創価学会「ニセ本尊」破折―100問100答、朗読。複音ハーモニカ演奏 創価学会「ニセ本尊」破折―100問100答、を朗読しました。複音ハーモニカC調、スズキハミングにて、童謡、国歌君が代等々を朗々と奏でました。電子ピアノはお休みでした。以上。よしなに。wainai
「検証!創価学会の実態」朗読。今日の出来事。栃木県のホテル勤務での話 「検証!創価学会の実態」朗読。今日は母の施設に行った、その出来事を冒頭で語る。後は、私のホテル勤務時代の、難行苦行をそこのホテルで味あわされた苦痛を語る。私は苦労人であり、その後の、ピンと緊張した糸が切れたが如くに、郡山へ帰って来て、潜伏数十年の日々の雌伏の時期を過ごす事となる。以上。よしなに。wainai
「新折伏鬼の野望3」、虚構の覇者、を朗読。ピアノの前で呟く 「新折伏鬼の野望3」志茂田景樹著を朗読。ピアノを前にして、創価の事共を話す。煮え切らない人々だと。救い難い人々だと。根性が曲がっていると。以上。よしなに。wainai
「検証!創価学会の実態」を朗読。ヤマハ電子ピアノが遷座鎮座。 「検証!創価学会の実態」を朗読致しました。とても興味深い御本です。その後、ヤマハの88鍵のピアノに触れました。私としてはピアノのある生活が非常に嬉しいです。以上。よしなに。wainai
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私が今年の二月に買った電子ピアノ、ヤマハ・P-225が我が家のコタツの台の上に戻って来た。誠に喜ばしい限り。
じゃあ、算盤は、という事だが、私は余りにマイナー過ぎて、算盤は、もういいかな、との小さく身を低くして、しかし、使い道は沢山あり、いまだに私の家の帳簿付け、家計簿は算盤である。だから、それに応用したり、時々算盤の本を広げて練習するのもあり、なのである。
正に「君子豹変す」とは、この事なのである。
とにかく、何日か振りで、家のコタツに電子ピアノが戻って来た事を以て、私は又、ピアノ教則本により、ピアノ独学に身を入れる事を誓うものである。
何とか、一曲でもモノにできれば、と思うが、初心者のピアノのイロハは、それは、地道な、曲の一小節分の、自己練習習得鍛錬に徹するのであり、全貌が一曲となるのは、遥かに彼方の事なのだ。
初心者シリーズの、曲本、楽曲集もあるにはあるが、私にはまだ早いと思う。
皆さんのリクエストに答えられないのが恥ずかしい限りだが、その、教則本に則った練習曲の披露でも、私なりに、皆さんが全然構わないのならば、披露しても良いとも思う。
とにかく、私は又、ピアノの一年生に舞い戻って来た。これからは、このピアノで、心置きなく練習三昧の日々を送る事をここに記し置きたい。
以上。よしなに。wainai
私はこの所のブログ記事群で、何か一方的に、電子ピアノを辞めた形にはなっているが、決して、ピアノをあきらめた訳じゃないのです。
その存在が、自身の趣味の中では、影が薄くはなっているが、全くあきらめた訳じゃない。いざとなれば、このコタツの台の上にのせて、今はそろばん、PCが一番に載せているが、電子ピアノとの交代劇も重々、あり得る訳なのです。
ピアノを決して、敵対視している訳じゃありません。むしろ、いまだに素晴らしい憧れの存在として自身の中で輝き存在し続けています。
それも、昨日の日蓮正宗無量山寿海寺での御講で、否、携帯での通話だったか、栃木のKさんに、そんなに多趣味ならば、日替わりメニューで、自分で予定や計画を立てて、趣味の時間の切り替えを行えばよい、の、励ましの言葉が大きいです。
何も、一つに集中するばかりが能じゃない。私は、それらを、今日来た福祉関係者にも、その人のせいにして、曲一曲を、弾けるようになったら弾いて下さいね、と言われたのがプレッシャーになった、それも、その人以外にも、私の金銭管理を担う社協のあんしんサポートの方にも言われて、ダブルショックで、取りやめたのは事実かも知れませんが。
私自身の努力学習不足を人のせいにしている事は否めませんね。実に卑怯です。
しかし、栃木のKさんは、そんなのはお世辞で言ってるんだから、気にする必要などないし、言ってくれるのが有難いと、そこは受け取らなくちゃ、と言われました。
