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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

ベートーヴェン「第九」の事。その後、懺悔滅罪の日蓮正宗の正義に気付くまでの長い道のり。※長文失礼

2022年11月12日 14時18分18秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 私は、死ぬ程、音楽が大好きだ。それも、クラシックの、ベートーヴェンの音楽が最高に、大好きだ。
 
 御存知、「第九」とは、彼の最高傑作、音楽史上も名高い、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、交響曲第9番 ニ短調 作品125 、の事を指す。
 これが、「外道礼賛」だとか、邪教の賛美とかを盛んに言い出した。
 私も、うちには、中学・高校・大学生時代、其れから大人になってからも、沢山の、ベートーヴェンの、第九の曲を買って、聴いて育って来た。
 それを今更、代えろ、辞めろ、と言う。
 私は実際、本当に、辞めた。
 お寺の、前講頭のK林K子夫人に勧められ、全部、CDはありとあらゆるベートーヴェンの第九をブックオフで中古で売ると、三千円近くなった。それを、その女は「よかったね」の一言で済ませた。
 こちらがどれだけの心血を注いで、それらCDを長年にわたり、血眼になり、貴重な時間とお金と労力の全てを使い果たして、ベートーヴェンの大天才に憧れ、その幻影を追い求めて追いすがり、買い求め買い集めたのか、全くその女性には判らなかったようだ。
 その前の日、その女性と、無量山寿海寺にて夕べの勤行を終えて、お寺の外で、私は冬で十二月だったものだから、そろそろ第九の季節ですね、と言った。
 すると、それをその女性は、それは外道だ、いけない、等々とまくし立てて来た。
 私はその真相を訊ねる為に、一旦、お寺に戻り入り、御住職様が居たので、直接聞いた。
 すると、子供たちはいい。高校生、せめて大学生くらいの、生徒・学生で、学校で習う分には、まだ許せる。
 しかし、こと、これは、外道礼賛だよ、○○君(私の事)。そんな、外国の神様拝んでどうなるの。今、大人の、○○君があ、やる事じゃないでしょ。

 こう、御住職は言ってのけた。これには、幾ら御住職でも、聞いてて呆れ果てる以外に無かった。何も、その音楽、ベートーヴェンの第九は、外道の、神様にお祈りしてるんじゃない、人の人生を語ってるんだぞ。へえー、そんな話って、あるんだろうか?一つの芸術作品を、大天才が心血注いで作った大作品・大芸術を、寄ってたかって、この宗教、正宗は、蹂躙するんだ、へえー!そんなのって、果たして、一般常識が通用して、許されるもんなのかねえ。
 大音楽芸術に対して、何にも理解も尊敬も、何にもない、全く無い、情けなんかこれっぽちもない、非情な人間の苦しい言い訳、戯言、言葉であった。
 そして、外に出ると、又、その女が控えて待って居て、だから、先生も言ってたでしょう?だから、明日、ブックオフでも行って、売って来なー!

 これで終わりである。

 そんなバカな話があるかと、今度は、その時の前の記事にも出て来た、前副講頭Kさんに聞いても、S楽さんに聞いても、皆、同様の、そんな変な音楽、と言う感想しか返っては来なかった。(ほんとうは、だれひとり、そんなおんがくを、ひとり、まじめには、きいてきたひとなどは、このおてらには、だれひとりとしていないことが、にょじつに、わたしはひとりがてんして、わかってはいた。要するに、この寺の誰もが、音楽性の欠如、音楽の知性・知識がゼロだって言う事。芸術に対する、美的感覚、音感教育など、誰一人受けては居らずに、ただ訳も分からず、付和雷同して、罵倒、バカにしている。その自分が一番バカなのに、バカなはずなのに!!自分の「バカ」さが全然判って居ない。正に養老孟司先生著書の「バカの壁」そのまんま。其れに尽きる話。実に呆れた話。音楽芸術教育など一切受けた事が全く無い、詰まらない人間の集合体が、吹き溜まりが、詰まりは、この寺の集大成、実体、状況状態の全て)。

