Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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令和六年二〇二四年二月度、東北アララギ・群山・短歌の会の模様。於:郡山市おおつきふれあいセンター

2024年02月10日 13時01分11秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
 本日の午前十時~十二時正午まで、郡山市のおおつきふれあいセンターにて、短歌の会、短歌結社・群山主催の歌会が開かれた。
 講師のK分先生は、私は一番最初に誰よりも先に着いたが、椅子等を運ぶ手伝いをしている間に、今日は、新人の、短歌を学ぼうとする女性の方が来ると言った。
 そうして、私に、いつもの通り、先生から、今月・今日の宿題とも言える、作って来た短歌を一首若しくは数首用意された用紙に書き留めて欲しいと仰られた。
 私は、いつも普段は、作歌活動の私の基本としては、出来る時は、かなりの量が量産されて出来る時もたまにあるが、出来ない時は、全く出来ない、今回も、先月に思い出したように八首も出来たが、時間がある時に推敲しようと思ったが、時間が無くて、推敲は、末尾の言い回しで手直しした以外は、全くしていない、と言い訳っぽく言ったが、先生も、色々なタイプがあるし、そのどれもが、いい悪いはない、とは言っていた。

 そうして、ニューフェイスの、Wさんという、お年を召した方が入ってこられて、その後にもSさんという方が、遅れて入って来た。
 その、Wさんは、中々の短歌に手慣れた経験者として、かなり熟練していると私は見た。それは、その方は元々は、大正時代以来の、短歌の流派に属していたと言い、NHKの通信講座でも、その方は勉強をなさっておられたという。
 これは筋金入りの、短歌経験者だなと私などは思ったが、その方が仰るには、普通に短歌を作る事が出来る。それも、文語体には少しは慣れていて、普段から文語・古語で短歌を書き綴っているが、少し不安なのは、その、古文の文法に自信がないのだという。
 当、短歌の会、短歌結社・群山・東北アララギは、扇畑先生が創始してから、今年で昭和21年以来、79期、79年の歴史を誇るが、それよりも、その方の元居たその短歌の会は、大正では、歴史ではかなりの流派であると見受けられる。
 その方の短歌。

 二階より人の出で来て空中を歩がに見ゆ冬の昭和村

 昭和村とは、奥会津、田島町から、只見町に至る、400号線の貫く、からむし織りで有名な土地と言う。しかし、我が、K分先生の娘さんも、その、昭和村での「からむし織り」に応募したら、それは実態は、コネ、縁故がないとその研修、中には入れないと言っていて、残念ながら、コネが無いので娘さんは入れなかったという。
 短歌の場合、穏やかさよりも、強い思いが大事。
 短歌とは、一つの小説の如く、一つのテーマを突き詰めて行く事。
 アララギ=写実写生、ありのまま、何を見るかが大事。
 この短歌は最後の「昭和村」の、体言止めが強調されていて非常に良い。
 
 歌は味わい、感動の共有。
 この短歌は、このWさん、五十年前の体験、光景を元にした、五十年後の改めての作品。それだけ思い入れがある。

 説明を入れると、やかましくなる。分かる分からないは読者の勝手。
 分からない人は、自分で調べても分かろうとするもの。説明は要らない。

 (政治・社会問題、つまり、社会詠は強さ・強調が大事)

 これも生徒さんの作。

 それぞれに子等は世に出ていそがしく孫一人来ぬ令和正月

 「孫一人来ぬ」=作者が一番言いたい所。
 素直な作風で良い。今のままで進むと良い(先生)。
 意味は良くわかる。

 しかし、上の句が下の句の「説明」になっている。
 上の句を説明的ではなくて、どうにかしたい。
 全体的に印象が弱い。もっと具体的にしたい。
 「それぞれに」が抽象的。「誰か一人に」焦点を絞って、作った方が良い。
 
 世の中そうなって来ている。(私達の時代とは違って来ている)。
 (先生)孫と一緒に住んでいる「内孫」は、「群山」の短歌雑誌の投稿でも、ほとんどいない。ほとんどが、「外孫」。

 次は、私の作。

 政治家に沸々と湧き出づる怒り物見せてやれ次の選挙で

 (先生)政治家のどこが悪いのか書いてはいないが、今の時代性としては良く分かる。
 この歌の良い所は、「答えがない」ところ。「結果」が出ていない。
 「物見せてやれ」が、かなり激しいものの言い方。
 
