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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

日蓮正宗と、数学、算数、算盤、珠算、理系科目の近似性、以前の記事からの移動。追加引用記事:御宗門の江戸幕府からの迫害の歴史、金沢法難等々。

2022年10月13日 18時20分12秒 | 筆記具系・文房具・文系器具・文理系・そろばん・ソロバン・算盤・理系・理数科目
 (話の続き)(数学の学問のお話、母の教え、算数、高校数学、論説問題、証明問題、論文問題等々、数学の極意、極説、数学の学問上の価値、尊さ、尊厳、数学の全て、算盤そろばん珠算の話)                               
 うちの頭のいいお母さんも、良く、「数学は、答えが一つ、答えは一つしかないんだよ。それが数学の良い所。簡単で分かりやすくって、お母さんは、アンタは知らないけれど、私は大好きだわ」と良く、母なりに息子に語り聞かせていた。


 母は、学生時代、最も得意な教科が、数学や化学と言った、私とはまるっきり違う、理系の科目の好きな、少女、生徒時代を過ごしたようだった。


 高校数学の論文、長い回答の、長い自分なりの論説を、数式、定理、公式等をフルに使い、最後に「よって」と、あの結論を数学の時間に、回答出来て、それが見事、全部当たっていて、論説論文回答の数学数式の説明、数学文章の、最後の結論も見事当たった時のあの快感ったら、これ以上のものはない。


 私は元々高校時代から文系志望だったが、その、あの、数学は余り得意じゃなかったと自覚はしているが、高校で習ったあの、数学の時間は、高校時代の後半は苦手意識があり、ただその時間を逃げてはいた。 


 私は事実、そろばん三級であり、元々算数、簡単な計算は大の得意なのである。


 それが、高校の、高等数学で引っ掛かり、落ちこぼれたが、数一・数二、高校一、二年の、数学1、基礎解析、代数幾何、辺りまでは、何とか高校時代、高二位までは、皆についていってはいたのだ。


(日蓮正宗の、教えの真実は、一つ、教義)
 あのただ有難いと思い日々念じ、この為に、日々、日蓮正宗で朝な夕なのお勤め、勤行唱題行を行っているんだ、いるのかと、思って今を生きている。


 結局、日蓮正宗も、正しい教えは一つ、一つしかこの世に存在しない、と宣言し、自他に訴えて、教えを日本はおろか、数は少ないが、世界中に訴え、教えを地味にだが、じわじわと人々に訴え続けて、伝統が八百年の歴史を優に超え誇る。



『(ここで、少しかなり脱線してしまいます。閑話休題。
ここでも、宗教論、理数論、音楽との融和性・協調性・調和性、この稿でも、この三者三様の、類似性・近似性を語り合い、論じ致します。

この論文説の皆様への、お断わり、ご注意事項、読んでいくポイント・ヒント集。

ここで、これにて、算盤論、珠算論、算数論、数学論、高等数学、理系科目の数の世界観、数の精神論の話から少し逸れ離れます。

これからのお話は、宗教論、日蓮正宗の主に江戸時代の、法難、特に金沢法難のお話を取り上げ、その対処、根本解決は明治時代まで待つが、その難に負けない人々の心意気を取り上げる。
その他、それ以外にも全国各地、各人が、法難等に遭う、迫害の影の面のお話。

しかし、江戸幕府要人の、徳川家、各大名、城主の夫人方、武家武将武人からの御帰依、御寄進、御寄贈等も我が日蓮正宗御宗門は幕府側から庇護も勿論、受け入れる、日の光の当たる日向(ひなた)の面のお話。

それから、歴代上人方の、富士大石寺寺域の境内の御整備のお話も取り上げる。

しかし、それら、日蓮正宗のお話が続いた後は、又もや、
数学論、珠算論、理系科目の話へと論説、論調が打ち続いていゆくのでご安心を!
理系の、数の世界観を読者の方々にはじっくり堪能していただけます。今暫く、我慢下さり、理系好きの方には、方にも、これから暫くは尚、宗教論議にお付き合い願います。
結論を急ぐ方は、最後の結論だけをお読みになり、読み飛ばして下さっても、別段構いません。宗教論一生懸命書いた私は非常に悲しみに暮れるかも知れませんが。しかし、私は、自身、勿論結構であり、一向に差し支え御座いません。

