初めに長文失礼します。
皆さん、近年、何か日本をはじめこの世が、おかしいとは思いませんか?
昭和二十年代三十年代四十年代は、盛んに創価は「日蓮正宗創価学会」として、日本での所謂折伏で、日本を正に巻き込んでいた。
その創価の折伏手法は様々な問題点もあったのだが、一応、日本一国広宣流布の出発点として、法華経の一大ムーブメント、大法興隆の起こりとはなった。
それと同時に、日本の国力もどんどん上がり、右肩上がり成長、高度経済成長となった。
日本人はエコノミックアニマルと呼ばれ、ジャパンアズナンバーワン等の書籍も売れた。
しかし、昭和四十年代末、五十年代ともなると、創価は慢心を起こし、言論出版妨害事件、昭和五十二年路線による教義逸脱問題等で、日蓮正宗とも軋轢を生み出していった。
その頃には、日本経済は低成長となり、しかし、文化は爛熟期を迎えて、株価も上がり、時代はちょうど、バブル景気へと向かった。
その、バブル景気最中の元号が改まった翌年平成二年初冬十一月。創価学会名誉会長・池田大作氏が大慢心・大謗法を犯して、全国各文化会館での同時衛星中継での、御宗門・御法主上人猊下への悪口罵詈、罵倒の限りを尽くした。
ここに、日蓮正宗御宗門と、創価学会との間で、再度、約十年振り、期間を置いて宗教上の争いが生じ、同年年末から平成三年までに両者は決裂。平成三年元旦から、創価学会の聖教新聞紙上に於いて、日蓮正宗御宗門を口汚く罵る紙面へと一変。一気に創価学会員の間で御宗門への不信感が高まった。
ここに、創価本部本体による、宗門憎しの、所属会員達への洗脳が完成する。
その聖教新聞紙面で使われていた言葉の乱雑さ、汚さ、卑猥さ、えげつなさ。とても日頃、平和と文化と教育の団体、等と呼ばれる筋合いの話ではなくなり、どこぞのチンピラ集団の成れの果ての新聞と変わりがなくなってしまった。
それらは、全て、あの、池田大作氏が周到な怨念絡みの計画的に仕掛けて練り上げ仕向けられた、悪辣な子供の駄々っ子の様な宗門を故意に陥れる作戦戦略策略であった。
「俺の十年後を見てろ!あの俺を謝らせた坊主共を絶対に俺にひれ伏させてやる」ちょうど約十年前、池田自身が三代会長を勇退し?!それから名誉会長となり、総本山へお詫び登山までした挙げ句、暫くは大人しくしていたが、本来ならば後ろ盾として忍び、後に続く歴代会長を盛り立て陰で支えなければならない名誉職にある者が、段々と又もや前面に押し出して来て、オレがオレがと、今度は又、大手を振って、余計な大指導者づらをしだしてしまった。この池田大作という人間こそ、名付けて世に言う、大の変節男である。
そうこうしている内に、日本のバブルもはじけてしまい、世界一の経済力となるかに見えた日本の国力が、その後、長年、GDP世界第二位であったものが、次第にしぼんでしまった。
邪教創価が支持母体の邪政治団体・公明党と自民が連立政権を組んで以後、バブル崩壊以後、失われた二十年三十年、GDPではアメリカが依然一位ではあるが、近年、二位の座を中国に奪われ、今年、三位をドイツに奪われ日本は四位転落。次にはインドが日本の座を狙っている状況。
既に日本は個人単位では、経済力でも教育力でも食糧自給率でも、報道の自由度、国民の幸福度でも、いまやG7先進諸国最低ランクでもあり、それは欧米はおろか、ASEAN等のアジアの各国にも遅れをとるに至っている。各国と比べた、貧困の度合い、深刻さも、日を追って増している。何とも恥ずべき状態、事態である。
これが、この過程が、日本の高度経済成長期に日蓮正宗創価学会として、三代会長池田の前の第二代会長戸田城聖先生が、七十五万世帯の折伏を達成出来なければ、私の遺骸は品川沖の海に棄てよ、と厳命された。それが無事達成出来、それ以来の、日本の国力の増大増強である。まさに御本仏宗祖日蓮大聖人様見守る大仏法が、いかに法華経を元にした鎮護国家仏教であるかが判ろうといった所である。
これらを総合すると、見事にパズルが合わさる様に全てが符合するのだ。世界の中の日本史の、鎌倉時代以後、大聖人御生誕以後、爾来、八百年。特に近現代史に於いてその重要性が痛感せられる。
それらが、こうした時代の流れが、一つの創価学会と言う宗教団体、一人の池田大作と言う宗教指導者により、こうまでもいびつに歪んだ、一国を惑わし迷わす根源・原点となろうとは、誰が予測出来たであろうか。創価は世界中にも小さなコミュニティだが進出し、その害毒を撒き散らし続けている。
だから、今の不穏なこの世の世相、邪宗教にまみれた悪の巣窟の様な、塗炭の苦しみに喘ぐ人々を、特に現代では、主に、謗法の中の大謗法の創価学会をはじめとする異流義団体を破折・折伏し抜いて、日蓮正宗の正しさを世に示さなければならないのである。我らには使命がある。
そうではなかったなら、今の状態が続けば、分裂し悪の指導者達に騙された、幾百万の創価・顕正・正信会の者共が誠に哀れで可哀想でならないのである。
我ら日蓮正宗法華講の人々皆で一致団結協力して、それら方々の迷いの朦霧(もうむ)を晴らし覚まさせ、一人一人を何としてでも、確実に救ってゆかねばならない。早ければ早い程、この場合、その分、謗法の害毒をその方々が浴びずに済むので尚更良い。
それこそが、日蓮正宗法華講員が、まさしく猊下様から心を心として課された御命題なのである。
以上。よしなに。wainai、再度、長文失礼致しました。
しかし、それ以上に、我々日蓮正宗信徒が畏れているのは、大御本尊様に直結した各御本尊様、宗祖日蓮大聖人様。これら両者が人法一箇でまとめあげられて、渾然一体となって、一括りとなって拝さなければならない。
現代までも、仏様として、その御魂魄は、総本山富士大石寺に、大聖人様の御名代としての御法主上人猊下様の御照覧の下、大御本尊様は確実に厳護され守られている。
そして、大聖人様は仏様として三世常住であり、過去世・現世・未来世、三世永遠の生命観によっても打ち続くのである。
それが、末法万年の濁悪の世に於ける、末法の荒凡夫の私共に向けられた、大聖人様からのメッセイジである。
大聖人様に、現世で裏切り、口汚く罵るまででもなくとも、その教えを聴いただけで背を向けて聴く耳を持たずに離れ去る者も多い。
しかし、日蓮正宗には「毒鼓の縁」と言う法門があって、その教えを聞いた者は、まるで毒を塗った太鼓を叩くと、それを聴いた者達は皆、毒の太鼓の音を聴いたが故に死んでしまう。それ位の威力がある。
それと同じように、この教えを聴いたら、それが今生だけに留まらず、来世まで引き継がれ、その教えを聴いた事が種、下種となり、必ず来世ではこの教え、日蓮正宗を信ずるようになる、とのこれは正宗教学のセオリーのようなものである。
貴方も、これだけここで、この教えに関して聞きかじった訳だから、その一分には十分入っている訳なんですよ。
だから、我々は、折伏手法に於いても、即断即決は望まない訳です。その人その人に応じて、いつかは信ずる時が来る。信じて立派な蓮華の花のような花を咲かす時が来ると。
それがいつかは判らない。私も判らないし、貴方も判らない。
ただ、仏様だけは、ちゃーんと、判って居られる。そのこの世の始末、原理の法則の一切が…。