 だから、私は、その話をまともに受け、CDは全部売り、PC、パソコンの中からは全て、第九を消去してしまった。後では、もう取り消し取り戻せはしない。

 私が如何に、大ドイツが生んだ大作曲家、ベートーヴェンを愛し、心からこの大天才に憧れ、敬服し、尊敬の念慮を如何に致していたのかは、この者共の、誰も彼もが、その真価、真実のベートーヴェンの音楽の素晴らしさを、全くと言っていい程、全然知らない者たち、よーするに、わたしから言わせれば、凡くらあたまの、あたまのかたい、頭がからっぽの、どーしよーもない人達ばかりの、寄せ集めが、この寺と、この御宗門の体制、性質に今は成ってしまっていた、情けない事に。

 一方の、創価の池田氏は、無類のベートーヴェンが好きなほうではあった。

 この頃、創価の池田氏が、大々的に、第九を学会員達に歌わせて、全国の文化会館を中継でつなぎ、大衛星中継などを、やって居った時期もあった。

 これらが、余りに、何万人もの学会員を導入した、ベートーヴェンの第九演奏、合唱の偉大さ、力強さに、怖気づき、余りの恐怖心から、思わず、学会の組織力に怯えた末の正宗側の行動の成り行きだった事は、想像に難くはない。

 池田憎しに、ベートーヴェンの音楽までが憎まれた。正に、正宗宗門の良く言う言葉、「僧侶憎ければ、袈裟まで憎い」を宗門が、地で行ってしまった。

 要するに、ベートーヴェンは、だしに使われた、ただの将棋の駒に過ぎなかったのである。それが例えば、そのあの、創価の巨大な合唱隊たちが歌う文句が、槇原敬之の「どんなときも」であったり、松田聖子の「瞳はダイアモンド」であったり、キリスト教の讃美歌であったりゴスペルであったり、村田英雄の「王将」であって、それらが創価の代名詞のように歌われ使われた時点で、すぐに問題視され得る存在、それが、即ち、ベートーヴェン第九だっただけである。

 当時の学会の新聞か雑誌、「聖教新聞」か何かにも書かれていた。
 「宗門は、大事な所を見逃している。ドイツ語で書かれた、ベートーヴェン作曲、詩人シラーが作詞した、この第九の、神(英語でゴッド)は、複数形で書かれている。つまりは、「神々」であり、一神教の、神一人を指すのでは全くない事に、宗門は気付かなかった」と。

これらCDの中には、もう、交響曲「第九・合唱」のあの勇壮・雄大なオーケストラと合唱団の響きが、もうどこにも、うちには全く無いのである。これが今、最大の悲しみの根源だ。
誰が何と言おうと、芸術・音楽に国境、人の心に垣根などは、絶対に、無い筈なのである!そうでしょう、御同輩、諸君、皆様!

以上。


『大反省の私の言』・『日顕猊下様、御住職様、御宗門、K林前講頭夫人様、私めの大変な御無礼・失礼・失態・大謗法を、誠に御許し、御諫め、御容赦、御勘弁、等々、頂きたく存じ上げまする。以下、失礼。』