その宗教論の後の付けたし文章。後書き論文。それ程、数学論、と言った、大それた事は書いては御座いませんが、自分の理系科目、数学、珠算等への思い、数の世界への希望・希求、自身の小中高校時、その後の半生の理系科目の取り組みの実態、経験、体験等々の数の世界への憧れを縷々綴って居ります。

これら論文、文章は、最初と最後が理系・数学・珠算への論。その間が日蓮正宗の宗教論。
丁度、ロールケーキの様な、サンドウィッチの様な、理系話で前後はさみ、宗教論が間に挟まれサンドした形の論文説です。


結局、何が言いたいかと申しますと、この大仏法大仏教の、釈尊の教えの法華経(妙法蓮華経)の時代からの御教え、日蓮正宗の、大聖人様・大御本尊様の宣揚した、血道を上げた現実主義の努力精進の御教え。
 
それらと、折伏弘教教化の手段、考え方の一端と、理系科目、珠算、算数、数学、高等数学、等々の、結論結果が、それらの「答えは一つ」の合言葉と共に、見事な合致・一致を、見ていると思う。

仏法と数学が、理論的にも、論理学的にも合理的、道理で考えても私には同じに思えて来る。

それも、数学数式の、珠算算盤の盤面の、あの整った数の世界の機能美、様式美、格式美のようなものと比して、カッチリキッカリ、理論的に、道理でも、仏法仏教の因果、因縁果報論、特に、五重の相対、三重の秘伝と、この御教え、日蓮正宗は完璧すぎるが、この両者は、余りに似過ぎて、似て非なるものだ。

世界の邪教共、キリスト教・イスラム教共とも、互角に戦ってもまともに法論で勝利が確定出来る自負と自信と確信を強く抱く。
それは国内でも勿論言え、創価が幾ら新興宗教最大多数国内教団でも、必ず年数を掛けて、それら民衆の誤解、誤謬を解いていく破権門理、法華折伏、折伏正意の努力は、正宗信徒は続けてゆく。そして一番大事なのが、慈悲の折伏、慈悲の法門、これである。

話は音楽に代わるが、私は、クラシック音楽が今もかつても好きだった。クラシックのピアノ協奏曲で、会場のグランドピアノと金管管弦楽団のオーケストラとが、一瞬のうちにその場で一致調和して、あのコンサートホールの天蓋にこだまするが如くの、予定調和、アンサンブル、和音ハーモニーに満ち満ちた瞬間に、コンサート会場にて立ち会った事が私は数度、ある。(於:福島県の中央の街、文化通り安高通りの、郡山市民文化センター、にて)

それら楽曲を自宅パソコンの音楽ソフトにて時々聞くが、あれと同じだ。

ピアノと、オーケストラが、ピアノが王者覇者獅子の如く振る舞い、オーケストラもそれに倣う。どっちも互角で、引けを取らない。最後まで、その音楽におけるスリル感、スケールの壮大さを味わい、終幕フィナーレ大団円へと、指揮者指揮の下、ピアノ協奏曲がなだれ込む。

曲は、ベートーヴェンでもブラームスでも、モーツアルトでも、リストだろうが、シベリウス、グリーグ、ロシアのチャイコフスキー、ラフマニノフ、何でもいいが、とにかく、私は、多趣味かも知れず、音楽も大好きだ。

この、音楽の、ピアノ協奏曲での、ピアノと、交響楽団の、丁々発止と互いを高め合い、尊ぶ。この世界も、何か、宗教の、世界に冠たる日蓮正宗と理数系の話にも通ずる気がする。

結局、宗教も、音楽も、数学も、言語自体も、それら自体が全て「記号」に過ぎず、
皆、記号論理学、現代論理学、数理論理学、数学的論理学の学問体系に、全て収れんしてゆくのではないのか、と私は最近、学問的には、思っている。