以上。よしなに。wainai
こう私は誤って論を進めてしまいましたが、
訂正します。
我が日蓮正宗には、宗祖日蓮大聖人、第二祖開山日興上人、第三祖日目上人、と、代々の御法主上人猊下様の御指南を拝する限りに於いて、邪宗教を拝む、という事は有り得ない。
それは、血脈相承、法灯連綿、唯我与我、獨一本門戒壇の三大秘法の大御本尊様を御建立遊ばされた大聖人様の直系にあたる我が日蓮正宗僧俗信徒には、絶対にあってはならない約束事です。
あなたが、その旧来の、大石寺の地元の信徒の方が、邪教外道の、神社神道を拝んでいた、というのが、どこまでの話なのかは、こちらとしても判り兼ねます。
しかし、我々が拝むのは、大御本尊様にも、各家庭の御本尊様にもおしたためになられてある、そこにおわします、諸天善神、神々、なのであって、直接、神社を、大石寺境内にオッ立てた訳でないと思います。
それは、形式上、時代が古く、本地垂迹説の立場から、方便として、昔の古来の方式に則って、建てられたのが、垂迹堂であったのだと思います。
決して、それが本尊、拝む主な対象物であったとは言えないと思います。
私の御住職様も、この点、大石寺には昔、垂迹堂があった事は述べられた事がありましたが、それが拝む対象ではない、形式上の、遺物であったとの見解を、今年の初夏の、ちょうど、「日有上人化儀抄拝考」という御著書を使用された時に申されて居りましたのを今、思い出して居ります。
とにかく、そんな、大聖人様も、日興上人様も、御歴代の上人様方も、一切、そんな、神社を拝んで良い、などという「邪義」は立ててはいないとキッパリと断言致します。それが無かったら、今日の日蓮正宗は「折伏の宗」として、存立してはいなかったでしょから、自明の理であります。
以上。よしなに。wainai
という事は、日本人に多く存在する「無宗教」の一派、という事ですか。それでも構いませんね。或る一定の邪宗教(キリスト・神道)に関わった私などに比べて、その方が幸せで、恵まれているとさえ言えます。但し、それは、日蓮正宗に縁してみて、初めて言える事です。大聖人様の宗教は、謗法厳誡なので、余り邪宗に関わるな、ろくな事がないぞ、との御教えですから。
>>個人的には、僧侶というのは、精神的な脅迫や、因縁で檀徒を脅し、膨大な金を搾り取る犯罪的な人間ばかりだという印象を持ち、この世から消えて欲しいと思っています。
これはどうでしょうか。精神的圧迫脅迫、檀徒を威圧し、膨大な金を巻き上げるのは、爾前権教の、旧来の仏教界です。けれどもこれは、日蓮正宗とは関わりのない事です。
しかし、その「犯罪者と目していて、この世から消えて欲しいと思う」その人々にも人権というものがあります。どんなに悪党にだって。それを哲学者ヴォルテールは「私はあなたの意見に反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」との格言です。発言者の相違はさておき。
この世から消えて欲しい、とは物騒な言葉ですね。正に「ナチス」による抹殺思想、虐殺思想が伺われます。この一文にさえも。これがキリスト教のドグマに侵されたものの落とし穴だと思います。
私にも、特に創価学会や顕正会の方々には、常々、迷惑だな、とは思い、思わされておりますが、基本、こうした発想は私自身、した記憶はないです。
むしろ、可哀想な人達。救ってあげなければ、との思いが強いです。
そういった、破壊的衝動が強く、何となくパニック的症状が出てしまうのは、私は「キリスト教教義の害毒性」に滅多打ちに日頃からやられてしまっている証左ではないのか、との思いを禁じ得ません。
キリスト教程、二重人格、偽善者的な宗教は見当たりません。
彼らは口では平和を唱えますが、その実、彼等ほど、好戦的な種族、宗教一派は見当たりません。現代では、イスラム教と好対照です。
何でも宗教的ドグマで人々、信者をそれこそ教義的に脅しで迫る。これこそ、私は日本の刑法の数々にも触れ得る、「脅迫、強要、恐喝」の最たるものではないのか。
おまけに、異端の三派、エホバ、モルモン、元統一教会、これらの出元は全て、本体御本家キリスト教と相場が決まって居ります故。
特にこの三派の、日本の法律、ストーカー規制法、にも違反しているでしょうね。
とにかく、
>>社会貢献で言えば、教会の人の方が尊敬できる方が多いと思っています。
全然、尊敬なんかできません。偽善の産物です。皆が皆。これは私の偏見じゃあありませんよ。
それが偽善型宗教の仕組みシステムに既に組み込まれていた訳です。
鎌倉時代にもいたんですよ。極楽寺良観という悪僧が。
彼ほど大聖人様を迫害した人物は、当時の為政者たちと組んで、いじめて命に及ぶ難に遭わせた人は、そうそういません。
そんな彼は、大層な慈善家で当時から現在まで通っていて、道や橋を作ったり、貧民救済等々、色々と慈善事業を行って居りました。
彼の宗旨はちなみに真言立宗でした。彼は、そうやって、表向きは慈善家でしたが、幕府におもねり、実際には、道や橋を通り渡るには重税を取ったり、民衆にも税を採りたてるなど、様々なカラクリがあったのです。
大抵、慈善事業などと言うのは、表向きの綺麗さ立派さとは打って変わり、実際には全く違った様相を呈していて、キリスト教なども、これも宣伝、宣教の一環として、言わば、「きれい事」として行われて今日まで来ています。
そして、この極楽寺良観は、大聖人様は公場対決の申し入れをするが避けて、再三にわたる大聖人の諫状を無視し続けた。
文永八年の祈雨の勝負に於いては、大聖人に完敗しその僭聖増上慢の姿を白日の下に晒した。
正面切っての法論対決では叶わぬ事を悟った良観は、自ら法論に出る事を怖れた。
大聖人を幕府の有力者等に讒言し、平左衛門尉頼綱を動かして、竜の口の法難を引き起こした。
その後、極楽寺は、鎌倉御所をも巻き込む大火災に見舞われ消失してしまった。
それでも、大聖人様の御書には、それら、平左衛門、良観、時の幕府の前執権北条時頼等々に、礼というか、あの方々のお陰で今の自分がある。彼らは善智識である。と申されている程、大聖人様の度量は深く大きく、そんじょそこいらの、ユダの裏切りに対して、「そいつその裏切り者はこの世に生まれて来なかった方が良かったであろう」などと、自分が選んだ大事な十二弟子の内の一人にそんな言葉掛けしか出来ない、人間としても恥ずべき醜態しか見せられ得なかった、神の子の出来損ないのイエスなどに、何を言っても判るまいと、思う今日この頃なのです。
以上。よしなに。wainai
それに、日興上人含めた六老僧の内、五老僧までもが、寺社詣でを始めたり、地頭の波木井実長が阿弥陀の持仏堂を築造造成したり、これも三島神社だか伊勢神宮だかへと参詣しだした。
これをもってして、日興上人様は、身延の別当職、第二代管主の座を降りられる決意を縷々遊ばされて、身延下山、富士大石が原の地に、元々のその土地の地頭で日興上人様の大信徒であられた南条時光殿の土地の御寄進を受けて、現在の総本山富士大石寺を築かれた訳であります。
