私と親しく話す人の中には、まるで、人を蔑視して、差別するように、結論を急がせて、「だから、結論は何なんだ」との如くの、まるで「脅迫」「恐喝」「脅し」ともとれる如くの、言説の私に対して、行う者が散見される。
これには私も内心、怒り心頭であり、何で私の話す内容に、いちいち落語の、「オチ」の様なモノをわざと付けねばならないのか、不思議であった。
世の中では、目まぐるしく社会情勢が変化し続けていて、それに伴い、早く、コンビニかファストフード店のような、即断即決、早ければそれで良し、の悪弊が蔓延している。
私は安高で、応援団にも誘われスカウトされた程、声も人一倍大きく、人よりも目立つために、こうした集中砲火を浴び続けなければならないのであろうと個人的に思う。注目を集める人とそうでない人の差が、差別がある。
これが、極端に無口の人達は話がまるで違う。みんなで聞く耳を持って、まるで腫れ物に触る如くの扱いで珍重しつつ、ご機嫌を伺い、私など、耳が遠い方なので、そんな小声の人種などに、一切聞く耳も持たず聞く気も起きない人への感想も一切なく、興味なども微塵もない。しかし、そんな奇特な人の発する言葉の一挙手一投足に非常なる大注目を浴びせ、致し、まるで大聖人様の御金言の如くに、その人の言葉を大事に扱う。この場合、声の小さな人の言う事は、皆大事に聞く。ハッキリ言って、差別。
うちの母などは、元々地声も大きく、こんな、こえの小さい人間を、差別とまでは行かないが、蔑んでいた位だ。私が小声で話すと、何でもっと大声で、明るみで言う如く、喋らないんだ。それは自分にやましい事が、あるからだろ、と。うちではこんな感じで、うちの家庭の人種の声は大きかった。
こんな事、小声の人を珍重するのは、この福島県だけなのではないのか、と私は思う。何か、特別、えらい人、偉い物事をしゃべる人との錯覚が働いている気がする。
元々、田舎には、こうした、寡黙な人ばかりが暮らす集落が幾つもあり、特に方言、ここでは福島方言だが、何を言っているか分からない人の集まりに於いては、聞き逃したら、一生の損、という不文律の様なモノが、昔からあったと見た。
そこへ行くと、私ら父亡き母子家庭の、元々は父含め東京神奈川から来た私達親子など、ちっともどこへ行っても、この福島では珍重、大切になど扱われた試しなど、一度も一切ない。
文句ばかり言う、とか、声ばかり大きな、標準語でしゃべる人達、とか、言葉が綺麗な日本語(東京方言、江戸弁)を流ちょうに話すが、綺麗事に聞こえて信ぴょう性がない、私ら東北人・田舎者を見下している、とさえ言った輩が現にここ、福島県郡山市には、ちゃんといるのである。
何をかいわんや、である。ここの田舎だから、郡山くんだりだから、そういった物言いをされるのだとの諦めの気持ちしか今は無い。
あの、創価学会時代の座談会で、どこかの女子部の幹部で、「御書」の一節から何から、池田会長のスピーチの代読から何から、つっかえつっかえ、ポッツリポッツリ、途切れ途切れ、語り、ほとんど日本語の体を為してはいなかった女子部員がいた。
あーいうのを、あーいう手合いを、母は非常に蔑視した。ちゃんと学校教育を受けたんでしょ?おそらくは、若いが女子部長にまで抜擢されたのならば、大学教育まで受けて居る筈である。それがこのザマである。文字一つ読めない。それで女子部長?!笑わせんな、の世界だと母は言っていた。
私に読ませた方が、よっぽど綺麗な日本語、流暢で美しい日本語で読んで見せるわよ、と母は憎しみを込めて、よく言っていた。私は、創価では、幹部になるのも金次第なんだな、とも思った。創価の役職は、皆、コネ、コネクションで成り立っているんだろう。
そんな人材しかいない、創価の弱点、汚点を見たような非常に胸糞悪い話ではあった。
とにかく、冒頭の問い、「結論は何なんだ」の答えとして、私はすぐに、その場に於いて、結論を導き出す事にてんてこ舞い、自身、学校教育の悪弊で、すぐに答えを求め出す事に汲々としてきた人生であった。特に私は、受験戦争に巻き込まれ、人以上に、結論、詰まりは答えを人様からは必ず求められるとオウム返しに答えてしまっていた。