要は、何でも、頂上は同じ。全ては一つの道、世界に通じていると言う事だ。

私自身の筆、キーが想いに任せて自由に赴きます。読者の方、良ければ自由に読んでください。
では、開始いたします。)

以下、論文説、引用文、宗教論、理系論、フィナーレの終幕、この文章、論文の結論へと、続いてゆきます。長文失礼。是非お楽しみください。』


(江戸時代、宗教御法度時代から、近世明治大正の御代へ)
 その間に、大聖人様の御教えを、日本乃至、世界中に、「世界広宣流布」し、出来なかったのは、私達、正宗信徒の実に悩ましい、心の遺恨の残る、痛ましさの残る大事実である。 


 これとて、今の、当時の日本の、鎖国同然の村社会、檀徒社会、檀徒制度、江戸時代の、キリシタン禁制による、寺請制度、葬式仏教化した、日本の、正宗以外の既成仏教教団に、ある種の大打撃、革命を、日蓮正宗は今も現在も投げかける。


 明治の、或る程度の明治憲法で制限付きだが、信教の自由が開花した明治維新の御代に、日蓮正宗は、江戸時代にも個人的、武士層、平民庶民層での、法難や信教の自由がある程度、江戸時代はご法度だった時代にもかかわらず、その時代に尚、時代の先駆となる、折伏行にも時代に先んじていた。


 日蓮正宗(その時代は、日蓮宗富士派、もしくは興門派、を名乗っていた。正式に現在名になったのは、大正時代の、御法主日正上人の時代、御代)を時代の制約に縛られながらも、実直に実行、折伏教化、法華折伏、破権門理の教えを、今の時代と露も変わらずに、現代と同じく、実践為された方々が確かに、居た。


(江戸時代、日蓮正宗中興の祖、日寛上人の御事)
 そして第二十六世、御法主日寛上人が御当座された江戸中期、日蓮正宗宗門にとり、かのお方、この方は、「日蓮正宗中興の祖」と呼ばれ、正宗信徒に随分慣れ親しまれ、そのお言葉は、今なお、信徒の僧俗問わずに、読まれ、教えが、大聖人様に次いで時の御法主では並び称されるほど、宗内では高く評価差され、現在も用いられている。

(以下、「江戸時代江戸幕府における日蓮正宗御宗門の、折伏弘教と、法難の数々の歴史」、「『日蓮正宗入門』(大日蓮出版)からの引用、開始。私なりの、趣意、自己流文章もないまぜではある。見出し語尾等も改変を了としたい。以下、スタート。)

(江戸時代大法の大弘通と大法難の数々。既に、この時代から封建社会での憎たらしい江戸幕府と立派に対峙していた日蓮正宗御宗門各僧俗法華講衆たちの面々)
 この時代、日蓮正宗としても、江戸幕府のやりたいように勝手にやらせ、手をこまねいていた訳では決してない。
 江戸幕府は、宗教政策の一環として寺院法度を定め、布教を制限し、寺請制度を設けて改宗を禁止。けれども、そんな中にも大聖人様の破邪顕正の精神を受け継ぐ僧俗の折伏弘教により、日本各地に大石寺信仰への改宗者が相次いだ。この為、幕府要人、為政者、他宗の僧俗に睨まれ、大石寺門徒への迫害が加えられ、各地で法難が起こった。

(金沢法難)
 加賀・能登・越中の参加国を領有した金沢藩では、第五代藩主・前田綱紀の勧めにより、江戸屋敷の家臣たちが、江戸常在寺にて、日精上人の御説法を聴聞した事により、家臣の中に大石寺の信徒が誕生し、ますます増えて行った。
 その後、大石寺に帰依する者は領内にも弘まってゆき、享保三年(一七一八)頃には福原式治(次郎左衛門)を始め、純真な信仰を貫く信徒が相次ぎ、続々と現れました。
 しかし、同八年(一七二三)に藩主が第六代吉徳になると、藩は幕府の厳しい宗教政策統制に従って、領内に末寺が無い、大石寺信仰は寺請制度に抵触するとして、布教が取り締まられました。
 そして、享保十一年(一七二六)四月に加賀の法華宗慈雲寺の僧・了妙が富士門流に改宗した事により、慈雲寺が寺社奉行に訴えた為、大石寺信仰は禁止され、内得信仰さえも差し止められた。この頃、藩内の大石寺信徒は数千人に達していたと言われている。