 しかし、よーく、日蓮正宗の教義、今日のなるたけ、ヘルパーさんが来られて、食事を摂ってからの自分としては本当に早めの勤行を致してから、深く考える所があった。
 それは、その時、今さっき言った、その、私の、ベートーヴェンの、CDを売りに出かける前の日に、その、前講頭の、K林K子夫人こと、K子さんに言われた言葉である。これに不思議と、私は、感動致したのである。
 「○○君(私の事)、そんな、私は、ベートーヴェン、それも、そんな、いわくつきの、音楽ばかりが、世の中の全てじゃないんだと思うんだ。世の中には、何千、何万何十万って、それはそれは、驚く程、この世の中には、今までこの世に出て来た音楽もあれば、これからも、ヒットしてゆく音楽も多く有るだろうし、それは、○○君は、その音楽、ベートーヴェン?に人一倍、造詣が深いのは判るよ。判るけど、ここ、お寺だけれども、我々は、一応は、御住職様、猊下様に付き従ってゆくのが、本当の信徒・信者だと思うの。
 何も、その音楽が、駄目だとは思うんだけども、それ以外にも、私たちが、聞いていない音楽だって、沢山あると思うんだ。それ以上にね。
 世の中はとても広いんだよ。○○君が思う以上に。そんな、私は、そのベートーヴェンが、具体的には、どういう人だったんだかは、判らないんだけれども、最近の音楽にだって、とってもいい音楽があるから、聞いてみなさい、感動するから。」
 と言う。その、この世には、既にあり、又、これからも新たに出てくる音楽が、何千、何万、何十万曲の音楽がある、に、まずは、それに本当に驚き、気付かされ、感心し、感動の念を覚えた。そうだ、そうに違いない、と。
 私も、
 「ベートーヴェンでも、ピアノ曲とか、ピアノソナタが一番有名かも知れませんが、最も有名なのが『エリーゼのために』という名曲佳曲もあって、第九の作詞は、ベートーヴェンじゃないんです。シラーと言うドイツの詩人なんです。
 だから、あんまり、第九じゃなくても、にぎにぎしい言葉の歌声の載らない音楽、楽曲、オーケストラ、協奏曲、若しくはピアノだけの、インストゥルメンタルな、そういった音楽の方が良いでしょうね。そういうクラシック音楽は、一杯あります。
 まあ、私も、クラシックばかりが好きではないんですよ。昭和平成歌謡も好きですし、演歌なんかはお手の物、歌は私は音痴ですけど。
 他にも、私は英語の歌、ロックンロール、ロックの、英国イギリスの四人組バンド、ザ・ビートルズなんてのは、これは、ベートーヴェン以上に、中高生時代から、非常に高く評価し、自身の人生の師とまで、尊敬しています。私はビートルズにも、かなり造詣が深いのですよ。ビートルズは『ベートーヴェンをぶっとばせ!』なんてゆう、其れこそベートーヴェンをぶっ飛ばす、愉快なロックンロールの歌や、後期の歌では、内省的な歌、『ジョンとヨーコのバラード』では、キリスト教、イエス・キリストを風刺した、ジョンが、暗にキリスト教を痛烈に批判し、辛辣な、磔(はりつけ)にされる程の苦しささ、とか言って、実際に、全米で物議を醸(かも)し、実際、アメリカではビートルズ不買運動が起こった程、ジョン・レノンと言う人は、キリスト教が大嫌いで、これには私も一緒に賛同してるんです。」
 「そうでしょう。だから、今言った通り、○○君は、一杯、音楽の趣味があるんだから、そんな、一曲ばっかりにこだわっちゃダメなのよ。まだまだ、この世の中の、聞いた事の無い音楽も、私たちにはたくさんあると思うの。謗法っぽい歌、不道徳な歌、はダメ。それが例えば、我々だったら、キリスト教の讃美歌、何て言うんだったら論外なんだけれども、それ以外の、良い歌が、まだまだ、一杯ある筈よ。そういう、良い曲を聴きましょう!」
 こんな話で、K林講頭K子夫人の話は終わり、私はその日、嬉しい楽しい気分で帰路に就いた。
 だから、まるっきり、私も、それら話に、全く賛同・同意しては居なかった訳では、決してない、無かった訳なので在る。全くもってして、私の逆恨み、見当違い、である。分からず屋は、この私めであった。

 そういえば、これは、編集後記に当たるが、うちの父が、生前、クラシックの、ベートーヴェンの第九を掛けると、凄い不機嫌になったのを覚えて居る。
 何故か怒り気味であり、機嫌が悪い。うちの当時のオーディオは、大きなスピーカーであり、うちじゅうに響いた。
 けれども、これが、都はるみや、村田英雄、八代亜紀、石原裕次郎、の昭和歌謡・演歌となると話は代わった。とても、ご機嫌、というか、気持ちよさそうに、まるで音頭をとる感じで、楽しそうにじっと聴き入り、時には笑顔も見せていた。
 これだけ、聞く人により、違いがある。私はそんな曲が好きかも知れぬが、父のように、毛嫌いしていた人もいた。

