(閑話休題)
私は、この、直前の、昨日のブログ記事の残りの余りの記事原稿の続きの記事を、今日の昼前後、完成(これが、見直せば、見直す程、ボロ、心残り、何というか、無理や、自分の書き間違い、最終原稿、最終結論、決定稿には程遠く、何度も何度も校正、編集を繰り返し、書き直すも、自分に負けるなア、頑張れ―、と言い聞かせている。)。
(次第に仏法の話、天罰神罰法罰仏罰と、功徳の話)
基本、自分はマゾ、被虐者愛好人間であり、その癖その、私をイジメた、害した人間は一生の間許さない、私はヘビのようにしつこく相手に直接関わらなくても女々しくもずーっと一生恨み続け、結局、諸天善神、神々様方、時には天、ホントに稀には仏様、仏法の法が私に必ず味方してくれて、私は私の手を一切、手を使わずに、手を一度も汚さずに、ただ見ているだけで良く、うまい具合に、事が必ずうまく運んでいる。
そこがこの仏法の面白い所であり、仏法の偉大さを、ただの偶然性には預けず、皆、誰にでもどこにでも、どの時にでも、勿論この私にも、罰も功徳も、物を言わずにも、頂ける。
(次第次第に、仏法、日蓮正宗の数学との類似、答えが一つの定理)
その仏法の必然性、定石、定理を、まるで日蓮正宗の御教えは、数学と同じであり、天に二なく、日に二日なく、月に二月なく、王に二王なく、父に二父なし、の、まるっきり単純で分かりやすい。
要するに、大聖人さまの教えは、二つとしてなく一つであり、それはお釈迦様、釈尊の時代からも全く不変で、今は末法万年で、薄汚れた、汚い、皆の心の中身は腐敗し、崩れ落ち、この末法に生きる我々一般衆生は「末法の荒凡夫」と呼ばれている。
(釈尊が既に生前説いた、正法、像法、末法の世の様相)
正法時代の釈尊の教えがまだかろうじて残っていた一千年間にも劣る、勿論、その次の、像法時代、また千年間が過ぎても、正法年間が、像法にまさり、優位だが、その像法にも劣る。
(末法時代における、騒然とした時代へと突入、邪宗蔓延る)
今(その当時の御代)は、平安時代から、鎌倉時代に掛けて、「末法」の時代に入ったと、当時の貴族、武士たちは、非常な危機感から、「念仏」(浄土思想)などの、過(あやま)てる、間違った宗教宗派、大聖人様が言う、「爾前権教」(釈尊が「法華経」以前の四十二年間に説いた経、教えを指す)の、間違った教え、大聖人様が、末法の時代、極楽浄土を欣求(ごんぐ)する念仏宗等、厭世思想の蔓延(はびこ)った世相であった。
(大聖人様が、「四箇の格言」(真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊)を説いた訳理由)
その他、その鎌倉時代は、その時代の鎌倉新仏教、念仏、禅宗、真言宗、律宗などの、エセ仏教、ペテン師、詐欺師の虚妄の、嘘つき人師論師たち、ただ名声が欲しかっただけの、名聞名利だけの、名誉欲に片足突っ込み、権力(時の執権、北条氏一族等々)に宗教の、名前だけ立派な、一応坊主の格好をした、イカさまインチキ、生臭坊主共が、それら権力になびき、従い、その権力を陰からも表からも握り支配していた。
(大聖人様、いよいよ、最大の難関、大難、大困難の、龍ノ口法難へ)
御本仏宗祖日蓮大聖人様を呻吟させ、非常に苦しめ、鎌倉江の島海岸での処刑の場、龍ノ口の法難の時の、正に命に及ぶ大難に奇跡が起こった。
