三、四日前、講頭さんが、夕方の勤行の後で、お話ししていた。
それは、こちらが挨拶をすると、必ず返してくれる人。最初はいぶかしがって、敬遠していても、その内にこちらの気負いに負けて、挨拶を返してくれる人。
これらが、挨拶を交わす人の八、九割くらい。
そして、残りの一割が、こちらが幾ら、温情をかけて、情に訴えて、挨拶を交わしても、どうしても返してくれない人。てこでも動かぬ人。
こんな風に、世の中は出来ていて、動いている。
しかし、ここからが、講頭さんの面白い説だ。
挨拶の返事が返って来ないのは、自身、我が身の前世での所業、行いにあったのだ、と、講頭さんは論を進める。
挨拶が返らないのは、何も相手が悪いんじゃない。自分が過去世で、何か、浅からぬ因縁で、その人に意地悪をしたり、何がしかの理由が、こちら側にはあるのだと。
仏教仏法は、自己責任といえば、何だか嫌がる人もいるかも知れないが、基本は、やはり、自身に全ての責務を負う、と見る宗教だ。
だから、私はこの欄、このブログ記事に於いて、否、そのユーチューブ動画にて、2011年3月11日の、「東日本大震災」を、心を込めて怒り散らしたが、仏法の眼から見れば、自分の内面、心が、その時の、その場にいた一般大衆の心持ちが、それだけ、罪障に包まれ、汚れていたとも言える。それが、その時の、東北の大地を、大空を、覆っていたと。そうも考えられる。
それを、仏法では「依正不二」ともいう。依報(国土)と正報(衆生)の一体不可分の関係性で言えば、その理論は成り立つ。
「夫(それ)十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし。又正報をば依報をもて此れをつくる」(新編御書九一八頁)
それが、創価、顕正、他の、邪宗邪教の跳梁跋扈の結果だ、とも捉える事も出来得る。
だから、故元東京都知事・石原慎太郎氏の「天罰」「神罰」発言も、その真意は不明で私も定かではないが、全く故のない事でもない。有り得る事とも言える。
これは、私の、朝令暮改ではない。又、朝三暮四でもない。私の正に「君子豹変す」の例えの通りである。
私は君子ではないが、このブログでも何度も言っているが、「君子」ではありたい、君子を目指したい、とは常々思っているし、そうやって生きて来た。
だから、私は、幾らでも、カメレオンのように、意見が自分が間違えていたと気付き判った時点で、その場で自分の気持ち、意見を代える。これが私の流儀である。私の通す筋である。
だから、そういった人種だと、それまでの私を知らなかった人は、私はそういう人間なのだと、新たに判断を加えて欲しい。
話がだいぶ脱線したみたいだが、大筋では私の意見は間違ってはおらずに、私の言いたい事は全てここの場で言えたのである。言いたい事が言えて、私にとり、これが実に気持ち、気分がいいのである。
以上。よしなに。wainai