私には、敢えて言うが、相手の身になって考えてみる、という、発想が全く欠けていた。
私は、或る、福祉関係者が、サービス事業で餃子を焼いたが、それが、真っ黒に焦げて仕上がってしまった。
その時の餃子は、次の別の業者の福祉の人も確認済みで、確かに酷いね、とは言っていた。
けれども、私の怒りは、その日は、その作った方が帰られた後、黒い所を取ろうとして、皿ごと、地べたに落ちてしまい、全部台無しになった事によって、最高潮に怒りが湧いて来た。
そうして、いつしか私は、電話を手にして、いつもの如くに、クレーマー、この場合、相手の非をなじり、ほとんど、一方的になって、声高に相手を責め立てていた。
今日、福祉まるごと相談の方と電話をする機会があり、若しも、そういう場合、○○さん(私)が、失敗した事をいつまでも人からなじられ、同じように言われたら、どう思いますか?と聞かれた。
たとえば、私が、何気ない事をやって、それが失敗したとして、それに対して、執念深く、一日中、言い募り、呪われるが如くに、私が被害を仮に受けた人から、言われたとしたら…。そんなに、過失、瑕疵がない話なのに。そこまで、私は自身、想像をゆっくりと巡らせた。
「それは、ハッキリ言って、イヤです」、そうお答えした。それと同じ事です。そうその方は、言われた。
その方、福祉まるごと相談の方は、相手の立場に立って考える、大切さを懇々と説いた。詰まりは、私の、想像力不足、音楽で言えば、ジョンレノンの、「イマジン」、想像してごらん、とのジョンの声が聞こえるようだ。
或る看護師さんには、○○さんが、そうやっていつも見えない誰かと闘っていて、疲れないですか?と聞かれた。これも、痛い所を突かれた、と思う。
たまには、笑ってみる。人生にゆとりを持つ。ニコニコとした人の周りには、垣根が出来る程、人望、皆から好かれ、人が自然と集まる。笑い話に、花が咲く。何も、誰も、どんな場合も、苦虫嚙んで生きてばかりいる程、そればかりが能の、決してそんな私も愚かでバカじゃない。
私には、そういった、想像力、人の悲しみ辛さ、苦しみを同苦する、その、仏教的価値観、「慈悲」の心が、本当の人間の真心からの優しさが、一切が欠け、全く足りなかった。
「論語読みの論語知らず」仏教を何年も勉強し、教学を身につけた積りになっていても、一切が、私は増上慢、慢心を起こして、偽りの優しさ、偽善性、二重人格に、若年だった十年近くを、キリスト教の影響下にあったとはいえ、それが明確にあった訳だ。
自分が自分が、オレがオレが、では全くダメなのである。これは、仏教上の最もやってはいけない、利己主義。何だって、道徳上も許されない。常識・マナー上も、大悪、大罪であろう。第一、無慈悲だ。むごすぎる。悲惨過ぎる。
これが判ったのだから、それに自己満足せずに今日から、今すぐに、この悔い改め、悔悛、悔悟の念を起こし、過ちを改むるに憚ることなかれ、であり、即刻、反省し、こんな言葉面を並べているだけではダメ。事の一念三千だ。つべこべ言っていてはダメ。愚痴を一切並べない。
即実行。何事も、手をこまねいているのは愚の骨頂。気付いたら即実行。必ず、即、実行、実行、実行。実行を重ねて生きてゆく。良い実行力。これこそが、大聖人様の大仏法の真髄の全て。
長文失礼。