(日詳上人猊下様他、歴代上人猊下様方の苦悩)
 翌十二年(一七二七)三月、第二十八世日詳上人様は金沢藩江戸屋敷に対し、領内の寺院建立と大石寺信仰の解禁を願い出たが、悉く却下。その後、歴代上人方が、藩主の交代のたびに、末寺建立願を提出したがいずれも、藩規により受託されず。
 
(大難に続く、大難、それにびくともせず、僧俗一丸となり、見事、明治の御代の春が訪れる)
 しかし、このような中でも、日蓮正宗の信仰の弘教は続けられ、十数の講中が生まれる程になった。
 これに対し、藩では、元文五年(一七四〇)、明和七年(一七七〇)と、数度にわたり、大石寺信仰禁止令を出し、これに背いた理由で大勢の人々が入牢・閉戸などの刑に処された。
 その中で、天明六年(一七八六)四月に大石寺信徒の足軽小頭の竹内八衛門が牢死した。
 これらの迫害は、明治時代を迎えるまでの約百五十年間の長期にわたったが、金沢信徒たちは、「抜け参り」を行うなど、根強い信仰を続けた。この法華講中より、第三十七世日琫上人、第四十七世日珠上人が出られています。
 そして、第五十二世日霑上人により、金沢の地に妙喜寺が御建立され、ここに金沢信徒の悲願が成就した。

(金沢、抜け参り、とは?)
 金沢法華講衆の強盛な求道心を示す逸話として、二つの「抜け参り」が伝わる。
 一つは、前田藩主が参勤交代の途中、東海道吉原(富士市)付近で宿泊した時、金沢信徒の青年武士たちは、夜中、宿を抜け出し、約十八キロもある大石寺まで駆け走り、歓喜の唱題を行って宿に戻ったと言われる。
 二つは、道中手形を出してもらえない金沢の信徒たちは、大石寺に参詣したい一心で領内から抜け出し、互いに励まし合いながら、山谷を踏み越え、十数日を掛けて大石寺への参詣を果たしたという。

(もっとある、日蓮正宗が受けた法難、数々のそれに負けぬ折伏弘教の闘い)
 その他にも、代表的なもので、「讃岐法難」「仙台法難」「洞ノ口法難」「伊那法難」「尾張法難」「八戸法難」等々の代表的な法難がある。
 その他、武蔵野国荏原・蛇窪(品川区豊町)の「蛇窪法難」、駿河国富士・猫沢(静岡県芝川町)の「猫沢法難」等々、大難が起こった。
 数多くの大難法難が起こるも、大石寺信仰を護り続けた人々の不屈の精神は、末代信徒の亀鏡として、今日に伝えられている。

(江戸幕府と宗教政策上、対立するも、江戸幕府の要人夫人方の御帰依、全国地方大名直臣城主等々から御寄進も受けて、御宗門も庇護を受けた歴史)
 阿波徳島の城主・蜂須賀至鎮の夫人で、徳川家康のひ孫の敬台院は、日精上人に帰依し、寛永九年(一六三二)に本山御影堂を再建寄進した。
 また、第二十五世日宥上人の御代に、同上人に深い縁があった天英院殿(徳川第六代将軍家宣の夫人)が帰依し、正徳四年(一七一四)に、千五百両御寄進により、常泉寺の本堂が建立されている。
 これに先立つ、正徳二年(一七一二)には、天英院の御尽力により、幕府から黄金千二百粒、富士山の巨木七十本の御寄進を受け、これに日永・日宥両上人の九百両と合わせて、五年後の享保二年(一七一七)八月に、大石寺三門が御建立為された。
 享保三年(一七一八)に御登座された日寛上人は、梵鐘の改鋳・青蓮鉢の御造立をされ、第二十七世日養上人の御代の享保八年(一七二三)には客殿が御再建され、更に翌九年(一七二四)再登座された日寛上人猊下様によって石之坊が御創建され、同十一年(一七二六)には常唱堂が御建立為された。
 それに、日寛上人の五重塔の建立発願基金として、日寛上人自身、五十両、永代基金として二百両を遺された。大石寺の興隆と維持に重々の配慮を為され、その後、五代にわたる御歴代上人の丹誠と、伊勢(三重県)亀山城主・板倉勝澄の一千両の御寄進、江戸・金沢等の御信徒たちの御供養による総額四千二百余両の大工事を以て、二十三年後の寛延二年(一七四九)、第三十一世日因上人猊下の御代に、富士大石寺の五重塔は完成いたしました。