その、今日来た、福祉の女性も、聞かせて、というのは、私は本当に聞きたいから言ったのに、と言われて、私は、片手で、「チューリップ」のドレミの歌位しか弾けないですよ、というと、「いいじゃない」と言って、まあ、私のこれも一人相撲の様相だったので、今までの考えが自身、凝り固まっていたな、とは思いました。
向こうとしても、私を応援したくてふいに出て言った言葉でもあり、悪気などこれっぽっちも無かった訳ですからね。これは私が悪い。むしろ、善意に受け取らないといけない所、筈でしょう、ここは。
でも、あの、88鍵の、ヤマハのピアノP-225は、音やタッチ、重厚な質感は最高に良い楽器、電子ピアノであり、演奏するには完璧なのは判り切っているから、お気に入りなのは今でも変わりません。が、いかんせん、場所も取るし、重量も重たい。
だから、ここはカシオの、CT-S1の、電子ピアノか、それ以外にもまだうちには、ヤマハの61鍵、又、カシオの44鍵のキーボードが、これだけ持てれば、音楽三昧が、十分出来得るであろう、との、音楽人生には事欠かない、道楽者で物好きの私であります故。
だから、本格的に弾くならば、ヤマハ88鍵。普段は61鍵、44鍵と、練習を、計画的に、予定を立てても良いのかな、とも思います。
でも、計画を立てて、それが崩れるのを見たくない私は、おそらく、予定や計画は立てないで、やるのかどうか、です。
計画倒れは、学生時代で身に染みて、判った事だからやらない、私に計画などは似合わないと思うのですが、これは私の信条、ともいえるのですが。
けれども、それですら思い付きであって、大した信条でもないのです。
先日から、だいぶ、「思い付き」という言葉がこのブログには出て来ましたから。ゴーイングマイウェイな私の事ではございますが。
それが間違いならば、自分自身で、自動的に軌道修正する位の可能性、応用力は私は秘めて、持ち合わせています。だから、予定計画もあり、です。
人生、どんとこい。それが有用ならば、やってみる価値はあるのだろうと考えます。
飽きたり、諦めた訳じゃない、という事が、この稿では最も言いたかった事です。
それは、ピアノと平行して、私のライフワークの趣味の、最近出て来た算盤や、PC、タブレット、スマホ、ラジオ聴取、複音ハーモニカ、カリンバ、デジタルカメラ撮影、音楽鑑賞、読書、短歌の作歌活動、その他、色々様々な趣味に応用していこうと、私なりに、考え、思っています。
ラジオがあるなら、テレビ鑑賞も、私はこれはこれで、それなりに、立派な趣味だと思っています。
私にとっては、ハッキリ言えば、なんだって趣味になり得る、という話なのであります。
とにかく、意固地になったって、何にもいい事などありはしないのです。私は、心を、もっとより柔軟にフレキシブルにしなやかに、ニコニコと、笑顔で過ごす生活でいられる毎日でありたいと切に願い望んでいます。
御本仏宗祖日蓮大聖人様の「懲りず候」(新編御書)の心境が、この年にして、改めて初めて判って来たような心地が致します。これをも、自行化他の折伏行にも応用していこうと、念じつつ、思い考えております。
勿論、これらの趣味・楽しみ事の中心、基礎、基盤、土台となり得るものは、大仏法仏教哲学の金剛の如くの、日蓮正宗の御信心、日頃からの勤行唱題の御題目、それに応じた利他の折伏の慈悲の実践行。この仏道修行にのみこそあれ、それこそが正に芸の身を助けるのだ、人生を潤(うるお)すのだ、道を開拓してゆけるのだ、という事は、私を含めて万人にも匹敵して受用されるべく、遥かに凌駕して尽きせぬ想いであり、この信心以外には他には求めるべきものが全くなく、有り得ない事は、言うまでもない事でございます事を、ここに付言して、掉尾を飾りつつ、キーを叩き終えます。
まあ、余計な付け足しですが、自分の事ばかりおしゃべりして、かつての日本の習いの昔の侍武士のように、「不言実行」が出来れば、一番に良かったであろう。
現代人の私は、一言多すぎる。こういう時は、武士らしく、一言の言い訳もせず、潔く、ただ、単に、実行に移す。有言実行よりも不言実行の言葉の方が、私は真理のような気も致しますが。
世界的には、日本人は何を考えているのか分からない、不気味だ、と思われて、有言実行という概念が出て来たのか。
私は、やっぱりいつも、実行力がいまいち伴わないので、不言実行でも良いのかな。その時は失敗しても言い訳をしなくて済むから。幾らでも実行出来て、成功すればその時改めて自己主張出来る、と余計な弱気な事も思う、昭和の人間の私であります。
