教仏法でも説く、知恵(智慧)は中学校卒の人よりも、かなり不足してはいるなあ、それが自分の欠点であり、人の前に出て、この知恵不足が、いつも自身について回り、自分の失敗、悲劇の原因にいつもなっているのに、何一つ自分は勉強、社会勉強・人生勉強が足りず、いつも自分自身、知恵が足りずに、困っている人生だ。

 それはそうと、
 彼、I田医師がとうとうと一しきり述べ、言った所で、
 ここで、私は急に思い立ち、早速、話を割って入り、疑問に思った事を私なりに氏の彼に一つの質問してみた。 
 (私)「先生、失礼ですが、おたく、否、いいえ、先生の思想信条は、一体何で、特に、本当に、どこの政党を支持、応援なさってるんですか?それだけ言うには、さぞかし、本当に立派で正しい、大それた、応援しがいがある素晴らしい政党なんでしょうね?私も今後の自身の投票行動の参考にしたいので、どうか、その政党名を、私にこっそりとでもいいから、教えて下さいませんか?それが、まず、私が訊きたい所なんです」
 と私が訊くと、
 I田「特に、支持政党というのはない」
 (私)「やはり支持政党は共産党なんですか?どうなんですか?はっきりと仰ってください!私はそれが一番聞きたいのです。」
 と私が念を押して、強い口調・詰問口調で問い質し、答えによっては、こちらから畳み込み、共産党と彼が答えたら、私も共産党には苦い、酷い思いを、父からも、新聞赤旗からも、その異常性を沢山認識させられた私だから、この場を借りて、訴えて、今日は母を入院させるか、どうするかも考え、とにかく、この医師の怒りには触れぬように穏便にしなければならず、私の中でも言葉をどう切り出し、どう答え、どうこれらの話の結末をつけるかに、迷いに迷うも、彼は、共産党がおたく、先生の支持政党、応援しているとの前提に私は立ち、それを前に、どう答え、或る程度、この場合宗教だが、私の信奉する日蓮正宗ならば、相手の破折、折伏、この場合は、政治の思想信条の話だが、私は、お寺で御住職様から常々習っていた、法華折伏、破権門理の、日蓮正宗の法門を、この時は、宗教と政治という畑違いであり、私は、どちらも一緒のケース、という簡単な割り切りが出来ず、一人心の中で悩んだ。
 どっちにしろ、この男、I田は、私の宗教の思想信条にはまだ手を付けてはいないが、今、舌鋒鋭く、あの手この手で自民党の批判に乗り出し、こんな問答を普段から、この男は、急患相手にいつもやっているのか、との疑問符、がこの男に常に付きまとい、付いていた。
 そして、、その、西ノ内病院の麻酔科医師、I田は、おもむろに、こう答え、私の質問にも、自身でけむに巻いた。
 (私)「本当に、本当は、共産党なんじゃないですか?」
 (I田)「それは、それは、そうじゃない。それではない」
と言ってのけ、何か、一人で、I田医師が、心の動揺を抑えきれない、バレるものがばれてしまった。私wainaiの様な、青二才に、自身の思想信条の全てを、バレて、知られてたまるか、この大根役者の青二才が、この、俺よりも年下の、障碍者の、貧乏人の、金のない、馬鹿めが。何だか、今までになく、この青年、否、壮年に見える男、タチ悪そう(そういうお前がな、そっくりその言葉お前に返す)。
 とにかく、ぼかしにぼかして、それ風に偽り、私の前で、彼なりの作り笑顔で平静を保ち、何とかこの場を乗り切った(積りでこの時この男、I田は思ってはいたんだろう、しかし、数年後、正確に言えば五年後だ。この時の事は私はすっかり騙され、何か、彼の事を恩人か何か、日本の古き侍の如くに当時思う私であったが、何の事はない、ただの香具師、詐欺師、胡散臭い風体の、低レベルの医師崩れ、大病院にたかって生きるしか能のない、自身その男、I田の、生活の全ては大病院勤務医としての彼の地位、権力、収入その他、かれの名聞名利のそれら全てが仮の存在を飾った、虚飾にまみれた、言わば砂上の楼閣、一時だけの栄華、栄枯盛衰のこの現代、現世の、現代史から、実に日本史の中で見ればついぞの一瞬の事であり、この男の成れの果てなどは、誰も知らず分からず、彼、I田自身の、それが自分でも全く判るまい。
 そんな不確かな、理論も減ったくりもない世の中が、この世、現世、現在世、今を私達が必死になって生きているこの現代社会、時代なのである。

 以上。よしなに。wainai.