(以上、日蓮正宗の御本、『日蓮正宗入門、改訂版』(発行所:株式会社大日蓮出版)
(平成14年1月1日初版発行、平成23年10月12日改訂版第2刷発行、発行:宗旨建立七百五十年慶祝記念局、委員長、藤本日潤。
編纂:宗旨建立七百五十年慶祝記念出版委員会
改訂:日蓮正宗宗務院
の御本・御出版物より引用す。書写、見出し冒頭文句語尾語句等、一部ブログ筆者変更改変加筆訂正有り)





(日蓮正宗と、そろばん、算数、数学との、その考え方の上での、類似性、近似点)
 それらすべての御教え、日蓮正宗の教えと、私が、そろばんを習い三級を取り、それを生かし、算数を習い、中学・高校と、今度は数学を習った。
 その、数学の、すべての、論理の組み立て方、答えは一つ、の数式や証明問題、論文形式の、数学のすべての自身の理論理屈主義主張、途中経過の、自身の論説説得を試みそれらを経た上での、最終「結論」に至る、数学の、自身の心の内の思考、論理の積み上げ方、最後の結論結果に滑り込む、その全てが、何か、日蓮正宗の論理的で道理に叶い、筋道が通った、立派な教えに幾分も違わず、私はそこに、何か、同種同類の、同じ仲間、考え方を持った、皆、一緒である気がする。


 私の拙い、高校時代後半は、数学は大変落伍者であり、まったくもってして、数学に対し、自信のない生徒となり果てたが、その当時、高2までは、私は、実は国公立大学進学志望希望者で、無我夢中で、数学とは格闘はして取り組んでいた。


 その後、私立文系に移り、私立文系は受験科目が国公立の数学を含む五教科じゃなく全くなく、国社英の三教科が中心であり、数学は、不要となり、不得意となった。やらず嫌いの食い嫌いとは、正に私の為にある言葉である。


 以上、延々、縷々と、私の自身の考えとして、算数論、算盤論、珠算論、数学論、日蓮正宗と数学の近似、類似性、について、私見を多く述べた。





(あとがき、これからのこの連載の意気込み、連載予定のお知らせ見通し、皆様への挨拶、謝辞、反省懺悔等々最後に改めて挨拶結語)
 今日も文章を本当に長時間私の満足するまで書いた。
 まだ、この連載文の結論にはまだ遠く、時間が掛かりそうです。


 それにしても、自分でも長すぎ、冗長で、余りにしつこく、くどい。もっとあっさりできぬか、これは駄文である気がする。いくつもの小話にした方が結果が良かった。沢山、てんこ盛り、盛り込みすぎ!


 これは小話、短編に区切って、小さく幾つもまとめた方が良かっただろう。この文字数、今の編集ページでとうの九千二百余文字を、とうに越えてしまっている(一体、誰がこれ読むのかって話、人迷惑だろ)。
 
 今度こそはスタイルを変え、小さく文章をまとめてみます。この稿は、私の書いたノートの原稿から一段一歩離れ、独自の、アドリブ、自由演奏、自分の我見に満ちた文章群なので、余りに長すぎ、読者の皆様は、読まないでも、飛ばしてしまっても私としても一向に構わず結構です。ただ、記録として、取っては置きます。