元々、我々、日蓮正宗信徒にとり、何度も申しますが、それは、勤行要典にもありますが、御祈りの五座の内、初座の、諸天善神の祈りの中に、法華経を御守りするインドの神々他、大日天王、大月天王、大明星天王、それらに加えて、昭和の戦時下に於いては、天照大神、八幡大菩薩、当時の天皇陛下様までをもお祈りした勤行要典時代も我が宗ではありました。
>元々は宗派も相伝も何も無かったわけですから。
この言葉には私は大いに疑問疑義を挟まざるを得ませんね。
宗派は、元はと言えば、身延山久遠寺の大聖人様に次ぐ、二代目別当に一子相伝で任ぜられた日興上人様に、その血脈相承が受け継がれた訳ですから、「相伝が無かった」とはどの面下げて果たして言えるのか。甚だ疑問です。それは、日蓮宗身延派の言い分か、或いは、全く部外者の、キリスト風情の人の冷やかしのまやかしの言葉軽口だと思い、受け取りました。
宗派は、当時は特に、どの日蓮系、日興上人にしろ、五老僧にしろ、その時は特に、名乗りを上げるまでもなく、ただ、日有上人か、大聖人様は「法華宗」等とだけ、自宗を呼び習わされて居り、確かに「日蓮正宗」の呼び名はその当時はありません。
だからといって、その我が宗の存在理由、存在の事実まで無根にされたのでは適ったものではない。
ちゃんと、歴史上、日蓮正宗は「日興門流」「興門流」「日蓮宗富士派」として八百年間、存在し続けて来ました。その事を頭に入れ直して踏まえた上での発言をよろしくお願い致します。
尚、日昭、日向、日朗、日頂、日持の五人の五老僧は、自らが迫害されそうになると、やすやすと「天台沙門」を名乗り、本迹一致を唱え、色相荘厳の釈迦仏を本尊として異流義化し、大聖人様の弟子を捨てた。
その他、とうとう宗祖の一周忌法要にも三回忌法要にも登山しなかった。
そして「墓所輪番制度」も守らず、再三にわたる日興上人の登山勧告にも従わず、ついには今日の創価顕正正信会宜しく、異流義を立てるに至った。
五老僧達は、地頭の波木井の謗法を容認した。
そこで、日興上人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」との大聖人様の御言葉をそのままに、身延山久遠寺を離れる決意をされたのである。
本地垂迹説によれば、神仏習合と成りますが、それよりも、実際は日興上人、日蓮正宗、我が宗門の御教えは、そんなに神の社に直接拝みに行く程、バカな教えではありませんよ。
それは、キリスト、イスラム系も同じで、私らにとっては、異教の、異教徒であり、邪宗門でもあります。
私は、戦国時代・江戸時代のキリシタン禁制は、実に日本国を守るのに有効な手段だったと思います。
実際に、世界では、中南米・アジアアフリカを中心に、神父・宣教師が来てから、軍隊が船に乗ってやって来る。その後、植民地化される。という図式からすれば、秀吉、家康の二人の統治者は、見事な計画性と手腕でこの国を治めたと思います。
ただ、仏教界に於いては、「寺請制度」でいずれかの「檀家」になる事を半ば強制されて、葬式仏教化を招いた事は仏教の悲劇です。
しかし、その中でも、日蓮正宗は「金沢法難」「讃岐法難」「仙台法難」「洞ノ口法難」「伊那法難」「尾張法難」「八戸法難」で果敢に折伏弘教し幕府より迫害を受けました。
その陰で、幕府幕臣より多大なるご寄進をも受けました。
阿波徳島城主蜂須賀至鎮夫人で徳川家康公のひ孫にあたる敬台院による本山御影堂の寄進、上総に日精上人と細草檀林を設立し、徳島敬台寺を創立。
第二十五世日宥上人の代に、徳川第六代将軍家宣公の夫人、天英院殿が帰依し、千五百両の寄進により常泉寺本堂が建立。また、天英院殿の尽力により幕府から黄金千二百粒、富士山の巨木七十本の寄進を受け、大石寺三門が建立されました。
以上。よしなに。wainai
> 「ああ」さんへの御返答。「uncle-ken」さんへも御回答を。... への返信
神仏を拝むこと、大石寺信徒にそのような風習があったこと、神仏習合へ見解、私は大変納得しました。実は私の友人に古くからの大石寺周辺の信徒があり、カルト宗派からの突き上げには迷惑したとこぼしていました。
よく仏壇、神札の棄却騒ぎが話題になりましたが、カルトが騒ぐまでは誰も謗法厳戒などと聞いたことがないとのことでした。大石寺にしても異流儀と共に学林で学んでいたわけですし、元々は宗派も相伝も何も無かったわけですから。
私自身は全ての神仏は否定しています。天皇家や源氏の家の神を曼荼羅に収めた日蓮の意向も怪しく思っています
日蓮は日本の神々を尊崇していた
そうですが、日本だけじゃなく、正確には法華経を守ると代表されるインド発の神々。勿論日本の神々をも敬うが、先だってから言ってる通り、「神天上の法門」により、日本の社からは神々は去って行かれて、天上へと昇られた。
>日興は、自分の寺で神々を拝んだ
これに関しても、北山本門寺はどういっているのか。今では北山は明らかな日蓮宗の一派ですから、今では日蓮正宗とは何の関連もない訳です。
『日興遺誡置文』の各条文の一条には、こうあります。
一、檀那の社参詣でを禁ずべし、何に況んやその器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是全く己義に非ず、経文御抄等に任す云々。
その前条にも、大聖人様の御意を守り通し、五老僧をも非難批判反駁して、
一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。
(中略)
元弘三年癸酉正月十三日 日興 花押
とあります。
>大石寺信徒は曼荼羅を掲げて地域の神社を拝んだ
拝む拝まないは正宗信徒の自由かも知れませんが、或る一定程度の歯止めはあったと思います。
それは、『日興遺誡置文』にもある通り、我が宗の宗是には「社参詣でを禁ずべし」とある訳ですから。
一応、仏教本来の、「随方毘尼」の考え方を基に踏襲して、後世の御法主、第九世日有上人の化儀抄において、その体勢に和らぎが生じ、幾分、緩やかな御教えへと変化は生じます。しかし、基本の、神社参詣はやはり、信徒の在り方としては、禁じられていたままです。
広宣流布が達成されれば、それはそれで、神社参りだろうが、仏閣参り、教会巡り、モスク参拝も有り得るでしょうが、今時に於いては、広布は達成してはおらないので、無理なのであります。
私が言った、お山周辺、神社が、広布を先取りして、各社には、御本尊が祀ってある、と申しましても、正直言って、『大石寺』という、大寺院大伽藍が、総本山が、その地域の総元締めの如くに存する訳ですから、そこに行かないで、何で地域の小さな祠、社に祀ってある神社等に正宗信徒が詣でなければならないのか、草履取りが主人を差し置いたり、庇を貸して母屋を取られるような事があってはならない筈です。
そこが不思議です。常識では考えらえない事を、あなたは仰っております。
あくまでも、『日蓮正宗総本山富士大石寺』、正式には、『日蓮正宗大日蓮華山大石寺』、ここを拝まないで、どこを拝む。
どうしようというのでしょうか。そこです。あなたの勘違い、問題点は。
>伝言ゲームのように仏教が変質し、地域の習俗に囚われていくのは変?
