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邪教・『神社神道』。御本「諸宗破折ガイド」・「日本の宗教の現状」からの破折・折伏

2022年11月11日 12時49分30秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
 如何に、「神社神道」が邪教であり、如何に邪義を立て、どんな邪説にまみれていて、狂った邪道邪法を説いているかについて、日蓮正宗宗務院、大日蓮出版発行の、「諸宗破折ガイド」と、昭和の頃の、正しい日蓮正宗信徒側だった頃の出版物、日蓮正宗創価学会「日本の宗教の現状」から紹介をし、その、謗法まみれの、「神社神道」の邪教の邪悪極悪の実態を明らかにし、ここに、破折・折伏を試みる事にする。
 日蓮大聖人様の大仏法、日蓮正宗総本山富士大石寺の御教えこそが、真実最高の深い御教えなのである。

 [破折]
 [神社神道信仰]
※「自然神」
 自然界の諸現象に対して古代の人々が、畏敬と恐怖の念から想像力を巧みにし、勝手に生み出したところの自然神や生活神は、単なる観念的なものでしかない。このような架空の神には、真に人々の生活を護ってくれる力はないのである。
※「神話神」
 神話では、淡路島をはじめ四国・隠岐・九州・佐渡・本州などが「国造り」されたとするが、北海道・沖縄については論究されておらず、ましてや他の大陸については一切述べられていない、実に偏狭な教えである。
 また、神話による日本の神々には、古代人の観念から生じた根拠のない「創造神」をはじめ、怒りや怨み等による「タタリ神」(祟り神の雷神が雷除けの菅公(かんこう)として学問の神・天神信仰に昇華し、祟り神の金神(こんじん)が後に救済神として変化し、疫病神の牛頭天王が祇園社に祭祀されるなど)、または感情的になって権力や武力で相手を押さえつける「神」(暴虐の限りを尽くす須佐之男命)、さらには相手を裏切って得意然としている「神」(兄弟で争う海幸彦と山幸彦)など、煩悩に振り回される神々が多く存在して居り、それらを信仰の対象としても真の救いにはならない。
※「人物神」
 歴史上で功績のあった人を人物神へと昇格させ、崇めているが、その神とされる人物自身が、実際には自己の煩悩さえも解決できない一介の凡夫であることを知るべきである。
 歴史上の人物の功績が尊敬に値するとしても、それをもって直ちに人々の願いを叶えてくれる力があるなどと考えることは、誤りである。
※「仏教で説く神」
 仏教で説く神は、真に人類を守護してくれる力を有し、国境を越えたあらゆる民族とも融和する寛容性と普遍性を持って居る。その仏教を日本民族は受け入れて、既成宗教であった「神道」と融合し、国家の安泰をはかっていったのである。
 仏典では日天・月天をはじめ梵天・帝釈天など多くの神を明かされているが、個々の神を拝む対象として説かれてはいない。
 『法華経』安楽行品には、
 「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」(法華経三九六)
と、また陀羅尼品にも、
 「法華経を読誦し、受持せん者を擁護して、其の衰患(すいげん)を除かんと欲す」(開結五七九)
と、諸天の神々は常に正法である法華経と、その行者を守護することを明かされている。
 このように仏教では、仏と神の関係を仏(正法)が主で、神を従として正しく説いている。にも関わらず、従としての神のみを信仰することは本末転倒であり、なんら利益にもつながらない。
 尚、日蓮大聖人は、『立正安国論』に、
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書二三四)
と説かれ、法味に飢えた神は天上界に帰ってしまい、神社には悪鬼・魔神が棲み、災難を起こす元凶となっていると、仏法の道理を示されている。
 したがって神社信仰は、多くの災厄をもたらす結果となるのである。
(以上。「諸宗破折ガイド」日蓮正宗宗務院・大日蓮出版)

 [神社信仰]
一、神社に神が住していると思っていたとすれば、とんだ間違いです。また、神社から買ってきたお札や、お守りには神は居ず、それどころか悪鬼の棲家となっているのです。
一、なぜ神は棲まず、悪鬼が住しているか、そのわけを話すまえに、神について考えましょう。いわゆる「神」といっても種々様々ですが、大きく分けると①天地創造の神(キリスト教の神など)、②先祖や偉人を神にしたもの(日本の氏神など)、③仏教上の神(梵天・帝釈などの諸天善神)の三つに分けられます(その他、自然力、動物、物質を神とあがめるものがあるが、ここでは省いておきます)。
 ①はつまるところ人間の想像上の産物であることはいうまでもないとして、③は、正法を持つ人を守護する働きをもつものです。日本の神社の大多数は②の神に当たるといってよいでしょう。先祖や偉人を偲び、「敬う」のは人間の自然な心情でしょう。ーこれは道徳の範疇です。しかし、「拝む」となると、問題は別です。-これは宗教の次元のものであり、両者には全くその性質を異にするのです。
一、日蓮大聖人は「立正安国論」を著されて、誤った宗教がはびこり、人々が正しい仏法を捨ててかえりみないときには、諸天善神は国を捨て去り、そのかわりに悪鬼・魔神が住みついて不幸をもたらす、と叫ばれています。
一、第二次世界大戦で日本は国を挙げて天照大神を奉じ、また、人々も神社で武運長久を祈りましたが、日本は戦いに敗れ、数百万の戦死者を出して焼土となってしまいました。これは神が日本にいなかった証拠ではないでしょうか。
一、牧口初代会長はよく「神札と神とは違う。家々で神札をまつっているが、クモの巣がかかったり、ネズミの小便で地図ができていたり、古い神札の上に次の神札を重ねてはって平気でいる人がたくさんいる。もし真実の神であったら、失礼であり、不敬の限りである。もし神でないのであれば、はじめからまつる必要はない」と話していました。
一、私たちは、人々を守る仏法上の神の働きを否定しているのではありません。俗に「正直の頭(こうべ)に神宿る」といわれていますが、依用していうなら、「正直の頭」とは正しい仏法を信ずる人という意味であり、私たちが正法を信ずれば神も喜んで守ってくれるのです。毎日の朝の勤行の時、諸天善神に法味をおくっている私たちこそ、神を正しく尊敬しているのです。
(「日本の宗教の現状」日蓮正宗創価学会男子部教学室編)

 これら、書物、著作に触れ、神社神道の誤り、間違い、誤謬がお分かりになられたものと思い致す。
 それにしても、この、創価の過去の昭和の出版物の方が、現在の宗門憎しの狂える創価を指導するに余りある、最適最高な教えが説かれているのには驚きである。
 いずれにしても、神社神道が、過てる信仰、邪義に過ぎない事が、手に取るように判る論説著作文である。
 以上。よしなに。wainai


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1 コメント

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諸天善神 (wainai123753)
2022-11-12 09:48:52
https://blog.goo.ne.jp/igeasd701107/e/fcf84804fd3cb276851e7e230ac52610

「諸天善神ーしあわせブログ!」という、
私が懇意にして居るブログに、
この日の私のブログ記事以上の、
「諸天善神」についての事細かな詳細が載った記事が、
正に、それこそ、詳しく載っている。
皆さん、そちらもご参考にして下さい。
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