 (先生談)私(wainai)の作風は、いつも強い感じ、強い印象を皆に与える、多分、思いが誰よりも激しく強いのだろう。

 短歌の作り方=答えを出さない。

 問題提起はするが、(答えは出しても良いが)、皆が考えさせる歌作り。

 晩年の扇畑先生の秀作は、何を意味しているのか、全くわからなかった。
 短歌中の言葉、「美しきもの」が何を指すのか全然分からない。
 全て読者の裁量、想像力にかかり、任されている。
 答えを敢えて提示しない。小説・映画「人間の証明」にしろ、皆同じ。

 この歌は、「政治家」が政治家全体を指しており、他の悪事を働かない、良い側と思われている政治家までをも、包み含んでいるのが問題。
 具体的に!!「岸田首相」「二階氏に」等々の具体的な用語が必要。
 誰を、どれを、何を、が、具体性が非常に大事。

 そこで先程も出て来た、今日デビューした新人の熟練した高齢女性生徒さんが、
 「裏金に」と入れてみたら、と言われて、先生も私も「うーん、成程」と賛意を示して、その強烈な語を採用する事にした。
 結果、

 裏金に沸々と湧き出づる怒り 物見せてやれ次の選挙で

 となった。そのベテラン高齢女性も、こういう積極的で前向きで、どんどん攻めてゆく短歌は私も好きですよ、と褒めて下さった。
 
 そのWさんのかなりの熟練振りに、先生から、誰か私淑する、現在生きている、存命中の人に限らず、歌人の方はいらっしゃいますか、問われて、Wさんは、「石川啄木」が一番わかりやすくて好き、という。

 先生も、それに賛同しつつ、先生は、やっぱり、斎藤茂吉が非常に大好きだと述べて、茂吉で言えば「赤光」の中で、母が亡くなる時に、ツバメの目線の歌を作る。あの目線が凄い、と言うと、その女性も、その歌を知っているらしく、賛同した。そして、その女性は、去年に、山形県にある(かみのやま市?)斎藤茂吉記念館に行って来た事を述べた。もう、ここまで来ると、先生と生徒との、短歌の話しが分かる人同士の、マニアックな、蘊蓄(うんちく)盛り沢山の、相当ディープな世界がこの場で現出した。
 私などは、ただ、あぜんとして、見て聴いているほかはなかったし、この大槻町の公民館に、これ程の、以前からか、この往年の文学少女、というか、文学婦人はいないのではないのか、凄い人が来て集まったものだと感心しきりであった。
 
 茂吉は、すぐさま作った歌もあるが、うんと推敲を重ねて作った歌も多い。

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆうべとなりにけるかも
 (昭和21年2月見た風景光景を、昭和22年2月に発表)。

 この、「波」の為に、一年間、発表を控えた。

 「なりにけるかも」結句のまとめに、全ての感動を詰め込んだ。

 茂吉含めて四人で見に行った。
 板垣かねおさんが、茂吉の面倒を見た。板垣さんが発した言葉に、この地方では聞かない言葉は使わない方が良いと諭した程の、言葉使いに敏感で、厳格だった茂吉。
 「ともしび」の歌集では、「白き逆浪立つも」と「なみ」を「浪」と一度使った言葉なので、二度と使いたくはなかった茂吉。
 歌人はこういう所に非常にこだわる。

 後の残りの時間は、今日始めて来た、Wさんが、文語体では、文法が自信がない、私(wainai)も、同じく自信がありませんと、同時に先生に訴えて、教えを乞うたので、先生は、即席の、しかし、非常に分かりやすく、四段活用、下二段活用等々を、私達に教えて下さった。四段活用は、現代では五段活用となっていると言い、古文・古典・古文法の面白さは、用法が、時代によって変わる事。
 「動詞」の難しさ。古典の場合は、一字一句調べて使わないといけない。
 普段から使い慣れている言葉の訳じゃないからむつかしい、と先生は仰った。

 ここでは、紙数・字数の関係から、実に惜しいですが、古文法の作法については、省略させて頂きます。

 ここまでの、今日・本日の午前中の二時間余りの「短歌」の時間、福島県郡山市大槻公民館での「歌会・短歌教室」の、全容の一分でも、読んで下さった皆様の方々には、ご理解いただけたら、幸甚に堪えず、心嬉しく思います。長文につき、失礼仕りました。これにて、PCの、キーを叩き終えたく存じ上げます。

 以上。よしなに。wainai


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