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伝言ゲームとは、ホントに怖ろしい‐お寺での出来事(於:日蓮正宗無量山寿海寺)

2024年02月04日 15時54分35秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 「伝言ゲーム」を、みなさんも経験があるとも思うが、私の場合は、小中学校の遠足のバス旅行で、バスガイドさんに教えられて、最初に、一番バスの前列にいる人が、或るメモを渡される。そうして、それを段々とうしろの人に小声で伝えてもらう。そうして最後には、どういった言葉が伝わったのか?

 それはそれは、まるっきり、最初にガイドさんから渡されたメモ用紙とは真逆の、皆が皆、違った風に、最終的には取り違えて、最後尾の人たちには伝わった、そういうゲームである。

 私のお寺での、それに類似した事を、ここで申し開きたい。

 私はお寺で、唱題会の後、お寺の受付で、母がお経本と数珠をどうしても失くして仕舞い易い為、改めて、買い求めていた。

 それを見ていた、同志の高齢女性の、Y口H美さんが、私が新たに、折伏でもして、改めて、お経本と数珠を買い求めているのか、と私に尋ねた。

 すると、私は前述の通りの話を言って聞かせると、Y口さんが、○○君(私)も大変だない、と普通に、むしろ心配し同情して言ってくれた。

 それを、そんな事私も早くに忘れてしまえば良かったのに、何故か、その話を、今度は電話で、S楽さんに話した。その時は、確か、自分の記憶では、私は幾分か、気が滅入っているというか、暗い感じで話をしていたようだった。

 すると、S楽さんは、そのY口さんの発言に憮然として、あの女、そんな事言ったのか?!と憤っていた。その発言のS楽さんは、これも、私の事を最大限に心配されて、悪意など微塵もなく、そう思い、正直に仰られただけなのだ。

 これに、私はその時ちっとも気付いていなくて、そのまま流されるように、じゃあ、私はY口H美さんに意地悪く、いじめられたんだ、と受け取ってしまった。

 その事は、そのまま、普段の事に紛れて、しばらく忘れていたが、その後、私はその、S楽さんの発言を聞き、そして、母の認知症の病状の事をも、先の事を悔やむという、どうしようもない感情に捉われてしまい、ある日、以前女性としてのG元講頭さんに、今度もその件について話している最中に、私としては居ても経っても居られずに、泣き出してしまった。

 それに対して、Gさんは、そんな、涙を流すなんて、そのY口さんに対して、勿体ない行為だ、泣くだけ損だ、そんな人間の為に、何で貴方(私)が流さないといけない、その涙は、あなたの為にはならない、等々言って、私を慰めた。

 そして、G元講頭さんは、その事をお寺の御住職様に話したのかい、と聞くので、今から話してみます、と言って、電話を切った。

 それから、最終的にお寺にお鉢が回って行った。電話を掛けると、電話口に、御住職様が出られた。

 私は、事のいきさつを包み隠さずに、話し始めた。又もや、私は電話口で、情けなくも、泣きじゃくっていた。

 すると、御住職様は、Y口さんの人柄を知る立場から、普段から、そんな事を思ったり言う人ではない事を弁えた上で、そもそも、最初に、Y口さんは、そんな重大に、意地悪く、○○君(私)の事を言ったんじゃなくて、個人的に心配してくれて、そんな言葉掛けをしたのではないのか、と言う風に、申し添えて下さった。

 そうすると、その以前の、Y口H美さんのその日の態度対応は、微塵も、私に対する、意地悪な態度などは決してしてはいなかった事に今更ながら気付き、私は泣いている場合じゃない事に段々、思いが及んだ。

 とにかく、私の受け取り間違いに気付かされて、私は、御住職様にその気付きへの感謝の弁を述べて、その後、真っ先に、G元講頭さんに電話を再度して、Y口さんは悪くはなかった事実を述べた。

 全ては私の個人的な一人相撲であったのだ。これが、もしも、御住職様が機転を利かせて執り成して下さらなければ、私達の信徒間の、これはわだかまり、異体同心の信心にも悪影響を与える、不信謗法でもあり、破和合僧にもなり兼ねなかった。

 結局、これは、小さな頃、子供時代に遊んだ、「伝言ごっこ」「伝言ゲーム」と同じ事になってしまったのが、今回の、顛末・結末・結果なんだと、思った。

 とにかく、皆、善男善女、善意の人達ばかりなのである。それに最終的に気付かせて下さったのは、勿論、御住職様だが、こう、話しがこんがらがる前に、自分で何故、気付けなかったのか、と反省もした。

 人は、人のうわさもそうだが、かなり誤解しやすい生き物だとも思った。他人に振り回されたり、悪意に受け取ってしまったり。群集心理は怖ろしい。私自身の、どこで覚えて来たのか、変な想像力、妄想心も如何にも本当にコワいと思った。

 一人一人は、皆、極めて良い人、良い方々ばかりなのである。それが、この伝言効果で、人から人へ伝わると、こうまで受け取り方が違ってしまうのかと。

 結局は、誰も悪くはなかったのである。悪いと言えば、私の頭の記憶が、変な所まで、良く覚えすぎている、記憶が良すぎた、と言った所か。

 私のこれは、不用意な口伝えが招いた、何とか最終的に、人を意地悪く受け取る前に、それを未然に防いだ部類の例だが、こうした間違いは、世界の戦争状況、状態に置かれた、それら各国の状況も、こんな些細な事から、きっと、戦争の端緒が開かれ得るものだとも、思い致すと、空怖ろしくもなる。

 私は、十界中の、怒れる地獄界も、我が胸中に収まっているのだと思い致すと、これも何ともいえぬ、コワいと思える感慨・感覚がある。

 仏教の法華経「妙法蓮華経随喜功徳品第十八」で説かれる、日蓮正宗でも説く所は、「五十展転」と言って、最初に法華経を聴いた人、その後、五十番目に語り伝えられて聴いた人、その五十番目の人の随喜する人の功徳でさえ大きい、ましてや、最初に聴いて随喜した人の功徳たるや、それに比較にならぬ程、大きい、との仏説である。

 とにかく、この場合、受け取り違いにいち早く気付けなかった私が一番の問題だが、その謎解きをして下さった、我が菩提寺の御住職様には、一番に感謝申し上げて、この長文を毅然として書き納めたい。読者の方々にも、ここまでお付き合い頂いて、誠に感謝に堪えません。有難う御座いました。

 以上。よしなに。再度、長文失礼。wainai


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