それを、先程から申して居る、「随方毘尼」の考え方です。仏教も、時代性や地域性、その時々の風俗によって、変わり得るものだと、変わっても良いのだと、有難い事に、釈尊も、日蓮大聖人様も仰られており、公認され、認められている訳です。
ですが、現代においても、広布は成り立たない、正宗信徒が三千万人を越えれば、日本国の広宣流布が成り立つ、その時が、大石寺が「本門寺」とも名称変更へと名乗りを出す機会だと、第六十六世日達上人は申しました。いまだに三千万には達していません。だから、日本においては、邪宗の神社仏閣への参詣はいまだ、固く禁ぜられているのであります。御輿なども厳禁です。
ただ、これも、「日有上人化儀抄」において、正宗が軟化政策を取り、学習の為の物見遊山は認める、と申しました。
時の御法主猊下と言えば、「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379)
という程の権威をお持ちですから、その猊下様の仰ることは絶大であり、信徒として素直に従わなければなりません。
とにかく、邪宗、敵を知らなければ、その宗教の本質が永遠に判らないのであり、私達正宗信徒も、修学旅行等々で、京都奈良等へ行くのは、邪宗破折に於いても、非常に有効なのであります。
>廃仏毀釈でその信仰は薄れた
神仏混合は決して咎められるものではない
地域の寺では、習合は原理カルトから責められた
※
むしろ、廃仏毀釈の前から、日蓮正宗では、神道との一定の一応の分離化は為されていた。
それが、邪宗の鳥居神社仏閣の前での、鼻緒が切れても決してしゃがむな、他宗教を決して拝さないハリガネ宗の矜持そのものです。
>私自身は、仏教にも、神道にも霊的な経験をしたことはありません。決して人に誇れる生き方をしてきたわけではありません。
意外に思われるかも知れませんが、これには私も完全に同意同感します。私には霊感が全くと言って良い程、有り得ない事でしょう。虫の知らせですら、感じるかどうか。腹の虫は、しょっちゅう鳴いておりますが。
ただですねえ、私は、次の言葉には、敏感にならざるを得ません。
>良いことも悪いこともありましたが、神仏が身近にいて、私を罰したり、守っていると考えたことは一度もありません。
>あなたは神仏の加護や利益を感じて入信され、日々神仏との対話をされているのですか?
私には、いつも神仏、諸天善神には、勤行要典にもありますが、初座で法華経を守るとされる、帝釈天王・大梵天王太陽の神(大日天)・月の神(大月天)・明けや夕べの一番星(大明星天)に一番に祈りを捧げる訳です。私を、否、私の眷属、並びに正宗に縁する方々等々。
毎日が、これは神仏との感応と申しまして、低俗な宗教の本尊を拝むと、それにも増して、低俗な性質を帯びるようになる。いわゆる、朱に交われば赤くなる、ですね。
それらが、「罰」として出る場合がある。これは個人差がありますが、私の場合は、結構ヘヴィーですよ。個人的に、魔のささやきや、これら罰には、悩まされている渦中におります。
それだけ、この宗教が御力がある証左証拠でもあるんです。
そうしてそれが、一日の最後に、この五座の朝の勤行の祈りを終えて、夕べの三座(初座と広宣流布と個人的な罪障消滅・大願成就を祈願する四座を除く)をする頃には、自然と、一日を無事に終えられた、という感謝の念と満足感で満たされて、それこそ「御加護」「御利益」等々を感ぜられ得る、そんなドラマティックな一日を皆、正宗信徒は背負い行っている訳であります。
私からは、以上であります。この件で、これ以上述べる事も何一つ御座いません。自信はありませんが、一つ一つ、丁寧ではないにしろ、愚直になってお答えした積りでは居ります。
uncle-ken…さんへも、ご理解頂き有難う御座います。私もこれでも、感情家と呼ばれた時も御座いますが(今も?!)、常に自身を省みて、反省に反省を重ねてアップデートしている次第です。
次回からは、出来るだけ短文を心掛けたいと望みつつ、それが果たせない憾みもいだいている昨今で御座います。
こんな自分が常に冷静なのかさえ、私には判別が尽きかねる程の、私の領分料簡であります。
以上。よしなに。wainai、恐々謹言。
整理しますと、
日蓮は日本の神々を尊崇していた
日興は、自分の寺で神々を拝んだ
大石寺信徒は曼荼羅を掲げて地域の神社を拝んだ
廃仏毀釈でその信仰は薄れた
神仏混合は決して咎められるものではない
地域の寺では、習合は原理カルトから責められた
※
私はどの信仰にもフリーハンドです。どこが正しく、どこが間違っているなどと言える材料はありません。仮にあったとしても信仰を持った人には、理屈は無用でしょう。
日蓮からすればインドや日本の神々を仏教の聖者と共に曼荼羅に描くのは当たり前でしょう。釈迦にすれば曼荼羅に描かれて「釈迦っておれ?」と思っているのか。
伝言ゲームのように仏教が変質し、地域の習俗に囚われていくのは変?
