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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

母の出身母校、東京都立戸山高校。(※後日、記事付け足し、画像付き、私なりの、自身の、高校受験に於ける感慨含む。)

2022年10月13日 15時59分43秒 | 学校・教育への提言特集、注文・学校・恩師への感謝・学生生徒時代の想い出
 母の出身校は、東京新宿にある、東京都立戸山高等学校である。
 これも、先に書いた私の出身校、安積高校同様、難読文字、難読地名高校である。
 何より、「とやま」という響きが、何故か、富山県の「とやま」と近く同じく、東京都出身者以外には、全く知られていない。これも無名校、難読高校である。
 しかし、聴く人よ、驚く事なかれ。この、東京都立戸山高校は、凄い高校なのである。
 東京都の人は、大体は話が分かる。「戸山、へえ、すごいねえ」と。
 この戸山高校は、昔の都立高校の中でも、当時、御三家、三大都立と呼ばれ、それが、「日比谷」「戸山」「西」の三高校の一角を占め、遠距離入学、越境入学して、日本全国から受験生が押し寄せ押しかけて来ていた時代があった。
 戦前戦中の、昔の戸山高校は、確か府立四中であり、これが新宿区の大都会に占める、昔から難関進学校だった。
 その卒業生は、陸軍大臣、後の首相を務めた東条英樹など、大秀才、天才ばかりを生み出し、世界の中で活動する者も数多く、各界で広く活躍した。
 母は今、八十台だが、その頃の戸山は、最も難関を極めた、極めて入りにくい、それも母は女子であり、元々戸山は私の母校安積と同じ男子高であり、戦後、特別に、母の時代から、女子も入学を許された。
 母は、その女子入学が許されてから、日もまだ浅い、周りは男子ばかりの、その頃の共学校としては、女子などは、高校も行く人もかなり少ない、男子がかなり幅を利かせていた。
 そこを割って入った母はすごいと言える。そこで、母は、成績は常に優秀であり、クラスメイトからは、母が「お茶の水女子大」を目指していた事などから、母のあだ名が「お湯の水」という名前だったそうな。
 しかし、母の実家の、弁護士一家の母の父、私の祖父が、祖母、私のおばあちゃんを嫌になり追い出し、後家、後妻(ごさい)をもらった。
 その後妻に、母はいじめ抜かれ、まるで、童話の「シンデレラ」の如く、いじめられっ放しの、何も反抗できぬ、自身の高校時代を苦悶苦労の内に過ごした。その心労は、如何ばかりであったろう。
 結局、大学にはゆかず、弁護士の自身の父の家の下を、母愛用の算盤と家の自分名義の印鑑だけを持ち出し逃げ出し、おばあちゃんの家に隠れ逃げ込み、おばあちゃんの経営する看護婦事務所を手伝い母は平安に過ごした。
 (後に、母の父の兄から、その時の母の勇気と、算盤と印鑑だけを持ち出し逃げた事実を聞いた祖父の兄は、高く母を評価した。その忠光伯父さんも、私の祖父と同じ、皆弁護士一家の、そもそも弁護士の祖父の兄弟だった)。
 後に各種学校を自身のアルバイト、会社員事務員で稼いだお金で学び卒業し、全く畑違いの、マックス美容学校卒業後(美容化粧品メーカー、マックスファクターが経営する美容学校)、国家資格の美容師免許を、神奈川県の県知事名にて、昭和の頃、母名義で拝命された賞状証書が額縁入りで、まだうちにはある。
 とにかく、母は苦労人である。その苦労が、今の母からは全然感じられないのが不思議である。年を重ね、角が取れて来たのかは、私自身、全く分からず、私は論を譲りたいと思う。

 以上。

(続き。―その後の、真相。母の真実の御話。美容学校卒業。国家資格の美容師免許取得。美容店経営、父との出会い、私の誕生、他、についての御話。)
母の、第二第三の出身校、「マックス美容学校」の卒業証書の写真画像。皆、難しい英語で横文字でオシャレに書かれている。

その後、母は、今言った、神奈川県の美容師免許を取る。

一般にその当時は、関東地方首都、東京都の美容師免許試験は、オーソドックスと言うか、基本に忠実な、言わば簡単な、誰でも受かる様な、受け甲斐の無い、美容免許であった。

それを嫌った母は、わざわざ応用力・職人技を試され、試験も難関を極めていた、受かる人も本当に少ない、「神奈川県美容師免許」を、難しい美容師試験を受けた。何故かこの当時、神奈川は、非常に試験が難しかった。

 ※話の、中断。閑話休題。それはさておき。私自身の事共。
 同じく、試験の話。神奈川と福島の違い、等。

 とにかく、神奈川県の試験制度は、受験生泣かせばかりである。私も、自身が高校受験生時代、神奈川の受験制度で、実際に大変だな、と思ったのは、神奈川の高校受験は、悪名高い「アチーブメントテスト」と言うのがあった。
 それは、中学時代の、言わば内申点の、試験版というのか、中学時代の早期か中期か後期か、忘れたが、とにかく、中学の時代に、高校受験の大半の大勢が決まる。

 極めて複雑で、受験生泣かせの、独自システムを誇って(?)いた。
 それであったら、そんな試験制度ならば、私の様な、中学二年から、猛烈に勉強に血道を上げるようになった者共、途中から、優等生になった私の様な者は行き場が無い。(かなり、神奈川県でも、そんな例は考慮に入れずに、珍しい、考慮には入れられない、私は生徒扱いなんだろう)

 だから、神奈川では、私の様な、中途で成績が上がったもの向けの私立高校、桐蔭学園高校や、フェリス女学院、他、多数の、私立進学校、県立じゃなく、私立高校が隆盛を極めたのではないか、と私は個人的には思う。
 そのアチーブ何とかが悪い原因となって。神奈川はやり方がバカだ。

 私は、神奈川県の地域では、箸にも棒にも掛からぬ、どこの進学校にも行けない、最悪、最底辺校に行く他無かったのではないか。と、私は、一応、神奈川出身者ではあったので、首一枚、繋がり、福島県に居るお陰様で、福島県、様様であり、何とも、福島県立安積高校などと言う、およそ、一流校(自分で言うのも誠に不遜、不躾で済みません)に入学できたんだなあ、と、ラッキーだったと、住む地域で大分、人生が変わる。

 逆に、底辺校に行ったとしたら、今よりも私自身、人並みに、もっと幸せだったんじゃないのか。この辺のさじ加減が今の私にはさっぱり判らない。

 こんなに日頃から、進学校の高校に行ったお陰で、その後の人生が、良く変わったのか、悪く変わったのか、さっぱり判らない。

 私は、余計な事、複雑に物事を、心配し過ぎたり、考えすぎたり、思い過ぎたりしなくて、良かったのに、と、自身、思う所が多々、ある。

 人生は、誰が、何が、どこで、どこに住む地域かでも、どう変わるか、そこの、(試験制度でも、の)決まり次第、人物評価の仕方次第で、で人生も、大きく代わってくると深く自分自身、思っている昨今。

話しは、また、元に戻る。母の話の、続き。

母もくせ者、へそ曲がりであり、これは、父、母、私、の三人にとっても共通した性格・性質である。

試験会場は、横浜市の開港記念館(確か。これも、今、母に聞かないと判らないが)。

見事、昭和四十五年六月二十九日、神奈川県知事・津田文吾、名にて、一発で受かり、美容師免許状を、拝命頂いた。

他にも、(群馬県)、確か栃木県と茨城県も受け、皆、美容師免許を受かったか、これも母に聞かないと分からないが、とにかく、その当時、(群馬か)栃木も茨城も行ったとは聞き、言っていた。

その後、新宿駅前にて、自分の美容店を出し、美容師として何人も美容師を他にも雇い、美容店経営者となるが、父と巡り合い、結婚。その後は、私が生まれてしまい、私の子育てに追われ、母が二度と、美容師を務めた事は、神奈川県足柄上郡開成町の、近所の美容店で、雇われたとか雇われないとか、噂の域を出ず、多分やってはおらず。うちの母が今、施設にいるので(コロナ禍でもあり)、聞かないとこれも判らず、真相は闇の中で、読者の方々に、真実を申せなくて、誠に申し訳ない限りであるが、話はこれにて、惜しい所だが、お開きとする。長文失礼。

以上。よしなに。wainai

私の出身母校、福島県立安積高校。

2022年10月13日 15時16分28秒 | 学校・教育への提言特集、注文・学校・恩師への感謝・学生生徒時代の想い出
 私の出身校、最初に郡山市立大槻中学校から合格して入学した高校は、福島県の中央、郡山市にある、福島県立安積高等学校だ。
 これが、県外の人には、全くの不人気高校、無名高校なのである。
 まず、「安積」。この字が全く読めない。難読文字、難読地名が、我が母校の、正に宿命の学校の名前なのである。
 これは「あさか」と呼び、読む。地元では、誰でも難なく読めるが、一歩市外、県外に出ると、全くの無名校と化す。これが、非常に悲しい。
 これでも、地元では超有名校であり、超難関、最難関、高偏差値の学校として、(地元では)畏れられ、大いに知られている。これを郡山市の受験界で知らないのは、もぐりか何かかと。
 常に、中学校、中学生の高校受験生たちには、上を目指す人たちには大いに憧れの的であり、行きたくても、中々行けない学校(自分でいうのも、不遜不躾だが)。
 そこの我が高校に行った人(合格した人)は、いけなかった人(不合格者)に、その人自身の行けなかった後悔を以て常に羨ましがられ、嫉妬され恨まれる存在。
 それも、我が高は、歴史が福島県で一番古い高校。福高や磐高や会高や、ちょっと落ちるが、白高などにも負けない。とにかく歴史が一番古い学校高校。
 そして、私らの時代の安高(あんこう)は、とにかく男臭い、そもそもが男子高である。
 何と言っても、その校風が「バンカラ」という、無頼というか、男気の気風(きっぷ)の良さ、男性特有の、だらしない感じも合わせ持ちつつ、いわば、硬派であり、細かい事など全然気にしない、女など決して近づけない「女人禁制」の世界、「男」だけの世界。
 男同士で何でも判るという、今でいう(昔でいう)早稲田や明治、法政、中央も?、旧制中学、高校の校風が残り物語る、皆の憧れ、「男の学校」、「安積高校」「安高」なのである。
 何と、十数年前までは、安積の校風のバンカラらしく、手ぬぐいを腰に巻き、高下駄で安高まで通った先輩方が数多く一杯居て、その時、福島交通バス車内にて、あいにく、同じ車内の乗合客の足を安高生の先輩の高下駄が、運悪く踏んでしまった。
 その結果、何十年、百年近く続いた高下駄の足音高い、香り立つような下駄の音、下駄を登下校で履く事は全て、深い先輩たちの反省の下、学校の決まり事として、御開き、御仕舞、御禁制となり、全面禁止となった。
 この学校の歴史、文化、伝統は、一言では言えない程である。

 以上。よしなに。wainai.

安倍元首相から、共産党について、立花隆氏について

2022年10月08日 20時24分00秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
安倍元首相に、選挙協力上、元首相自身が、軽くカルトの統一教会に、選挙運動を頼んでしまった負い目。それは実に、祖父の岸信介首相にまで遡り、その関係は、祖父、父、息子、と、この政治家一家に巣食い、派閥清和会、の各議員も、その悪徳邪教教団の息が掛かり、今の自民党の現状、課題がある。
 安倍首相自身は、それら邪教団から、選挙応援される御返し、人の礼儀礼節を重んじる仁義から、それら邪教団に向け、応援スピーチを行う。
 これは、今では非常に危険な賭けであり、今では安倍首相の人としての振る舞いとして地に落ちた、と巷の人々に誤解を与え続けている。


 しかし、安倍首相とて、人の子である。人から、特に、自身の、当時は野党の、巨大になりつつあった恐怖の民主党に対し、立ち向かい、自民党政権の存続を掛けて、闘い続けるには、それこそ、公明党つまり、邪教創価のその当時は巨大に見えた票の誘惑は当然あったろうし、選挙を真面目に政治には特にはそれ程口出しせず手伝ってくれる、それも無償のおうえんをしてくれる、邪教元統一教会の援助は、邪教同士だが、それらが誠に、自民党にとっては、正に「麻薬」「薬物依存」の状態に導き、今に至る結果となっている。
 特に戦後は、日本国家にとっては、国内には戦後体制では与野党二分化が図られそれが深刻な対立をもたらし、野党勢力の日本社会党、日本共産党、が代表的左翼、極左、民社党が右寄り野党、どっちもつかずのコウモリ党の公明党がその中道勢力と称して、与党に付いたり、野党に付いたりはっきり立場が判らず、与党勢力の一人の自由民主党と常に激しい対立を繰り広げておった。
 国外、世界に目を移すと、日本の周りには、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)や中国(中華人民共和国)、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の共産主義国家、反自由主義、反民主主義、反資本主義の国家ばかりが日本の周りを取り囲まれている。
 ほとんど日本はこれら、異常な共産国家群との対立、アメリカ合衆国による、日本国がこれら共産圏との、対立の最前線、冷戦の橋頭堡、当時中曽根首相に依れば、日本がこれら共産国に負けぬ「不沈空母」の役目を果たす、との決意で、当時から、アメリカ指導の元、日本の政治家たちは皆、共産主義に怖れを抱き、これを憎み、これに勝利を誓い、米ソ核戦争の怖れのあったキューバ危機、その後、何十年何年かして、「デタント(緊張緩和)」等を経て、九十年代の、ソ連を中心とした共産主義国家群の、主に東欧の、共産主義国家の崩壊、壊滅、瓦解が起こった。
 統一教会は「国際勝共連合」という反共団体を、戦後作り、日本の政治家にもラブコールアピール、協調、強調、懇意になった政治家とは昵懇の仲となり、蜜月関係に会った事は、余りその当時の日本の民衆の大勢の人は、あまり知る人もいなかった。
 私は、父が取っていた共産党機関紙「赤旗」により、昭和の頃から、その当時私は中学・高校時代だったが、それら「勝共連合」の文言は、日本共産党に敵対する組織団体として、私はその時から、知識の一つとして当然あり、それらは、高校時代、朝日新聞社記者の、「本多勝一」氏の著作でも、それら団体の危険性が説かれ、貪るようにそれらを読んだ。
 私は新さくら通りとさくら通りと東西に一つになり結び、そこをおよそ南北に交差する、国道49線上の通りにあった、今はなき本屋、「岩瀬書店」に高校時代大変「立ち読み」では大変お世話になり、何度かに一度は実際、本を実費にて、購入していた。が、ほとんど、恥ずかしながら、「立ち読み」が主だった。
 そこにて、「本多」氏の主張、それまでは、日本共産党びいきの面が目立ち、その主張に飾られていたが、その昭和のある頃に、或る本が発行、発売された。
 それに本多氏も、その論説の明快、論理の運びの無理のなさ、その道理を尽くした説得力に、本多氏は自分の共産党びいきを、一時的にもずっとにしても何にしろ、止めた。そして、後に、あの、立花隆氏と共同で論じ、本を発表している文章を、私はその頃、本屋の立ち読みにて、読んでいる。
 それが「立花隆」先生の名著、名作、「日本共産党の研究」という著作、本だった。
 私はそのタイトルを、そこの岩瀬書店で目にして、きっと、共産党の、良い、むしろ応援してくれている、立花隆氏の主張、論説を覗いてみようと、その本を立ち読みしようと本を書棚から取り出し、本の表紙をめくった。


 何とそこには、日本共産党の、論説的な、論文的な、極めて論理的で、道理も通った、おそらくこの本、確か三冊分の厚い分量の書籍だったが、この著作が出来上がるまでには、もっと多くの資料、参考図書、参考文献等々を、この著者「立花」氏は読み込んで、論理を進めて書いているんだな、と、その論理構成から言って、私の、長い私の幼少の頃、父から受けた共産党教育、赤旗閲覧人生の全てを打ち抜き、砕き切る、全く粉砕する、その本は、ただの共産党批判本じゃない、ただならぬものを感じた。
 私は、ものの数ページ、最初から、ページを繰ってゆくたびに、日本共産党の、誤り、間違い、私自身の、今まで父に叩き込まれて来た、共産党の御教えの全てが嘘と分かった自身感じた共産党の「敗北感」を、やはりその場でその本を立ち読みしたのが、私の高2の時の、夏か秋か冬か、詳しくは覚えていないが、そこから西の地方の、大分距離がある自宅まで帰る道すがら、共産党は、機関紙赤旗には全く書いてない事が、あの本には、恐らく真実として書かれていた。
 