 考えて見ると、第九も、聞くには難儀を極めた、気難しい、「暗い」音楽・曲かも知れぬ。聞く人が聞けば尚更。聞く人を選ぶ曲。気取った曲にしか過ぎぬ、と今では私は、時代遅れの、現代には付いては来れなくなった、古きベートーヴェン音楽の限界性も感じ始めている。
 時間も、その全曲、一時間超と、余りに交響曲の部類としては長過ぎ、これも、長文書きの私め等には丁度いいんだろう。
 しかし、現代の、忙し過ぎる、特に老若男女問わず、人々たちには受け付け、受け入れられず、むしろ、この曲の、サワリだけ聞いてそこだけを知っている人達の方が圧倒的に多く、むしろ、全曲聴く人は皆無に等しく、むしろ、その難儀さ故にこの作曲家や曲が嫌いな人もかなり多く、時代には、全く合わなくなった代物の音楽の一つ、位の感想しか、今は持たない私ではある。
 むしろ、全曲、ベートーベンの第九を聴かせるなんて芸当は、一般人、父の様な、学のない感じの人や、勉強で忙しい子供達、大人だって、皆忙しいんだから、嫌って当然。暇人の聞く音楽に過ぎないのかも知れない。本当言うと、こんなのに、一時間超も付き合わされた日には、「拷問」と感ずる向きも多く、むしろ、そっちの方が、日本でも多数派かも知れない。人を選ぶ、とはこの事だ。人に依るのだ、こういった楽曲は。
 とにかく、うちの父は、「第九」は、大嫌いのようであった。それを押し付けた、私は、親不孝、という謗りを受け兼ねない。
 
 日蓮正宗総本山富士大石寺第六十七世御法主日顕上人猊下様は、何一つ、間違った事は言ってはいない。間違った事を言ってはいなかった。これには、私などの凡下の身でも、今では悟り切った如くに、痛切に、痛み入り、判り切った事として、理解をしているつもりである。
 日顕猊下様、御失礼御無礼を申した私め、この狂える私めをどうかお許し下さい。失礼仕りました。私めが悪う御座いました。
 それに、うちの、無量山寿海寺の菩提寺の御住職様へも、本当に誠に申し訳御座いませんでした。
 今は、私の心は晴れ渡る青空の如く、深く澄み渡り、心は平静であり、何一つ、雲一つない、一点の曇りなき、日本晴れ、青空高き、晴天の如き心持ちが致すばかりで御座います。晴れがましい、気持ち、只、一つで御座いまする。

 話は変わり、父は、どちらかというと、当時の、日蓮正宗創価学会とは反対の立場の、むしろ、共産党だったが、奇しくも、第六十七世御法主日顕上人猊下様とは、まるっきり、おんなじ立場、立ち位置に居たのかなあ、ベートーヴェン「第九」嫌いでは、と感慨を深く致して居る。

 つくづく私は、人につらく当たり、人に対して、問題を起こし、慈悲深くないと、いけない、悪い人間であると、今日の夕べの勤行で思い恥ずかしく、反省致した次第。

 釈尊も、大聖人様も、仏教仏法の御教えの大元の、最も言いたかった事、根幹、極説は、詰まる所、どこまでも、究極は、「慈悲」、「慈悲行」である。人様への、慈しみ、優しさ、真心、愛情、誠の心、真からの親しみ、義理人情、等々、である。
 これに反する者の末路は、仏法の道理から言っても、法理法則から言っても、只、堕地獄しかないのである。仏法に反した者は、必ず、地獄に堕ちる。
 これが、罰、仏罰である。私も、うーんと、気を付けねば、後で、コワい事になりかねない。非常に、コワい。

 我々は、人の情けで生きている。それを、その事を、決して忘れてはいけない。

 

 尚、私が散々ぱら、説いて来た「仏罰・法罰」の類は、お寺の現副講頭、B場さんによると、もう、今の現宗門、日蓮正宗では、説いている者など居らずに、聴いた事がない、と言う。
 昔の創価学会では、そう説いていたのかも知れないが、その創価も、昭和初期の、創価草創期の、「初代牧口常三郎会長」時代は、確かに「罰論」でやっていた。
 これが不人気であり、学校教師を中心に、東京都内に三千人しか人が全く集まらなかった。戦前の事で、それも、軍部による宗教弾圧で、創価教育学会は滅亡、牧口会長も一人、獄死した。
 次の代の、「第二代戸田城聖会長先生」時代になると、「仏とは、生命なり」の、「生命論」で布教、折伏しだすと、圧倒的な世間の理解、大人気を博し、獲得して、戸田会長念願だった「七十五万世帯」もの日蓮正宗・創価学会の信徒を大多数、獲得するに至る。だから、「罰論」は古く、今はやらず、「生命論」の方が、人々の受けもよく、実際、多くの人々を納得させ、獲得した。
 これらは、創価発行の、「旧・人間革命」に詳しく書かれてある、創価の史実にも詳しく載っている。今では、「伝説」的に、日蓮正宗宗門内・創価学会内でも語り継がれ、伝えられている。