いや、変だと言っても意味は無いですね。そうやって各地の人が選択し、取り入れてきた歴史が厳然とあるわけですから。というか、インド自体、近年の一部の新興仏教が興るまでは仏教は殆ど滅びていたのだから、インド人もまた選択したわけです。
※
私自身は、仏教にも、神道にも霊的な経験をしたことはありません。決して人に誇れる生き方をしてきたわけではありません。
ただ、ただ、毎日家族を養い、貧しい自分のアイデンティティを守るために、あくせく働き、生きてきただけです。良いことも悪いこともありましたが、神仏が身近にいて、私を罰したり、守っていると考えたことは一度もありません。
あなたは神仏の加護や利益を感じて入信され、日々神仏との対話をされているのですか?
何と言っても旧約新約聖書共に、キリスト自身の言葉で「什一献金も大事だが…」との言葉に象徴されるように、
全収入の十分の一を差し出せ、とのたまう。ほとんど金品の強奪ですね。
だからあんなに、教会って金が掛かった建物やら、神父牧師等もどんな暮しをしてるんだか知りませんが、
一部、統一、モルモン、エホバのように金品の強奪宗教は、むしろキリスト教の方に多い。
私は、日蓮正宗に入る前に、創価学会もやれば神社もやる。勿論、キリスト教も十年やったから、
その全貌、全てが手に取る様に判るんです。
最初だけですよ。献金の時間が来て、求道者は結構ですなんて言われてるのは。
一度献金を出せばクセになり、教会によっては週別月別に目標献金額なんてのがあったりする。
キリスト教程金集めに汚い宗教は見た事が無い。それは今出した亜流の新興キリスト教三派だけじゃない。
全キリスト教に及んでいる。
それは、聖書にそもそも神の言葉として書いてあるんだもの。「什一献金」と。全収入の十分の一を差し出せと。
仏教、特に日蓮正宗なんてその点、なんて等言って誠に失礼で不躾ですが、
この宗教を信じている信徒からしか御供養は受け取らない。他宗教の信者からは一銭も取らない。
取れば謗施となるからやらない。
その証拠に、日蓮正宗のお寺には賽銭箱の類いは一切置かない。
そして、信徒からの御供養も、気持ちで結構、と言う。
これは、葬式他、各種、徹底している。
強制も何も無い。
そこが潔い。現代にこんなに厳格で、風格のある宗教が他にあろうか。あろう筈が無い。
邪宗ならば、これこれにはこうだから、必ず幾ら出せ、等と金額をあらかじめ提出して言われる事だろう。
日蓮正宗ではそれはどこ吹く風である。全くの自由なんだから。
ただ、自由だからと言って、無駄にケチになって、出し惜しみはいけないとは言われる。金額に無理の無い範囲内で。
慳貪の罪、と言って、仏教ではケチは嫌われます。しかし、貧女の一灯とも、通りがかりの釈尊に泥の団子を献上した子供達が、後の世で生まれ変わり、インドの王様となった故事など、仏教は金目当て、金集めの宗教では本来ない事を、仏説では古来から説かれています。
その和合僧団を破る存在が、爾前権教の邪宗の者共です。
彼らは仏教の、真の道理が判らないからその他キリスト教初め新興宗教邪宗教も皆、金集めに狂奔し、高額な布施やら献金を求めて来る。必ずに。
そこが、お気持ちで結構です、との謙虚な姿勢でのぞむ日蓮正宗と、他の邪宗邪教との決定的、明確な差、違いであります。
以上。よしなに。wainai
私は信仰を持っていません。葬儀や法要以外では拝んだことはありません。仏壇や神棚は持っていません。お墓もありません。物見遊山で有名な寺には行きますが、それだけです。
個人的には、僧侶というのは、精神的な脅迫や、因縁で檀徒を脅し、膨大な金を搾り取る犯罪的な人間ばかりだという印象を持ち、この世から消えて欲しいと思っています。社会貢献で言えば、教会の人の方が尊敬できる方が多いと思っています。
>日蓮は日本に全ての神はいないと言っているのですか?
その通りです。「御書」をよく勉強しお読み下されば判る事です。
>「法華経の行者日本国に有るならば其所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く「諸天昼夜常為法故而衛護之」文。経文の如くんば、南無妙法蓮華経と申す人をば、大梵天、帝釈、日月、四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。」(諌暁八幡抄)神
竜の口に引き出される時、社頭で大音声で八幡を諫暁。この時は八幡はいたのですね。
※
長く引用しました。大聖人様は、日本の神社仏閣等の、堂舎・社から神々が天上へと赴かれた。その点はそうだが、神々、特に諸天善神は、法華経の行者を守護す、と、法華経の御経典に既に書かれている。そしてそれが神々には義務付けられている。だから大聖人様は、「聖人は横死せず」と申して、実際に大聖人様も、怪死などには至らなかった。
実際は、鎌倉の、鶴岡八幡宮なんて場所には、八幡様が居られない、と大聖人様もおそらく判ってらっしゃった。だけれども、これは憶測だが、古くから居られた場であると仮定して、何故、私を、龍ノ口の刑場に連れて行かれる大聖人様を守らないのか、との一喝で、八幡大菩薩も心を入れ替えたのか、龍ノ口において、光り物となって現われ、その怪現象でもって、大聖人様の御命は助かり、見事、発迹顕本となる訳です。
> 大石寺には廃仏毀釈までは天王垂迹堂、日興創始、北山には法華垂迹天照大神宮が今でもある。そもそも日蓮は伊勢に百日参籠していたとか。つまり、当時は僧俗共に神仏を拝んでいた?