私のその当時の幼い、父は昭和の高等小学校卒で学歴低く、自身の、交通事故の裁判となり、被害者として、私達が当時住んでいた神奈川県川崎市の川崎法律事務所を自身の裁判の弁護人として選んだ。
 横浜法律事務所もオウム関係で、その事務所の弁護士と家族がオウムに殺害されたが、その、横浜・川崎両事務所は姉妹事務所であり、困った人を助けてくれる駆け込み寺としての需要が地元でもあり、やはり、それらは、共産党系列の弁護士事務所だった。
 それまでの父は、福島時代から、自民党が割と多く一票を入れていたが、この時の、共産党弁護士に自分の交通事故の裁判を手伝って頂き、勝訴まで勝ち取れた時、父の思想信条は一変し、第一に、日本共産党を支持しだした。
 党員も務めた。赤旗は日曜版のみならず、日刊紙まで取った。朝日新聞などの、日刊紙並みの一か月の新聞代料金だったと思う。
 うちでは、当時関東、東京に近い、大規模な「赤旗まつり」の会場まで、川崎から東京西部につながる「南武線」で初めて私達親子は参加もし、いい思い出も出来た。
 それら、共産党の、我が家での長年の歴史、みおしえ、風雪を忍ぶ、それら全てが綺麗事絵空事、虚妄まみれの、全てが立花隆先生のあの本には、圧倒的な事実、道理、論理で自明の如く、その論説がむしろ読んでいる私の目を開かせ、むしろその論理の運びは極めて明快軽快、さすが二回も東京大学に学び、二回とも違う学部で、氏は卒業を為された方だと、「立花隆」氏をその頃から共産党の存在など忘れ果て、その理知的な思考に威儀を正し、敬服尊敬しだした。 
 立花氏は、その強力な論陣を張り、その強固な論理性に裏打ちされた論文調の文章に私はまずは圧倒され、一縷の望みの如く個人的に信じ始めた。この本は、未だ個人的に購入した事が一度も無く、私はこの時の49線通りに昔あった、岩瀬書店での立ち読みでしかその本を何回かを読んだ事がないんだが、本当に本屋さんには全く購入せず、全く失礼な話なんだが、大体の本の要旨、論旨、最後の方まで私は何日かに分けて立ち読みし(本屋さん、立ち読み御免)、固く軽く私を粉砕した。
 この本の影響力たるや、将来選挙の年齢が来たら、共産党に入れろ、と父にしつこく言われていたが、これを裏切り、自身の思想信条を後に代える結果を私にもたらした。
 この本を最初に立ち読みした日、とっても印象に残ったので、そのタイトル題名共々、本屋から夜遅く帰り、通りは真っ暗で、うちに帰ると、身体障碍者の父はとっくに眠っていた。
 そこで、食器の後片付けをしていた、母に、私が、今日読んだ本、立花隆著「日本共産党の研究」という本を、悪いんだけども、買わずに、その本は文庫本だが、結構一冊が当時高校生の私にも結構高く、高校生の小遣いじゃ買えずに、立ち読みして帰った。その本屋、岩瀬書店だと言う事も包み隠さず、母に言った。
 すると、母は、あんな、49線の方の本屋まで、学校帰りに寄って、行ってたら、そしてまして長時間、立ち読みじゃ、当然、こんなに遅くなるわね、と意義深く言い、


(母が言う)
 「実はね、私は、おばあちゃん(母の母、つまり私・孫の祖母)がまだ東京の江古田で看護婦事務所を経営していた頃、そこからどこの病院だったか、鉄道病院だったか警察病院だったか、どこの病院にも限らず、良く色んな人の付き人看護婦、付き添い看護をしていた事があったのよ。
 その時に、今言った、その当時から新聞雑誌で有名だった「立花」さんがどこか具わい悪くなって、立花さんの担当看護婦となって、あの当時、貴方のおばあちゃんは「立花さん、立花さん」って、それは大事に看病していたわ。
 それで、これは余計だったと思うんだけど、おばあちゃんたら、私の経歴、学歴、職歴、趣味歴、たしなんだ趣味なんかもまとめて私に内緒で書いちゃって、私のいない内に、勝手に私を写真付きだったか忘れたけれども、当時の立花さんが独身だと聞いたおばあちゃんが話を聞き付けて、一人で私のその経歴書を立花さんに出しちゃったのよ。私は後でそれ聞いて、恥ずかしいやら、情けないやら。そういうのって、おばあちゃんがやりそうな事なのよ。恥ずかしいわ。」


(息子の私、wainai.)
 「それでその後、どうなったの、その縁談話?」
と訊くと母は、


(母曰く)
 「知らないわよ。話が無いって事は、なんにも縁がなかったんでしょ。おばあちゃんも、いつも勝手なことして、困ったものだわ。私が三十過ぎても、まだ嫁にもいかなかったのが、悪いんだけれども、ねえ。


 それより、その、立花隆の、本って、共産党が何とかって言ってたけど、どんなことが書いてあるの?」


(私、語る)
 「それが、内容が、極めて論理的論文的に構成されているのが、第一ページ目を読んだだけでも、凄く伝わってくるんだ。
 そして、驚いたのが、赤旗等では、偉人、共産党初期の頃の創設者の、宮本顕治議長委員長が、実は、立花さんの論説、資料の読み込みから当時の、官憲、特高に宮本が捕まるんだけども、その嫌疑が、共産党は、ソ連共産党の一支部として、日本に当初作られたみたいなんだけど、その時、実に宮本は、東大卒で皆東大生が仲間なんだけど、その仲間の内の、気に入らない人間を、内ゲバで、凶器は何かはその本が手元にないから忘れちゃったけど、とにかく、内ゲバで殺したんだ。
 最近、何か、自民党の浜田幸一さんが『宮沢賢治君は、人殺しだ(わざと洒落で、浜田氏はウィットで、共産党委員長宮本顕治を名指しで呼ぶのを止め、文学者詩人の宮沢賢治と、名前の言葉を代え、選び慎重に名誉棄損にならないようそう言っている)』と言っていて、共産党が猛批判で反対決議してたけど、あの意味が立花隆著「日本共産党の研究」で僕はその浜田さんの言ってる意味が、今更ながら、判った気がしたよ。
 私はうちで、赤旗とは別に、「朝日新聞」や時々安い地方紙「福島民報」などのお父さんとは違う新聞も、別に私は一人っ子だからか家では大事にされてて、取ってもらってるんだけども、あの「赤旗」は、非常に偏り、危険と言うか、私は今日、あの立花さんの本を読む限りは、気を付けて読む、若しくは、お母さんも僕も、全く読まない、共産党のおとうさんだけが一人読む、それぐらいでいいと思うんだ。
 その宮本のリンチで結局、仲間の東大生の当時、戦前戦中の軍国主義の日本では、宮本は牢屋に入れられて特高警察に逮捕投獄されて、当時の思想犯、不敬罪だか何かの罪により、思想的に共産主義は間違ってて、当時の日本は、大日本帝国、明治憲法下で、その後の軍部の台頭によって、思想の自由は余りなかったんだけれども、それでも共産党は、ソ連の支部の一団体の組織として、官憲に目を非常に付けられていたんだ。
 やはり、やばいよねえ。当時の日本の仮想敵国の、日本の北方を陣取る、ユーラシア大陸をまたにかけた、西洋ヨーロッパから、東洋の太平洋にある、この日本の北、当時千島列島や樺太半島は日本の領土だったけど、ソ連も日本のそれら領土は狙ってたからねえ。実際、軍部、日本の特高、警察機構が、幾らその当時軍国主義だったとしても、日本を狙う、ソ連の支部が、今のあの、赤旗とかを発行してる、日本共産党だという、その立花さんの本は、いろんな、共産党の矛盾が一杯書かれていて、今晩は、とってもべんきょうになったよ。
 そしてねえ、その宮本なんだけど、今の宮本は、日共ではそれはそれは大事に持ち上げられていて、現役の不破哲三委員長も脇に追いやられる程だけど、その宮本は、何かは判らないんだけれども、嫌疑不十分で、確か不起訴になって、出獄、獄中を出るんだ。何かは知らないけど、私もその本急いで読んで出て来たんで、理由は分からないんだけども、私の推理だと、今の共産党はそういう事は嫌でも正義感を貫いて批判追及するけど、その本の論にしたがうと、おそらく、宮本は、何か、賄賂、か何かは判らないが、金品を官憲に情けなくも差し出して、牢を出たのかもねえ。
 まだあの本、読み終わってないから、時間があったら、又、あの本「立花隆」著作「日本共産党の研究」全三巻全部読むのは無理だし、あの本屋さんに大変申し訳ないから、でも又読みたいなあ。」


(母が言う)
 「今日は、それだけ読んできたんだから、大したものよ。そんなに大事に、そんなに読みたい本ならば、買いなさい。買ってもいいわよ」


(私が言う)
 「それは有難いんだけども、うちには、あの判らず屋の、共産党の権化のような、お父さん、本当にあの人は、共産党が好きだから、パパに見つかったら、何言われ、どこに追い出されるか判ったもんじゃないから、遠慮しとくよ。本屋さんには悪いけど、あの本があの書棚にある限り、出来るだけ、立ち読みをして読みたい。
 他にも買いたい本があって、最近出た、「大辞林」っていう辞書が気にはなってるんだ。うちには「広辞苑」がそもそも最初からないけど「広辞林」というまがい物の辞書がうちにはある。
 しかし、その、「大辞林」はその「林」シリーズの出版社、三省堂らしいんだけど、朝日にも広告が載ってて、全く、今までの辞書の概念を一新し、岩波の「広辞苑」にも勝負を掛けて来てるんだって。その価格が確か六千幾ら円の額のお金……。」


(母は言う)
 「あー、そんなお金、今の内には、大金で、今はとにかく無理。○○君(私の名前)、もう遅いから、早く寝なさい。明日も早いわよ。」


 この日は、父が早く寝てしまった為、こんな、共産党の父の家でも、私ら母子は、共産党批判、立花隆先生の著作の私の長話、母の立花氏の、おばあちゃんとの笑い話思い出話、等々、私はこの夜、七時頃前位に家に帰り着いたが、かなりヒートアップして、共産党の間違い、批判する人に、評論家、作家の先生、東大出身者の、頭の大変切れて、回転が速い、「立花隆」先生をこの日、立ち読み(笑い)だったが、その他、そこの書棚には「田中角栄研究」もあり、その場で少し、その本を立ち読みすると、何とその本は、田中角栄首相が、その時は汚職だと誰も気づかなったのが、立花氏の論及追及で、それが元で文芸春秋か文春か何かで、一国の首相の汚点、汚職が露見し、「ロッキード事件・疑獄」として、その後、マスコミを賑わし、立花隆氏は、立派にその時立ち居振る舞い、評論家・作家としてもその後マスコミ・文学界・評論家界でも、一、二を争う論者として大いに論陣を張り、その正確な論説論調、論文は、読者を一言の内に唸らせ、納得させた。
 後に、平成か令和年間、時代に、惜しまれながら亡くなった。
 彼の、立花隆先生のご冥福をお祈り申し上げます。誠に有難う御座いました。私は全生涯で、貴方の著作を、たしか「僕はこんな本を読んできた」という古本中古の本著作以外は、まるっきり購入してはいませんが、先生の御本は、とても胸に染み入り、私の、(ほとんどが立ち読みでしたが)お気に入りです。今度、財布に余裕がある時には、先生の著作を、私も大事に思い出したように、ひたぶるに読み込んでゆきたいと思っています。読書が楽しみで、本が大好きですが、何故か先生には、私は尊敬していて、大変敬服して居りますが、機会、縁がないのがなんなのか、自分でも判り兼ねます。
 大変失礼して居ります。いつかこそは、先生の本著作、必ず手に入れます。よろしくお願いいたします。読んだ暁には、このブログは私の書評感想文ブログとも化していますので、いつとは言い切れませんが、いつかは、としか…。
 立花隆先生の本、著作、ネットでの過去の発信等々、見つけ次第、私の胸に刻み付け、私の試作のよすが、思考のタネ、思索の限界に立って、先生みたいに、カッコいい考え方、一流の人間、孔子の「君子」、仏陀釈尊・宗祖日蓮大聖人様の「慈悲・仏」を身に付けたく、個人的な私の思索、哲学的な師匠として、私はあなたを尊敬し、身に余る程、その思考方法を身に着け、体現できるよう、努力精進致します。
 立花隆先生へ。


以上。よしなに。wanai.より。恐々謹言。長文失礼。


このシリーズ、この文章の上の方で、その完成完結が謳われ、二重になるので、しつこいので、これにて、いよいよお開き、終わる。
つまりこの文は、二重構造かそこいらになっている。
読者の方々、最後まで御閲覧有難う御座いました。
(完)


 以上。よしなに。wainai.

自民党による「憲法改正」について。邪義を構える、邪教・統一教会、邪教邪政党・創価公明との決別を!

2022年10月08日 20時21分44秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 国を挙げて、先般の参議院選後、自民大勝の報せに、これら事件は、一石を投じ、自民党の勝利に同情票、有利に働くも、その後の自民党に対する野党を中心としたネガティブキャンペーンにより、最近の自民党、岸田首相等々への、風当り、支持率低下は目を覆う状況だ。
 しかし、この場において、私は正論と思しき言をのたまい、発言するが、今の状況は、悪神悪魔魔神と成り代わった、犯罪者、殺人者の、「山上」が全て招いた状況であり、この点にも、一時自民党にも反省の機会が与えられたが、統一教会問題が完全に除去、解決が図られた暁には、正常に国会が発動、動き出し、今の自民党の最大の党是「憲法改正」への大きな国民を巻き込んだ波の様なうねり動きが必ず起こる筈である。
 今は、自民党首脳による、統一教会問題への丁寧な反省、悔い改め、懺悔、再発防止が急がれる。
 そこで新興宗教カルト教団ついでに、カルト邪教創価学会が支持母体の、邪政治団体公明党との絶縁決別、絶対の確実な分離、独立、別の道を歩む、自由民主党は、票の魔力から解き放たれ、それら票の恐怖、票の応援、創価のしょぼい組織票(創価票など、年々票数を大幅に減少させ、教団内の少子高齢化、信者の減少に拍車がかかる状況を、今の公明程、自身の政党として、恐れ、怖がり、恐怖におののく状況が現在現代の今に訪れようとは、公明党としては、昭和平成以来、勝ち続けて来た実証を無きものにしかねない。)などに、自民党は、構っていては絶対にいけない。君子たるもの、公明と分かち絶縁するという、君子豹変す、の気概が絶対に必要。
 自身最大限に情けなく、辛く、その心の内を一度見ようものならば、彼ら公明は、焦り、苦しみ以外の選択肢もなく、今は植物人間の池田大作氏センセーも何一つ助言、助け、援助を受ける事は今では何一つ叶わない。
 選挙戦での議員幹部空威張り、選挙の時だけの互助会、年に一度の大金を払う財務、以上創価内部での話だが、そもそも、これら宗教と政治が一体化した、宗教政治が結託したこの形が、現創価公明の、偽らざる醜い姿である。
 現憲法下でさえも、「信教と政治は一体化、共同して、同じ権利を共同使用支配、国会で権威権力を振るってはならない(趣意)」と大いに現行憲法、敗戦後公布施行された日本国憲法は今も謳い、この創価公明の現在日本国で仮に許されている、本来ならば絶対に許されない振る舞いは「政教一致」の憲法違反の事実、この一点に、に日本国民の誰しもが突き当たらざるを得ない。
 憲法第二十条「信教の自由」の第一項「(略)如何なる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」に大いに違反し、憲法違反なのが明白であるのが、現公明党一派、その支持母体応援団体一新興宗教団体の邪教、宗教法人創価学会が、それら、現在問題の統一教会とも重なり、重大重要な、今の自民党のネック、しこり、懸念となっている。
 この、邪教創価=邪政治団体公明と、韓国系のキリスト教異端、是も邪教の元統一教会との、潔癖なる、決然とした、きっぱりはっきりさっぱりとした、決別、排撃、関係の終結終了を自由民主党は両者に申し出て、その後は一切関係を断ち、新たに改憲勢力、補完勢力に成り得る、日本維新の会、国民民主党との、新たな、フレンドリーシップ、友好関係を共々に結び合い、昭和憲法以来の懸念であった、新、自主憲法案の企画、立案、提出、発議、国会で審議、答弁等でこれら改憲勢力が作戦を十分に練り、晴れて国会議員の三分の二の賛成で衆参両院を令和の御代の新憲法が可決成立し、これを、国民投票法に依る国民の信託、国民投票にかけ、過半数、大多数の国民の賛成により、立派にこの大日本国に自主憲法、明治憲法、即ち、大日本国憲法以来の、自主独立の立派に整った、自民党の創立以来、悲願、大願、祈願の対象だった、昭和、第二次世界大戦・太平洋戦争、戦後初の自主憲法が、ここに初めて成立し成りあがる。
 今までの、GHQによる、占領憲法、アメリカ合衆国が主体となった、おかしな日本語文体の、英語米語翻訳調の狂った文章体の憲法は終わりを告げる。
 個人の基本的人権、信教の自由等を認めたのは少しは良かったが、全く自衛軍、正当防衛による交戦権も全く認められない、綺麗ごとだらけの、実に大言壮語の欠陥穴あき憲法。
 おまけに、近年問題となって居る、プライバシーの権利権限、環境権等々も、現憲法には、一切触れられずに、問題ばかりを抱えた昭和憲法。
 硬性憲法で、中々、憲法改正も、この戦後七十余年間、一度も実施実行施行公布されない、世界中の他国は皆憲法改正を頻繁に何回も行うのに、この憲法は、まるで不磨の大典、条文を書き足し、削る事も憚られる、おかしな憲法なのである。
 絶対に、現在の自民党を主体にした大政党たちが、必ずや、憲法改正、自主憲法、自主独立憲法を制定、発布、公布しなければ、一日も早く、しなければならぬ、世界に後れを取る、恥の上塗りなのである。

 以上。よしなに。wainai.