とにかく、最初に一歩を踏み出す勇気を持つ事。そして、ただ、やれば良い。やり切る事。やり遂げる事。それは、何事も、やらないから出来ないんだ。その、やる為には、手段を択ばず。何が何でもやり抜く。山の頂上を見つめて、目指して、黙々と、決して愚痴・文句を言わずに目の前の事だけに一直線に取り組む。一足一足、歩を進めてゆく。他人と比べず、過去、現在、未来の、自分のみをじっと見つめ続ける。実行力・行動力が全て。つべこべ文句は言わない。まずは初めにやって見なさい。それからものを言いなさい。正にこれですね。至言。
これらの教えは、全て日蓮正宗の御教えから教わった事。それらの縮図が今の以上の言葉。
以上。よしなに。長文失礼。wainai
福祉相談室長のK女史、が我が家へ来訪した。
私はちょうどトイレに入っている所で、バツが悪かったが、何食わぬ顔で、対面した。
そして、私の話を聞いて、色々考えていた風で、最後には、相手側も、この年になり、あんまり、心臓にも体にも良くない事、一方的であった私であり、もう、本当に私が辞めるのかと思ったそうである。悪い事をしてしまった。
それでも、私は調子よく、一人しゃべりを続けて、Kさんは、半分、眠くなったように、居眠りしながら私の話を聞いているので、そんなに私の話が眠くなる、説教がましいのかな、と個人的には思った。
とにかく、その後、福祉まるごと相談のS藤氏にその後の一報を電話で入れると、私からも、個人的に済まなかったと、相談室側へはショートメールでは謝罪の言葉を入れていて、今回、丸く収まったので、良かった、と私もS藤さんも言い、それに対して同意のお言葉も頂き、私は恐縮した。
今日は、私から正式に、謝罪を告白するのは控えめだったきらいがあったのが、それを今は後悔をしている。何度も謝るのが、何か、こちらが引け目を感じて、卑屈になり過ぎるのではないのか、との考えが私を支配する、これも、一種の被害妄想であろうが、謝っていれば、もっと相互の理解も今以上に深まったろうに。
謝罪する事が、自分で恥ずかしいとの、照れ、もこの年でも勿論ある。有り過ぎる位、有る。それらが分かってもらえないもどかしさ。
とにかく、福祉相談室長のK女史は、私が、個人的な悩みは、そうやって、すぐムキになって怒ったり、時には涙を流して悲しんでみたり、感情の起伏が激しいのは、これは私の年の初めの、今年は平和主義者で行く、との、想い、理念にも反する行為なので、K女史も言うのだ。それは、仏教的な世界観からも外れた行為なんじゃないの、と。
それ以外にも、私の買い物が、どうしても、アメリカ発の、アマゾンでばかり買い物をしているので、時には、地産地消を心掛けたら、と言われたが、それは私も同意なのだが、今回の算盤は、どうやら郡山市内には売っていない感じだ。昔はやまのいカルチャーセンターがあった時が華だったのに、というと、あそこはなくなったの?と聞き返され、とっくに無くなった、と私は答えた。
とにかく、市内の文房具屋のどこを探しても、算盤など買えない、というと、大槻の文具房という、大型文具店はどう、と言われたが、あそこも今は知らないが、その、二十何年前に既に私は確認済みで、無い、と言われた事を言った。
とにかく、私のこの、相談室とのお話しも、一時間を経る前に、午後一時四十五分頃から始まったのだが、二時半を回ると、これから三時から、別の約束があるのだ、と言って、Kさんは颯爽とうちを出て行かれた。
その後に、福祉まるごと相談の電話窓口に電話した訳だ。
とにかく、今日は、関係性が終わりだと思われながらも、必死で、ショートメールが元で、印象が悪くなったのを、その後の同じメールで、謝罪に次ぐ謝罪で火消しに躍起となり、それが奏功したのかな、との想いが非常に強い。
一度は許されても、おそらくは、二度目は、許される事などないのではないのか。しかし、私とは、そこの相談室とは、これで何度目の衝突だったろうか。何度か心配をかけている。そこが、私の配慮が足りない所であり、症状、病気の所なのだと思う。
こうやって情けを掛けて頂いている、その事実、その結果に、ただ、喜びと感謝を捧げなければ、これは、虚妄、恩知らずの汚名を着た事になる。
これは、相手が女性達だから、私はあと腐れもなく、何とか許されているのかな、とも思うが、そんな性差などは、この場合、きっと関係はないのかも知れない。
