Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

格調高く美しい日蓮正宗の祈り

2017年09月07日 20時38分39秒 | 邪宗教キリスト教一神教・邪教占い・統一教会・神社神道・新興宗教・神様系・等々邪教
日蓮正宗のお祈りは、格式のある、美しい祈り・勤行だ。お寺の境内の中も外も、非常に荘厳で、美しい。信徒の各家庭のお仏壇周りも、皆洗練された美の極致がある。皆、格式に則って一定の規律の元にすべて揃え、整えている。そのしきたりに従った形式美は目を見張る。
 こういうのを、キリスト教の信者の人は大層嫌う。曰く、偶像崇拝だ、と。
 しかし、日蓮正宗の御本尊様は、書かれた御文字を拝むのであり、偶像崇拝とも違う。この点、字のみを拝む一神教のイスラム教に類似しているかも知れない。
 キリスト教なんて、偶像崇拝はするな、と言ったって、実際は偶像の十字架を拝むし、十字架を偶像じゃないとは言わせない。カトリックなんて、そのままそっくりキリスト像やマリア像を拝むし、ロシア正教・ギリシア正教の東方正教会なんて、イコンと呼ばれるキリスト絵画を拝む、いずれもれっきとした偶像崇拝者たちだ。イスラム教が厳格な意味で本当の偶像を拝まぬ宗教かも知れないが、あの金襴豪華なモスクの建物、メッカの神殿すら偶像と言えば偶像であり、本当のところはどうなのか。
 そもそも、一神教にしても、神を立てる宗教は、神様を立てた瞬間から間違い、矛盾点が噴き出し、すべてのでたらめな教義が出来上がってしまう。じゃあ、その神は、それ以前はどこで何を為さっていたのですか、神が原因の結果ならば、因果関係から、神を作った者、神の神も存在する筈であり、その神はどこで何をしていたのか、神は一人なのが一神教ならば、神は何人もいた事になるのか。
 この点が甚だ疑問であり、今日の一神教・キリスト教神学は何も教えてくれない。ただ、ある時から神はいて、この世を五、六千年前に七日で作ったとのたまう、情けない教学しか提供していない。恐ろしく低劣で邪まで矛盾だらけの、イエス、マホメットの邪師による、邪悪邪義邪道邪説邪教に他ならない。
 こんな低級な邪教がこの世で公然と流布して世界中に広まっている。ホーキング博士の話の本によると、直接、ホーキング博士の所にローマ教皇が電話を掛けて来て、今、お前が行おうとしている研究は非常にカトリック、乃至(ないし)、キリスト教にとっては不味い。キリスト教が立ち行くか立ち行かなくなるかの瀬戸際で、非常に困るからこれ以上宇宙の研究はしないでくれ、と泣き言とも圧力とも知れぬ情けない窮状を訴えて来たと言う。
 情けない。これが、今、世界何十億人を抱えるキリスト信者を抱え束ねる教祖の長の姿とは、笑うに笑えない、バカバカしさを感ずる。要するに、キリスト教は、ガリレオガリレイの時代から、科学に背き、科学に矛盾するそのおかしな教義を改められずに、聖書にこだわり、自分を否定するしかない運命なのだ。
 キリスト教の祈り-どうでもいい、叶わぬ祈りだから、私などは、自分がキリストを信仰していた時は、一か月祈らないなんてのはザラ。→効き目のない祈り。
 日蓮正宗の勤行・お祈りは、毎朝毎晩習慣づけてお祈りするので、一日、否、朝でも晩でも、一回欠かすだけで、何か足りないような、不足している、何か諸天善神に守られていないような不安感があり、必ずお仏壇の御本尊様の前に座り、必ず一日に二回、朝夕、時には唱題行をして、お寺に参詣して日がな夕がな、毎日、合掌端座し、毎朝毎夕のお勤めの日課となっている。キリスト教のように、なまくら信心ではない。
 だから、どっちがいいって、今の私も、将来にわたって、絶対に日蓮正宗の御教えの方が断然良い。これは断言できる。創価学会の信心なんてのは、あれは怠け者の、気だるい、なまくら信心だ。あんなんで満足するようじゃ駄目だねえ。
 ちゃんと五座三座の勤行唱題の仕来りに従い則った、正しい信心・正しい御本尊様への信頼があって、初めて安心立命出来る。この点が、非常に重要な一点だ。大宗教哲学の、今日のポイントである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。