大聖人様は頼もしくも「聖人は怪死せず」と心強くも仰り、決して弾圧、暴力、圧迫を加えて来る鎌倉北条幕府に、大聖人様自ら一歩も引かず、むしろ「難来たるを以て安楽と心得べきなり」と強盛な信心を大聖人様の我が弟子信徒たちやその他、鎌倉幕府の、圧迫を加えて平然とする武士や邪宗坊主共へは反旗を示し、端然として居られた。
(大聖人様の最大のライバル、極楽寺良観の凄まじいまでの、大聖人様への嫉妬、恨み)
大聖人様を亡き者にしようと企む、大聖人様の最大の怨敵、真言律宗の僧侶、極楽寺良観。こやつ、時の執権、北条氏の御落胤との噂の、実際そうであり、社会事業、慈善事業等を彼は行ない、実はそれらは見せかけのショー、自分を飾る偽善行為であり、実際には、かれは、橋や関所を彼自身作り、そこに「通行税」を暴利に多額の金を金品を、ぼったくり、ふんだくり、税金として、私税として、僧侶の身分を最大限利用して取り、通行人、鎌倉庶民を悩ませていた。無理に自分を名聞名利の為の自身を権力と結託させた。
静かに御自身御自分や世相を眺め、この世の在り方に疑問を呈した大聖人様を、当初から彼は執拗に恨み、憎み、憤慨し、いつか傷つけ、亡き者にしようと、常日頃から画策、策謀、考え抜き、実際、今言った、龍ノ口の法難など、ほとんど良観の思い付きであり、策略が見事、成功したかに見えたその時だった。
(鎌倉大路、鶴岡八幡宮での、大聖人様の、御本仏としての、神をも恐れぬ八幡への一喝)
実に、大聖人様は、鎌倉市中を引き回しの上、鎌倉の大路をゆく最中、丁度、鎌倉鶴岡八幡宮(八幡大菩薩)の前をお通り、通りかかった。
その時、大聖人様は、獅子吼の如くの大音声を、その時、八幡様の前でお発しになった。
「こら、八幡大菩薩よ。この私、日蓮を、そなた、八幡は、見捨てると言うのか。それでも神かお前は。そんなに非情な、情けない、惨(むご)たらしい、そんな神だとは、私は考えたくもなく、ついぞ思いもしなかった。いい。今はいい。見よ。私はこれから、鎌倉江の島海岸の岸辺の、海の波迫る刑場、龍ノ口に於いて、裁き、命を賭して鎌倉北条武士たちと今夜、夜半、闘う。今に見てろ、八幡。おまえの、その自身の、神としての、最大の嘆き、最大の恐ろしさ、正に御本仏の、仏の境涯の、この私にひれ伏す時が必ず来る。その時まで、首を洗って出直して待ってろ。いいか、覚えて置け。この日蓮、嘘は申さず。今暫く、そなたの出番を待つ。諸天善神の神々の一員の一人、八幡、わかったか?」
(鎌倉江の島海岸、龍ノ口刑場へ)
こう、大聖人様は、正に王者覇者、帝王、獅子吼の如くの大音声を、八幡様の前で発したが、その声虚しく、大聖人様は、ついに、刑場、龍ノ口の、波打ち際の瀬戸際に、大聖人様の手勢は、武士で大聖人様の弟子の四条金吾の他のみであり、大聖人様最大の危機が、今、訪れようとしていた。
鎌倉北条方の、武士の一人が、今しがたから、馬上から降り、刀を水に濡らし、大聖人様は、きっとうなだれて、体は縄でぐるぐる巻きに縛られ、逃げられない、大聖人様は、武士に体を折り曲げられ、首を前に突き出し、人生最大の難局、危機の中、何一つ物音、声も大聖人様は決してお上げにはならず、先程の、八幡様の前での大音声が、まるで嘘のような、その夜の相模灘、鎌倉江の島海岸での、夜の帳(とばり)も落ち、草木も眠る様な、ただ、目の前の、江の島の海は、寄せては返し、ただ静かに、波の音だけが不気味に響いている。
そこで一声、武士は時の声、大聖人様を斬る合図をし、刀を大聖人様の首めがけて振り下ろした、その一瞬の刹那の出来事で、一つの出来事、ある御事が起こった。