 本来の本稿趣旨の、私のクレジットカード解約編の続き、成り行き、顛末、結果結論、終結収束編のお話と、I田医師との最終対決論・対決篇、悲しき一人での独り芝居の一人セリフのI田との孤独な闘い、格闘編への、結論終幕フィナーレに向けて、書く事を頑張ります。


 それ以後は、主に日蓮正宗の宗教話、他宗、異宗教共との破折折伏の濃い宗教論、現在の私の考え、この世の成り立ちへの考察、好きな自民党の事、この国の未来、この国の抱える諸問題、今の時代の世相、北朝鮮が責めた来た場合の、我が国の国防防衛自衛の第一義の在り方、この国のかたち(司馬遼太郎先生の御本、先生ばり、みたいですが) について、是らも是非書きたいと思っています。


 以後の私は、ノートを引っ張りフル活用で、頑張って書いてゆきます。今までの様な横道にそれた脱線、駄弁は今度は決して私自身、許しません。


 多弁に過ぎました。


 本当に長文失礼。失礼仕ります。以後、御無礼お見知り置きを。以下、恐々謹言。以上、よしなに。wainai


母の出身母校、東京都立戸山高校。(※後日、記事付け足し、画像付き、私なりの、自身の、高校受験に於ける感慨含む。)

2022年10月13日 15時59分43秒 | 学校・教育への提言特集、注文・恩師への感謝・学生生徒時代の想い出
 母の出身校は、東京新宿にある、東京都立戸山高等学校である。
 これも、先に書いた私の出身校、安積高校同様、難読文字、難読地名高校である。
 何より、「とやま」という響きが、何故か、富山県の「とやま」と近く同じく、東京都出身者以外には、全く知られていない。これも無名校、難読高校である。
 しかし、聴く人よ、驚く事なかれ。この、東京都立戸山高校は、凄い高校なのである。
 東京都の人は、大体は話が分かる。「戸山、へえ、すごいねえ」と。
 この戸山高校は、昔の都立高校の中でも、当時、御三家、三大都立と呼ばれ、それが、「日比谷」「戸山」「西」の三高校の一角を占め、遠距離入学、越境入学して、日本全国から受験生が押し寄せ押しかけて来ていた時代があった。
 戦前戦中の、昔の戸山高校は、確か府立四中であり、これが新宿区の大都会に占める、昔から難関進学校だった。
 その卒業生は、陸軍大臣、後の首相を務めた東条英樹など、大秀才、天才ばかりを生み出し、世界の中で活動する者も数多く、各界で広く活躍した。
 母は今、八十台だが、その頃の戸山は、最も難関を極めた、極めて入りにくい、それも母は女子であり、元々戸山は私の母校安積と同じ男子高であり、戦後、特別に、母の時代から、女子も入学を許された。
 母は、その女子入学が許されてから、日もまだ浅い、周りは男子ばかりの、その頃の共学校としては、女子などは、高校も行く人もかなり少ない、男子がかなり幅を利かせていた。
 そこを割って入った母はすごいと言える。そこで、母は、成績は常に優秀であり、クラスメイトからは、母が「お茶の水女子大」を目指していた事などから、母のあだ名が「お湯の水」という名前だったそうな。
 しかし、母の実家の、弁護士一家の母の父、私の祖父が、祖母、私のおばあちゃんを嫌になり追い出し、後家、後妻(ごさい)をもらった。
 その後妻に、母はいじめ抜かれ、まるで、童話の「シンデレラ」の如く、いじめられっ放しの、何も反抗できぬ、自身の高校時代を苦悶苦労の内に過ごした。その心労は、如何ばかりであったろう。
 結局、大学にはゆかず、弁護士の自身の父の家の下を、母愛用の算盤と家の自分名義の印鑑だけを持ち出し逃げ出し、おばあちゃんの家に隠れ逃げ込み、おばあちゃんの経営する看護婦事務所を手伝い母は平安に過ごした。
 (後に、母の父の兄から、その時の母の勇気と、算盤と印鑑だけを持ち出し逃げた事実を聞いた祖父の兄は、高く母を評価した。その忠光伯父さんも、私の祖父と同じ、皆弁護士一家の、そもそも弁護士の祖父の兄弟だった)。
 後に各種学校を自身のアルバイト、会社員事務員で稼いだお金で学び卒業し、全く畑違いの、マックス美容学校卒業後(美容化粧品メーカー、マックスファクターが経営する美容学校)、国家資格の美容師免許を、神奈川県の県知事名にて、昭和の頃、母名義で拝命された賞状証書が額縁入りで、まだうちにはある。
 とにかく、母は苦労人である。その苦労が、今の母からは全然感じられないのが不思議である。年を重ね、角が取れて来たのかは、私自身、全く分からず、私は論を譲りたいと思う。