天照大神が欧米の神に負けたとはなかなか元気な発言ですね。
これも長い引用。廃仏毀釈があったのは明治期であり、昔はどこのお寺でも、神仏混交の習いも珍しくなかった。
私がこの間行った、三春法華寺でも垂迹堂が昔は有り、そこには、邪宗の魔札などが破棄されていたと、或る信徒から聞いた。
別に珍しい事でも忌み嫌う事でも何でもない。
特に、創価学会の人間革命でも、今でも載っているのかは不明だが、会津の日蓮正宗のお寺で、地蔵を祀ったとか祀らなかったとかで、学会がお寺とだいぶやり合った様子が描かれていた(とおぼろげながらに記憶するが)と思われるが、それすら、許されないならば、日本史から一体何を学ぼうとするのだろう。
明治政府が進めた国家神道路線は誤りであったと、戦後はGHQに断罪されたが、元はと言えば、日本の歴史から見れば、仏教と神道が別れたのはそんなに昔の事ではない。
しかし、我が宗はそれでも、邪宗の神社仏閣の鳥居や建物の前で下駄の鼻緒が切れたら、そのままにして決してしゃがんだりして済ませば、それらに頭を下げた事となり、他の信仰を持つ者に誤解を与えぬ事、との厳しさをも合わせ持っていた。
尚、大聖人様が伊勢参りをしただの、は、身延系列などが盛んに明治期などに吹聴したのを、世間の学者等が採用した等々、色々と、今となっては風聞の域を出ない俗説である事をここに証して、明らかに究めたい。
アメリカの神に日本の天照大神が負けた、云々。
…この話を知らない、という事は、貴方が創価学会側の人間ではない、か、若しくは創価学会の資料を読んだ事が無いのか、いずれかでしょうし、むしろ、公明党等を、カルト団体、カルト政治団体と断罪している所から見ても、貴方が創価と関りがないのが見て取れて、安心しました。
>法華講役員の井出家は、浅間神社氏子総代。大石寺周辺の信徒はそれに倣っているそうですね。
そんな事は知りません。井出様の場合は、私もヤフー知恵袋でその話を見かけましたが、どこまでがどうだか、もしかして、それすら、某新興宗教団体(それこそ創価やら顕正やら正信)の謀略やも知れず、判り兼ねます。私に聞かないで、日蓮正宗の寺院等にでも聞いて下さい。勇気があるならば総本山にでも。明確な解答を貰えると良いでしょうね。
大石寺周辺では、広宣流布が日本において進んだ最先端を行っていて、周辺の神社の社内には、日蓮正宗の御本尊様が祀られているのです。
これは、日本一国に於ける、否、世界においても、広宣流布が進んだ暁には、世界中、日本国中に於いても、そこら中の、神社仏閣の建物の中には、本尊として、日蓮正宗の御本尊様が祀られる寸法、そのひな形となっておるのであります。
皆、日蓮正宗信徒達は、その日が来るのが、非常に待ち遠しく、楽しみにしている昨今です。
ここで、私からも質問が貴方にあるのですが、貴方は一体、何者なんですか。矢継ぎ早に私に質問ばかりして、どういう心積りなのか。冷やかしならば、ここで論じ合うのも止めにします。
自分の正体を名乗るのも、定見ある、紳士としての常識ある身だしなみ、振る舞いではないでしょうか。
顔が幾ら見えないからと言って、こうして、右から左へと、質問の流れ、要旨を代えてゆく。貴方は一体何の積りで、こういった類の論考を行っているのか。何の目的で、私の何が目当てで、人を質して、絡んでくるのか。そこがそれこそが一番にこちらとしては聞きたい所だ。
貴方は今、何を望んでいるのか。私が具体的に、どう対処するのを望んでいるのか。
私は、学生相手に、自分の知識をひけらかしたってしょうがないと最初から思っているし、職業坊主に、最初から意見を開陳しようなどとも思ってはいない。
ただ、私は、宗教、ここでは、日蓮正宗の正義を述べて、その他の邪師による邪義を構えた邪法邪道邪法邪教邪宗邪見邪険邪淫に耽った、この濁乱の悪世においてそれらを破折し折伏教化し抜いて、真実の仏法を打ち立てた御本仏宗祖日蓮大聖人を最大限に宣揚し、その遺徳を偲び、この世界の一大広宣流布のお役に立ちたいだけだ。その意気込みだけは、一生変わらずに、この人生を不自惜身命で、身を賭して命を惜しまずに懸けて行きたいと望んでいる。
それは、創価学会・顕正会等の、破仏法な、邪見に囚われた者共の悪境涯には、絶対に我々日蓮正宗法華講の者たちには達する事の出来ない真の境涯、仏様の使いだと信ずるものである。
恐々謹言。
以上。よしなに。wainai
神天上の法門は、後世の弟子が唱えたことではありません。
立正安国論の有名な次の一節。
「倩(つらつら)微管(びかん)を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(御書234)
また、あなたは神社の何を拝んでるのでしょう。建物でしょうか。我ら正宗信徒は、神社は拝まないけど神(天照大神等諸天善神)は毎日拝んでると言ったらどう反応するでしょうか。
「可哀そうなのは悪鬼魔民乱入の神社と知っても、まだ参詣しようとするあなたです。来年のお正月は邪宗邪教の神社ではなく日蓮正宗寺院に参詣しましょう。騙されたと思って。」
以上です。
>なるほど日蓮は仏なのですか。
この言葉を聞いて、私は貴方を見損ないました。同一線上の思想信条にはいない方なのだなと。だからいつまで経っても、意見の一致を見ない、食い違う訳ですね。
あなたの思想信条を告白して欲しいものですね、是非。おそらく、日蓮宗身延派とか、池上派、他、日蓮系なのでしょう、それだけ御書からかいつまんで書き表わしているという事は。
私はねえ、もう、あなたとは、金輪際、対話をする気はないですよ。私がしっぽ撒いて逃げたと捉えられては困りますがね。
いい気分が全然しないんですよ。気分が滅入って来て、悪い気分で毎日、夜中、床に就くのが、嫌で嫌でねぇ。
以上。よしなに。wainai
取り敢えずですが、確かに政治権力が仏教に接近したのは間違いないです。それは世界的にも、ほとんどの宗教が利用されている。どこも同じです。
信仰を持ったものが政治に関わる。それも世界中でやっていること。つまり法華経の教えはあまり意味のないことですね。失礼しました。
※
神天上とはよくわかりませんが、神社にはいないということでよろしいですか?日蓮は日本に全ての神はいないと言っているのですか?
「法華経の行者日本国に有るならば其所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く「諸天昼夜常為法故而衛護之」文。経文の如くんば、南無妙法蓮華経と申す人をば、大梵天、帝釈、日月、四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。」(諌暁八幡抄)神
竜の口に引き出される時、社頭で大音声で八幡を諫暁。この時は八幡はいたのですね。
※
大石寺には廃仏毀釈までは天王垂迹堂、日興創始、北山には法華垂迹天照大神宮が今でもある。そもそも日蓮は伊勢に百日参籠していたとか。つまり、当時は僧俗共に神仏を拝んでいた?