(正に奇跡が大聖人様の御身に起こる、これが「発迹顕本」実証現証の事実となる)
鎌倉江の島方面(方角は私は忘れて記憶にないが、たしか西の方角だったか、失念)の方角から、光り物、火の玉のような、発光体が大聖人様、馬上の武士たち、刀を振り下ろそうとした当の武士自身、そこに居た者たち全員が、不思議体験、全く持って不可思議な、超自然現象をその場の一同が皆、揃いも揃って、体験した。今だ、歴史上、このような事は、大和の国、大日本国、日本史上、起こり、行われたことなど、どんな天下人でさえも、夢にこそあれ、誰人も、機会も、時も場所も、一度もなかった。正に、大聖人様が奇跡を起こした瞬間だった。
ここで、大聖人様は、この時も、一切、絶対に絶命せず、見事に自身の勝利、勝ちどきを上げ、その場にいた武士どもは、皆目がくらみ、目が明るすぎる火の玉、光り物に目をやられ、暫くは放心状態、馬上の武士は馬から転げ落ち、地面にしたたかに頭や腰、背中、足、手などをずんだと打ち付け、暫くは同じく、何が起こったのか、全く不明だった。
(数々の、大聖人様を襲い掛かる、「大難」)
その後、その報せを聞いた執権北条氏が、これを聞き、驚き慌てふためき、赦免状を仮にだし、大聖人様は、佐渡ヶ島に流される事が決定し、島流し、「龍ノ口法難」に続き、「佐渡法難」となる。
その前にも、「伊豆法難」「伊東法難」「松葉が谷法難」等々、大聖人様は、本当に数々の御法難に、幕府の連中、それを操る、極悪僧、「極楽寺良観」等々に嫌になる程付け狙われ、その度に大聖人様はその大難を難とも思わずに跳ね返し、押し返し、自己の宿命に勝利の凱歌を上げる、事を繰り返した。
(「立正安国論」の幕府への御建白御提出と、その後の御予言の的中)
それ以前にも、大聖人様は、正嘉元年八月二十三日の鎌倉大地震を始め、大風、大飢饉、大疫病等により、夥(おびただ)しい被災者が出ている現状をご覧になり、文応元年(一二六〇年)七月十六日、幕府の実権者・北条時頼に「立正安国論」を上呈して、災難対治と立正安国の明証を挙げて、災難の根源である邪宗をすみやかに禁止すべきことを論じ、このままでは必ず自界叛逆難と他国侵逼難の二難が起こり、日本国の一切衆生も無間地獄へ堕ちるであろうことを予証された。
それら予証、予言が後に当たり、正に、全世界、ユーラシア大陸をまたにかけ、世界征服を企む蒙古軍が、日本に二度までも襲い掛かり、二度目には、何とその時暴風雨が突如として起こり、蒙古軍は全滅し、日本国は安泰として救われた。俗にいう、日本の「神風」。
(山奥に隠遁し、弟子達の訓戒、教導、指導の晩年へ、自身の遷化、寂滅後を見据えた、大聖人なりの、闘い、一期弘法への期待、その後、自らの教えの全てを一人きりの弟子に伝え、「代々の上人、これことごとく日蓮なり」との御金言を残していく。)
そして齢を重ね、自分は、国を代えて、この国を去り、かの国(ここでは、甲斐の国)へ去り、赴かんと、その国替えは、ある有名な君子名君故人の故事に倣い、自身を、甲斐の国身延山の久遠寺と言う、当時としては今の日蓮宗身延派の、現在の久遠寺よりはるかに小さな、貧乏寺、と言っては失礼だが、とにかくちいさな庵ばかりのお寺を、周囲を山や川に囲まれ、冬は寒く、たべものも不自由すると、大聖人様は「御書」に述べられている。
(六老僧選定、一人だけの愛弟子、直弟子、「日興上人」を後継者として選ぶ、血脈相承。)