これを、今日から実験的に、辞めてみようと思う。だって、自分だって答えが分からないから、結論が出ずに分からないから、相談に乗ってもらっている訳だから、その答えを相手からもらえずに、自分で出せ、とは、ちょっと、相手にとってもムシが良すぎる話ではないか。
だから、ハッキリと「結論は判りません、自分でも考えましたけれども、答えが出せませんでした。」これで良い。何も、相手も無理強いして、結論を導き出すのに、脅迫してまで、こちらに伺っている訳でもないんだろう。それでいいと思う。
今までの、そうした受験戦争時代の、答えを求められたら、即答で応えなければ、受験に失敗、等という、脅迫じみた事は、余り現代社会では見受けられない。DKグループのようだ、と言われて謗られても、気にする事は無い。
数学の世界でも、謎の公式なるものがあり、これが解ければ、ノーベル賞級の賞がもらえそうな程の大難問の数学公式の問題があり、何百年もその答え、解答が得られないのだそうだ。
学問の世界だって、結論が未だに出ない世界は世界広しといえども、何処も同じであり、何も私だけ、結論を人から責められて求められる筋合いは全く無い、それは時として、言葉の暴力を私が受けたのと同じ事になる。ハッキリ、わかりません、それで良い。それはそれで、エクセレント、秀逸なのだ。
私は、人から「要するに結論は?」と言われるのが非常に嫌なのだ。こういう問いを投げ掛けるのは主に男性が多かったが、最近では、女性の社会進出が進み、女性にも今日、電話口で、若い人だったが、結局結論は何、と聞かれ嫌な思いをした。
そうやって、人を急かして、何が面白いのだろう。もっと、人間、ゆっくりできないものだろうか。命は短く、時間も有限なのは分かるが、日本はせかせかとし過ぎて、結果結論を性急に求める者が何と多い事か。五万といる。
人生に結論なんか要らない。好きなように生きられればそれで良い。こうも短絡的で、結論ありき、何で総括して、結論を必ず導かなければならない訳?貴方、試験官?!何の資格があって、そんな物言いをする訳?一体何様の積り?
これが福島県一県の話ならまだ分かるが、きっと日本全国の風潮で、行き亘っているのであろう。
けれども、沖縄辺りは、のんびりムード漂い、そんなに人に急かして迄「結論は何?」などと聞く人は希なのではないのか。また、よその国でも、そんなに生き急いでどうすんの、との問いかけをもって、日本人に相対する民族もいよう。
要するに、こういった類の、日本の振る舞い、作法などは、世界から見れば、「超ローカル地域」「ガラパゴス化」した、救われない世界、国家という事。
こんな濁悪の世相、末法から飛び出して来たのが、御本仏宗祖日蓮大聖人様。大聖人様も、非常な長文で文章を作られている。長文オッケーである。正に。
全くもってして、人間が、器が小さすぎるよ。もっと大局観、大物になって見て頂戴。
自分が、私が、最後に、「これが結論だ!」と言えば、それがその場で即、結論となる。それが、宿命の様なものだ。
ただ、それだけの事なのだ。
まあ、考えてみると、そうなんだよねえ。「結論」は、結局、時には必要な、あいさつ代わりの様なものだと、弁えておいた方が、無難ではあり、得策なんだよね、やっぱり。
数学の、論文形式の、答え、解答だって、それに、則っていて、それが、論理学の、元だもんねえ。答え自体が、「結論」、だしねえ。
やはり、最初と話は矛盾はするが、結論は、必要で、大事なんだよ。世の中は、そうやって出来ていると、達観しちゃった方が、よりましになるのかも知れないね。
世の中の、道理、物事は、『起承転結』で成り立っている、と理解した方が、良いのかもね。
これが、本日の、私の『結論』だね。オチが付いて、良かったと思うね。非常にね。
ここまで、私の長々とした愚問愚答に付き合って、読んで下さり、誠に有難う御座います。感謝致します。
以上。よしなに。wainai