その相談室のK女史さんも、今は、セクハラ(セクシュアルハラスメント)、パワハラ(パワーハラスメント)、カスハラ(カスタマーハラスメント)、モラハラ(モラルハラスメント)、ストーカー行為等々…、と、幾つものハラスメント、つきまとい、嫌がらせ行為が沢山概念が出来上がり、コンプライアンスで法的にも、違反、違法となり得る難しい厳しい時代だから、利用者さんと言えども、昔の様には振舞えなくなって来ている。利用者が加害者と成り得る事共も同時にあり得る事を、強く訴えておられた。
口は災いの元、とはよく言ったものだ。一時の感情だけで人と話してはいけないのだ。自分の中でよーくと噛んで含んで咀嚼して、考えを巡らせて、用意周到に発言する。その際は、自分に非はありはしないか、を十分弁えて、細心の注意を払って、気を付けて発言をして、それに責任を持つ、一人の大人として。その一言で、誰か傷つく人はいないか、それを良く深く考える事。
しかし、折伏に於いては、相手におもねるのは厳禁だ。しかし、相手の話にじっと注目し、傾倒、傾聴して、よーくお話を聞かせて頂くのは、これは鉄則だ。自分が語るよりもまずは、相手の言い分を徹頭徹尾、徹底して聞く。聞き役に徹する。
その上で、反論が必要ならばする。その折伏の正論を述べるのは、相手の話の最後の最後に、こちら側が最終的に打って出る事である。相手の間違いを破折する。決して相手の人格までは否定しない。その依って来たる思想の誤り間違いを指摘し批判しつつ、やんわりと折伏する。
こういったスタンスが、日蓮正宗の折伏行ではなかろうか。感情的になるなどは以ての外で、御法主日如上人猊下様が常々非難申し上げている、「折伏はケンカでは決してない」を信徒として守っていない事となる。それは一番に、避けなければならない事である。
昔、孔子は「論語」で、巧言令色鮮し仁、といって、言葉が巧みで、発言を多くする人には、誠の、仁、愛や、慈悲はまれで少ない人が多い。むしろ、寡黙で、言葉を慎み、発言を控えて抑えている人の方の味方を、立派な御仁だと、孔子様は制したのだ。正に、今の議論は、それだ。(おしゃべりの私には痛い言葉だが)
ただしゃべっていれば、無駄口叩いていれば、思い付きを話せば、いいと言うものでは決してない。そういうのを仏法上でも「愚痴」と言う。言わば、仏教でも御法度の「貪瞋痴」の三毒、小罪・大罪なのである。
言葉とは余程、選んで人と話さなければならない、との想いを強く懐いた、今日この頃である。
以上。よしなに。wainai
御指名に預かり、副講頭として、一言申し上げます。
信心強盛で参詣頂き、有難く、本来は、H田講頭が為すべきを、本人所用の為、代読いたします。
本日は町内会と御講がぶつかった。町内会では、二人の方を折伏しつつ、神社には近づかず、その他の行事で忙しい。
今年三月末の支部登山、
一、マイクロバス二台。
二、来月四月二十一日日曜日、第三十回地方部総会(寿海寺)。沢山の皆様のご参加を。
お正月に新たな気負いを持ち、出発を誓った人も多いでしょうが、三月も反省すべき所は反省し、四月への新たなスタートへ。
それが出来ないと、又、同じ失敗を繰り返す。
折伏誓願129人?(内、20名?達成)、23.6%(達成率)
今年の折伏目標123名。
支部総登山。
御講参加者を増やす。過去最大の参詣者数150名。現在は60名。
目標は100名へ拡大する。
下種先が決まるという事は、下種先を広げる。
先日の会合でも、関野委員長は、「道ですれ違う方、仕事先の方と仏法の話をして折伏成果となる」
私(H田講頭)は社交的な人ではない。
皆様に薦めるのは「あいさつ」から。
信頼関係を作る事。
新しい人へあいさつ。
近所の人へあいさつ。
同級生、親戚等へも同じくあいさつ。
最初は向こうは拒んでも、いつかはあいさつが返って来る。
必ず御本尊様に祈れば結果が現れる。
桜花らんまんの日々が近づいている。
一人が一人の折伏。
講頭H田・代読B場副講頭
最近のお笑い界について、それと本日、御報恩御講後にあった事…。 今日は日蓮正宗無量山寿海寺にて、御報恩御講がありました。その帰りのハプニングや、私のお笑い界に対する、一面意地悪な見方、その、私にはバカにされているようで、全くお笑いは受け付けない。松本人志事件についても、女性をバカにしていると一刀両断。とにかく、お笑いの何が面白いのか、私には全く分からず、受け付けない。若年性認知症に私が罹ったのでは、との怖れ心配の念慮もこの前でのお話しで語る。訪問看護さんの携帯にTELすると怖れ過ぎで心配は要らないと言う。以上。よしなに。wainai