 だから、私がこのブログで散々ぱら、説いて来た、「罰論」は古すぎ、時代に合わず、捨てられた法、時代遅れの法の説き方なのだ。
 これに固執する余り、人を寄せ付けない訳である。人を只、やみくもにコワがらせるのが、仏法ではない。それは、仏法とは、言えない。「コワい」のは、仏法でも何でも全く無い。

 仏法とは、釈尊も、大聖人様も、真実第一の「慈悲」が無いといけない、と仰り、説く。
 「慈悲」とは、人様、自分、万人に差し向けた、「慈しみ、万感、共感、思いやり、まごころ、誠実さ、人の情け深さ、優しさ、美しき尊さ、人生の輝き、義理人情、涙、愛情」、即ち、一切である。
 それらが、「慈悲」が、即ち、「日蓮大聖人様の仏法」の真髄、真実、真理、真価、根幹、大原則、第一定義、何者よりも最前列に来る、一大仏教仏法教団の、特に、日蓮正宗に根底の、最大一の根本原理原則に他ならない。これを置いて他に何も無い。
 まさしく、「慈悲こそはすべて」である。


 これだけ言えば、もう、言い足りない事は無い、全部吐き出した、そう、今の自分には、思えている。
 もうこれ以上、不毛な議論は、避けましょう。そう思い直している。
 私から、特に、御宗門に対する、要望、といったものも無いですし、矛を収める、というか、余り事を大ごとにして、騒いでいるのも大人げない気も致します。
 特に、この季節は、第九を聴くのも、冬の醍醐味ではありますが、これから紅白歌合戦とかの、歌番組も、非常にたくさんある訳です。
 それら音楽と、詰まり、私がまだ知らない、未知の音楽、という、新たな出逢いに、期待をして待つ、詰まり、新時代の音楽に触れ、体験していく方が、千倍も、万倍も、優れた体験なのではないのか?
 それが、日蓮正宗が説く、謗法路線の歌、歌謡ではダメですが、個人的な判断の中で、それらを取捨選択をしてゆく、そして、やはり、御宗門が、猊下様が、「ダメ」と言えば「ダメ」なのかも知れません。
 私にとり、今は、三宝誹謗、特に「僧宝」であられる、大聖人様の直系、血脈相承をちゃんと受けられた、法水写瓶、の伝統の下、法灯連綿の、唯授一人の、大権現の様な御方、御法主上人猊下様に従い、付いて行かねば、大変な事になる、「大謗法」だ、との念慮が深いのです。
 とにかく、御力のある宗教宗派が、この「日蓮正宗」であり、なかんずく、その総本山である、霊峰富士をバックにした美しい霊地、最景勝地の、「総本山富士大石寺」を振り仰ぐ者にとり、この言いつけを守らねば、自分の命、乃至、親の命もない、そんな気が全てを今、私の考えを占め、思い致す所存であります。
 これは危ない橋を渡って居る、そう自覚しました。
 何度言っても、私の様な、判らず屋は、又、翻意だなんだと、しょっちゅう、阿保な事を申すのが常でありますが、もう、この辺で、手を打ち、良しとせねばならぬのではないのかと。
 とにかく、御力のある事は、私は十分に、判って居る積りです。この事から、仏法の三証の、文証、理証、現証の、いずれも満たして居るのが当宗、日蓮正宗であります。
 これに違う事などは、絶対に避けねばなりません。
 私は自説を引っ込めます。以後、無駄な議論は封印します。
 特に、言う事は有りませんが、第九は、聴く機会があれば、聴くかもしれません。しかし、何も、特に感想・感慨などはなく、ただ聞き流すだけでありましょう。それにたいして、賛同も否定もなく、アウフヘーベン、止揚し、仏法の、中道、中庸を守るのみで御座います。
 以後、この件に関しては、私の考えの及ばぬところ、無駄話に過ぎぬと考え、捉えて頂いて宜しいかと思います。詰まりは、全ては、終わった議論であると。
 駄文に過ぎました。以上にして、この愚かな愚見、私見を終了させて頂きます。皆様、お騒がせして誠に申し訳なく、本当に済みませんでした。
 二〇二二年令和四年十二月二十六日月曜日、午後十時五十五分。現在。今の気持ちを書き記す。
 以上。
 よしなに。wainai