全シリーズ完了へ、安倍元首相、自民党、山上容疑者の事件の計画性、被害者はあくまで元首相

2022年10月08日 20時17分21秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論

これを持ちまして、このシリーズ、これら連載を、終結、終了、終幕フィナーレ、大団円にて、御開きとさせて頂きます。数少ない読者の皆様、最後の結末、結果、結論、に際して、最後まで粘り強くお読み頂いた皆様に、非常なる感謝と、謝辞を申し上げ、私のここでの語り部、語り口の、終わりの言葉と致します。
今後は、好きな時事ネタ、政治ネタ、自民党ネタ、反野党ネタ、反北朝鮮中国ロシアネタ、軍事論、防衛論、この国の形、趣味の話、宗教ネタ、日蓮正宗の大事の法門、今まで通りの、通常モード、今まで通りのブログ運行運営、執行執筆に取り組み、今まで以上に、なるたけ面白い記事、興味をひかせる記事、考えさせる、驚き、意外性、気付き、もっと心休まる日常への誘い、等々、私なりに何とか、不定期ブログと本ブログタイトル主題にも、脇書きで書いてあるが、若干、毎日は無理だが、何日かに一篇位は、更新を試みたい。
 今までは、書く事に義務感だけでやって来たが、今度は何物にも捉われない、自由な主義主張で、時の政権、自由民主党を自身の命に掛けても絶対に守り抜き、自民党を、統一教会と創価・公明の加勢応援を二度と絶対に許さず、それら悪魔の邪義邪説邪道邪法、その原理カルト邪教勢力を除去、取り除く事に何とか成功した暁には、日本にやっと本当の自民党と、維新、国民民主党との、日本改憲一大勢力が出来上がり、大日本国の理想の自主製作憲法をぶち上げ、成し遂げ、出来上がる時代が来るはず。
 あの今は亡き、安倍元自由民主党内閣総理大臣閣下が理想とし、自身の夢と願い、大願とした、「美しい国日本」、あの強気な安倍さんの眼差し、御言葉、姿勢、生前の在りし日のお姿を、私は未だに、彼、安倍さんの雄姿をこの目に焼き付けている。
 十年前の、反日反国家反体制勢力、売国奴政権の民主党政権が崩壊、下野し、選挙の結果、自ら落ちぶれ四部五裂したあの日、選挙が終わった月曜夕方、国家のリーダー、安倍さん率いる自民党政権の復活の時の、あの、通りの人々の感情は長年の民主党政権に嫌気が差し、その長い圧政が終わりを告げ解放され、皆、郡山市内の人々の感慨は、上ずったような感激に包まれていたのを覚えている。
 その時、私は大日本国東北地方福島県郡山市の、郡山市を東西に走る、うちの近所の、「新さくら通り」の街並みを、私は買い物の為、自転車を運転しながら、それら街の人々の今までの時代とは違った新たな気分を一人、感じていた。
 新たな安倍さん率いる自民党への期待の念がはっきりと、その当時の選挙結果を前にした、人々の目や顔には、楽しそうに刻まれ、皆、街が何だか今まで以上に穏やかになり、浮き立つような、人々の笑顔ばかりが街中に満ち満ち、安倍政権復活万歳と、私は、自身も和やかになり、街の人達から、感動の御裾分けをしてもらった気がして、うちまでの道のりをチャリで帰って来たのを思い出す。
 あれから、今は2022年、令和4年の10月8日土曜日午前であり、もう、あの時の元気で国民を一心に、リードしていた、あの頃の懐かしい、安倍元総理は、残念ながら、彼は、もう、ここには、いない。 
 大日本国の舞台からは、去り、あの、統一教会問題を投げ掛け、自身も狂信的母による被害者の、山上容疑者により、模擬、自作銃にて、その命を散らした。
 時にマスコミは、山上容疑者を持ち上げ、彼をヒーローとして盛り立て、統一教会問題を再考させ、提議したとして、彼の死刑処刑反対署名運動も、各地で起こされているとも聞く。
 しかし、何がどうであれ、一国の宰相、元内閣総理大臣、首相を殺し、死に至らしめた深い深い罪業は、自身の生まれた環境、自身の母が如何に統一教会に狂信的で、多額の、一億にも上る献金を、統一教会に献金し、その腹いせだとしても、決して許されるものではない。
 自身の恵まれない境遇、その時の山上は、その日の生活費にも困り、貯金も底を尽き、もう食べてはゆけず、安倍元首相と一緒に心中するかの、決死の覚悟で、安倍元首相暗殺に臨んだ。
 山上は、自殺未遂も何度も企て、その家族も、兄など、自殺者であり、自身も、安倍首相を巻き込み、あわよくば、禁固刑、懲役刑で、殺人罪が適用され、自身が、ずっと刑務所牢屋で三食昼寝付きの暮らしが出来ると踏んだ上での、極めて打算的、計画的な、今はこんな刑務所暮らしに憧れる、ただで豚箱の飯が食えると、それも一生食えるなら、とわざと殺人罪等を、不特定多数の人々をわざと巻き込む輩が他にも非常に多く出現し始め、真似する者も多い、と聞く。
 この山上は、一生借金、金の心配もせずしなくともよく、よっぽど考えた上での、だから計画的犯行だというのだ。
 こんな手合いに、死刑執行の反対嘆願運動を巻き起こした所で、一国の要人、恩人の、元首相を暗殺した結果から導き出されなければならぬ、裁判所、地方、高等、最高裁判所まで行くのだろうが、そこでの当然の裁判官・裁判長の最終判決は、私は、実に、山上には、死刑判決、その後、死刑囚として山上は当然収容され、その後、必ず法務大臣の認可、裁定を経て、最大最終決断して、彼を死刑執行に処するのが筋であり、大元の、司法の独立、司法権の確立、法の下の平等、法の支配を全天下に知らしめる、良い機会、決して、山上に同情してはならず、その同情が、彼の魂胆、望み、今の彼の大なる期待、安心を得る為に、敢えて国、政府、自民党に大打撃を与える、ここまでは、彼、山上が入獄前から考え計画し、実行に移した、すべての彼、山上の思い描いたストーリー構想に我ら日本国民はまんまと乗せられ、上手い具合に、動かされ、まるで黒子のように、彼、山上は日本国の罪人並みの身柄なのに、国の「ヒーロー」として、この国に彼は仁王立ちに君臨し、かれ、山上の無罪釈放、死刑執行中止断念停止は、目前になり、目に見えるようである。
 私は死刑は存続して欲しい派、目には目を、じゃないが、殺人等の被害に遭い、その後処理、その犯罪者が、一生牢獄で安泰に暮らす、三食昼寝付き、極楽生活?という禁固刑、若しくは懲役刑で無期懲役禁固等に処されたら、その殺害等の被害に遭った被害者遺族家族の心情は、如何ばかりであろうかと。
 そんな不実な、不誠実で無慈悲な刑等しかこの世に存在しないならば、この世に再び殺人罪等は、二度も三度も、否、無限に、今の死刑制度の存続した時代以上に、かなりの数、模倣犯、愉快犯、物真似犯、実行犯、現行犯、他、今の時代以上の、殺人罪による重大犯罪が非常に増えるだろう事は、火を見るよりも明らかである。
 山上は、自身、奈良県の進学校だった、高等学校在学中からか、海上自衛隊勤務数年間、その後のフリーター生活等々で、この事態、自身の統一教会への恨みを晴らす事は、彼の中ではすっかりずっと以前からのモチーフ、長年積年の恨みであり、後は実行に移す事を、彼は計画的に実践実行に移す時を、この一年、半年間は特に彼の中では頭の中に計画が用意周到に組み立て組み上げられていた。
 彼の銃の試作、銃の使用試験、全て安倍元首相にかづけ、委ね、任せきりで、押し付け、おんぶにだっこの、人に責任を擦り付けた、無責任極まる所業、暴挙を、彼、山上はやってのけた。そして、今、彼は今太閤、一切刑務所に収容されて後は、一切その状況状態、その男の情勢はなに一つ伝わらないが、おそらく、まんまと、してやった、社会、自民党政権、元統一教会、その信者の母親、等々に、一石を投じてやった、自分はヒーロー、スーパーマンか何か、時の英雄に時代ごと巻き込まれ持ち上げられ、その急激な、一瞬の自身の、神にでもなったかのような錯覚感に自身も酔い痴れ、その動きの中で、刑務所の中を通して、得意然となっているのかも知れない。
 元は、要は、一国の元宰相、元首相、元内閣総理大臣を銃で撃ち、殺し、死へへと葬った張本人、殺人者に間違いなく、この罪は、非常に重いはずである。
 私は、山上の、裁判所裁判長による、死刑判決、死刑執行を、当然強く望み、願い、祈るような思いで、考え、断じ、言葉を発し、私自身の結論とする。
 それが、彼、山上の、最善、最高、最大の、罪の償い方、であり、彼をこれ以上、時代のヒーロー、英雄に祭り上げ続けるのは、何かの間違い、反権力者、反政府主義者の思う壺である。
 この問題を、現国会の、審議等々に用い、時間を割くのは、統一教会問題は、こと、自民党内部の、コップの中の問題であり、これに多数の時間を要したり、多数の野党議員による質問等に時間を割くのは、正に時間のムダ、これらは、容疑者・山上の思う壺ではないか?
 獄中で犯罪者収容者の在り方は、彼は、自室の獄屋に届く日刊新聞紙、週刊誌等の、自身の載せた記事は切り抜かれるか、黒塗りの新聞が閲覧可能だと以前何かで聞いた事があるが、内心、そのたまたま載っていた自身の記事をまぐれでも閲覧したならば、その男は、小躍りして、今の政局を自身が左右させた結果に、大満足するはずであり、それが彼の当初からの願望でもあり、その、彼の思惑通りに、政界、マスコミ、宗教が今現在、動いている。
 この男、山上は、第六天の魔王、地獄界の使いの提婆達多がこの世、魔界から人界に贈って来た、彼は、密使、悪の使い、極悪人間がヒーローに祭り上げられた、彼自身は、その化身、成り代わりの存在である。
 仏法仏教でいう、彼、山上は、三類の強敵、僭聖増上慢ともいうべき慢心に獲り憑かれ、名聞名利に迷い、今は、殺人者、安倍元首相の御命を奪ったという罪名は隠され除かれ無視され、むしろ、その功績が今は盛んに喧伝され、彼は、噂の上でも、何かしらで自身の美名、美談、功労者としての自身の、何一つ安倍首相の殺害の意図、企み、企図、その極めて周到な打算的な計画性は何一つ責任を問われず、おそらく、山上自身、反省も抱抱いてなどは居らぬのであろう。
 お国のヒーロー、今太閤として最大限自身、山上は振舞い、今はここぞとばかりに有頂天となり、国民一人一人に、或いは安倍首相の御遺族、安倍夫人、実弟の岸元防衛大臣等々、その他多くの方の心の呻吟懊悩に、この山上が、獄中に於いて、その死を心から悼み、果たして反省懺悔、後悔、死ぬ程の自己批判に取り組んでいるのか、甚だ疑わしい。
 自身の、それまでの供述からは、邪教の被害者意識のみ、強調し、その金銭的負荷をばかり、訴え、正に、自分は被害者、と一国の首相を殺したにも拘らずにそれら自己主張ばかりを繰り返し、その邪教の献金等の異常性に、国民の興味関心が移り、時の話題となる。
 私は、再度申し、今、上記でも申し上げた通り、安倍元首相の死去を大変に最大限に悼み悲しみつつ、日本国法務省法務大臣による、山上の死刑執行を望み、その履行を切に祈るような気持ちで今日も臨んでいる。これが、この文章の私の最終結論である。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(完)

2022年10月08日 08時05分33秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 I田医師は、私に、五年前、勝手な事ばかり言い、押し付け、彼自身の信条・思想を、私に植え付け、私をロボットのように自由に操縦し、洗脳する事に成功した。
 私は今、彼がここにいるかの如くを想定して、手短に(これは当たってない)、彼に反論、対決を試みる。

 (私、の独白が続く)
 あなたは、立憲民主党や共産党、れいわ、社民、などの泡沫野党を推すが、それが果たして、日本への本当の国益に叶うのか?
 それら野党は、外国人参政権、移民法、等々、売国奴政策法案・法律ばかりに賛成している、大バカ者、売国奴の類であり、日本の国益を最大に損ない、反日、反国家、極左の団体、特に共産党の民主集中制、一党独裁・民主独裁主義は、どんなに言いつくろうと、これぞ、本物の、独裁主義、ファシズム、ファッショの、それらグループ・仲良し政党は、日本国にとって、百害あって一利なし、むしろ害悪でしかない。
 国民の事を思った振りをして、すぐ、この野党らは、金をバラまくが、その予算の資金源が、常に不透明であり、日本の国家予算の早期の破綻を目論む、彼らは全く信用が置けない。
 その他、共産党含む野党は、一般的に売国奴、国賊であり、決して野放しで日本人、日本国民は許してはならず、このまともじゃない、左巻きの売国奴は、日本を、外国勢力、特に、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、尖閣の自治を主張する台湾等々に、この国を売る気満々である。
 よって、数年前、正確に言うと、五年前の冬、親切ごかしに、私ら親子に付け狙い、本当に親切ぶって、私ら親子をたぶらかし、全くの嘘、偽り、デマゴーグ、反自民を掲げて、私達の思想信条を代えようとした。
 実際、母はまだ自民党支持だと思うが、私など、とっくに、野党に鞍替えし、それで自身、悦に入っていたのだから、私は自分でも、情けなく思い、そのI田医師にも、私の馬鹿さ加減にも、大いに呵々、笑えてしまう。

 よくもダマしたな、I田。
 そなたは余程のペテン師、大悪人だ。
 其方の所業を私は二度と許さない。

 二度とそなたと会わない事を祈る。母も私も、そなたになど、北朝鮮の三代目金正恩、日共の宮本、不破、志位、等々の、デブ、食い過ぎ、太り過ぎ、肥満体デブの権化みたいのには会いたくない。
 きっと、必ず、これら、独裁者のそれら、末路の最期の死相は最悪であり、見るに耐えないものに違いない。
 これらに加え、そなた、I田も、
 どんどん贅沢し、どんどん醜く太り、
 自分の、医師としての権利、特権は、そのまま伝持(?)し、その実、貧乏人には嘘で甘く優しくして偽り、詐欺を働き、人の良さそうな振りを奴は完全に私共の前で演じ(それもまるで、三文芝居ばかり、で、まんまとしてやられた。)
 この借りは、必ず返す。どんな汚いと思われる手段を私が使ったとしても、否、決して私は直接、私の主義は、仏教仏法の非暴力不服従であり、手などは絶対に使わない。
 私が手など汚さなくても、天罰は必ず、天が身代わりになって、そなたに降る。
 天網恢恢疎にして漏らさず。I田、覚悟しろ!

 I田、そなたの虚言癖、嘘にまみれたペテン、サギ師、ヤシ、二重人格、偽善者の傾向性、そなたなど、私達親子含め、人の前に二度と出て来るな。人の風上にも置けぬ、うすのろ野郎。
 
 私は二度と、そなた、I田を決して許さず、母と私共の前から、そなたは私達の前から永久に消え去れ。
 それが、そなたの身の為だ。
 とんだ食わせ者の医者崩れの、大バカ野郎だった。
 こっちが馬鹿を見過ぎた。

 あの日の出会いは、私、そして私の最愛の母にとり、人生最悪の出会い、出来事だった。

 I田、貴様はおそらく、ろくな死に方も出来ず、天罰神罰仏罰法罰業罰、の、そなたに当たるのは、当然、確実確定の、無様な死に様を、晒すのだろうと、その薄汚い、下らない語り口から、その後の展開は、全ては予想、想像は出来た。

 人の時間の邪魔をするな。何の権限が、貴様にはあるというのだ。この失われた貴重な年々日々、時々刻々の、私及び、母の、時は金なり、の時間たちを私らに返せ!

 I田、貴様は自分の大罪業を犯して来た自身の人生に反省し、もう人間界には、お前がこれからゆくあの世、来世、次の世でも、罪障深くて二度と生まれては来ず、貴様のこれから行く先は、必ずや無間地獄、地獄界への堕地獄必定(ひつじょう)だ。
 
 それだけの事を、貴様はやったのだ。

 人をくたして、いい気になるな。
 
 I田に天誅の裁きが下らん事を!!
以上。完。終。END。Fin。
よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い、後日談編パート3ー借金返済への道、クレジットカード会社解約への道、借金カードローン生活、脱却成功編、遂に完結。(3)

2022年10月06日 08時16分10秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 母の高齢者担当の、地域包括センター・あんしんセンターの職員、OW田さんに忠告され、私は社協の「あんしんサポート」に入る決心がついた。

 暫くしてから、約束を違えず、その後の一週間目のある日の午前中、社会福祉法人・郡山市社会福祉協議会あんしんサポートの、地域福祉課、福祉サービス利用係、主事兼福祉活動専門員の、KN子・女史(苗字がそういう名前の人)さんという女性と、地域包括支援センター・あんしんセンターの女性OW田さん、あと確か、最近から、私の福祉の世話を焼き、福祉関係者として、私の頼もしい応援団の一人となり、実際はその組織は常に二人体制だが、郡山市委託事業[多機関の協働による包括的支援体制構築事業]の「福祉まるごと相談」という、公に準じた組織で、私の地区は、郡山市安積町のあさかホスピタル、医院その地域の守備範囲であり、この私の地区の担当者だった、福祉まるごと相談員、で兼、看護師の女性のH内さん、同じく社会福祉士の肩書を持つ男性S藤さん、この方々も、我が家に来られた。

 まず、私は、コジマカードの、ジャックスカードも、JCBカードも兼ねる、一枚で三度おいしい、それで合計一枚の、悪魔の借金札を皆さんの前に御開陳、見せた。

 すると、真っ先に、社協のKN子さんの提案で、これは却下、二度と使ってはいけない、間違って一回使ってしまった、その時は許す場合もあるが、基本、このカードを何回も使った場合には、この、「あんしんサポート」の契約は、残念ですが、停止、契約解除、退会、となります、と脅すような事を言う。

 私は、最初の、あんしんサポートの契約に楽々やっと漕ぎ付けるのかと思いきや、最初から物騒な事をこの痩せて長身の、仕事がテキパキ出来そうな、頭の切れて凄く良さそうな、若いのに、私はそのエリート社員然とした、その女性の、表はとても優しそうな細面(ほそおもて)なのに、その腹の内は、とても厳しい対応、私への彼女自身の渾身の覚悟を私の日頃の生活、カード払いの罠、闇を知り抜き、全てを彼女は了解し、私の日頃の無駄遣いを見抜き、彼女なりに采配し抜き、私の人間を判断し、判った上で、上から目線で指導し迫って来たのを私は警戒し、嫌味を感じた。

 もっと楽な、今までの自堕落な生活に浸り、そこから立ち上がれない私は、少し反感、切迫感、焦り、困惑感、非情感を感じ、何だこの女性は、ただの頭が良い、仕事をバリバリこなすのが趣味の、私ら貧乏人には、血も涙もないのかよー、と少し半分、不満、不安だった。

