Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

『スマホ・スマートフォン』にまつわる、楽しい、語らい。私のコメント欄による。長文失礼!その1

2023年01月22日 11時41分30秒 | IT、PC、Windows、マルチメディア、OS、携帯電話、スマホ・電化製品等々

3 コメント
コメント日が  古い順  |   新しい順Unknown (naotomo3451)2023-01-21 20:31:33
スマホデビューおめでとうございます!
wainai様なら、スマホ教室必要ないと思いますよ。操作しながら全て掌握出来ると思います。


私もですねえ… (wainai123753)2023-01-22 11:21:38

 お早うございます。否、こんにちは。なおともさん。誠に、コメントお返事、お褒めの言葉(と私は受け取りますが…)誠に有難う御座います!

 スマホとは全然関係ないですが、私も実は、この本文ブログ記事でも少し取り上げた、PC、パソコンは、全く前の段階で、実際に機械の知識もない状態で、はじまったんですね。あれは1998年~2000年の頃でしたね。
それで、最初は、見様見真似、というか、パソコンに詳しい誰も友達も全く居なくて、一人独学・奮戦していた訳です。
 しかし、あの、インターネットの、自由な世界、広大な世界観には、私自身,打ちのめされましたねえ。凄い時代になったものだ、という、世界観、時代感。
 けれども、今よりかは、料金が高かった。情報量が、従量制という、丁度、電話をずっと掛けているのとおんなじタイプのしか当時から無かった。それが当時の主流、まだブロードバンド何て、夢のまた夢でした。
 だから、必ず、使用後、最初と最後は、電話通信接続を切って。断絶して、やらないと、大変な事に…。今まで、朝から晩までその時の従量制のパソコンインターネットを使用して来た請求書の最高額が、何と、五、六万円、何て言う月もありました。
 これにはうちの母もビックリ。そして当時のPCは、今の様な、動画なんて流暢な、気の利いたのなんかない。皆、静止画。動かない、ただのHP、ホームページ漁り、画像は見ることは出来ましたが、それも、見るのに、画像画面が表示されるのに非常に時間が掛かる、という状態。
 私のPCは、Windows98 SE(second edition)という、ウィンドウズのパソコンでした。デスクトップパソコンであり、テレビモニターも、大変に大きく、場所を特別に占領していました。
 当時、iMacという、五色の、可愛らしい、マックのパソコンがあり、あれには非常に憧れましたねえ。デザイン画なのと言っても良い。素晴らしい佇まいのパソコンでした。
 それから、私は、当時、2001年から栃木のホテルで働きだし、PCのプロバイダーは解約しました。その時、全てを母に託して、私は栃木に旅立ったものですから、母が、インターネット上の解約をすれば簡単なのに、郵送やらなんやら、非常に苦労した、と母から後で聞き、申し訳なかったと思いました。
 それから、二、三年でホテルも辞め、今度は、うちでビデオに撮った、当時の「冬のソナタ」に熱中しました。
 ホテル時代に、二つ折りの携帯電話、その前にも、携帯は、一本棒のような携帯を使っていましたが、その時の創価学会の栃木の知り合いから、公明党とかの宣伝、選挙投票の依頼などの、ろくな電話しか来ないので、その携帯は解約しました。それから、2017年年末の11月に、又同じ、au by KDDI、の二つ折り携帯電話、ガラケーにするために新規で改めて契約するまで、かなりの年数を携帯電話無しで過ごしました。家の電話、いえ電で事足りました。
とにかく、2003年頃の話に戻り、私は、家では自由にいました。そして、いつか、又、PC、パソコンが欲しい、という熱に浮かされ、母の車で言った店が、栃木県系列のコジマ郡山店、でした。
 そこで、私は、WindowsXP、東芝のダイナブックと言う、当時容量が80GBしかない、それでも、充分、働いてくれて、五、六年位、否、八年、十年?うちに居ましたねえ。そのパソコンは、その時代になると、ブロードバンドと言って、今までのナローバンドと違い、かなりの高速な通信網であり、当時から光回線もあったが、まだADSL回線という、極安回線も絶賛使用可能中であり、私もADSLに加入しました。それが安い。当時は、従前の、従量制などはとっくに撤廃され、今と同じ、定額制、定額使用料となったいた。