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2 コメント

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冷静に反論してみたら (OKSure)
2022-11-12 16:01:44
第九にそれほどこだわりがあるんですね。

それはそれとして、
宗門や猊下を誹謗するのはまずいので、反省すべきは反省して懺悔滅罪の唱題を。

そのうえで、
擁護・反論を試みたらいかがでしょうか?
冷静な反論ですよ。感情的にならず・誹謗中傷にならずに説得出来たら素晴らしいと思います。
もしかすると、第九の歌詞のすべてを理解なされないまま前御法主が判断されたということもあるかもしれませんから。
返信する
大反省。私の無配慮の至り。猊下様、御住職様、御宗門、k講頭夫人様、申し訳御座いませんでした。 (wainai123753)
2022-11-13 12:32:50
私は、今まで述べて来た、上記の既成の文章は、誤り、自身の過てる、狂った言説であったと、非常に悔やみ、懺悔滅罪を、昨日の夕べの早めの、自身にとり、早かった勤行での、自覚、深い悟りに似た、澄んだ心持ちからした、御祈りの行でありました。
何て、無様な事を言い、発し行ったのだろう、それも前御法主上人であろうとも、そんな大それた、怖れも多い、何と不躾であり、不遜、不逞であり、私は大謗法の一方の担ぎ手になってしまったのであろうかとの、大反省の、涙ながらの、落涙の、夕べの勤行となりました。
それからです。もう、その、第九とやらの、自縛がほどけ、己の執着心から解き放たれて、自由な境地を自覚致したのは、実に、その夕べの勤行が終わりを告げる時刻、その時間でありました。
私めは、大変な間違いを起こしてしまった、猊下様に、御宗門に、御住職様に、大変無礼を働いた、この無法者の、アウトロー、反社を気取った、羽織ゴロツキの、この私めを、是非ともお許しくださいませ、との、懺悔滅罪の大唱題となって、私の人生の汚点が、非常にクローズアップされ、御本尊様の御目の前で、私の涙は滂沱の如くに溢れ、只、申し訳ない、非常に悪う御座いました、もう二度と、かような罪業を積む真似は致さないよう、極力努力、精進を重ねて、私は生きて参ります、という、決意の唱題、勤行へと代わり、私は一切を終えて、今度は仏間から部屋を移り、PCに向かい、反省懺悔に基づく、この、上記、ブログ記事の訂正文を、キーを叩き直し、今までの文章記事は敢えてそっくり残しては置く、それだけは心残りですが、貴重な時間を割いて書いてある、貴重な文献文章ですから、自分の意見ですから、これは削れませんでした。
しかし、以下には、非常な、痛切な、私の反省文、痛み入る、御宗門、日顕前御法主上人猊下様、うちの菩提寺の御住職様、等々、それからK前講頭夫人様、と、色々と、私はこの文章群でも、問題をやらかして居る訳ですが、それら問題の提起した自分自身を、非常な思いで自身を省み、反省のよすがとして、思い直し、綴った文章が、それら、第九、ベートーベンの写真画像に打ち続く、私の反省文です。
この、前編だけではなく、後編までをも、読者の皆様には読んで頂かない事には、私の寄る辺、結論、結果、大団円、フィナーレを迎える事が出来ず、誠に私と致しましては、不満足、感情的にも、満たされない思いが多々、在るのであります。
であるからして、この、日顕猊下様の仰る、第九の、外道礼賛、の御言葉は、今は、私めは、真実だと思い致しまして、何一つ、御宗門には逆らう意など無い事を銘記致しまして、本日の私めの文章の掉尾を飾らせて頂きます。是にてキーを叩き終え、皆様への御報告、とさせて頂きます。
尚、本日は、当、日蓮正宗無量山寿海寺に於きましても、大事な一日、「御報恩御講」の大切な日、御住職様の御説法を聴く大事な日で御座いますので、うちの御住職様曰く、「仏法は聴く事に始まり、聴く事に終わる」と、御住職様も仏法を聴く事を、何を差し置いても大事と、甚深の御説法を為されて居ります故、これにて失礼仕ります。

以上。よしなに。wainai
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