 そして、その、社協の、社協の女性として単身、我が家に乗り込み、この場の三、四人に紛れて、一人やって来たそのKN子さんの提案として、この、クレジットカードは、お守りとして、宝物として、取って置いても良い、タンスの奥でもどこでも、なるべく奥の方に置いておいて、閉まってしまい、自由に取って置いて結構です。でも、決して、使用してはなりません。必ず、それを、使っては、いけません、駄目です。やめてください。

 こちら側からは、無理に返却させたり、解約は迫らない。ただ、使った場合は、即刻、契約、いままでのあんしんサポートでのサービス、金銭管理のお手伝いは、即、終了させて頂きます、と強い決意で述べ、私は、いっそ、それなら、解約して、でも、つかえないし、とパニックを起こしそうだった。

 これが、俗にいう、カード依存、カード中毒者のズバリ、症状なのだ。薬物依存者、麻薬の類の依存者と何一つ、代わり映えしない。

 これ程人の心に根深く巣食う、人々を呻吟させ、悩ます、この、クレジットカードの存在って、一体何なんだろうか?正に、「悪魔の借金札、クレジットカードのクソカード!」である。

 私は、インターネットで、ネット通販を利用しているので、クレジットカードがないと、買い物ができない、と切実に訴えると、あんしんセンターのOW田さんが、手元のスマホ携帯の画面で丹念に調べ上げ、その結果、「大丈夫、大体見た所、アマゾンも、ヨドバシカメラも、コンビニ払い、コンビニ決済があるから、今まで通り、ネット通信販売も利用出来るよ、やはり、現金は強いんだよ」
 とOW田さんは心強く仰る。

 兎に角、その事実を知り、自分のパニックは徐々に消え去って行った。今は、ともかく、この、あんしんサポートのシステム、仕組、サービスに、早く入り、利用しようという気が、満々、自身の中で、起こって来た。

 けれど、肝心なところで、また、社協あんしんサポートのKN子さんが、「まず、このサービスに入れるかどうか、あなた、wainaiさんの金銭利用状況を毎月確認し、本当にもう二度と借金はしない、止めたか、カードは使用してないか、こちらが厳正にチェックして、半年間の猶予期間、試用期間、様子見をしてみます。それで、本当にwainaiさんが、事実に反しないで、立派にこの努力、成果を上げられたら、晴れて半年後に、あんしんサポートに入会です。このサービスを正式に利用できます。

 この試用期間のお試し半年間が、長いか短いかは、その人にもよりますが、wainaiさんにとって、全然悪い話ではなく、仮に、今、wainaiさんが、もしも、たとえ、今以上、借金が増えたとしても、こちら側、社協では、全く、金銭の貸し出し、供与、貸し与えたり、金品の授受、社協があなたに金銭を恵んだり、与える事は絶対に出来ません。諦めて下さい。

 あなたが今、現在持っているお金、月々日々の入ってくるお金の限度内・範囲内で、上手にやり繰りし、生計を立てて行かねばいけません。それがwainaiさんの、そして私達にとっての、今の最大の懸念、至上命題、至上命令です。

 やれますか。やれるんなら、最大限の御協力は致しますが、先程も申し上げた通り、金銭に困った、借金苦に苦しむwainaiさんを残念ながら、私達は現金をあなたに渡すこともできず、遠くで見守っているだけであり、何も助けてあげる事も出来ないのです。そこはちゃんと、お願いですから、心に必ず噛み締め、刻み、自身で判って下さい。

 ただ、社協側と致しましては、金銭管理は、最大限に、お手伝いさせて頂きます。

 具体的には、半年間の間は、wainaiさんとの、金融機関の口座の出し入れを、実際にwainaiさんにも手伝って頂き、実際にwainaiさんにも私、KN子と一緒にゆうちょ銀行の窓口に行ってもらいます。

 ATM、自動現金預け払い機によって、それに向かい使って、口座からwainaiさんが直接、間接に降ろし、ゆうちょ銀行などの封筒をその場で頂き、一週間分ずつ、計一月分、その決まった金額を分けて封筒に入れ、それら一か月分を期限、最大限の金額の、wainaiさんの収入に応じた額を、こちらは指定して、約束通り、一か月、四週なら四袋、五週なら五袋と、それに応じ、こちらで取り決めます。

 金額通り、一週間分の袋、封筒の、その額の半分半分の、ピッタリの額をヘルパーさんに割り当てて、その予算額としても一向に結構。その額を、wainaiさんが千円位多く取り分を取って、ヘルパーさんへの割り当てを減らすのも、多く自分の予算としたいならそれで結構、一切自由に、やってみましょう。

 一週間の予算の額は、実際に、限られ、決まってしまいます。その額で予算がオーバーしてしまった時の為に、「予備費」として、数万円を、wainaiさんの口座から降ろして引き出し、その額を、また、ゆうちょ銀行の袋、封筒に入れておくことにします。

 その額の範囲内ならば、一か月以内に、使い切ったとしても、構いませんが、使い切った場合、次の月まで、その「予備費」の予算額は、支払を待たねばなりません。大事に使ってください。

   見事、その半年間をくぐり抜けて、wainaiさんが、無事合格、こちら側、社協がそうだと、判断した暁には、正式に、契約書を取り交わし、署名捺印の上、今度は、毎月一回、wainaiさんの好きな、自由な、比較的時間の取れる時間帯を見計り選び、こちらの、その時、私KN子は、担当を外れますが、代わりの職員の者が、wainaiさんを代わりにその職務を担当し、その手と足となる、実際の生活支援員、担当者がwainaiさんのうち自宅を訪問し、口座からお金を降ろし、金銭の受授、払い渡しを行い、それにも、三通、wainaiさんの分をもその内の一通に数えて、wainaiさんが署名捺印し、その一部をファイルに納め、お渡しします。大事に保存してください。

 以上、あんしんサポートのあらまし、大体の説明を行いました。
 どうですか、あんしんサポート、wainaiさんに、自分にやれる自信、気力、気持ちは、おありですか?今聞いてて、何か心配な点、不安な事は御座いませんか? 

 私に、何でも判らない事があれば、いつでも、出来るだけ自由に、何でもご心配なくお聞きください。答えられるだけの、回答は、こちらでも十分考えを尽くし、答え、用意し、回答する所存でございます。

 疑問質問等がないようなので、今日はこれで、失礼させて頂きます。また何かあれば、疑問相談にも乗りますよ。今日は話が長くなり、wainaiさんも疲れてしまったかも知れませんね。急な来訪、誠に申し訳ございませんでした。あとは、残った皆さんで仲良く、お話しくださいませ。私はこれにて、失礼させて頂きます。有難う御座いました」

 とKN子さん(これは、先程も行った通り、苗字)は、我が家を早々にお帰りになられた。

 大変好感の持てる、細身の女性なのに、とてもしっかりしていて、今後も何か頼り甲斐のありそうな、良い人、滅多に自分が出くわしたことのない人物、自分の中では、あの人は切れ者、大変頭の良さそうな、女にしておくのが勿体ないような人物、正に女傑。

 郡山市社会福祉協議会(社協)という団体を、一変に見直した、というより、今まで、関わり合いなど一切なく、関係のなかったこの社会福祉法人に、私はその後、大いに助けられ、自身の一切を託し、望みをかけ、それらが無事果たされる事となる。

 私の、カード、リボ払い、地獄から、無事の生還、カード解約への、その後三年弱の日々を過ごし、結論としては、借金を全て払い終わったその月その日、その時間、その我が家に届いた郵送物に書いてある、そのクレジットカードを解約するか、大いに迷いに迷いっている私がいた。

 二度とつかっていないんだから、私はそれ一本にこだわり、何か、又役立つ時が来るんじゃないかと思う、まだカードに未練があった私であった。

 また、持っている以上は、使いだすに決まってるんだから、と地域包括支援センター、あんしんセンターのOW田さんその時、直接電話すると有難くも、彼女が実際に電話口に出て、一喝、叱り、たしなめられ、意を決した私は、その日の昼の時間帯に、直接、うちに郵送できた0円の支払い金額の請求書に書いてあった、ジャックスコジマカードの本部コールセンターに直接電話を掛け、全て、私の一存で、このカードの解約を取り決め、本人wainaiにより、全ての契約を破棄、打ち切る旨、コールセンター女子事務員、電話ガールに直接言い、伝えた。

 電話一本で、今の時代は、何でも解約でも、こうやって人の一生を左右、この場合、私の場合は、借金で首が回らずに、命拾いしたと、清々した助けられた感覚を久しぶりに何十年振りに取り戻し、この感覚を忘れまいと、早速、母が自身の最後のイオンクレジットカードに、最後の借金を払い終わった時にしていた私に見せた儀式、私も早速、手にハサミを取り出し、チョキチョキチョキと、カードにハサミを入れ、私めの、人生最大の汚点、面汚し、人非人のようだった、この十数年をため息しながら振り返り、思い起こしつつ、綺麗さっぱりと、そのゴミを、ゴミ箱のゴミ袋にポイと捨て、何事もなかったように、その請求書を別の場所に仕舞った。

(私めの、カード地獄、カード解約編、カードゴミ箱行き編、是にて終了。終わり。御開き。完。エンド。END。Fin。御清聴、皆様、誠に有難う御座いました。)

追伸。
 この、私の一存、宗祖日蓮大聖人様、大仏教仏法が言う大事の御法門、「事の一念三千」の、正に、今の私が起こそうとして、それが事の原因、その後、実際に自分で蹴りを付け起こした結果結論、次の瞬間の「一念」に全てが宿り、籠り、掛かり、これからの私の運命、宿命宿業、因縁果報を決め、私がこの後、幸せに暮らすのか、不幸に暮らすのか、正に「大善生活」に私や母が浸れ、暮らしてゆけるかの分かれ目、分かれ道が、このときだったんだと、彼ら彼女ら福祉関係者が帰ったその晩は、その日は日がな一日、ずーっと、その事ばかり考え、眠れなかったが、実際には、全てがトントン拍子で、上手く流れてゆき、自然と事態は収束した。

 私は、今でも、自身の金銭管理、金銭感覚には常に疑問を抱き、自分に不信を抱き、未だ、この社協さんの、あんしんサポートを絶賛、継続、利用、使用、愛好、契約中である。

 このシステムは、私などの障碍者の、金銭感覚に飢え、間違いやすい者への、道しるべ、航海図、羅針盤、車のナビ、に似た、通帳等は一部一切預かってもらい手元にない不自由さはあるが、一切、世の中の、デマ、詐欺、人の甘い誘い等々には、この完璧なシステムのお陰で、全く引っ掛からない信頼、自信、強味、心強さに裏打ちされていて、私自身、人に騙されないように強く心づけ心掛けられ、この福祉システムには大変助かっている。

 これからも、郡山市社会福祉協議会の、「あんしんサポート」には、長い付き合い、大変にお世話になるだろうと、私自身、強く思い、感じている。

 以上。よしなに。恐々謹言。長文失礼。wainai.

ここで、小休止、休憩、コーヒー、ブレイクタイムー脱線編、横道編、サイドストーリー編

2022年10月05日 13時20分16秒 | 日蓮正宗総本山大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 (閑話休題)
 私は、この、直前の、昨日のブログ記事の残りの余りの記事原稿の続きの記事を、今日の昼前後、完成(これが、見直せば、見直す程、ボロ、心残り、何というか、無理や、自分の書き間違い、最終原稿、最終結論、決定稿には程遠く、何度も何度も校正、編集を繰り返し、書き直すも、自分に負けるなア、頑張れ―、と言い聞かせている。)。
 
 (次第に仏法の話、天罰神罰法罰仏罰と、功徳の話)
 基本、自分はマゾ、被虐者愛好人間であり、その癖その、私をイジメた、害した人間は一生の間許さない、私はヘビのようにしつこく相手に直接関わらなくても女々しくもずーっと一生恨み続け、結局、諸天善神、神々様方、時には天、ホントに稀には仏様、仏法の法が私に必ず味方してくれて、私は私の手を一切、手を使わずに、手を一度も汚さずに、ただ見ているだけで良く、うまい具合に、事が必ずうまく運んでいる。
 そこがこの仏法の面白い所であり、仏法の偉大さを、ただの偶然性には預けず、皆、誰にでもどこにでも、どの時にでも、勿論この私にも、罰も功徳も、物を言わずにも、頂ける。

 (次第次第に、仏法、日蓮正宗の数学との類似、答えが一つの定理)
 その仏法の必然性、定石、定理を、まるで日蓮正宗の御教えは、数学と同じであり、天に二なく、日に二日なく、月に二月なく、王に二王なく、父に二父なし、の、まるっきり単純で分かりやすい。
 要するに、大聖人さまの教えは、二つとしてなく一つであり、それはお釈迦様、釈尊の時代からも全く不変で、今は末法万年で、薄汚れた、汚い、皆の心の中身は腐敗し、崩れ落ち、この末法に生きる我々一般衆生は「末法の荒凡夫」と呼ばれている。 

 (釈尊が既に生前説いた、正法、像法、末法の世の様相)
 正法時代の釈尊の教えがまだかろうじて残っていた一千年間にも劣る、勿論、その次の、像法時代、また千年間が過ぎても、正法年間が、像法にまさり、優位だが、その像法にも劣る。

 (末法時代における、騒然とした時代へと突入、邪宗蔓延る)
 今(その当時の御代)は、平安時代から、鎌倉時代に掛けて、「末法」の時代に入ったと、当時の貴族、武士たちは、非常な危機感から、「念仏」(浄土思想)などの、過(あやま)てる、間違った宗教宗派、大聖人様が言う、「爾前権教」(釈尊が「法華経」以前の四十二年間に説いた経、教えを指す)の、間違った教え、大聖人様が、末法の時代、極楽浄土を欣求(ごんぐ)する念仏宗等、厭世思想の蔓延(はびこ)った世相であった。  

 (大聖人様が、「四箇の格言」(真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊)を説いた訳理由)
 その他、その鎌倉時代は、その時代の鎌倉新仏教、念仏、禅宗、真言宗、律宗などの、エセ仏教、ペテン師、詐欺師の虚妄の、嘘つき人師論師たち、ただ名声が欲しかっただけの、名聞名利だけの、名誉欲に片足突っ込み、権力(時の執権、北条氏一族等々)に宗教の、名前だけ立派な、一応坊主の格好をした、イカさまインチキ、生臭坊主共が、それら権力になびき、従い、その権力を陰からも表からも握り支配していた。

 (大聖人様、いよいよ、最大の難関、大難、大困難の、龍ノ口法難へ)
 御本仏宗祖日蓮大聖人様を呻吟させ、非常に苦しめ、鎌倉江の島海岸での処刑の場、龍ノ口の法難の時の、正に命に及ぶ大難に奇跡が起こった。
 大聖人様は頼もしくも「聖人は怪死せず」と心強くも仰り、決して弾圧、暴力、圧迫を加えて来る鎌倉北条幕府に、大聖人様自ら一歩も引かず、むしろ「難来たるを以て安楽と心得べきなり」と強盛な信心を大聖人様の我が弟子信徒たちやその他、鎌倉幕府の、圧迫を加えて平然とする武士や邪宗坊主共へは反旗を示し、端然として居られた。

 (大聖人様の最大のライバル、極楽寺良観の凄まじいまでの、大聖人様への嫉妬、恨み)
 大聖人様を亡き者にしようと企む、大聖人様の最大の怨敵、真言律宗の僧侶、極楽寺良観。こやつ、時の執権、北条氏の御落胤との噂の、実際そうであり、社会事業、慈善事業等を彼は行ない、実はそれらは見せかけのショー、自分を飾る偽善行為であり、実際には、かれは、橋や関所を彼自身作り、そこに「通行税」を暴利に多額の金を金品を、ぼったくり、ふんだくり、税金として、私税として、僧侶の身分を最大限利用して取り、通行人、鎌倉庶民を悩ませていた。無理に自分を名聞名利の為の自身を権力と結託させた。
 静かに御自身御自分や世相を眺め、この世の在り方に疑問を呈した大聖人様を、当初から彼は執拗に恨み、憎み、憤慨し、いつか傷つけ、亡き者にしようと、常日頃から画策、策謀、考え抜き、実際、今言った、龍ノ口の法難など、ほとんど良観の思い付きであり、策略が見事、成功したかに見えたその時だった。

 (鎌倉大路、鶴岡八幡宮での、大聖人様の、御本仏としての、神をも恐れぬ八幡への一喝)
 実に、大聖人様は、鎌倉市中を引き回しの上、鎌倉の大路をゆく最中、丁度、鎌倉鶴岡八幡宮(八幡大菩薩)の前をお通り、通りかかった。
 その時、大聖人様は、獅子吼の如くの大音声を、その時、八幡様の前でお発しになった。
 「こら、八幡大菩薩よ。この私、日蓮を、そなた、八幡は、見捨てると言うのか。それでも神かお前は。そんなに非情な、情けない、惨(むご)たらしい、そんな神だとは、私は考えたくもなく、ついぞ思いもしなかった。いい。今はいい。見よ。私はこれから、鎌倉江の島海岸の岸辺の、海の波迫る刑場、龍ノ口に於いて、裁き、命を賭して鎌倉北条武士たちと今夜、夜半、闘う。今に見てろ、八幡。おまえの、その自身の、神としての、最大の嘆き、最大の恐ろしさ、正に御本仏の、仏の境涯の、この私にひれ伏す時が必ず来る。その時まで、首を洗って出直して待ってろ。いいか、覚えて置け。この日蓮、嘘は申さず。今暫く、そなたの出番を待つ。諸天善神の神々の一員の一人、八幡、わかったか?」