 それを知らずに、最初私は、ちゃんと接続を切って、一日を終わる事を日課としていた。容易には、昔の習慣は変わらない。
しかし、何か月経っても、使用料は一定であり、自分が自分でバカなのが判り、今は凄い時代なのだ、と実感致した。
 その間、勿論、PC、パソコン教室、雇用促進事業団、郡山高専、つまりは郡山職業訓練校などのパソコン短期講座を受けた時期もあったが、皆、それらは、ワードやエクセル等々の、文書や表計算のソフトを教える内容の講座であって、私が求めた、ネットリテラシー、インターネットの使い方等々には、当時は程遠かった。だから、私のネットの使用法、使い方は、自分義、自分流の流儀に則っているので、今の子供達、小中高大のちゃんと教育を受けて来た人からすれば、多少、非常識な、見当違いな、不躾な所も多々あるであろう。
 しかし、誰だって、多少、最初は初心者なのだ。そこに、指導者が介在するかしないか、の違いだけ。それは大きいだろうが、その一番最初の指導者はじゃあ、誰から習ったの、と言えば、まずは、やはり、1995年のインターネット元年だった、Windows95辺りの、独学、自分流の学習者が、自分なりの流儀、自分だけで始まった、事に端緒が始まっているのだと思う。元々詳しい人など居た訳じゃない。皆、独学から始まった。
 それは、学問全般にも言える。江戸時代、蘭学(オランダの学問)等々の医学や語学は、ちゃんと先生も居たろうが、最初に学んだ人は、何人か固まって学び合った人たちも居たろうが、皆、体系立って学んだ訳じゃなく、独学が基本だろう。
 それは、日本に仏教が伝来した日本史で習った時代にすら言える。当時の新羅などの、中国から朝鮮半島へ渡って来た仏教は、等々船に乗って、仏典、仏教の御経、仏像などと共に、この本土、日本国に到来する。
 その時、自然発生的に日本に於いても、僧侶団、僧伽(さんが、そうぎゃ)が出来上がる。しかし、当時も、基本は朝鮮半島からの帰化人らによる、教えを乞う事もしたであろうが、基本は自分から学ぶ、独学で有ったろうと思う。
それがお寺になり、奈良に京都に、寺社が整備されてゆき、それは、私は高校の修学旅行で観て学習して来た。
 とにかく、誰しも、手取り足取り、個人教授で教えて頂くのは理想であるが、それはあくまで理想の範疇を出ない。それは、私などには、いくらスマホ教室が無料だとしても、贅沢な、何か店側としても、確かに、無理をし、過剰なサービスの様な気がしてならない。
 やはり、本当に分からない所があればそういった、個人教授の、スマホ教室なども必要性もあろうが、今の私は、全部、今までの、PCの知識、経験、体験等々をフル活用して、充分立派に、使用、使いこなしているのであるからして、全く、教室の必要性はないのである。よっぽど困った時に、店側に聴きに行けば良いだけである。そんな事も、今の所、一切ない事が事実である。
 元々、私は、PC、パソコンを買った当初も、パソコンメーカーにTel.電話をコールセンターに掛けた事など、壊れたとか以外は、全くないと言って良い。そんなに、メーカー側とのやり取りは、今まで全くない。買ったら買いっ放しである。
 ホントはそれでも、サービス利用の面から、ダメであり、何故、あの、1998年の頃の、あの時期に、素直にPCメーカーに使い方を聴かなかったのかという疑問もある。これは、今後も、問題視してゆきたい。
 それにしても、最初の方の話題に戻るが、私のガラケーに依存、ずっとガラケー携帯を愛用、使用を、ここ何年間も利用して来た。これには訳がある。
 母がキーポイントである。話は長くなるが、話したい。
 2017年平成29年、その、このガラケーをauで契約して来た当初は、契約するその前に、母は、うちを勝手に出て行ってしまった事があり、その身勝手さ故に、地域包括支援センター、警察のお世話に当時からなって居て、私は、母が勝手に、当時、栃木の黒磯の我が家が所有する土地に、視察に電車に乗って訪れた。これが、母が徘徊、痴ほうが疑われた母の事だから、皆非常に心配した。最初、朝五時、六時ごろ、母は何にも云わずに、何食わぬ顔でパーッと家を出た。私は、昼になっても、特に朝も、母と、母の為の食事を折角用意した食事も無駄になる。そして、肝心の母は昼になっても夕方になっても帰って来ない。
