今日は我が菩提寺、日蓮正宗無量山寿海寺にて、九月度の御報恩御講があり、行ってまいりました。読経・唱題、御住職様の御説法と滞りなく行われ、厳粛なひと時でした。
お寺は今年二月、十年前の震災により、建物にダメージが認められる為、只今修復中。
先日キリスト教信者とみられる名無しの人から私のキリスト教の記事へのコメントがあり、私も返信した。
キリスト教の害毒に染まると、中々そこから脱するのは難しいと見え、私のそこでの記事に噛み付き、邪教と言うのは時代遅れとかなんとか、おかしな事を仰る。
私はキリスト教程の邪な宗教を知らない。まず、その二重人格性。キリスト教会で教えられ、メッキの如く身に着けた信仰深さ、敬虔さで身を飾るが、使う言葉、身からにじみ出る態度は、差別体質をあらわにする。まず、この一点でそのキリスト信者の人格を疑う。
その偽善性。何でも神に結びつけ、神を賛美するが、人間を徹底的に卑下し、善を偽り悪を平気で行い振りまく。その害悪性は底知れぬ悪魔の力を発揮し、世界中で戦争を行っている。
日頃から教義的に抑圧されているせいか、試練にあうとすぐパニックになる。その時のキリスト信者は、人格が変容し、一瞬で地獄界を現ずる。
キリスト教が世界で広まっても、日本では失敗した。内村鑑三も、アメリカは盗み殺しなどの強盗が跋扈し、治安が悪いが一応はキリスト教国、日本の方がキリスト教国のように道徳治安が良く、日本に留学から帰って来て、内村は日本のキリスト教、特にプロテスタントの伝道に限界を感じ、異端の無教会主義を掲げ、細々と伝道することになる。大乗仏教が広まった日本でのキリスト伝道の無意味さに早くも気付いたのだ。
内村の場合は、武士道精神の上での、自身が武士出身だったから、キリスト教も外道宗教同士の儒教に倣って道徳の一環で身に付いたが、その頃は明治時代であり、今は21世紀、令和の御代であり、いずれにしても、キリスト教の方が時代遅れの邪宗教という、今の日本では誰も顧みない、代物の宗教なのだ。
うちの近所で猫が呑気に昼寝をしていた姿をお寺の帰り道にパシャリ。
猫も可愛くていいですね。