信仰のさんぽ道2、朗読。そろばんのイロハ。算盤上で一から百まで~永遠に足してみると、珠算VS筆算、公式で考えてみる 信仰のさんぽ道2、日蓮正宗、 を朗読致しました。その後、そろばんをレクチャー。一から十まで最初から数えながら足してゆき、その後、数に従い、百、千と論を進める。実は頭のいいやり方で、数式があり、これに当てはめれば、なんでも答が出て来る。 実は今日は、短歌の会、歌会だったが、雪の為断念。習ってから初めての欠席。しかし、その後、昼間は春特有の水っぽい雪の為、すっかり溶けてしまった。残念な一日であった。 以上。よしなに。wainai
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本日、本来ならば明日土曜日に届くものが、一日早く届いた。
実際は、一般のアマゾンの輸送物も、白河市には二日で届いている場合が多い。
その後、白河なり、郡山のベースで一日留め置かれて、三日がかりで我が家へ来る。
そんな早くうちに一日でも届きたいなら、「アマゾンプライム」に入ればいいのに、そういう向きもあろう。
私は余計な出費が嫌なのだ。そんなサブスクは、アマゾンkindleアンリミテッドだけで充分である。
最近、うちのお寺の信徒でも、その、プライムとやらから、早期に解約した方を私は知っている。余りメリットが感じられなかったという。
閑話休題。肝心の送られて来た、ワンタッチそろばん。六千円とは、微妙な値段らしく、中央三桁目一珠、五珠が滑りがわるいので、これは二十数年前に今は無き、やまのいカルチャーセンターで極めて安価で購入した、トモエそろばん販売の「スベリ粉」で、粉を振りかけて、滑りを良くした。
これ位の、製品への愛情は、算盤が普及していた昭和以降の世代には、当たり前の事だと思う。この商品スベリ粉は、今でも数百円でアマゾンで売っているので、思い当たる人は購入すると良い。
とにかく、今、私は、マイブームが、昔懐かしい、「そろばん」である。ノルマは、全くないと言って良い。これを使いこなして、頑張って勉強に勤しみたい。
以上。よしなに。wainai
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今まで88鍵ピアノがそのコタツの位置に大きな地位で鎮座ましましていたのが、その座に、今度は、算盤とPCが再度、戻って来た。これで全ては良かったのだ。全てが丸く収まった。今までが、異常だったのだ。これで良しだ。
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今日、懸案だった、私が欲しかった、ついぞ待ち望んでいた、そろばん「トモエワンタッチそろばん」を購入した。土曜日に届く。
本来ならば、木曜日の今日、届くはずだった。値段は同じだったので、良かったが。
或る方が、ピアノを一曲でも弾けるようになったら聞かせてよ、とか、おかしな事を言われたから、私は私のいつも定位置で置いて存在していた、コタツの上から、嫌な悪い思い出しか残らなかった、非情なプレッシャーだった、コンプレックスの根源だった、それら、ヤマハの88鍵のピアノを完全に奥の間に撤去、撤廃、撤収、除去し、退去を願い、一掃して、一切、目の前から取り除き、見えなくした。
その代わり、そろばんを、私は自身一人で、これからは復習がてら、再度、勉強勉学学習に勤しみ取り組もうと考えている。
あと腐れなく、私なりに既に結論付けた事である。
もう、あの恐怖の奴隷状態のようなピアノ習得に執着する必要が全くないのだ、と考えると、これは、私は全て解放されたんだ、という、非常に自由な感覚が私を支配し、囚われの身じゃないのだと、それが自身を今では支えてくれている。
私は粛々と、そろばんの学習復習勉強、それに、出来得ればそろばんの資格習得に、そろばんは、年に何回も資格試験を行っているので、もしも上達が望めるならば、自学自習独学で本格的に練習に取り組み、例えそこまでいかなくても、本格的に、自由に再学習・再勉強をしてゆけるだけでも、私にとっては御の字だ。
私は自由に歩を進めて、正に自由人として歩む。自由、万歳!