 以上。

(続き。―その後の、真相。母の真実の御話。美容学校卒業。国家資格の美容師免許取得。美容店経営、父との出会い、私の誕生、他、についての御話。)
母の、第二第三の出身校、「マックス美容学校」の卒業証書の写真画像。皆、難しい英語で横文字でオシャレに書かれている。

その後、母は、今言った、神奈川県の美容師免許を取る。

一般にその当時は、関東地方首都、東京都の美容師免許試験は、オーソドックスと言うか、基本に忠実な、言わば簡単な、誰でも受かる様な、受け甲斐の無い、美容免許であった。

それを嫌った母は、わざわざ応用力・職人技を試され、試験も難関を極めていた、受かる人も本当に少ない、「神奈川県美容師免許」を、難しい美容師試験を受けた。何故かこの当時、神奈川は、非常に試験が難しかった。

 ※話の、中断。閑話休題。それはさておき。私自身の事共。
 同じく、試験の話。神奈川と福島の違い、等。

 とにかく、神奈川県の試験制度は、受験生泣かせばかりである。私も、自身が高校受験生時代、神奈川の受験制度で、実際に大変だな、と思ったのは、神奈川の高校受験は、悪名高い「アチーブメントテスト」と言うのがあった。
 それは、中学時代の、言わば内申点の、試験版というのか、中学時代の早期か中期か後期か、忘れたが、とにかく、中学の時代に、高校受験の大半の大勢が決まる。

 極めて複雑で、受験生泣かせの、独自システムを誇って(?)いた。
 それであったら、そんな試験制度ならば、私の様な、中学二年から、猛烈に勉強に血道を上げるようになった者共、途中から、優等生になった私の様な者は行き場が無い。(かなり、神奈川県でも、そんな例は考慮に入れずに、珍しい、考慮には入れられない、私は生徒扱いなんだろう)

 だから、神奈川では、私の様な、中途で成績が上がったもの向けの私立高校、桐蔭学園高校や、フェリス女学院、他、多数の、私立進学校、県立じゃなく、私立高校が隆盛を極めたのではないか、と私は個人的には思う。
 そのアチーブ何とかが悪い原因となって。神奈川はやり方がバカだ。

 私は、神奈川県の地域では、箸にも棒にも掛からぬ、どこの進学校にも行けない、最悪、最底辺校に行く他無かったのではないか。と、私は、一応、神奈川出身者ではあったので、首一枚、繋がり、福島県に居るお陰様で、福島県、様様であり、何とも、福島県立安積高校などと言う、およそ、一流校(自分で言うのも誠に不遜、不躾で済みません)に入学できたんだなあ、と、ラッキーだったと、住む地域で大分、人生が変わる。

 逆に、底辺校に行ったとしたら、今よりも私自身、人並みに、もっと幸せだったんじゃないのか。この辺のさじ加減が今の私にはさっぱり判らない。

 こんなに日頃から、進学校の高校に行ったお陰で、その後の人生が、良く変わったのか、悪く変わったのか、さっぱり判らない。

 私は、余計な事、複雑に物事を、心配し過ぎたり、考えすぎたり、思い過ぎたりしなくて、良かったのに、と、自身、思う所が多々、ある。

 人生は、誰が、何が、どこで、どこに住む地域かでも、どう変わるか、そこの、(試験制度でも、の)決まり次第、人物評価の仕方次第で、で人生も、大きく代わってくると深く自分自身、思っている昨今。

