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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
<漢検1級 27-③に向けて その108>
●「文章題訓練」その㊲です。これだけやれば、もう万全か(^^)明朝配信予定だったけど、もう前倒しで配信します。
●難度は並み・・・チャレンジャーは80%(24点)以上が目標・・・。リピーターは限りなく100%とりたいところ(^^)
●文章題㊲:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「・・・叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪の中の雑草の生い茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは(ア)俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
赤い(1)モウセンを敷いた(2)イッソウの屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や(イ)鮠などの泳いでいる清い流れの錦川を(ウ)棹して下った。
その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓に集って(3)カンボクの遊びをするようになった。・・・
・・・私はこのカンボク会で初めて(4)ガセンシに日本画を描くことを学んだ。(5)ハンセツを赤モウセンの上に(エ)展げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有っていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした(6)セイユウは、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の(7)カンジツゲツであって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
私は先に、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の(オ)裡に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸を取って、供された七種粥を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は(8)サクゼンとして箸をおいた
人は落ち目になると僻み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら(9)ショウジョウたる(カ)落魄の一老爺、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰天地に愧ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる(キ)縕袍を衣、(10)コカクを衣る者と、与に立って恥じざる」位の自負心は、(ク)窃かに(ケ)肚の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人からその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった(コ)些事が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何だか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。・・・」「御萩と七種粥」(河上肇)
👍👍👍 🐵 👍👍👍
<解答>
(1)毛氈 (2)一艘 (3)翰墨 (4)画箋紙 (5)半截(半切) (6)清遊 (7)閑日月 (8)索然 (9)蕭条 (10)狐貉
(ア)くるま (イ)はえ(はや) (ウ)さおさ (エ)ひろ (オ)うち (カ)らくはく (キ)おんぽう (ク)ひそ (ケ)はら (コ)さじ
👍👍👍 🐵 👍👍👍
<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
<漢検1級 27-③に向けて その108>
●「文章題訓練」その㊲です。これだけやれば、もう万全か(^^)明朝配信予定だったけど、もう前倒しで配信します。
●難度は並み・・・チャレンジャーは80%(24点)以上が目標・・・。リピーターは限りなく100%とりたいところ(^^)
●文章題㊲:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「・・・叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪の中の雑草の生い茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは(ア)俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
赤い(1)モウセンを敷いた(2)イッソウの屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や(イ)鮠などの泳いでいる清い流れの錦川を(ウ)棹して下った。
その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓に集って(3)カンボクの遊びをするようになった。・・・
・・・私はこのカンボク会で初めて(4)ガセンシに日本画を描くことを学んだ。(5)ハンセツを赤モウセンの上に(エ)展げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有っていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした(6)セイユウは、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の(7)カンジツゲツであって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
私は先に、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の(オ)裡に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸を取って、供された七種粥を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は(8)サクゼンとして箸をおいた
人は落ち目になると僻み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら(9)ショウジョウたる(カ)落魄の一老爺、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰天地に愧ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる(キ)縕袍を衣、(10)コカクを衣る者と、与に立って恥じざる」位の自負心は、(ク)窃かに(ケ)肚の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人からその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった(コ)些事が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何だか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。・・・」「御萩と七種粥」(河上肇)
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(1)毛氈 (2)一艘 (3)翰墨 (4)画箋紙 (5)半截(半切) (6)清遊 (7)閑日月 (8)索然 (9)蕭条 (10)狐貉
(ア)くるま (イ)はえ(はや) (ウ)さおさ (エ)ひろ (オ)うち (カ)らくはく (キ)おんぽう (ク)ひそ (ケ)はら (コ)さじ
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