 (鎌倉江の島海岸、龍ノ口刑場へ)
 こう、大聖人様は、正に王者覇者、帝王、獅子吼の如くの大音声を、八幡様の前で発したが、その声虚しく、大聖人様は、ついに、刑場、龍ノ口の、波打ち際の瀬戸際に、大聖人様の手勢は、武士で大聖人様の弟子の四条金吾の他のみであり、大聖人様最大の危機が、今、訪れようとしていた。
 鎌倉北条方の、武士の一人が、今しがたから、馬上から降り、刀を水に濡らし、大聖人様は、きっとうなだれて、体は縄でぐるぐる巻きに縛られ、逃げられない、大聖人様は、武士に体を折り曲げられ、首を前に突き出し、人生最大の難局、危機の中、何一つ物音、声も大聖人様は決してお上げにはならず、先程の、八幡様の前での大音声が、まるで嘘のような、その夜の相模灘、鎌倉江の島海岸での、夜の帳(とばり)も落ち、草木も眠る様な、ただ、目の前の、江の島の海は、寄せては返し、ただ静かに、波の音だけが不気味に響いている。
 そこで一声、武士は時の声、大聖人様を斬る合図をし、刀を大聖人様の首めがけて振り下ろした、その一瞬の刹那の出来事で、一つの出来事、ある御事が起こった。

 (正に奇跡が大聖人様の御身に起こる、これが「発迹顕本」実証現証の事実となる)
 鎌倉江の島方面(方角は私は忘れて記憶にないが、たしか西の方角だったか、失念)の方角から、光り物、火の玉のような、発光体が大聖人様、馬上の武士たち、刀を振り下ろそうとした当の武士自身、そこに居た者たち全員が、不思議体験、全く持って不可思議な、超自然現象をその場の一同が皆、揃いも揃って、体験した。今だ、歴史上、このような事は、大和の国、大日本国、日本史上、起こり、行われたことなど、どんな天下人でさえも、夢にこそあれ、誰人も、機会も、時も場所も、一度もなかった。正に、大聖人様が奇跡を起こした瞬間だった。
 ここで、大聖人様は、この時も、一切、絶対に絶命せず、見事に自身の勝利、勝ちどきを上げ、その場にいた武士どもは、皆目がくらみ、目が明るすぎる火の玉、光り物に目をやられ、暫くは放心状態、馬上の武士は馬から転げ落ち、地面にしたたかに頭や腰、背中、足、手などをずんだと打ち付け、暫くは同じく、何が起こったのか、全く不明だった。

 (数々の、大聖人様を襲い掛かる、「大難」)
 その後、その報せを聞いた執権北条氏が、これを聞き、驚き慌てふためき、赦免状を仮にだし、大聖人様は、佐渡ヶ島に流される事が決定し、島流し、「龍ノ口法難」に続き、「佐渡法難」となる。
 その前にも、「伊豆法難」「伊東法難」「松葉が谷法難」等々、大聖人様は、本当に数々の御法難に、幕府の連中、それを操る、極悪僧、「極楽寺良観」等々に嫌になる程付け狙われ、その度に大聖人様はその大難を難とも思わずに跳ね返し、押し返し、自己の宿命に勝利の凱歌を上げる、事を繰り返した。

 (「立正安国論」の幕府への御建白御提出と、その後の御予言の的中)
 それ以前にも、大聖人様は、正嘉元年八月二十三日の鎌倉大地震を始め、大風、大飢饉、大疫病等により、夥(おびただ)しい被災者が出ている現状をご覧になり、文応元年(一二六〇年)七月十六日、幕府の実権者・北条時頼に「立正安国論」を上呈して、災難対治と立正安国の明証を挙げて、災難の根源である邪宗をすみやかに禁止すべきことを論じ、このままでは必ず自界叛逆難と他国侵逼難の二難が起こり、日本国の一切衆生も無間地獄へ堕ちるであろうことを予証された。
 それら予証、予言が後に当たり、正に、全世界、ユーラシア大陸をまたにかけ、世界征服を企む蒙古軍が、日本に二度までも襲い掛かり、二度目には、何とその時暴風雨が突如として起こり、蒙古軍は全滅し、日本国は安泰として救われた。俗にいう、日本の「神風」。

 (山奥に隠遁し、弟子達の訓戒、教導、指導の晩年へ、自身の遷化、寂滅後を見据えた、大聖人なりの、闘い、一期弘法への期待、その後、自らの教えの全てを一人きりの弟子に伝え、「代々の上人、これことごとく日蓮なり」との御金言を残していく。)
 そして齢を重ね、自分は、国を代えて、この国を去り、かの国(ここでは、甲斐の国)へ去り、赴かんと、その国替えは、ある有名な君子名君故人の故事に倣い、自身を、甲斐の国身延山の久遠寺と言う、当時としては今の日蓮宗身延派の、現在の久遠寺よりはるかに小さな、貧乏寺、と言っては失礼だが、とにかくちいさな庵ばかりのお寺を、周囲を山や川に囲まれ、冬は寒く、たべものも不自由すると、大聖人様は「御書」に述べられている。

 (六老僧選定、一人だけの愛弟子、直弟子、「日興上人」を後継者として選ぶ、血脈相承。)
 そこで弟子の訓戒、教育、指導に大聖人様は必死に当たられ、六老僧、六人の本弟子、日持・日頂・日向・日興・日朗・日昭(入門の新しい順)を選ぶが、入門の順序が六人の序列を決めるものではない事を、第二祖日興上人の記された「宗祖御遷化記録」により明記され、この内の、事実、実際には、法灯、第三位の日興上人様を身延山久遠寺の第二代別当(住職)に、大聖人様は御遺言で命じ、任じた。それら御遺言の文言の「文証」、文献上の証拠は、古くから、日蓮正宗富士大石寺に長く、その事績をとどめ、伝わる、「二箇相承」の書物、書き置き、一、身延相承書(日蓮一期弘法付属書)。二、池上相承書(身延山付属書)に詳しい。

(日蓮正宗の法灯連綿と続く、一番の自慢の、日蓮大聖人様から、代々、相承を受けた唯お一人だけの時の御法主上人猊下様)
 とにかく、それら法灯連綿、血脈相承、法水写瓶、の、御歴代の御法主上人猊下様が、代々、日蓮、日興、日目、日道、日行、日持、日阿、日影、……と本当に、日本の歴史上にも名は余り、うちの日蓮正宗は、有名じゃないが、実際には、それら御法主上人の血脈が、一度も途絶えた事など今の一度もなく、これが日蓮正宗の一番目の自慢。

(いよいよ、大御本尊様の、御大事)
 二番目と言うか、本当はこれが最も、人本尊、法本尊の、人法一箇の上からも、一番の、最大の大事、上記の御法主上人方は、これを常に御所持、御伝持遊ばされるから、貴いのであって、この大事が欠けていたら、今日の日蓮正宗は、全くの虚ろ、全くの空の、絵空事、中身が空洞の、空の空を地で行っていたであろうと推測、推論する次第。

 その、一大事とは、勿論、大日本国大和の国、駿河の国の、今の静岡県富士宮市上条の、鎌倉時代、今から七百五十、八百年前の、弘安二年十月十二日御建立の、御本仏宗祖日蓮大聖人様御建立の、御真筆、御真磧の、本当に、世界中の人々皆が、広宣流布の暁に、拝むべき対象、最も偉大で、最も畏れ多い、ここ、日本に御一体だけしかない、実に貴重であり、尊極であり、正宗信徒が崇拝し止まない、三大秘法の本門戒壇の大御本尊様、この板曼荼羅の、御一体のみを、大聖人様は、御自身、御自分の身代わりに後世に御遺しになって下さり、誠に勿体ないながらも、今日の、大聖人様の時代の末法の世は依然変わらず末法万年の、この平成、令和の御代に於いてさえも、この大御本尊は、日蓮正宗法華講信徒の資格さえちゃんとあれば、誰でもいつでも、何時(なんどき)でも(実際は御開扉時間は、きちんと御宗門により、厳格に守られ、その入場人数の数、かならず御開扉は当宗信徒でなければ駄目と、ちゃんと事前に一切が執り、決められているが)必ず、あの、大きな大伽藍の敷地を擁する、日蓮正宗富士大石寺に一歩、足を踏み入れれば、三門から塔中を抜け、御影堂を通り、いよいよ、大御本尊が厳護されている、奉安堂に我ら日蓮正宗信徒は、入ってゆく事になる。

(御開扉の様子)
 そこで、椅子が五千席とも六千席ともいわれる、そこも大建築作りの、大屋根が四隅の大きな柱と壁で見事支えられ、頼もしい建物で、その中央前方最前列に、猊下様、御僧侶方が座る別席、僧侶席があり、私共在家信徒はその後方で、じっと猊下様、御僧侶方が御臨席するのを待つ。

 しばらくすると、猊下様を筆頭に、御僧侶方所化小僧さんたちが列をなして、足音を少し立てながら、厳かに現れる。

 その瞬間、事前に灯された巨大な二本のろうそくの火が微かに揺れ、席に着いた猊下様、御僧侶方他が着席し、猊下様が御導師、マイクの声を通して若い僧侶が伴走し、いっしょに猊下様と、われら法華講の者たちは、「妙法蓮華経 方便品第二」「妙法蓮華経 如来寿量品第十六」の寿量品は、長行と自我偈をちゃんと読み上げ、最後に至ると、鈴(鐘)が猊下様より厳かに打ち鳴らされ、「南無妙法蓮華経」の御題目の大合唱となる。

 これが暫く、続き、いよいよ、大団円、鈴(鐘)題目三唱が猊下様より御声が発せられ、フィナーレへと近づいてゆく。

 その間、ずっと、板曼荼羅の、三大秘法の戒壇の大御本尊様は、漆黒の色に、金字の、黒の楠板の漆塗りに、金の御文字の、大聖人様の御時代そのままのお姿で、勿体なくも、我ら信徒の目の前に、御鎮座まします。

 その余りの偉大さ、偉容に、初めて目にする者たちの目には、誰も彼もが、感涙の涙が、一滴、二しずくと流れ、その感動に打ち震え、居てはいられない、その場で静かに泣き崩れ、しかし決して誰も取り乱さず、平静を保ち、猊下様の一挙手一投足に全神経を集中させ、すべてを大御本尊様に自らの全てを委ねる。

 そこでその時に、皆、その読経唱題、猊下様の発する御祈願の御言葉、大御本尊様が、御開扉、扉が開かれている間、間隙を縫って、我ら信徒は、その間、必死に、日頃の御祈り、自身の願望、希望、願いを願掛け、一心に、その扉が締め切られる最後の一瞬間までを、一生懸命に祈りを捧げ、大御本尊様に全てを託し、全生命、全宇宙、全人生、全世界、全日本、全近所、全家族、全願い事の全てを恥も外聞もさらけ出し、その一瞬に賭け、自身の最大の見せ場、人生の最良の時を、ここで、後の思い出として、祈りを捧げる。

 猊下様が、全てお祈り、ここでの勤行唱題が終わった事を告げ、皆さんのご多幸、御幸福、しあわせ、世界平和、一家和楽、武運長久を御祈念した事を猊下様は告げ仰り、いよいよ、最終幕、大御本尊の閉扉となる。

 全部全自動で、それら鉄か金属製のような、幕、扉が電気の全自動で扉が閉まり出し、我ら信徒たちは名残惜しく、その大御本尊様が消え去る一瞬まで、感謝感激の、皆で大合唱の、大音声の、「南無妙法蓮華経」の御題目の残り火のようなお題目を、我ら信徒は最後を見送る気持ちで、一心不乱に送る。

 「大御本尊様、閉扉(そんな声は全く、しない。あくまでも、その瞬間の様子を表した)」そして、全てが終わり、猊下様を筆頭に、御僧侶方、所化小僧さんたちが、皆の御題目の唱和の中、静かに奉安堂を後にする。

 その後、我ら信徒が、今度は席を立ち、館内放送でも注意が示され、無言のうちに、静かに、我ら信徒は、足音のみを立て、足音をその場に残して、各自、物静かに、去る。

(奉安堂、大御本尊のお話の、フィナーレ大団円)
 これが、奉安堂の於ける、大御本尊様の、御開扉の全一回の、全貌、姿を、簡単ながら、お粗末ながら、書き付け、メモ書きのように、書かせて頂いた。

(ごあいさつ)
恐々謹言。末法万年、二〇二二年R4年十月五日午後四時三十五分現在、電波ソーラー式腕時計による計測、令和の御代の語り部のwainaiよりこれを書き記す。以上。
 
 話が長くまとまらず、長いまんまで、途中で済みませんが、この話が長くなり、中々、最後の結論、I田医師との対決篇まで話が進みませんが、これが峠の様なものですが今般、今の私の最大の心残りであり、呻吟する次第で、しかし、その原本、現行、私の書いた構想の一端のメモ書きは、私のノートの中には既にちゃんと病院入院時に、私が考えて、携えて、全て、手筈を整えています。

 今が山場、人生の峠の様なものです私の言いたい事は、今日はすっかりはっきりしっかり、申す事は、言い出せ、言い切ったと思います。

 私も今晩、夕べの勤行唱題、夕ご飯、服薬、睡眠、等々、多々個人的な事柄が数多くある為、切りの良い、この辺で失礼させて頂きます。私の語り口、語らい、語り部としての私のこんな駄文、長文にお付き合い頂き、本当に有難く、感謝の仕様がなく、数は多くはないであろうと私は恐らく推測する、読者の皆様方に感謝申し上げ、誠に不躾ながら、御無礼、失礼仕(つかまつ)ります。

 尚、今すぐ、夕べの勤行へと、そしてその後の食事服薬睡眠等々、明日は午前中に私の福祉のヘルパーさんも来られます。その為、午前中は、ブログ更新はかなり、無理でしょう。済みません。

 いつかは、必ず、このブログ記事、連載記事を完成まで漕ぎ付けるよう、その達成を期し、自身、返り血を例え浴びようとも、どんな苦労があっても、努力、精進致す所存で御座います。

 自身、取り組まないといけない事余りの多数の手前、読者様方、同gooブログ上の、御同志方の、ブログ作者作家がたの、皆様のページへは、私めの時間が大変限られてしまう為、今日、本日は、「いいね」等は出来かねます。御免なさい。謝辞、この場を借りて謝らせて頂きます。誠に済みません。

 明日、時間があり次第、皆様のブログ記事ページに立ち寄らせて頂いた際には、その時、私に時間的余裕がかなりあり、ヒマがあれば、幾らでも、「いいね」等、押させて頂きますが、確約は出来ません。

 多分、というか、ヘルパーさん対応の為、午前中の更新は確実に、無理です。 

 その頃は、ヘルパーさん、食材の買い出し、調理、その対応に追われ、きっと私も、てんてこ舞いでしょう。

 その後、その食事を昼にとり、そのヘルパーさんはその前に帰られますが、私はきっとその日の疲れがどっと出てしまうでしょう、多分(そんなにいつも、平常、ヘルパーさんに気を、気疲れし、こちらが気遣う程、それらこちらがしていたかは疑問もありますが何分退院後初なので用心します)。

 今月、退院後初めての、実は月曜も午後ヘルパーさん別の社の方、来られ、その時も、私は食事をとるのも気が引ける程、自身、病後の療養後の為、疲労困憊したのでおそらく、今回も疲れが一気に出、恐らく多分ブログ更新は控えることになります。

 元気が復活すれば、又再開ですが、その後、この文の前後かにお伝えの通り、金曜は通院日で自身、今月近時では最大の遠距離移動、人との往来、当院の臨時の主治医先生との面談診察診断等が控える為、このブログ記事は、その後、当分、お休みいたします。元気であればその時、ブログ記事を書きますが、夜間は、睡眠加療、安眠優先の為、お休みをさせて頂きます。

 そして、七日金曜日は、私は今月初、退院後初の、自身の病院通院日となって居ります。

 皆様にはご迷惑をおかけするかと思い致し、畏れますが、私にとってその日は、一日がかりの遠距離に通院の場所立地にその病院がある為、私にとり極めて過酷な行であり、おそらく、全一日、全くの、ブログ更新が不可能になる事が予想され、ここでそのお知らせ、通告、宣告、布告致します。以後お見知りおきを。

 何卒、誤解、御不満、お怒り、御心配、等々、それら御念慮の全く無きよう、切に祈り、宜しくお願いいたします。

 字数が、紙数が、誠に尽きて参りました。ここで、皆様のご健勝ご多幸をお祈り申し上げ、わたくしの言葉とさせて頂きます。
 誠に、有難う御座いました。wainai、ブログ主より。以上。                      

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い、後日談編パート2ー借金返済への道、クレジットカード会社解約への道(2)

2022年10月04日 10時58分22秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 それから、数年後、下手したら十数余年後の私の話をする。