そろばんは、今の時代では、正にマイナーな学習法かも知れない。
しかし、私は実際上、うちの家計簿をつける時々等々の段階でも、実にそろばんのお世話になっている事が多い。これは、ここ何十年も、その習慣は変らない。
そろばんを笑う者は、そろばんに必ず泣く。
そろばんが、外国では今やもてはやされている。日本のみが、その真価に気付かず遅れて忘れ果て、退化し、衰退の一途を辿っている。
とにかく、私は、そろばんとの、又、懐かしく、思いを馳せて乗せて、再度の学習に取り組む。勿論、電子ピアノも、やれる時が来れば、何度か思い出したかのように、学習に取り組むかも知れぬが、今一番の目標は、何と言っても「算盤」である。
以上。よしなに。wainai
私は自分の趣味や学習が、これ程まで、特に福祉関係者達に、見透かされて、バカにされたような気がして意外に思っている。
金銭の掛かり方の多寡によって、それらが見劣りするか否かをそれら者達に天秤にかけられているような、変な気分がする。
私にとり、出来得るべきは、お金が掛からない趣味が良いが、世の中に、そんなに誰もが望み、しかも経済的にも本当に一切金の掛からない安い趣味なんてあるのだろうか。私はお金は掛ければ掛けた分だけ、やがて自分に戻ってくると必ずに信ずる。
皆さん、私の生活を心配されて、一言言いたい人ばかりのようだ。私自身にとっては、お金が無くなれば潮時、との思いも強い。
だから、福祉の皆さんは余計な心配のし過ぎだと思う。皆、福祉業界は女性が多く、しかし、去年の今頃は、福祉まるごと相談の、男性相談員の、S藤氏などは、お金の使い方が、リボ払いで借金苦をしていた、あの頃にも似てはいないとは言えないが、実際上は、現金のみでやりくりをしていて、その点は感心であり、心配は要らないのかな、との、男性らしい、骨太の意見を仰っていた。
私としては、そういった、自由闊達な男性らしい意見を望む。何か女性のような、めそめそとした意見ばかりが目立つ、この福祉業界にあって、その私の価値の評価を上げてもらえる方は、やはり、同じ気持ちの分かる、男性に限られてくるのかな、女性は、どうしても、近視眼的な、事、財政事情、人と人との交際に於いては、中々、大ナタも振るえない、足の引っ張り合いのような、見苦しさも垣間見られるのではないのか。私は女性じゃないから分からないが。
とにかく、女性差別でも何でもなく、心配をし過ぎるのが、取り越し苦労するのが、女性なのではないのか。それが、私の見立てである。
いつかは、芸術・学問・仏法仏教の「事の一念三千」の実践修行の力で世間の皆様を見返すよう努力しますから、必ず私を見詰めていて下さいね。
以上。よしなに。wainai
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私は学生時代から、「地理」の授業が大好きであり、大の得意であった。
私は、子供の頃から、地図や地球儀に慣れ親しんだ。
特に、父は、子供の私に「地球儀」を買ってくれて、それを使って、その父の自由な時間からレクチャー、講義をたっぷりと受けた。
その時、それ以前は、三、四千円位の、それですら高価なものなのに、それでは小さくて、判りづらいからと、今度は、七、八千円も掛けて、私の為に、地球儀を買い求めてくれた。
その買い出しに行く日は、父にとっても上機嫌で、母には、こいつ(私)に地球儀を買ってやるんだ、と朝食の時から、得意然として、声も上ずっていた。
そして、当時、神奈川県川崎市中原区の、確か南武線のそばにあった、「ダイエー」で、父と私は歩いて出かけてゆき、無事にその「地球儀」を買ってもらった。