そこで弟子の訓戒、教育、指導に大聖人様は必死に当たられ、六老僧、六人の本弟子、日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭(入門の新しい順)を選ぶが、入門の順序が六人の序列を決めるものではない事を、第二祖日興上人の記された「宗祖御遷化記録」により明記され、この内の、事実、実際には、法灯、第三位の日興上人様を身延山久遠寺の第二代別当(住職)に、大聖人様は御遺言で命じ、任じた。それら御遺言の文言の「文証」、文献上の証拠は、古くから、日蓮正宗富士大石寺に長く、その事績をとどめ、伝わる、「二箇相承」の書物、書き置き、一、身延相承書(日蓮一期弘法付属書)。二、池上相承書(身延山付属書)に詳しい。
(日蓮正宗の法灯連綿と続く、一番の自慢の、日蓮大聖人様から、代々、相承を受けた唯お一人だけの時の御法主上人猊下様)
とにかく、それら法灯連綿、血脈相承、法水写瓶、の、御歴代の御法主上人猊下様が、代々、日蓮、日興、日目、日道、日行、日持、日阿、日影、……と本当に、日本の歴史上にも名は余り、うちの日蓮正宗は、有名じゃないが、実際には、それら御法主上人の血脈が、一度も途絶えた事など今の一度もなく、これが日蓮正宗の一番目の自慢。
(いよいよ、大御本尊様の、御大事)
二番目と言うか、本当はこれが最も、人本尊、法本尊の、人法一箇の上からも、一番の、最大の大事、上記の御法主上人方は、これを常に御所持、御伝持遊ばされるから、貴いのであって、この大事が欠けていたら、今日の日蓮正宗は、全くの虚ろ、全くの空の、絵空事、中身が空洞の、空の空を地で行っていたであろうと推測、推論する次第。
その、一大事とは、勿論、大日本国大和の国、駿河の国の、今の静岡県富士宮市上条の、鎌倉時代、今から七百五十、八百年前の、弘安二年十月十二日御建立の、御本仏宗祖日蓮大聖人様御建立の、御真筆、御真磧の、本当に、世界中の人々皆が、広宣流布の暁に、拝むべき対象、最も偉大で、最も畏れ多い、ここ、日本に御一体だけしかない、実に貴重であり、尊極であり、正宗信徒が崇拝し止まない、三大秘法の本門戒壇の大御本尊様、この板曼荼羅の、御一体のみを、大聖人様は、御自身、御自分の身代わりに後世に御遺しになって下さり、誠に勿体ないながらも、今日の、大聖人様の時代の末法の世は依然変わらず末法万年の、この平成、令和の御代に於いてさえも、この大御本尊は、日蓮正宗法華講信徒の資格さえちゃんとあれば、誰でもいつでも、何時(なんどき)でも(実際は御開扉時間は、きちんと御宗門により、厳格に守られ、その入場人数の数、かならず御開扉は当宗信徒でなければ駄目と、ちゃんと事前に一切が執り、決められているが)必ず、あの、大きな大伽藍の敷地を擁する、日蓮正宗富士大石寺に一歩、足を踏み入れれば、三門から塔中を抜け、御影堂を通り、いよいよ、大御本尊が厳護されている、奉安堂に我ら日蓮正宗信徒は、入ってゆく事になる。
(御開扉の様子)
そこで、椅子が五千席とも六千席ともいわれる、そこも大建築作りの、大屋根が四隅の大きな柱と壁で見事支えられ、頼もしい建物で、その中央前方最前列に、猊下様、御僧侶方が座る別席、僧侶席があり、私共在家信徒はその後方で、じっと猊下様、御僧侶方が御臨席するのを待つ。
しばらくすると、猊下様を筆頭に、御僧侶方所化小僧さんたちが列をなして、足音を少し立てながら、厳かに現れる。