 その、母の借金は、すべて完済し、カードにはさみを入れ、契約を解除し、ハッピーエンドを迎えるのだが、肝心の私と言えば、私も同様、数年どころか、十年以上、クレジットカードを使用しており、収入が貧乏人同様、全くなくはなく、定期的に入ってはくるが、やはり働きも少なく、少ない額で、それを無視して、多くの欲にまみれた権化となり、やはり借金も膨れ上がり、それを、自転車操業の借金生活を、さっきも言った、母の高齢者担当の、地域包括支援センター、あんしんセンターのOW田さんに相談、忠告、助言された。
 OW田さんは、郡山市・社協の「あんしんサポート」という金銭管理サービスに、入るよう勧める。
 wainaiこと私は、自分で金銭管理が出来ず、私が、借金、月賦で、カメラ二台、一眼レフカメラを(今の私は、カメラ類電化製品等や家周りの家の修繕等々は、常に必ず現金、現ナマで、借金じゃなく現金主義で購入していることをここに改めてお断りさせて頂く。私は現在はクレジットカードの類は一切使わず、その主義であり、借金札のカードは当の昔に使用を止めた。使うとすれば、ポイントカードか、現金カードチャージ式の、セブンアンドアイのnanakoカード位である。)もうその今から四年前、二〇一八年、平成三十年のその時の暦でのその当時での、前の年の秋頃だかに買ったカメラ、その内の一台、交通事故で賠償金が入り、妙に気が大きくなり、しかし、何故か現金がある筈なのに、私はカードで買うのであった。最初に買ったミラーレス一眼は、パナソニックの製品で五万と、私なりに買い物上手だなと思った。
 しかもこんなにお洒落で、実際はかなり現金値引きもしてもらい安く、ケーズデンキで買ったのだが、結局今では多くの内のカメラでも、一二を争うかは、まだ他にも幾らか持ってるので、疑問もあるが、何とか当時、これが一番お気に入り、カメラは金額じゃない、惚れ込むと、金の値打ちは飛び越えてしまう。
 うちでもその当時からそのパナソニックのミラーレスのお洒落なカメラは代々、他人に売り渡すこともなく、うちに今もいつも棚に陣取り飾り置いて、先達の如くに居残っている。
 その後の一番高かった、キャノンの当時十何万で買ったものを、又性懲りもなく、k島の中古買取に売りに行った。そこのその時の買取金額価格は、涙金、まったく温情なしの、二万を最高とする額で、ドブに高価なものを平気で落とし、捨てている状態であった。借金を返す為、借金するたび、背に腹は代えられない、背中にナイフか氷でも常に忍ばせ、その冷たさを感じつつ日々を生きているかのような、誰もが敵にも思えた、私の応援団は誰もどこにもいず、非常にまずい、悲しく、誰にも相談もできない。

 OW田さん(地域包括支援センター・あんしんセンター、主任介護支援専門員の肩書を持つ顔は今一だが、女気、心意気はバッチリの、頼れるうちの高齢の母の女性福祉担当員)が、私達親子の、その、I田医師との対決の後の、母の腰痛のその後の用心、念のための検査で訪れた、郡山市鳴神の郡山整形外科病院一階で、母と私が待合室で診察の順番を待っていた時、二階の地域包括支援センターから、私の借金まみれの様子を伺い、人知れず私ら親子の内の、私の普段からの金使いを心配して、わざわざ二階から一人飛び降りて来て、私ら親子とその年の正月、初めて改めて対面した。
 新年の挨拶など簡単に話し応じ、OW田さんは母には極めて優しく対応したが、むしろ、私には極冷たく対応した。その対応がまるで、私には「鬼」か何かの、意地悪されている感覚も最初の内は抱き、私の腹の内は、この場から早く逃げ出せないか、しかし、帰りは母と共に、タクシーで一緒に乗り、帰らねばならぬ義務が私にはあった。
 けれど、一人で来ていたら、私は、彼女、OW田さんの恩情にも気付けず、一人寂しく、OW田さんの意見の途中で自分のその場の支度も途中にして帰る支度をし、私が席を外し立ってしまったならば、そのままOW田さんの意見を無視して帰ろうとした刹那、却ってその場でOW田さんの厳しい叱責を受けていたかも知れない。それ位、今日の彼女、OW田さんは私に対して、正に真剣そのものであった。

 OW田さん。
 「皆、借金の返済、借金で借金を返す、そういうのを「自転車操業」って言う。頭のいいwainaiさんも、きっと学生の頃、そんな言葉を習った筈でしょう。
 どこぞの、どこかの国の、王子様、御曹司でもないでしょ、wainaiさんは。ただの一介のあなたのここに居るお母さんの○○子さんの息子の、極、普通のwainaiさんでしょ。その事実に気付いて!、そのお金の使い方は一体何?大金持ちではないのは、たしかなんだから、悪い事言わない。お願い、「あんしんサポート」に入って。今のwainaiさんは、私の目から見ても、見ていられない。非常に危ない橋を渡っている気がする。後悔するその前に、絶対、あんしんサポートに入って、そこの人達、社会福祉協議会の人の意見、指導をよーく聞いて、ちゃんとしっかりした金銭感覚を身に着けて、お願い!」
 
 高齢の母は、あんしんサポートってなーに、とか言って、私に聞いてくる。実は、以前から、この「あんしんサポート」の話は何度も、私達、私と福祉のOW田さんを通して、何度も何度も、耳にタコが出来る位、聞かされ、私は最初の内は、まるで他人事、詰まらない話のように、本当に自分の事としてはまるっきり、聴く耳を持たなかった。
 
 私は、それら話の一端、その全てを聴いている内、彼女、OW田さんの真剣な眼差しを私なりに見つめ、その場で考え始めた。
 思えば、そこの病院、郡山市鳴神にある郡山整形外科病院も、新年なのに、ここでOW田さんとこんな込み入った話、極めて個人的な話が可能な位、そこの待合室は、言っちゃ悪いが、客、失礼、患者さんが、特にこの日に限るのか、その日は非常に少ない方だった。周りを見ても、高齢者で包帯を巻いてる人が一人女性か男性、この人も、すぐに受付に呼ばれて帰ってゆき出てゆき、残ったのは、私ら親子と、熱心な説明、説得を続けて下さっている、OW田さんのみとなった。

 静まり返った院内で、もうぐうの音も出ない程の説得力で迫るOW田さんを相手に、私は、一言も発せず、しかし、お金は幾らかかるの、無料じゃないでしょ、とか、一々、細かいどうでもいい事ばかり言って、この話に乗るかどうかを、ずっと説得ずくで話し込んでいるOW田さんを見ながら、まだ疑っているような所のある、私であった。これだけ説得されても、恥ずかしい話だが。
 
 そして、OW田さんは、私、OW田さんのほうから、その、社協、社会福祉協議会の人に連絡を付けておくから、後日、その人たちと会って、ともう、アポイント、アポまで取り付けてあると彼女、OW田さんは言ってのけた。もう後戻りは、絶対できない、母はポカーンと、私らの様子を、又、何か楽しげな様子で、私の顔やOW田さんの顔を交互に見て、母自身、のんきそうに笑っている。
 
 私は、ここで、事の重大性、重要性がようやく飲み込め、自身の犯した罪、罪業罪障が、こんなにも深く、私の家族の大事な母や、その他、こういった福祉関係者の方々、皆様に対しても、非常に軽率な、身勝手な、迂闊な、本当に罪悪人のような振る舞いを、今まで、多くの方々を本当に実際に傷つけ、自分も勿論傷つき、母も傷つけ、非常な「大悪」(日蓮大聖人様、御金言)を行い、この醜い極悪の自分は、親不孝を母に報いてしまい、親への忠義忠孝を尽くさず、こうして家族の母を正に私の本当の意味の母は被害者であり、何も知らないのを良いことにみそくそに母を傷つけ、仏法仏教上の、「堕地獄」行を私は今、正に犯し、行ってきたのだと、自身に深く反省し、何も知らない母にも詫びたく、これ程までに、この今までの己の所業を反省し、憎み、悔やみ、懺悔し、悔い改めたいと、これほどまでに思った事は、この他にこのわたくしめの半生、人生上、全く無いに等しかった。OW田さんの話にも、真実味、切迫感、人への人情、情け、思いやり、正に日蓮正宗の最大一の、勿論仏法仏教上の最高の御もてなし、修行の最終形態、最終目標。我ら信徒の目指すべき、釈尊も、御本仏宗祖日蓮大聖人様も常に御説き御説法為された、常の仏道修業の第一義の「慈悲行」を、彼女、OW田さんは、何も仏法など知らない素人の一人のはずなのに、むしろ、彼女、OW田さんの方が、仏法を行じている私なんかよりも、よっぽど「慈悲」の篤い、仏様の境涯の人だと感じた一瞬を、この場、郡山市鳴神の、郡山整形外科病院にて、母を置いて、一人思い佇み、偲んでいた。
 
 一応の全ての説明を終えたOW田さんは母に今度は私から視線を変えてじっと黙って見つめ出し、見つめ返し、母が、話に飽きたのか、病院内の、熱帯魚の水槽の魚に興味を示し、(うちでは以前は、ペット商を商っていたので、すこぶる母は、魚や、動物好きなのである)、指をさして、あの魚は○○、と何と、私の知らない熱帯魚の名前を指さして、答えて、話している)。

 「この熱帯魚は、○○って種類の魚で、繁殖がとても難しいのよ!」

 私はその場で、その言葉を聞いて、泣きそうな心持にもなった。認知症の母でも、きちんと自分の過去でのうちでの職業の役目をしっかりと果たし切り、母としても、しっかりはっきり覚えてるんだなあ、母なりに、苦労して来たんだろうけれども、母の昔の記憶力は、遥かに私を越えて、その知識は、今でも、私などのペイペイ、私は子供、息子の分際で、私なんかでは全然及ばない、母には私は負けた。
 と何か母の偉大さ、八十を越えての頼もしさをひたぶるに感じ、母も飽きて来たのかな、と私は思い始め、そろそろ西条タクシーを呼ぼうと、そこの無料電話に駆け寄るその前に、OW田さんに一言、言い放った。

 私。
 「私、wainaiは、その、社協の、「あんしんサポート」というのに大変興味を持った。話を聞いてて、何か、やってみてもいい気がしてきた。その社協という団体は、どんな団体か、私は全く知らず、得体が知れず、門外漢なので、いつか、OW田さんの方からも、何ほどかの、説明、今、大体の話は聞いて判ったつもりだが、詳しい事はまだ何も聞いてはいないので、今度はその人たちは、うちにはいつ来るのですか?」

 と言うと、OW田さんは、具体的に、その年の、今週か、来週、それ以上になる事はないとは思うけど、一応、相手のある事だから、それ以上かかったとしても、覚悟はしておいて。悪い話、決してwainaiさんを悪いようにはしないから、覚悟だけはちゃんとしておいて。
 これから、お母さんと一緒にタクシー乗るんだね。気を付けて帰ってね。じゃあ、また。今度は、今月中には、その、社協の方々が、wainaiさんの家に必ず実際にゆくから、その時、詳しい話が聞けると思うよ。その時まで。それじゃあ、また。

 と、大分、OW田さんは私達親子に長い時間付き合い、確か、午前中の私達の病院での診察が、とっくに受付の女性の職員たちも引き払い、居なくなっていた。
 そこの病院の待合室は居抜けの空、誰も私達以外は居ず、殺風景な、しかし外は青空の景色の日差しが整形外科病院の古そうな、年季の入ったガラス窓越しにとても眩しく私達の目に映った。
 時刻は、昼の一時五分前か、とっくに一時を過ぎていたのか、母と私は、特に私は、妙に神妙な顔つきで、先程言った、郡山市の西条タクシーに、私自身、考え深く、物事を取り澄まして考えながら母子二人で車に乗り込み、母と共に、うちの自宅へと静かに帰っていった。

(ここで、いい所なんですが、又もや、私めは、昼の買い出しに出なければいけないものですから、ほんとに途中半端ですが、この辺で、私の語り部としての、役割は、買い物、食後、服薬、歯磨き等々を、完璧にこなし、行った後、もう一度、再開できたらします。何とか無事で帰って来ます。その為の日々の勤行唱題の御祈りです。それでは皆様、ごきげんよう)。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い、後日談編パート1ー借金返済への道、クレジットカード会社解約への道(1)

2022年10月03日 15時30分52秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 (後日談)
 その後、私は、そのたしか前年か、いまから数えると、その買い物が、結局借金の元になるんだが、その実際、K島電気で買ったパソコン(Windows10,東芝ダイナブックノートPC)を十万前後以内、そう、その画像が、私の残してあったわたしのブログ記事がそっくり、誰かが私と同じ当時のブログの題名タイトルで、(この場合、私の個人的なブログの著作権はどうなるのか?)結局、又、k島の中古買取を利用して、10分の1か、5分の1か、非常に格安の値段で、私は私のパソコンを売った。
 そして、その、k島を寄ったその足、つまり、自転車、法律、道路交通法では軽車両での移動で、何とか太田西ノ内病院へたどり着き、そして、受付に、先日救急で伺った、wainai○○子の息子、○○です。郡山市○○町の者です。
 と言うと、受付の係の人が「wainaiさん、wainaiさん、あった、じゃあ、金額は合計で、○万○○円です。
 と言うと、やはり高いな、とは思いつつ、k島で現金調達が出来て助かった、とこの時は、ぬか喜びしていたのである。

 しかし、この、クレジットカードなる、悪魔の札、は、その頃から、漫画家で共産党のシンパで、「ナニワ金融道」なる漫画を描いて好評を博した、青木雄二という、作者が発した名言、
 「クレジットカードは、借金札である」
 という言葉、一節を、私はネットか新聞か本か、めったに漫画は嫌いで読まないので、その前者のいずれかで、その時、彼のその言葉を知った。正に言い得て妙、名言だと思った。

 とにかく、カードの返済に困り果て、とうとう私は、借金が雪だるま式に膨れ上がり、正に自転車操業であり、その様子を母の福祉担当員、地域包括支援センター、あんしんセンターのOW田さんは、しっかり、私のうちにも玄関から実際に上がり、母と共に過ごす私をずーっと見続けていて、私のカード払いの頻繁さ、使用のし過ぎ、キャッシング(現金引き出し)は全くやってはいなかったが(母は、頭がいいから、それらキャッシングを利用したが、やはり借金を抱え、五、六、七、八、九、十年以上位まえに借金を完済し、そのカードはハサミを入れて処分し、カード会社とも母はきっぱりと解約し、以後、二度と使う事は全くなかった)、全く私はATMのキャッシングが判らず、今もそれが、利用できたのかも判らないが(結局、母の大借金、と言っても、二十万位の額だったが)私は母の例を見て知っているので、ショッピング枠でのみ使った、とにかくOW田さんその人は、私の金遣いの荒さを、彼女なりの目で気付いていた。 

 それを、見抜き、底の底を、字ずらの、文章の間と間との、行間を読み込むが如くの、正に、文の底、底意を知る、日蓮正宗の、大聖人様の極意極説の、法華経の「文底秘沈の大法」の特別に大事の法門を彼女なりに、我ら正宗信徒でもない、一介の、一般の人が、素人の人が、恐らく先祖代々邪教を信ずる、あのOW田さんなりに、福祉の世界を生きて来て、自分で編み出した、ど素人がそれを体得、見事やってのけた、素晴らしい、正宗気質を地でゆくような、感覚を私は今も、思い、最近もそれに正しくそれを気付いたばかり。 

 とにかく、OW田さんは、私を特別な見方で誰よりも心配し、その、後に私に関わる福祉関係者の中では正に大恩人の内の一人となる。

 何でもかんでも、今の世相、今の現金軽視、カード社会の闇を、私は嫌になる程、知っている。

 母のキャッシュカード借金の時、私ら親子は、月報こおりやま、という郡山市が出しているミニコミ広報誌を見て、今から遡る事十余年以上前の、私も自身のクレジットカードを止める時から(註:ここでお断り。ー・母がうちから去り、施設に入り、私一人の生活が続く、今から二、三、四年前のかなり最近に、私は借金を全額無事完済し、やはり、ハサミでカードを切る母の流儀を守り、そのカード会社をきっぱりとあと腐れなく解約した)十数何年前の、冬の日のある日に、弁護士会で法律相談をやると見出しがあり、母は俄然、行く気になり、その予定を取り、予定日になり、母と共に行った。

 そこの、郡山市堂前町にたしかある、弁護士会館は、街の中の、低い街並みの建物が続く一角にあり、そこの玄関に私と母は入って行った。
 すると、女性らしい、頭を掻きむしりかき上げた、ボサボサ頭の人、何か借金のことで、泣いたり叫んだり、その場でしゃがみこんだりしている人、立ち上がって、何か、夫婦喧嘩、痴話げんかの最中の、あんたがパチンコばっかりやって、皆パチンコにつぎ込み、家の金全部を使っちゃったから、こんな目に遭うんだ、アンタ、とか言う悲しい、この世の修羅のような、むしろ地獄界の境涯の、最低な部類の、本当にこの世の地獄がここなんだ、という実感。

 この後、私達親子は、受付で予約の者だと言い、次の部屋に通された。

 そこで、さすがに頭のよさそうな、本当に日本一難しい(その当時においては。昔の司法試験は合格率1%いるかいないかの超激戦難関試験だったが、いまは、司法試験も、新聞紙で読む限り、合格率が4,50%の緩い試験で、試験に受かっても、コネが無いと法律事務所にも就職も出来ず、普通に司法試験合格者が職にあぶれて、自宅の牛乳屋を手伝っている話も聞いている。
 裁判官になるのも、その地方裁判所の、実際の所は、司法実習生、今でいう、インターンになるのだが、そこの裁判所に、或る程度、コネ、も必要であり、カネ、も或る程度、必要だと聞いた事がある。公務員社会もコネ、カネ、であり、公務員になるのに、三百万かかったとか、母は福島交通の駅前から我が家への帰りのバスに乗った時、何人かの乗客が、公務員にそんなに金がかかる話を大声で話していたと、母が家に帰って来てからすぐに、家で勉強してから何か飲み物を飲みに、台所へ来ていた私に母がビックリして語ったのを、確か昭和の頃の話を、今も思い出す。)司法試験を通って来た、いい感じのした弁護士さんだった。

 その弁護士の方は、うちの最近までの、そのカードはイオン一社だったがそれら、毎月の請求書類に目をじっくりしっかり通した弁護士さんは、開口一番、

 弁護士さん。
 「これくらいなら、じぶんで払えるでしょう、充分、払える額です」
 と仰る。

 弁護士さん。
 「この、二十何万、この額、ここに今日も、いつも来て頂いている他の皆さんは、ハッキリ言って、こんな額じゃあ済みません。こんな恵まれた、少量の、年金でも十分返済してゆける額、こんな人、滅多にうちなんかに相談になんか来ないですよ。」

 弁護士さん。
 「ここにきている方々は、余り大声では言えませんが、皆、多重債務者、一人で何社もカード会社を渡り歩き、その額も五百万、八百万、一千万以上と、そういう方々がとても多くいらしていて、とてもじゃないが、それと比べても、あなたがたは恵まれた方の、本当に最小の、かなり少ない額の、むしろ幸せな部類の、自分たちで毎月返済して十分払える金額だと思いますが…。」