 いよいよ、その夕方になってから、私もきな臭くなって、母が心配になって来た。そして、母の為に、あんしんセンター(旧称、地域包括支援センター)のお世話になって居る、OW田さんに電話で一報を入れる。その前にも、昼には地元の交番にその事を相談に行くと、今は、本署、郡山警察署まで行かないといけない、遠くて難儀だけれども、と言われて、私は昼前に郡山警察署まで八面六臂の活躍、母の写真画像を持って行った方が良い、その朝来ていた服装の特徴等々を、よく言った方が良い、というので、イチかバチか、写真を警察署に持って行った。
 そして、OW田さんもうちに結集した。しかし、OW田さんは、wainaiさんのお母さんも、今までいろんな事あったよね、本当に、としんみりと、何か、母がもうこの世にいないような素振りで話すのには、私は大いに不満であった。母は必ず、この世に存命だ必ずに、と内心、思った。
 そのうち、警察の方が、一般車にて、我が家にこちらも結集した。今、お母さんが、発見された。黒磯市内に於いて、母を確保した。それで今、那須塩原警察署にて、母があなた、息子さんの引き取りを待っている状態だ、という。
そして、OW田さんとその場で別れ、私は警察の方々二人と三人で、その警察の一般車に乗せて頂き、郡山駅前まで一直線で向かった。母の居る、那須塩原市へは、何としても、必ずや迎えに行かねばならぬ。
 そして、車中では、私は母の愚痴を言っていた。母が、すぐに、目を離すと、どこか行ってしまうのは、私が子供時代から同じで全く変わらず、私はその為に、迷子になった事さえある、私がどこかに行くんじゃない、母が勝手にもどこかに身を隠すように、消えてしまうのだ。それには私は当時から泣かされどうしだった。とにかく、母の身勝手な、興味本位に基づく、自由奔放さには、呆れる位、迷惑をこちら側、一人息子の私は被った人生、半生だった、との泣き言を、その警察の方々に私は一人訴え、語り言った。
 すると、一人の警察官が、言った。今は、その徘徊高齢者が、居なくなったら、その場所が分かる機械がある。それは、私も良くは分からないが、ある事はある。
 それと、もう一つの手は、その高齢者に、「携帯電話」を持たせると有効だ。携帯には、GPSという、位置情報が即時で分かるシステムがある。これで、その老人がどこにいるのかの、おおよその場所・位置が分かる、という。
 そして、その老人に、こちらから、電話を掛ける方法もあり、お話の疎通がお互い、出来る事にもなる。正に、一挙両得、である。だから、高齢者にとって、それは一つの安心なんじゃないでしょうか、とその警官は提案した。
 私は、でも、それって、本人が、その携帯をどこかに忘れて来たり、なくしちゃえば、そもそも、終わりなんでしょう。お母さんは、良くモノをなくすし。それに、その値段、携帯の月々の支払いも大変でしょうし、と言った。
 警察官は、まあ、失くしたら失くしたで、諦めるしかないですね、と言い、値段、支払もピンキリで、今の、流行りのスマホでは、高いのもあるが、今は大分安くなってきている。契約、月々の支払いもピンキリ。何なら、今までの、ガラケーってあるでしょ、あれなら、まだ売ってるとは思うんですが。まあ、一つの方法ですね。
 私達の車は、サーっと、渋滞を通り抜け、颯爽として、車の運転は続く。
そして、警察官は、スマート、華麗にも、その前述の、携帯電話「スマホ」を自由に持ち出し、いかにも軽やかといった風に、私に、今は夕刻であり、冬の寒い中、お母さんにも体に毒だから、これは一刻を争う。これは、「東北新幹線」で、郡山駅から、那須塩原駅まで、乗って行った方が絶対良いと敢然と勧めた。
 その時刻表、運賃まで、今の携帯、スマホでは、瞬時のうちに手に取るように調べ、検索し、何でもその場で分かってしまう。私は何か、現代の生きた、まだ見ぬ「魔法」を見て聞いている感覚だった。
 すると、先程の警察官、これから、何時何分の新幹線の列車がある、新幹線「あおば」だか..


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