その瞬間、事前に灯された巨大な二本のろうそくの火が微かに揺れ、席に着いた猊下様、御僧侶方他が着席し、猊下様が御導師、マイクの声を通して若い僧侶が伴走し、いっしょに猊下様と、われら法華講の者たちは、「妙法蓮華経 方便品第二」「妙法蓮華経 如来寿量品第十六」の寿量品は、長行と自我偈をちゃんと読み上げ、最後に至ると、鈴(鐘)が猊下様より厳かに打ち鳴らされ、「南無妙法蓮華経」の御題目の大合唱となる。
これが暫く、続き、いよいよ、大団円、鈴(鐘)題目三唱が猊下様より御声が発せられ、フィナーレへと近づいてゆく。
その間、ずっと、板曼荼羅の、三大秘法の戒壇の大御本尊様は、漆黒の色に、金字の、黒の楠板の漆塗りに、金の御文字の、大聖人様の御時代そのままのお姿で、勿体なくも、我ら信徒の目の前に、御鎮座まします。
その余りの偉大さ、偉容に、初めて目にする者たちの目には、誰も彼もが、感涙の涙が、一滴、二しずくと流れ、その感動に打ち震え、居てはいられない、その場で静かに泣き崩れ、しかし決して誰も取り乱さず、平静を保ち、猊下様の一挙手一投足に全神経を集中させ、すべてを大御本尊様に自らの全てを委ねる。
そこでその時に、皆、その読経唱題、猊下様の発する御祈願の御言葉、大御本尊様が、御開扉、扉が開かれている間、間隙を縫って、我ら信徒は、その間、必死に、日頃の御祈り、自身の願望、希望、願いを願掛け、一心に、その扉が締め切られる最後の一瞬間までを、一生懸命に祈りを捧げ、大御本尊様に全てを託し、全生命、全宇宙、全人生、全世界、全日本、全近所、全家族、全願い事の全てを恥も外聞もさらけ出し、その一瞬に賭け、自身の最大の見せ場、人生の最良の時を、ここで、後の思い出として、祈りを捧げる。
猊下様が、全てお祈り、ここでの勤行唱題が終わった事を告げ、皆さんのご多幸、御幸福、しあわせ、世界平和、一家和楽、武運長久を御祈念した事を猊下様は告げ仰り、いよいよ、最終幕、大御本尊の閉扉となる。
全部全自動で、それら鉄か金属製のような、幕、扉が電気の全自動で扉が閉まり出し、我ら信徒たちは名残惜しく、その大御本尊様が消え去る一瞬まで、感謝感激の、皆で大合唱の、大音声の、「南無妙法蓮華経」の御題目の残り火のようなお題目を、我ら信徒は最後を見送る気持ちで、一心不乱に送る。
「大御本尊様、閉扉(そんな声は全く、しない。あくまでも、その瞬間の様子を表した)」そして、全てが終わり、猊下様を筆頭に、御僧侶方、所化小僧さんたちが、皆の御題目の唱和の中、静かに奉安堂を後にする。
その後、我ら信徒が、今度は席を立ち、館内放送でも注意が示され、無言のうちに、静かに、我ら信徒は、足音のみを立て、足音をその場に残して、各自、物静かに、去る。
(奉安堂、大御本尊のお話の、フィナーレ大団円)
これが、奉安堂の於ける、大御本尊様の、御開扉の全一回の、全貌、姿を、簡単ながら、お粗末ながら、書き付け、メモ書きのように、書かせて頂いた。
(ごあいさつ)
恐々謹言。末法万年、二〇二二年R4年十月五日午後四時三十五分現在、電波ソーラー式腕時計による計測、令和の御代の語り部のwainaiよりこれを書き記す。以上。
話が長くまとまらず、長いまんまで、途中で済みませんが、この話が長くなり、中々、最後の結論、I田医師との対決篇まで話が進みませんが、これが峠の様なものですが今般、今の私の最大の心残りであり、呻吟する次第で、しかし、その原本、現行、私の書いた構想の一端のメモ書きは、私のノートの中には既にちゃんと病院入院時に、私が考えて、携えて、全て、手筈を整えています。