 私が言う。
 「でも、余りに借金が首に回って、返すのが毎月やっとなんですよ。毎月の買い物の品数も多すぎるんでしょうが。本当に大変です。自己破産とかって、…。」

 弁護士さん。
 「自己破産なんて、とんでもないことです。あなた方の借金の金額は、それ程、ここの人達と比べるのもなんだが、そんな大した額じゃありません。絶対に返済は可能で、あなたがたが、日頃の貯蓄に励み、ちゃんと借金を月々返済し、その暁には、きっと、あなたがたは、借金とは無縁の生活が出来るはずです。保証はできないが、私は長い弁護士人生の中で、そう確信します。長い人生、必ず返せます。頑張って、一度、やってごらんなさい。」

 お母さん。
 「今日は、大体の所の意味、私たちの現状がすっかりはっきり判りました。御迷惑を御掛け致しました。今日の所は、これで失礼します。(wainai、息子の私の事)君、さあ、もう出るわよ、さあ、もう帰りましょう。それでは、有難う御座いました。」

 私。
 「有難う御座いました。お母さん、足元、気を付けて。それでは。」

 とお辞儀をして、部屋のドアを二人の親子はその日の借金相談会合開始後ものの十分程度で弁護士さんとのお話もあっけなく終わり、私など、あっけにとられて物も何もその場では一切言えず言わずに、その場、弁護士会館をあっさりとした軽い気分で出て来た。

 こう、その前の、その言葉、その日の担当弁護士さんは仰られ、私達も帰りに際して、弁護士さんに別れの言葉を言い、弁護士さんとも別れ、その弁護士会館の、悲鳴やら呻きやら、非業の衆、集団が身を寄せて一生懸命そこの弁護士たちにすがっていた苦しみの声を背後に聞いた。

 私達親子は、何か、きつねにつままれたような、何か神業を見たような、不思議な感覚を抱きながら、その帰り道、その福島県郡山市堂前町一帯は、正に司法の街、郡山地方裁判所はあるは、近くには、各々の弁護士法律事務所、公認会計士事務所、司法書士事務所、行政書士事務所、弁理士事務所、等々、本当にそこの街一帯は、郡山市の法律法曹法学機関関係には強い、正に法律の街、の感を呈している、その街を、私達親子は、これも足取りも軽く、時には鼻歌混じりで、しかし、一生懸命借金返してゆこうね、とお母さんと歩きながら,その道なりにその街を歩き通し、私も答え、話し、私も母も何者かにその道すがら強く固く念じ誓いつつ、母の乗って来た車に乗り、一路、悠然と、気持ちもテンション上がり気味で、我が家へと帰って行った。

(用事が多々あり、夕べの勤行唱題、夕ご飯、皿の水洗い、片づけ、服薬等等、一杯作業、仕事、途中の用途があり、中途で中断失礼。書きかけ記事、その後に続く。読者の皆様、乞うご期待。長文失礼。書きかけは時間によっては明日以降になるかも。明日以降も、目まぐるしく、私の日常は常に忙しく少しは多忙であり、いつ全体が完成するかは見通せないが、そろそろ結論を急ぎ、終幕、フィナーレを狙っている所。しかし、中々、ノートの文字起こしも大変で、中々解読不能文字も多々ある。悪筆失礼。はっきり言って、自分の書いた文字なのに、読めない文字も多いんです。その分、ロスが発生し、多大な時間をかけ、皆様にご迷惑?かけてるかもしれませんが、数少ない、読者の皆さんん、いいね等を下さる皆さん、なるべくいいね等は礼儀として、無礼無きよう、必ず返礼し、返す事を基本にはしていますが、見落とし等があれば、御許し、御容赦下さい。読者の方々、私をかなり寛大に広い心で扱い、気長に付き合って下さい。必ずいつか、完成させて見せます。それまで、御開きさらばです。午後五時半、一、二分前。現在。電波時計による。以上。よしなに。wainaiより)。

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(8)

2022年10月03日 15時07分31秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 太田西ノ内、
 I田医師、は、皆、医療関係者同士、楽しそうに談笑し、笑い合い、看護婦たちとからかいの言葉を投げ、そのうち、医師同士で話をして、クイズ(医学ゲーム)のような質問と回答をその場の医師と競い合う、そんな事を互いに出し合い、やっていた。
   
 私は、何か寒気の様な、外は冬の、外気温が、朝の十二月の末の頃の話で、雪が降っていなかったのが幸いであり、(私の以前私が被害者となり起こされた交通事故が、この前年の、同じく十二月の末にやはり近く、警察署が年末の仕事納めの時に、私は調書を取って頂く為、郡山警察署に出向いた、その日から、このあたりの日付の月、日は、丁度、一年を回った。)
 私は、I田医師に、お金の相談をした。
 その時、彼は、意外にも、お金は要らない、と言い出した。
 御金は要らない、が、特別に、払ってあげる…。
 (私)「ん?」
 つまり、私らが、その医師及び看護師、医療スタッフたちが、見なかったことにして、この払いを止めて、しかし、諸君らは、二度と、うちの病院には来れない…。いい…?
 と聞くので、私はただ程コワいものはないとおもいつつ。
 私「ハイ」と答え、
 その場を母は、幸い、その時は車いす介助ではなく、そのまま母自身も、歩いて、普通の営業タクシーに乗り、無事、帰って来た。

 その前の、I田が、医師として、その態度、そんな訳、理由はないと私は思い、
 私「それでほんとうにいいんでしょうか?」
 と言っても、その医師は何も答えず、
 その場で、わたし達親子は、そのまま、そこではそこの一切の人々に、会釈なんか一つも返し交わすことなくただだその場を去り、別れた。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(7)

2022年10月03日 14時26分41秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 とにかく、話を五年前の、太田西ノ内病院救急外来室での、そこの麻酔科医師I田なる、トンヅラ男に話を戻して、

 私は、事実を、自身の私も、私の家族の唯一の母も、同じ全き信仰信心、「日蓮正宗」である事を何故かその場でわざわざ名乗り、誇らしげに私は語ると、先程まで、腰をさすり痛がっていた母が、今は何ともなくなった風に見え、顔には笑顔さえ見える。私達、私とその医師との会話を、少し耳の遠くなった母も静かに聞き入り、母なりに、私共の会話を聞き取り、理解し、何か助言する事はないのか、との母の気持ちを私はその時、かすかな、しかし依然太い、親子の絆を確かめ、私は尚も、その医師と話し続けた。
 
 私達が、日蓮正宗と言う、今は創価と絶賛対立、喧嘩中で、非常に仲が悪く、犬猿の仲、というのは、その医師の頭の中にも、既に入り、判っていたようで、
 (I田医師)「ほう、それは面白い。じゃあ、何で、あなた方は、その、公明党と結託している、自民党を支持するのですか?」
 、」
 これに対して、少し動揺し、ぐうの音も出ない私は、母の方を見ると、先程よりもなお一層、顔色も良くなり、それまで、昨日の夜中、今朝と、半日、一日中、痛がっていた、腰痛、風邪の症状も良くなり、何とか治まり、笑ってこちらを母は見つめ、わたしたちの会話の、黙ってニコニコしながら聞いている。
 私は、もう、これ以上、問答が嫌になり、これ以上、こんな所にいたら、私のストレスも大変に辛い気がしたし、この、医師の彼に対する私の答えは、永遠に、出てこないような気がして、正に、将棋の世界で、詰み将棋と言うのがあるが、正にあれで、詰んだかな、詰んだな、と勝手に自己流の判断をして、もう、私が負けたのかな、この問答?それより、母を連れて、一刻も早く、ここ、この場から立ち去らねば、という思いの方がはるかに優り、負けたにしろ何にしろ、とにかく、無事に母を連れて、うちに帰ろう、との念を強く持った。
 逃げるが勝ち、逃げる算段をし始めた私だった。
 I田医師の方を見やると、何やら、母と一緒に、
 「ほら、こうやって、お母さんを、片手一本、何なら、指一本でも、大事に簡単に介護が出来るんですよ」
 とI田医師は言った。
 その場面を見た私の感想は、母を自分勝手に、I田医師は、こちらがヒヤヒヤする程、片手一本で本当に母を弄(もてあそ)んで、自分の実験台にしているようにも見えた。貧乏人だから、何かあっても、文句も言えず、返す言葉もないだろうと、その男性の医師は、私達を完全に見くびっていたのを、今の、目が開かれた、入院生活を送り、思索に思索を重ねたこの時分だからこそ、今になって、やっと分かった。
 (I田医師)「こうかな、こうだ、こうやったら、こうで、あれ、こうだった」
 と母を、自由自在に片手で持ち上げとられる筈はないが、、しかし、何も知らない、無邪気な母を使って、I田は、私にレクチャー、講義をし始めていたが、私の視線は、依然、母の方を最大限に、何かその男に危害を加えられはしないかをただ、警戒心配し続け、私はふと、段々馬鹿らしくなってきて、視線を別の、他に働いている看護師達や、その話す人の方をぼうっと見つめた(この時、ひょっとすると、夜も朝も、母は痛いと泣くように叫び、私は心配で、母に起こされたか、私は今日の、正確には昨日からの、あの、何か、その、今日と言う日の、一瞬間だけ、地獄界に自分が突き落とされたかのような、私は何か判別がつかなくなり、その日の私は、母の看病・介護には、ちょっと疲れてはいた)。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(6)ついでに、日蓮正宗の御事。

2022年10月03日 13時46分03秒 | 日蓮正宗総本山大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、自身の思想信条の、宗教思想、その背景、信仰信心する対象が、ずばり、大東洋大日本国駿河の国静岡県富士宮市上条に存し、そこの昔で言う、大石が原に、第二祖、開山上人日興上人が、甲斐山梨県の身延山久遠寺にて、大聖人様に次いで、第二祖の、管長、詰まり、法主となられていたが、そこの地頭の波木井実長により裏切られ、他の、大聖人の弟子だった五老僧共も皆、本山久遠寺に出向かず、大聖人様が、唯授一人、血脈相承の、法水写瓶の、一人の御方からまた、たったお一人の御弟子ただその方一人のみに、その御教えの極意を伝授し続ける、大法を一人からまた一人と、法灯連綿として止まることなく、絶えずこの御法門、御宗門は、どんな時代にも関わらず、時代に一切関与せず関知せず、ただ豊饒な富士の清流は、ただどこまでも、いつの時代も清く濁らず、その姿は、まるで泥中に咲く、一輪の白蓮華の如くに、富士宮市にある、大日蓮華山富士大石寺の立派で奥ゆかしく、清楚な佇まい、広大な敷地内の大伽藍を、一度でも目にした者は、その威厳に感服し、ただ自己を反省懴悔しつつ、皆法華講の仲間同士本当に仲良く、大御本尊様に拝謁したその時には、その感激感動で涙し、それが滂沱となって溢れ、とてもハンカチの一枚や二枚では事足りず、私などは、その時つねに、大きなタオルを一枚、用意する程である。それ程の感動を、あの大御本尊様には頂ける。
 大御本尊様は、鎌倉時代の、弘安二年十月十二日御建立、勿論、建立したのは末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様である。
 数年前には、宗祖御誕生八百年を迎え、令和の御代の新時代の到来を予見させる。信徒数は国内八十万人御遺命達成、国外、海外には、二十万と(現在)、国内海外合わせると、約百万人の陣容が整った事になる。
 これでは折伏、破折、広布、広宣流布にはまだ程遠く、遠く創価には、現有信徒一千万、八百万世帯の怖ろしい数の学会員、海外でも多く、その数は、日本国内では最大、の信者数を誇り、遥かに日蓮正宗を凌駕している。
 私達日蓮正宗法華講員たちは、日夜、正当な、本当の正統派を名乗れるのは、我が日蓮正宗、大御本尊様、日蓮大聖人様の、人法一箇、それに、血脈相承の正嫡の、正しい血統、サラブレッドの、本師の御法主上人猊下様、末寺の手次ぎの弟子、小師の各地方お寺の御住職様、弟子と檀那が御僧侶方に絶対、心服の服従を誓い、それは決して差別ではなく、差別の中の平等、平等の中の差別と、この御法門にはちゃーんとした筋目、立て分け、順序、手順が宗内に確実にしっかりと存在し、誰も差別だなんだと騒ぐ者は一人としていない。
 それを弁えた上での、この信心なのである。

 以上。よしなに。wainai.

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(5)御法主上人様御言葉、等々、長文失礼!

2022年10月03日 11時03分02秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 私は、ここで論点を代え、自身の、宗教上の、信教、信仰信心の、自分が信ずる大事を、この場で述べて、母が回復次第、うちに真っ直ぐ帰ろうと心に決めた。

 (私)「私は、邪教創価学会が嫌いだから、邪悪な政治団体、公明党は全然、全く支持、支援、応援せず、彼らの全てを、全く信用もしていないです。私たち親子、母も私も、二人とも、日蓮正宗の信徒ですから」
 と答えた。
  
 しかし、ここまで私は、自身、そして母が何一言も言って語ってなどはいないのに、それを、認知症の母を差し置いていい事にして、つまり、親不孝をしてまで、ズバリ、安易に、自分の自己、自身の思想信条を、相手から軽く聞かれ、質問されたからって、それに簡単に乗っかり、全ての私の個人情報にもあたるであろう、そんな大事な話を、たった行きずりの、その場限りの間柄でしかあり得ない、その、もっとも私の思想信条にとっては極めて危険、危険人物の、そのI田とかいう男に、自身の全ての手の内を明かし、開陳してしまい、話過ぎた。後悔先に立たずである。
 後は、そのI田とかいうチンピラ医師の手によって、私の事を、自由自在に料理されるだけの運命が待っているだけであった。正に悲劇が、今、起ころうとしていた。その運命に、ただひたすら、従い、従うしかないと、自身でも思うしかなかった。
 後年、この五年間、悩みに悩み、ひたぶるに日蓮正宗の正真の御本尊様にただ、日々祈り切り、この大難が見事晴れ、見事抜け出し、脱して行って、あと腐れなく又、元の、元気な私に戻れるよう祈り、御仏智でそれが、現証実証が出て、功徳となって顕れて来たのは、今言った、実に、五年の歳月が掛かったのである。今年の私の入院生活で、本、書籍を大量に持ち込み、安倍元首相の国葬に立ち会い、その様子を病院テレビで確認、時代の生き証人ともなったあの日のもっと前、
 九月中旬頃には、私は個人的な思索が私の頭の中で頂点を極めた。
 毎日欠かさずに行ってきた私の信仰、多時間にわたる、かなりの年季の入った、私の日々の願掛け、御祈りである、朝夕の勤行唱題行、私の精神、心の中で、大体の決着、結論、結果、終結、大団円、終幕、フィナーレの、諸行無常の鐘の音は、私の心と身体を駆け巡り、もはや、誰を恨むでもなく、自己の罪業罪障を深く悔やみ、懺悔し、改め、次は、絶対にこの、今度こそは、二度と同じ轍、失敗は踏んだり、繰り返してはならぬと強く自戒し、自分に鞭打ち、己に厳しく、他へは優しく仏の如くの有り余る慈悲の心を、仏法で説く和顔施で接し、誰にでも、公平に、何なら、その、I田なる、自尊心の恐らく人一倍高い、社会的地位も高く、その職業故、人の尊信を一時でも集め、おそらくここまで彼自身、身を持ち崩す前の段階の、人生の当初の、大学医学部六年間の学生身分の時には、ここまで意地悪、陰険、腐れの、人生を彼自身、歩むなどとは露も思わず過ごしていた筈であり、その分、彼も、人生何があったのか知らぬが、むしろ彼も人生の被害者、その彼のむごたらしい人間性、仏法仏教でいう所の、十界論の中の、最低の世界、チャンネルの、「地獄界」、第二段階のむさぼり尽くす「餓鬼界」、人と常に争い、自分も傷つける「修羅界」、これも動物同士の争いで、つねに自分と相手が、食うか食われるかの瀬戸際の世界「畜生界」、これら四つを仏法上「四悪趣」と言い、仏教では最低な世界の部類の属する野蛮なチャンネルだと、忌み嫌われている。恐らくI田氏は、この四悪趣の世界を行ったり来たりの境涯なんだと私は睨んだ。
 だから、仏様の子供、仏子の、日蓮正宗の正当な、正常な目、眼(まなこ)から見れば、この人、この男も、哀れな、仏様の常に救いの御対象であり、それに本人が気づいても気付かなくても、この仏法に仮に敵対し、反旗を翻したとしても、その罪は、今生、現世で問われなければ、問われなくとも、来世で必ず問われるが(堕地獄決定けつじょう)、この日蓮正宗の御法門、御教えの中に「毒鼓の縁」という大事の法門があり、第六十八世日如御法主上人猊下様も度々この法門を話され、昨日のうちのお寺の会の中の御住職様の御説法でも、勿論これが読み上げられ、取り上げられた。
 
その法門とは、
 日如御法主上人猊下の御言葉を借り、申す。

以下、日蓮正宗機関紙「大白法」令和4年9月16日号、第1085号、2ページ目より、引用開始。

 『法華初心成仏抄』には、
 「当世の人何(なに)とはなくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は『毒鼓の縁』となって仏になるべきなり。何(いか)にとしても仏の種は法華経より外(ほか)になきなり」(平成新編日蓮大聖人御書、大石寺「御書、一三一六頁」)
 と仰せであります。
 「毒鼓の縁」とは、皆様には既にご存知の通り、太鼓に毒薬を塗り、これを大衆の中で打つと、その音は聴こうとしない者の耳にも届き、聴いた者は皆、死ぬと言われて居ります。これは、法を聞こうとせず反対した者でも、やがて法を耳にしたことが縁となって成仏得道できることを、毒鼓を打つことに譬えているのであります。
 すなわち、一切衆生には皆、仏性が具(そな)わっており、正法を聴いたことが縁となって成仏できるのであります。したがって、たとえ初めは耳を塞(ふさ)ぎ、かたくなに反対した人でも、慈悲の心をもって根気よく折伏を続けていけば、やがて聞く耳を持ち、必ず救済することができるのでありますから、折伏は諦めず、粘り強く続けていくことが大事なのであります。
 更に折伏に当たって大事な事は、大御本尊様への絶対の確信と、何ものにも恐れない勇気と、相手を思う慈悲の心であります。」