太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(2)

2022年10月03日 06時40分58秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
( 続き。)
 曰く、この病院は、高額医療も使えますが、一日入院でもそれなりにし、三十日間、つまり一か月間では、莫大な医療費等が発生しますよ。とその医師は、お金、私達親子が一番恐れている、コワいお金の話をし始めた。
 曰く、貧乏人(私は、私達親子は、確かに貧乏人だ。認めざるを得ない)の人、分際ならば、その分、あなた方親子は(お母さんと私は)もっと、自分の貧乏さに、気付かねばならぬ。 
 曰く、貧乏人が応援する政党は、この間も選挙があったばかりだけれども、ズバリ、野党だ。
 とその、I田医師は強く訴え、私ら親子に、「失礼ですが、あなたがたの支持政党は、どちら、どこですか?」と聞いてきた。
 私は、私共親子は、むしろ誇りを持って、大上段に構え、日頃からの気持ちを述べようと「自由民主党です」と誇らしげにはっきりと答え、I田医師の答えを待った。
 I田医師「あのネエ、ここは、大病院、天下の太田西ノ内病院、あなた方は、一介の患者、現金も残り少ない、金銭もろくに持たない、貧乏人。
そして、この西ノ内病院は、皆、貧乏人も金持ちも、勿論、wainaiさん(わたしら)もここに泊まる権利がある。
 しかし、一日、一万円だよ、一万!あなたたちに、泊れるお金がある?あなたたち、払えるの?一か月30万円也、だよ。入院費が。」
 私達母と私の親子二人一同「払えない!」
 I田医師「でしょう?」


 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(1)

2022年10月03日 05時59分17秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 平成二十九年二〇一七年の12月の夜から朝にかけて、母がカゼ気味と腰痛で動けなくなり、母が必死で腰をさすり、余りに痛みを訴えたので、私は非常に心配し、これもいつもの、母を大病院、太田西ノ内病院に入院させる積りで、救急車でそこの救急外来に連れて行った。 
 そして、私は、自身の現在のブログにも書き綴っているのだが、I田医師、という、その当時の、西ノ内病院のホームページで「麻酔科」の所属の医師を見つけたが、その当時の私は、彼のもっともらしい物言いに、勝手に感心した。
 母はストレッチャーで救急車から病院に運ばれ、私は救急外来室の外の廊下で、心配しながら母の様子を外から伺い、その様子を想像し、大変に心配で心労でこちらが倒れそうな気分だった(おそらくこの日は、前の晩から母のベッド上で母はのたうち回り、私は心配で母を見に時々母の居室に行っては、水を飲ませたり、何か軽食を与えたり、母への親孝行は、こういう時に発揮され、試されるんだ、と自身に言い聞かせ、母へ一生懸命、自分なりに看護の初歩の手の、私は何も肝心の福祉の人達から、母のベッドからの移乗などが一切習っておらず、判らず、私は一から、何も知らない状態状況から、母の介護を私自分一人で引き受け、誰も手伝わず、それが当たり前で、母子二人で、この限界状況に限りない不安を持ち感じ、途方に暮れていた。
 そこで、救急外来に、麻酔科の医師として、その日の担当だった、I田医師やその他看護師達が、必死に母の病状を聞いたり、診断し、治療に当たっていたんだろうが、それらは固いドアに閉ざされた救急外来室での見えざる看病であり、その後、ご家族様、というそれと私の母の家族の方、という事務的な男の声がし、中にお入りください、と中へ通された。
 そこでは、母が「腰が痛い!」と、そんなには何回も言ってはいないが、患部を看護師たちにいじられると、そんな言葉を発し、私は、いよいよ入院か?と腹を決め出した時、そのI田医師が私の前にぼうっと、何か亡霊のようにいきなり現れ、私は彼と相対した。
 私は彼から、母の現状を聴き、そんなに、重篤な、問題ある、骨が折れてるとか、そんな傾向は全く見られず、それもレントゲンで撮り、異常は無かった。しかし、本人は腰を痛がり、本人もご家族も、入院を希望されている。さて、と彼の医学上の診断はこの辺で終わり、
 蒸し返すようだが、彼から私は、一つの提案、指示、教えを受けた。

 以上。よしなに。wainai.