今が山場、人生の峠の様なものです私の言いたい事は、今日はすっかりはっきりしっかり、申す事は、言い出せ、言い切ったと思います。
私も今晩、夕べの勤行唱題、夕ご飯、服薬、睡眠、等々、多々個人的な事柄が数多くある為、切りの良い、この辺で失礼させて頂きます。私の語り口、語らい、語り部としての私のこんな駄文、長文にお付き合い頂き、本当に有難く、感謝の仕様がなく、数は多くはないであろうと私は恐らく推測する、読者の皆様方に感謝申し上げ、誠に不躾ながら、御無礼、失礼仕(つかまつ)ります。
尚、今すぐ、夕べの勤行へと、そしてその後の食事服薬睡眠等々、明日は午前中に私の福祉のヘルパーさんも来られます。その為、午前中は、ブログ更新はかなり、無理でしょう。済みません。
いつかは、必ず、このブログ記事、連載記事を完成まで漕ぎ付けるよう、その達成を期し、自身、返り血を例え浴びようとも、どんな苦労があっても、努力、精進致す所存で御座います。
自身、取り組まないといけない事余りの多数の手前、読者様方、同gooブログ上の、御同志方の、ブログ作者作家がたの、皆様のページへは、私めの時間が大変限られてしまう為、今日、本日は、「いいね」等は出来かねます。御免なさい。謝辞、この場を借りて謝らせて頂きます。誠に済みません。
明日、時間があり次第、皆様のブログ記事ページに立ち寄らせて頂いた際には、その時、私に時間的余裕がかなりあり、ヒマがあれば、幾らでも、「いいね」等、押させて頂きますが、確約は出来ません。
多分、というか、ヘルパーさん対応の為、午前中の更新は確実に、無理です。
その頃は、ヘルパーさん、食材の買い出し、調理、その対応に追われ、きっと私も、てんてこ舞いでしょう。
その後、その食事を昼にとり、そのヘルパーさんはその前に帰られますが、私はきっとその日の疲れがどっと出てしまうでしょう、多分(そんなにいつも、平常、ヘルパーさんに気を、気疲れし、こちらが気遣う程、それらこちらがしていたかは疑問もありますが何分退院後初なので用心します)。
今月、退院後初めての、実は月曜も午後ヘルパーさん別の社の方、来られ、その時も、私は食事をとるのも気が引ける程、自身、病後の療養後の為、疲労困憊したのでおそらく、今回も疲れが一気に出、恐らく多分ブログ更新は控えることになります。
元気が復活すれば、又再開ですが、その後、この文の前後かにお伝えの通り、金曜は通院日で自身、今月近時では最大の遠距離移動、人との往来、当院の臨時の主治医先生との面談診察診断等が控える為、このブログ記事は、その後、当分、お休みいたします。元気であればその時、ブログ記事を書きますが、夜間は、睡眠加療、安眠優先の為、お休みをさせて頂きます。
そして、七日金曜日は、私は今月初、退院後初の、自身の病院通院日となって居ります。
皆様にはご迷惑をおかけするかと思い致し、畏れますが、私にとってその日は、一日がかりの遠距離に通院の場所立地にその病院がある為、私にとり極めて過酷な行であり、おそらく、全一日、全くの、ブログ更新が不可能になる事が予想され、ここでそのお知らせ、通告、宣告、布告致します。以後お見知りおきを。
何卒、誤解、御不満、お怒り、御心配、等々、それら御念慮の全く無きよう、切に祈り、宜しくお願いいたします。
字数が、紙数が、誠に尽きて参りました。ここで、皆様のご健勝ご多幸をお祈り申し上げ、わたくしの言葉とさせて頂きます。
誠に、有難う御座いました。wainai、ブログ主より。以上。