以上、機関紙大白法、引用を終える。

 この男、医師のI田も、人生の被害者、だと考えつく時、何が原因、それが縁に触れて、結果となり、果報、報いとして現れて来る、何が起因し、結果がどう出るかなど、余人の知る由もなく、ただ、仏様のみ、知り得る事なのかも知れない。

 私のお母さんはこの後、施設暮らしになるが、そこも病院が共産党系の高齢者施設であり、そこで、私は、何か月か前に退職となったある女性職員から、こんな意見、忠告を私に、今では母の保護者の私当てに、皮肉たっぷりに言ってきた。
 「お宅のお母さま、施設ではとても元気で車いすで施設内を動いていますが、ちょっと、というか、何か、というか、少し、変わり者というか、他のメンバー利用者さんとはまるっきり違った発想、行動を取り、なさり、時々、私達職員も、困るというか、なんというか、他の利用者さんは、全く問題ないと言えばないんですが」
 回りくどく、婉曲に、言う。
 うちでは、保護者の息子の大方針で、母が、通常選挙、国政、地方問わず、国や市町村で、選挙が行われた時には、必ず母を参加させ、投票行動を母に取らせるよう、厳重に毎度いつも、選挙があるたびに、私は指示し続けている。
 おそらく今でも母は、健気にも、意識がはっきりしている限りに於いて、母と私との、長年、母子ともに結託して過ごした数十年の年月を、きっと母も片時も忘れず、あれだけ、「中国朝鮮人が嫌い、彼らは、日本の領土を狙い、恨み、事実、持って行って占領している」「外国人参政権なんて、絶対にダメ!一度外人にこの国の選挙権等々、一切の権利権限を彼らに与えてしまったら、直に早晩、日本は終わる、あんた、息子なんだから、後の日本をそんな国にしたらダメ、絶対に、一緒に、私も口添えして口述して私の意見も述べるから、代わりに、あんたブログに書いて、世に問いなさい!(私の2009年から書き溜めていた当時の「日々雑感、わたしが思う、あの事この事」のことを指して、言っている。母も一応、私の原稿、最終稿、決定稿に大いに関わり、母の意見は私のブログ記事、ラジオカメラなどの趣味以外の、政治思想に関しては、母御の御指導を大いに受け、ほとんど母との共同執筆、共著で、母と教導して、反民主党政権の論陣を張り、当時のブログ記事を、余白空白スペースを母と私は共に文字活字で埋めていった。母は途中から、認知症を患うも、東京都立戸山高等学校出身卒業の、前から何度も言う、三大都立というのがあって、日比谷、西、戸山、の三高校が、昔の昭和時代、東大などに数多くの人材群を送り出し、そのうちの母は、高校がそこの出身者なので、本来ならば私よりもずっと格上で頭は私なんか比べられない位切れて頭が凄く良く、何で母の人生は、こんな福島県の郡山なんかの、田舎と言えば田舎、まあ都会の、この土地に母が来てしまったのか、これもやはり、縁なのだ。)」
 やはり、今でも、私は途中から一抜けたで、立民、共産支持に回ってしまったが、母は、絶対に今でも、そこの施設が共産党系列でも、母は自分を曲げず、自分を押し通し、昔から母は賢かったが頑固でもあったので、私の現在今の、やっと気づいた支持政党、思想信条の第一義の政治団体は、母と同じ自民党だと、やっと親孝行の一端が、この息子の端くれの私めにも出来る、機会が回ってきたと、私は母と同盟を結ぶ関係から、自身、ぬか喜びにならぬように、しかし、気付けて大喜びである。コロナでなきゃ母に真っ先に報せに行く。
 認知症の母なりに、そこの施設で、投票用紙に、自分の思う候補者の名前を、書いたりしているらしいが、いつぞやは、左手は以前転んで使えず、利き手の右手は使えるが、何か不自由そうなので、職員が代筆した、と聞き、私は大ごとにはしなかったが(むしろそこでは、母は針の筵むしろの人質同然であり、私も懇意にしている以上、それ以上は何もはんろんできはしなかった)何か、釈然としないものは、その施設に対し、いつも思う。
 そこに掲げられている、新聞は、受付、待合室の様な所だが、共産党の機関紙赤旗一部のみの閲覧可能な新聞紙誌であり、壁には、「9条を守れ」「憲法を守れ」等々のプロパガンダ、フレーズのポスターのオンパレードであり、それから党の候補者の写真入りのポスターも散見された気がする。
 そこの施設に行くたびに、私は、無理に思想信条を強制されているようで、自分が以前、立民、共産を支持していたあの間違った、ボタンを掛け違えた日々の頃、時ですら、それら施設の主張が、ある種の違和感、幻想を今、自分は見に来たのか、不偏不党でない、公正な主義主張を構える、もっと立派な団体かと思ったが、実際実体は違った。私は今でもそれらが、自身、不愉快と感じ、母が思想統制、母が何かその施設で、共産党の意にそぐわないからと、懲罰等受けなければいいのに、とただ、現在のコロナ禍の最中で、全然監視、警戒して施設の中、職員の母への態度対応、その他、理不尽なことを、母が今、現在され、訴えても無視、母の貴重な意見が葬り去られてはいやしないか、等々、余り共産党を信頼してはいないので、(これは、立民、共産を支持していた時もあまり変わらなく、ほとんど信頼は無かった、介護してくれて、大変助かる、有難い、母に代わってお礼が言いたい、謝辞、感謝の念は常にあるが)。
 逆に、この母のホームで、母にとって良い点を書いてみる。
 トイレが各部屋に一つある。
 別に見学に行った所は、トイレは二人に一つ、うちに来てるヘルパーさんの親御さんの施設も一人に一つじゃない。集合トイレ。
 中々、一人一台のトイレはない。
 一人に一つだから、利点、トイレを待たなくて良い。これが大きい。
 トイレは人間にとり、最大に大切なので、この、野党系列の施設だが、そういった親切な心、精神は、大変に有難いです。これは、感謝に尽きます。
 母は、良い施設に入りました。施設の職員他、皆様、誠に有難う御座います。多少、私も、妄想、偏見もあるかも知れません。その点は、御容赦下さい!

 以上。よしなに。wainai

太田西ノ内病院、I田医師との悪しき出会い(4)

2022年10月03日 07時50分06秒 | 政治政党・左右政党・国際情勢・時代論・護憲改憲憲法論・日蓮正宗から見た政治論
 私も自分の聞き方が、何か、詰問調、相手を人とも思わず、不思議で不審な点をつい、是非問い質したくなって、酷くしつこかったかも知れない。相手はそれで嫌な気分になったとしても、しかし、私達親子の方が、正々堂々と、最初から、自身の思想信条に誇りさえ抱き、きちんとはっきりと申し開き、私は秘密、内緒は大嫌いなので、自分の思想信条の一切を公開、公表しても尚、自身に恥じ入る所など一切なく、私は常にオープンで、開けっ広げであり、これが結局結果、ズルい、悪党に付け入られる隙を与え、バカにされ、騙される結果となる。
 しかし、この男が、私達、母子、を付け狙い、自民批判、自身の思想信条をぼかし、言おうとしないこの男は、一体何者なのか?正にヌエのようで、得体が知れず、全く霧が晴れない港か山か要塞のように、五里霧中で、この目の前の男の正体が掴めず、私は焦りもせず、じれもせず、ただ、じっと医師の男の言い分、長話を聞いているだけだ。(だんだん、この太田西ノ内病院の医師の男の権威権力権限、術中にハマり出し、私は洗脳されかかって来ていた。昔の私の学生時代からあった「睡眠学習法」なる、怪しい学習器具がうりだされていたが、正に、睡眠時間のその時全く足りない私は、やけのやんぱち、この怪しい男に、どうにでもなれ、とヤケを起こし、この男に賛同の意を向け、示す結果になるのかな、漠然と、この後の結論結果が、自分の一生を左右しかねないというのに、それには考えも及ばず、今からはたと、私の暗黒の未来が少し見えて来た気がした、その後の結果が悔やまれる、愚かな私であった)。

閑話休題。
 私達親子が、何十年にわたり、特に私など、二十歳の、誕生日の年から、ずうっと、長い間、一生懸命、私たちの親子の思想信条の一つ、宗教が、その頃は、昭和の頃から日蓮正宗創価学会の時から、御宗門に破門された平成三年からは、邪教新興宗教創価学会としての池田教としての数十年を過ごしても、それが支持母体の、邪義邪法邪説邪道邪悪な政治団体である「公明党」を何故か気が合わないのか、何となく胡散臭く(公明党は、民主共産と同じく日本国にとっては危険な売国奴法案「外国人参政権」を支持、賛成し、法案の成立を何度も狙った)、公明党には、不思議と一度も支持投票したことなど一度も、一切ない。
 比例も地方選挙区も、皆、そっくりそのまま、私ら親子は、ぜーんぶ、「自由民主党」様オンリーの、この信条だけは、誰にも、2009年の民主党「政権交代」ブームの時も、一切ブレなかった。
 何か、こちら、「自民党」の方が、むしろ私らの「信教、宗教」の類にしても良いんじゃないか、勿論自民党は政治政党なんだが、宗教みたいにうちでは信仰とも言えるという程である。
 うちの我が家では、いくらうちが貧乏家庭でも、決してバラマキの民主党、公明党、共産党などには決してなびかず、一票もそれら邪政党には決して一票を行使したり、入れたことなどは一度も今後も一切金輪際なく(そんなはずだったんだが)、全くそれら「邪政党」とは、一線を画し、私達親子は、思い思い、選挙があれば、いざ、自ら母と歩いて必ず選挙会場に向かい、そこで必ず自己の、母も自分の、貴重な一票を行使し抜いた。
 その選挙後の日曜の夜は、夜中まで、NHK、民放各局テレビの選挙特報特番に母と私は、深夜までかじりつき、大いに興味を抱き、持ち、「どこどこ地方の、何県の、何市の、何とか候補、この人は自民党だけど、お母さん、やったよ、彼、当選したよ、当確が、もう、今の七時(八時?)の段階で、早くも出たよ。えらいこっちゃ」
 と私がテレビに指差し、お母さんの方を向き、又、それもその寸暇の時間ももったいなく、惜しみ、又すぐに私は、じっくりしっかり、その選挙特番の画面に、食い入るように見守り、テレビの前で一人熱が入り、一生懸命、祈りを捧げるが如く、自民の一挙手一投足、一票が積み増してそれら自民党議員に入り加えられ、皆、その地域、現場で、圧倒的な優位を大抵はいつもつけ、自民議員に当確、自民党の、選対事務所、党本部などでは、時の首相がもう待ちきれなくて会場に駆けつけ、当選のバラの赤い花束を当選者の名前のプレートの上に花をくっつけ、会場はいつもの大拍手、大賑わいだ。
 お母さんも興奮気味で、例えば、小泉純一郎首相が、神奈川選挙区で、対立する、民主党、共産党、社民党、その他、下らない奴らばかりのクソ野党が、束になっても決して小泉さんには一度もその選挙区では勝てずに、情けなくも皆、小泉さんに敗れ去り、情けなく、敗戦の弁などを虚しく述べた束の間、次の瞬間には、その、小泉事務所から、テレビ中継で、輝かしいばかりの素晴らしく華々しい勝利の瞬間の笑顔の表情をテレビカメラは生放送で中継で捉え、画面いっぱいにあの小泉さんが、頼もしい言葉でレポーターの一声、質問に、実直に誠実に答え、今度は赤いダルマに目玉を書き出している。 
 わたしも声がつい上ずり、お母さんに、
 「やったよ、小泉さん、また首相として当選だって。本当に、最近の自民党は、軒並み強いね。すごい勝ち方、これはきっと、戦い方が他の野党とは全然違う、その議員なりの、悩んで、編み出した、戦法というものが確かにある筈なんだよ。すごいねえ、自民党は。
 今日のこの段階で、もう○○議席数も取って、早くも与党第一党に躍り出たよ。単独過半数も狙えるって。これで、確か国会議員の三分の二か過半数だったかが政府与党たちが占めれば、やっと、自民党の悲願だった、憲法改正まで、あと一息だね。お母さん。ほんとに長いね。
 何十年、戦後何十年、憲法憲法って、やってなくちゃならないのかねえ。あの日本国憲法って、硬性憲法とか言って、確か大学の法学部で習ったはずなんだけど、中々、あの憲法は元々改正が難しい、一度できたら、中々代えられない、時代遅れの、戦後何十年も経つ、おじいちゃん、おばあちゃんの代物の憲法で、今じゃ古すぎ、今の時代には何一つ合わず、本当に改正か、いっそのこと、自民党の有志で、今、憲法草案を作ってるのかな?出来たのかな?わからないけど、とにかく、今の国会の各党の議員の中で皆、民主党も公明党も「加憲」であり、一人自民党が「創憲」。」

 「最初に暫くの間は、自民党も加憲の立場なのかな、それが、実際に憲法改正が国民投票法で国民の過半数を得て、現実のものとなれば、その時は一回目は実験的に「加憲」であっても、次の二回目の憲法改正では、実際に、国民を巻き込んだ議論を自民党を中心にして世論を動かし、どういった、新しい時代の、日本人、日本国民が全員納得できる、占領憲法、GHQが命令して作った、植民地憲法じゃなく、明治憲法(大日本帝国憲法)以来の、本当に自分らで、自前の、日本人・日本国民自身が自らが心を砕いて作る、心の示すままの、この時代にあった、歴史上の素晴らしい(かどうかは、その時の憲法草案者の手にかかっているが)やっとアメリカから物も言われず、戦後初めての、自信を持って世界に示し、肝心の自衛権、正当な意味での正当防衛の交戦権を認め、天皇陛下の大事の地位権利、是も大事な、日本国憲法(昭和憲法)から基本的人権の尊重や信教の自由、思想信条の自由、すべての人権の、自由を、昭和憲法以上に、盛沢山に盛り込んで謳い、昭和憲法の、今は、その憲法を守るのは天皇、国会議員、公務員、国務大臣等々と、国の重要な地位に就く人たちばかりだが、今の自民草案のように、それを一般国民にまで、敷衍しても一向、かまわない気もするんだけども。」

 「とにかく、古くなったり、時代に合わなければ、時代に即して、明治憲法の「不磨の大典」じゃないだから、日本国憲法、これはアメリカの押しつけ憲法。ここまで一度も改正できなかった憲法は珍しく、日本位しか世界にはなく、アメリカも、イギリス(イギリスはお国柄が違い、他国の最高法規「憲法」がそもそも確かなく、一般法で全て確か解決、決裁していたような)も、フランスも、ドイツもロシアだって中国だって、どこの大国、小国、偏狭な国々でも、皆、時代に合わせて憲法改正をどこの国でも施行公布している。
 おかしんだよ、日本だけは。やっぱりおかしい。誰がこんな国にした、GHQ総司令官、ダグラス・マッカーサーか?誰だ一体?日本をここまで愚弄し、時代を迷い間違わせた狂わせた、元凶、犯人は一体、誰??」

 と私がテレビの前で、一人熱弁を振るい、興奮気味に語っていた刹那、時計ももう夜十一時を回り出し、私も何だか興奮したせいもあるが、何だか今日の選挙に会場まで出歩いて行って帰って来た疲れが今頃にわかに出て来て、あくびも出だし、本当に疲れ果て、テレビももう飽きて来てもうお眠(ねむ)の時間も近づいて来た。
 今現在のテレビ画面は、神奈川の小泉首相の事務所から、今度は敗戦、敗残者の民主党事務所、会場に場面を移し、その情けない民主党党首などを映し出し、彼はその日の、これまでの選挙戦を振り返り、主な敗因などをくどくどと、女々しく語り始めた。今日の主な選挙特番の目玉、主要な場面は、ほぼ、テレビ画面を通して見逃さずに、全て、見終わってしまったようだ。

 (母)「もうそれだけ話して、何も言う事はないわねえ。テレビも小泉さんが勝って、やっと終わって、よかったじゃない。それだけ話して、そんなにテレビも自民党が勝って、民主党が負けた。結果が判ったんだから、安心して、床について寝なさい。私ももう疲れて、眠いから、早くテレビと電気消して頂戴。お薬飲んで、お休み、眠りなさい」
 (私)「何か、心残りだけど、自民党は、勝ったのは確実。判った。薬飲んで、今日は明日の新聞がうちに来るし、詳しい事は明日の日刊毎日新聞見て、確かめるよ。おかあさん、おやすみなさい」
 (母)「おやすみなさい」

 といったような、選挙戦の時の、いつものwainai家の、これが、我が家のセオリー、選挙の流儀だったのである。
 如何に我が家が全家庭、心の限りを尽くし、天下国家を論ずる、自由民主党を、私達親子は、自民党党員では決してなかったが、母も私も、小泉さんの首相選挙の闘いでの選出の際、党員票がその大事な勝敗を決した事実を知っていたから、自民党党員に、母も私も、成ってみても良かった。お母さんも、成りたいと言っていたし、私も同意だった。
 しかし、その頃から、ネットはずっとやっていたが、肝心の、そういった、党費をいくら納めると党員票が一票行使できるとか、一切分からず調べず、私もネット検索無精であり、私達は、一介の、素人自民支持選挙マニアでしかなかった。
(この話、つづく)

 以上。よしなに。wainai.