天照大神が欧米の神に負けたとはなかなか元気な発言ですね。
法華講役員の井出家は、浅間神社氏子総代。大石寺周辺の信徒はそれに倣っているそうですね。
よく、日蓮宗身延派などは、日蓮大菩薩、日蓮上人、などと呼んでいる。その時点で、我々、日蓮正宗では、オミット、なんですよ。
我々日蓮正宗では、「御本仏宗祖日蓮大聖人様」とお呼びする。
ここであなたは、はっきりと、「菩薩」の振る舞いとして述べている。
我々の立場では、その菩薩を越えた、「仏」「御本仏」の立場からの、意見なのです。
ですから、あなたの提言とは、そもそも齟齬があり、根本的に、相いれず、そぐわない、と言えます。
仏教と政治の問題ですが、今の創価学会や公明党は邪宗教、邪政治団体として、社会から糾弾され得るべきものでしょうが、社会に自分達、それも、仏教者のみならず、社会を構成している人々全てが、正報・依報の定理から言って、社会にこの人間の思考、思想が反映するという考えがあります。
それに、我々、日蓮正宗信徒には、「依法不依人」法に依って人に依らずを宗是法是と致しますが、涅槃経の法四依にある「依人不依法」法を説く人の身分や人数を貴んで、仏の真実の教法の内容に依らない事。
ともかく、法の、仏法の中には、世法の、世の中の法や、一般常識、掟、その他、様々な決まり事等々も、全て包含され得るものであり、それは世の政治にしても、同じことであります。政治によって、立法機関によって、法が生み出され、それらは仏法の一分でもあるのです。
ですから、我々は、信仰者が、政治とも全く関わらない、というのもおかしな話です。
日本国憲法を持ち出す必要性も御座いませんが、宗教団体が、政治に関わってはならない。これはごもっともです。
しかし、政治の、選挙に行く、選挙権の行使は、これは政治を監視する目的からも、行ずるべき話です。我々、宗教者も。
しかし、公明党=創価学会の如くの、圧力団体と化す事は、政治の世界においても、憲法上の問題に於いても、これは御法度である。それが本当の在り方であります。
ただ、この憲法が、未来永劫まで、不磨の大典の如くに、続くのか。これが、今から十年二十年は良いでしょう。
しかし、千年単位で見たら、これがどうなるのか。
そこまで我ら人類が歴史上、持ち応えられるのかは置いておいて、通常ならば、かなり怪しい。
そこで、我々の、日蓮正宗の、折伏による、広宣流布が達した暁に、どうなるのか。
まだ誰も見た事のない世界なので、それに、その時の猊下様がお決めになる、当然、その時の民衆、天皇家も存続していれば、していなければ我々日本民族が困るでしょうが、国会等も、どう動くのか。
ただ、言える事は、これは御宗門も第六十七世日顕上人も仰っておられていますが、「国立戒壇」となると話は違う。
時の政権が、「親日蓮正宗」派の人が、御戒壇様を国立で建てたとする。
しかし、その後、反日蓮正宗派の人々が政権に就き、そうしたらどういった事がおこるのか。
大御本尊は破棄される運命となり得る。
そういった事共を考えると、迂闊に、「国立戒壇」などと、顕正会のように浮かれて軽はずみでは言えない弱みも持ち合わせている訳です。
仏教には、国家や政治を変えるという発想がないと仰りますが、元はと言えば、古代インドに於いて、バラモン教の支配する、現在までその悪弊が、ヒンズー教の下、広がっていますが、そのアンチテーゼとして、仏教は現れた事を、知っておいた方が良いかと思います。
当時から、仏教は、バラモン教を否定して、反対し、その当時の、確かですよ、八十近い異教外道宗教との、違いを鮮明にして、それら難行苦行やらを否定し尽くした。中国だけで起こったムーブメントではないんです。古代インドで実際に釈尊によって起こして、それが中国・日本に伝わったのです。
言わば、仏教は、インド教、古代のバラモン教、現在のヒンズー教の、アンチテーゼとして生まれ出た申し子の様なものです。
ですから、決して、仏教が、政治と関わったのが中国発、じゃない。
現に、インドでは、お釈迦様が、阿育王、阿闍世王等々に、多大なる影響を与えて、その庇護を受けたり、当時のインド世界でも、政治とは密接に結びついていました。
政治と宗教が、結ぶのが仏教的ではない、としたならば、聖徳太子時代の仏教と皇室の関係、日本史に於ける、宗教、特に仏教と公家、武士との関係性がどうなるのでしょうか。
明治時代が全て悪いのです。廃仏毀釈運動などと称して、仏教を貶めて、一人、国家神道がのさばった。その結果があの、敗戦の、惨めな姿でしたよ。
要するに、天照大神は、アメリが合衆国の神、即ちゴッドに負けたのですよ。日本を守る気なんて、更々なかった。
要するに、日蓮大聖人様の「神天上の法門」で、この国の神々は、全て天上に上られてしまい、今の神社仏閣には悪鬼魔神しか棲んではいない。その通りでしょう。
とにかく、そういう事なんで、私は今から行く所があるので、これ位にして置きます。
以上。よしなに。wainai
さて、
答えやすい件から
信仰が政治と関わらない件について
※
法華経安楽行品14
いわゆる菩薩の親近処について
「 菩薩は、国王、王子、大臣、官長に近づかない。」
とあります。
ですから日蓮が法華経に反していることはお分かりかと。
ただし
「これらの人々に請われれば、法を説くであろう。」
ともあるので、抜け道はあります。
仏教には、政治や国家を変えるという発想は無い。そして、戦前の国粋主義、国立戒壇論、カルトによる政党は、仏教的では無いと思います。
そもそも国家諫暁という言い方が仏教には馴染まない。私は個人的には、日蓮は中国の政治思想の影響を受けだと思います。
日蓮大聖人様ほど、世界の平穏、平和を祈った方はおられません。
「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれを砕かず、代は義農の世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御覧ぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。」(新編御書671頁「如説修行抄」)
それでは、なぜこのような災難が続くのか、私達正法を受持する者は、それを仏法の上からしっかりと理解し、肝に銘じておくことが肝要ではないかと思います。
大聖人様は、それらの災害の理由を『立正安国論』に、「(主人の曰く)倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」と説かれています。 つまり、世間の人々が正法に背き、悪法に執着しているが故に、善神がこの国から去ってしまい、聖人と呼ばれるような尊い境界の人達が社会の表舞台から退いてしまい、この国を正法正義に導くことをあきらめてしまっている、故にこのような国では当然、魔が競い、災難が起こることになるとの意味であります。
総本山第六十七世日顕上人は、今日の災いの原因として、かの池田創価学会が宗門への敵対行為を開始した平成二年十一月十六日、まさにその翌日に起こった雲仙普賢岳の噴火に始まり、平成七年一月には、兵庫県神戸市を中心に『ニセ本尊』を大量配布した翌日の早朝に起きた、阪神・淡路大震災などの例を挙げて、すべてが池田創価学会による大謗法行為が第一の根本原因であるとの御指南が、かつて何度かありました。