父にとって、地球儀とは、世界を見渡すに足る、大人としてのマナーを子供に教えてあげる、最良の道具であると思っていたようだ。実際、私はそれ以後、世界のニュースがテレビなどで報じられると、地球儀をくるくると回して、自在に世界観が身について行った。
そういう、私にとって、父や母が、今までは、私に必ず寄り添ってくれて、何不自由なく、私の教育に対しては、私が心配しなくていいように、私の為になって、教育費を多額であろうと惜しみなく投じてくれた。
これを、今になり、両親には、言葉にならぬ程の、感謝を捧げたく思う。
以上。よしなに。wainai
今日は、先日来、ここで取り上げている、A相談室長の、K田氏が我が家に午後、来た。
そうして、こちらから、昨日、無事、そろばんのアマゾンでの注文をキャンセルした事を告げた。
それから、私のお金の使い方を、その方は説教為された。
その前から、この、私の目の前にある白いヤマハのピアノを見つめて、そうやって一人で皆決めてしまって、その後、私がヤマハピアノ教室もキャンセルした事等を考慮して、それだって、やる前に、相談してから決めても良く、買うのが早かったのだ、という。
しかし、私にとっては、この、やがて、88鍵のピアノが必要になる、との、そこの教室の男性店員に言われるまでもなく、自分もその内にと考えていた事なのだ、と言った。
そうして、昨日今日の、あの算盤騒ぎも、私の全ては思い付きによるものだ、というと、その女性相談長は、思い付きは辞めましょう、という。
それだったら、と私は言い、食い下がり、全ての私の人生は、「思い付き」で成り立っている、と私は強調して、語った。
このピアノにしたって、それら、これら、人生上、安高、安積高校や法大、法政大学を受けたのだって思い付きだし、日蓮正宗に入って、今までの創価学会との決別を誓った七年前にしたって、これですら、思い付きと言えば、思い付きだ。
だから、何も、私が思い付いたのを、そう、目くじら立てる必要はないのではないのか?というと、その相談員長は、お金が絡むから、とは言うが、結局最後は、ぐうの音も出ずに、その論は引っ込めた。
しかし、せっかく買ったのだから、そのピアノの、曲が何か一曲弾けるようにしたら、と勧めるのだが。
私は言った。結局、私は思い付きでこのピアノを始めた。しかし、よーく考えると、男がピアノなんて、何て「キザ」なんだろうと、思い始めているんだ。良ーく考えれば、このピアノは今ここにあるが、その、ヤマハのピアノ教室に言われなければ、本当にここには無かったはずだし、その、全ては思い付きだと語った。
それに、私は、大体において、ピアノなんて弾いている男が私は男としても世間体からしても、キザで許せないと思うし、認められないし、大嫌いだ、とまで言い放った。
そうすると、その女史は、ピアノに飽きてしまった、嫌いになったってことかねえ、と言い、私は、暴論かも知れないが、そんな風に、率直に思った事を言った。
私は例え話で、「もしもピアノが弾けたなら」という歌を歌った、「西田敏行」さんが、歌の上ではピアノが弾けないのに、実際は、歌いながら弾いていた事共を語り言い募り、ああいう人が弾けば様(サマ)になって、カッコよい、となるが、私なんかが弾いたって、誰もカッコよい、などとは思うまい、ともうこれは、駄々をこねる子供同然である。
それに対して、K女史は、wainaiさん(私)の方がカッコ良いと思うよ、何もそこまで言わなくても、と言いつつ、もう手に負えないと思ったのか、これにて終わります、と言って、うちを出て行った。
そうして、そうやって私のお金の使い方に注文ばかり付けたがる、それら福祉関係者達が、何ともやり切れない、極論を私がここで述べなければ、私としてもやり切れない、元も子もない、と思い、酷い日になったものだと、今日の福祉相談室によるモニタリングは、ここに幕を閉じたのであった。
以上。よしなに。wainai