話しは、また、元に戻る。母の話の、続き。

母もくせ者、へそ曲がりであり、これは、父、母、私、の三人にとっても共通した性格・性質である。

試験会場は、横浜市の開港記念館(確か。これも、今、母に聞かないと判らないが)。

見事、昭和四十五年六月二十九日、神奈川県知事・津田文吾、名にて、一発で受かり、美容師免許状を、拝命頂いた。

他にも、(群馬県)、確か栃木県と茨城県も受け、皆、美容師免許を受かったか、これも母に聞かないと分からないが、とにかく、その当時、(群馬か)栃木も茨城も行ったとは聞き、言っていた。

その後、新宿駅前にて、自分の美容店を出し、美容師として何人も美容師を他にも雇い、美容店経営者となるが、父と巡り合い、結婚。その後は、私が生まれてしまい、私の子育てに追われ、母が二度と、美容師を務めた事は、神奈川県足柄上郡開成町の、近所の美容店で、雇われたとか雇われないとか、噂の域を出ず、多分やってはおらず。うちの母が今、施設にいるので(コロナ禍でもあり)、聞かないとこれも判らず、真相は闇の中で、読者の方々に、真実を申せなくて、誠に申し訳ない限りであるが、話はこれにて、惜しい所だが、お開きとする。長文失礼。

以上。よしなに。wainai

私の出身母校、福島県立安積高校。

2022年10月13日 15時16分28秒 | 学校・教育への提言特集、注文・恩師への感謝・学生生徒時代の想い出
 私の出身校、最初に郡山市立大槻中学校から合格して入学した高校は、福島県の中央、郡山市にある、福島県立安積高等学校だ。
 これが、県外の人には、全くの不人気高校、無名高校なのである。
 まず、「安積」。この字が全く読めない。難読文字、難読地名が、我が母校の、正に宿命の学校の名前なのである。
 これは「あさか」と呼び、読む。地元では、誰でも難なく読めるが、一歩市外、県外に出ると、全くの無名校と化す。これが、非常に悲しい。
 これでも、地元では超有名校であり、超難関、最難関、高偏差値の学校として、(地元では)畏れられ、大いに知られている。これを郡山市の受験界で知らないのは、もぐりか何かかと。
 常に、中学校、中学生の高校受験生たちには、上を目指す人たちには大いに憧れの的であり、行きたくても、中々行けない学校(自分でいうのも、不遜不躾だが)。
 そこの我が高校に行った人(合格した人)は、いけなかった人(不合格者)に、その人自身の行けなかった後悔を以て常に羨ましがられ、嫉妬され恨まれる存在。
 それも、我が高は、歴史が福島県で一番古い高校。福高や磐高や会高や、ちょっと落ちるが、白高などにも負けない。とにかく歴史が一番古い学校高校。
 そして、私らの時代の安高(あんこう)は、とにかく男臭い、そもそもが男子高である。
 何と言っても、その校風が「バンカラ」という、無頼というか、男気の気風(きっぷ)の良さ、男性特有の、だらしない感じも合わせ持ちつつ、いわば、硬派であり、細かい事など全然気にしない、女など決して近づけない「女人禁制」の世界、「男」だけの世界。
 男同士で何でも判るという、今でいう(昔でいう)早稲田や明治、法政、中央も?、旧制中学、高校の校風が残り物語る、皆の憧れ、「男の学校」、「安積高校」「安高」なのである。
 何と、十数年前までは、安積の校風のバンカラらしく、手ぬぐいを腰に巻き、高下駄で安高まで通った先輩方が数多く一杯居て、その時、福島交通バス車内にて、あいにく、同じ車内の乗合客の足を安高生の先輩の高下駄が、運悪く踏んでしまった。
 その結果、何十年、百年近く続いた高下駄の足音高い、香り立つような下駄の音、下駄を登下校で履く事は全て、深い先輩たちの反省の下、学校の決まり事として、御開き、御仕舞、御禁制となり、全面禁止となった。
 この学校の歴史、文化、伝統は、一言では言えない程である。

 以上。よしなに。wainai.