母は、日蓮正宗信徒を、創価学会信者であった時から、自身はむしろ、創価信者ではなく、どちらかと言えば、正統派の、日蓮正宗の信徒が良いんだ、と語っていた口である。
そんな母は、母の母、私の祖母の実家の宗旨の、念仏宗・浄土真宗の唱える、「南無阿弥陀仏」の発音が、「なむあみだぶつ」では全くなく、いつの時代からか、現代では「ナンマイダー」となってしまっている事に触れて、私に語った。
一人、日蓮宗系の、日蓮正宗だけが、「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」と、鎌倉時代の、宗祖日蓮大聖人様の当時の発音そのままに、現代でも遜色なく、あの当時とおんなじ言葉づかいで唱えられるのだから、一番確かな教えであり、大聖人様の時代と言葉が同じなのは、これも何かの縁、不思議なんだ、と、私と母が日蓮正宗に帰伏して、勧誡式を執り行って頂いた後などに、神妙になって、私と語り合った。
そんな母とは、私が、強盛に日蓮正宗信仰に踏み出す時に、貴方のやりたいようにやりなさい。元々、そうしたかったのだろうから。と言って、その当時から、私に最大限に賛辞を贈った。
母は今は、私の方がより一層、正宗気質そのままに惹かれ慣れてしまい、母が置いてけぼりを食っているが、私の今後の目標は、母が自分で、例え認知症でも、「方便品」と「寿量品自我偈」位は出来るようになって欲しいと望む。
今でも、母の施設へ行き、母のタンスから、お経本とお数珠を取り出して、母は、その御経本・勤行要典が、「日蓮正宗総本山大石寺蔵版」となっているのを見て、最大限の愛着と満足感を得ているらしく、必ず「日蓮正宗~!」と微笑んで何度も言う癖がある。
母にとっては、かつて、池田大作氏率いた、創価学会が、新興宗教臭くて、たまらずに、ままならずに、非常に嫌がっていた様子が伺われる。どうしても、それらインチキ宗教には従えなかった。
第一、その本尊の、ニセ本尊には、母は、その字体を見て、一人、コワがっていた。何か大げさで、インチキ臭いと。
その母の直感は、今となれば、非常に正しかったと言える。
母には、事の、モノの、真贋が、身についた直感、第六感とでもいったもので、事前に、全てが、御見通し、判っていたのである。
これは、今現在の、還暦前後の人達以降の、池田大作氏が第三代会長・名誉会長の時代からの日蓮正宗創価世代、或いは、破門後の新興宗教然とした創価世代と、母のような、創価草創期の、昭和三十年代の、第二代会長戸田城聖先生の影響下の時代からの、生え抜きの日蓮正宗創価学会の世代との、抜き難い世代間格差とも言える。
元々、母には、個人的に、池田氏の、異質さ異常さには非常に耐えられない、免疫が出来ていたのだ。
だから、我々家族が、創価学会員だった十年二十年位前から、母が時折、学会が破門されても、日蓮正宗寺院、後の私達の菩提寺となる、無量山寿海寺におおっぴらに、わざわざ、行事に参加していたのを見知っていた学会員達は、どうして、この人は、お寺に引き入れられたように、魅入られたように、いまだにお寺と別れられないのだろう、と不審に思われていた。
実際に、私がいる、部屋にも、それら新興宗教と化した学会員たちの、母をいぶかしがる姿や声が、玄関先から、私にまで聞こえて来た事も多くあった。
それで良かったのだ。あんな、池田大作ファースト、池田オンリーの、そんな個人崇拝宗教、新興宗教教団特有の、創価学会などに、肩入れしている方が、バカを見るのだ。実際私達母子は、何十年間も、何も知らずに創価に在籍した事が原因で、バカを見なければならなかった。
母は確かに見抜いていた。事の真相を。だから、私も後々日蓮正宗の正当性に気付き、母をも誘って、勧誡式へ行こう、と言っても、絶対に否定などはしはしなかった。むしろ、喜んで、お寺へ行くんだと、私について来てくれた。
こんな親子、母子がいたという事を、宗祖日蓮大聖人様ならば、どう思うだろうか。
阿仏房、千日尼夫妻に相対した如く「我等は穢土に候へども心は霊山に住むべし。御面(かお)を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん」(「千日尼御前御返事」御書一二九〇頁)と、私達母子を、いたわり、慰め、最大限の賛辞、称賛と慈悲を与えて、きっとお褒め下さるに違いない。そう確信する。
以上。よしなに。wainai