その御指南によって拝すれば、本年の新型コロナウイルスの感染拡大や、異常気象もすべて池田創価学会をはじめとする邪宗謗法の害毒が、その原因になると理解できるのでありますが、しかし、そのように仏法上の因果を理解した上で、なおこの数年は、厳しい自然災害が激しく日本を襲い続けているとの思いを強くするのであります。 2020年11月22日 / 最終更新日時 : 2020年11月22日
御会式・布教講演⑨「日蓮正宗 妙眞寺」
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ともかく、大聖人様が、平和主義と無縁、などとほざいているあなたには、第一番に、その誤解を解いて頂くために、お近くの正宗寺院へ御参詣なさる事を、まずはお勧め致します。あなたが何の宗教を信じておられるのかは知りませんが、目が開かれる事請け合いです。
それだけ、疑問に思っているのであれば、直接、日蓮正宗の寺院、お寺にて、御住職様に直訴なさるのが一番の解決策と存じ上げますので、私からも、格別の覚悟をもって、お勧め致します。
私のこのブログが疑問を招いたならば、誠に心外でもあり、日蓮正宗御宗門の公式見解には、わたくしも、心から従うもので御座います。
今後は、これ以上、私ではなく、日蓮正宗の寺院へ、直接のご質問を願います。
私は、一個人の、正宗信徒であり、私の意見が、日蓮正宗の公式見解では全くない事は、公言して憚らない所で御座います。
私と、日蓮正宗とは、全くその地位も意見も立ち位置も違い、私の意見は、個人的見解に基づくものであり、個人的感想の域を出ないものであります。
であるからして、私の言質を取ったからと言って、私の言説と日蓮正宗とは全く関係ない事を、ここに表明させて頂き、誠に申し訳ありませんが、言上奉り致します。
令和六年十二月十日、吉日。
以上。よしなに。wainai
鎮護国家=
仏法によって国家を鎮め護ること。仏教はしばしば国家をはじめ一切の世俗の関係から離脱することを説く。一方で初期仏教の時代から、国土や民衆の災厄を払う攘災招福のための仏道修行・祈願も説かれ、国家が仏教を護持し仏教の功徳で国家が安泰になるという国家仏教の思想も存在した。経典の中では仏教を護持する理想的国王を「転輪聖王」と称し、アショーカ王などがそのモデルになったと考えられる。仁王護国般若波羅蜜経(→仁王般若経)や金光明最勝王経(→金光明経)には、国王がこれらの教典を受持・読誦すれば、四天王や地神が国土を守護し国家が繁栄するとあり、これらの経典が鎮護国家思想を説く護国経典として重視されるようになった。
とくに仏教が中国に流入して以降、強大な国家権力を確立した北魏などが勃興した南北朝期にこの動向は起こり、統一王朝を築いた隋唐代に本格化して、周辺諸国にも影響を与えた。古代律令国家の建設途上の日本も、こうした思想を積極的に受容し、660年(斉明6)仁王会の始行、676年(天武5)金光明経護国経典を読誦・講説する護国法会が活発に行われるようになった。後に法華経も加えて<護国三部経>とされ、奈良時代には最勝王経の教説に基づき「金光明四天王護国之寺」を正式名称とする国分寺も建立された。(中略)平安中期以降、王法仏法相依論へと発展してゆく。
(「岩波仏教辞典第三版」から引用)
鎮護国家=
教法の力によって災難を鎮め、国家を安泰に護ること。伝教大師は、三災七難を鎮めて国家を守護することが説かれた法華経・仁王経・金光明経の三つを、鎮護国家の三部とした。(法華講員の教学基礎辞典・暁鐘編集室)
国立戒壇は辞めたが、第六十七世御隠尊日顕上人猊下様は「国主立戒壇」詰まり、現代で言えば、国民主権の世の中であり、将来、国民が主役となって戒壇を立て得る事もあるのではないのか。しかし、それは国民の総意が整い、将来未来の、今の世とは全く違う世界の様相のお話しであり、その時の猊下様がお決めになる話であり、我ら下々の、凡下の身の、平信徒が述べる事でもない。
とにかく、その辺りの御指南は「近現代における戒壇問題の経緯と真義」(総本山第六十七世日顕上人猊下御講義・大日蓮出版)に詳しい。
>そもそも仏教は政治とは関係なく、法華経には世俗との関わりを禁じている。
その文証は?ちゃんと、文献の証拠で示して下さいよ。それでなければ、単なる貴方の妄説に過ぎません。
>日蓮の思想を評価している人は世界にほとんどいないし、…。
それはどうですかね。たとえ今はマイナーであっても、後世の歴史で、大化けした宗教なり、企業なり、商品、あのSONYという会社ですら、その創業期は、まるっきり無名の会社であり、世界にはアメリカを始めに、ことごとく無視され続てていた事実がありますから。
今だけを観ていても、何も判らないのですよ。過去・現在・未来、将来的な事なんて、誰も保証なんかしてはくれないでしょう。
宗教の勢力図、なんかも、現在だけの現状だけを追っかけたってダメなんです。現に、日蓮正宗だって、世界広宣流布へと、遅々たる歩みですが、他の日蓮宗身延派、顕正会などにも優るが如く、立派に広布の為に大活躍の日々の実態、実証がありますから。世界の主要都市には、日蓮正宗は進出が目覚ましいものがあります。
日蓮正宗の、宗祖日蓮大聖人様の仏法は、日本一国に限られた、民族宗教に留まる宗教では御座いません。最初から、大聖人様の御境涯には、世界にこの教えを打ち立てる意図が感じ取られます。
それが、キリスト教などの、始めは一地方から始まった、地方宗教、ローカル宗教から、たまたま、世界宗教へと乗り出せた、ラッキーな宗教群とは全く性格を異にします。あれは、イスラエルのエルサレムが、首都ローマに地理的に近かったために、広まるのがたまたまの成功例でした。
あなた方は、同一人物でしょうか。私のこのブログ主としての一存で、消してもいいんだけれども、私のブログに楯突いて来るなんて、珍しく、面白そうな?意見、異見なので、しばらく残して置きたいと思います。
私の立ち位置は、このブログで常々申しておりますが、あなた(がた)は、何を思想信条としているのかが、ハッキリとしないので、私としても、ここまでが、自身の反論の最低限の言説となります。
今度、コメント下さるとすれば、出来得るならば、自身の依って立つ、信ずる立ち場を、明言下さると、こちらも対応が早く出来得るので非常に助かります。
まあ、余り、こういう過激な批判コメントには、関わり合いたくない、それは、あなたの文章自体に、怒り、瞋恚(しんに)、怒りは地獄、と仏教でも言われますが、怒る地獄界の臭いがプンプンしているからです。
そうやって怒らせてしまった私にも勿論原因があるのは判りますが、もう少し、笑み一つ浮かべられ得る、お互い気分の良い関係性を望んでいます。
結局、何であなた(がた)が瞋恚の炎に燃えているのか、私には、判らず仕舞いですが、私も人様の感情の動揺にはそうそうつきあってばかりもいられません。そこも御考慮の上で、御発言をして下さい。
まるで人を敵対視した、初めからケンカ腰で迫られても、こちらも、対応の仕様がないですから。
まあ、私も原因がある。それは判りました。あなた方は怒っている。しかし、何度も言って置きますが、「怒りは地獄」地獄界に堕ちたも同然であり、自分の生命を濁らせている事だけは心に留めて置いて下さい。
貴重な意見、誠に有難う御座いました。
以上。よしなに。wainai
まるでカルト教団とその政党よりも過激な、政教一致政策。
そもそも仏教は政治と関係なく、法華経には世俗と関わりを禁じている。
日蓮の思想を評価している人は世界にほとんどいないし、仏教自体、世界宗教とは呼びにくくなっている。人類の歴史は差別と虐殺、争いの歴史。民族宗教が何をできるのか。そもそも日蓮自体、平和主義でも何でも無い。