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「史劇で歴史を読み取る」シリーズ 10

2009-12-10 20:08:28 | 엄태웅
オーマイニュースの同シリーズもついに10に達しました。
今回の話は少し難しい。
でも、複耶会(仮想の集団らしい)とキム・ユシンの関係のイメージがとてもよくつかめます。

なお、二次情報に抵抗を感じながらも、せっかくのオーマイニュースの力作記事を共有したいと思い、ご紹介していますが、「史劇で歴史を読み取る」で検索してここへきてくださる方がいらっしゃるのは嬉しいです。

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キム・ユシンは自らを伽耶人だと考えたのだろうか
[伽耶文化圏 踏査 22]キム・ユシンと伽耶
出処:オーマイニュース

最近人気の下に放映されるMBCドラマ<善徳女王>は、三国時代後半、新羅の善徳女王と当時新羅政界の重要な人物だったキム・ユシン、キム・チュンチュ、ピダムなどが登場して多様な話を見せている。この中でも最も引き立って見える人物はやはりキム・ユシンで、キム・ユシンは皆によく知られているように伽耶王族出身で新羅の三国統一を導いた名将であり政治家であった。

そんな彼に接した時、否定論争が広がった。 ドラマ上に出てくる仮想団体の複耶会がそれだ。 複耶会の'ウォルヤ'という人物とキム・ユシンを相互比較することで日帝強制占領期間当時独立軍と親日派の姿が見えるといった比較が上がってきて、これに対してインターネットユーザーたちの間に互いに違う意見が行き来した。

事実この問題はドラマ上での人物に対する問題だけであって歴史的事実とはある程度距離がある。 だが若干の歴史的解釈をしてみるという時、大伽耶王族の子孫のウォルヤと金官伽耶王族の子孫のキム・ユシンを直接比較するには無理がある。 特に伽耶に対してキム・ユシンは果たしてどのように認識したかもに対しても深く調べる必要がある。

金官伽耶の滅亡,そして大伽耶の滅亡

一時は新羅に次ぐ国力で新羅を威嚇したりもした伽耶は高句麗光鍬入れ太王の南征を契機に勢力地図に大きい変化がおきることになった。 金官伽耶は廣開土大王の攻撃に直接的な打撃を受けることになって、以後大成洞(テソンドン)古墳群築造がのろくなって勢力が大きく弱まる。 反面直接的な被害を受けなかった大伽耶は伽耶諸国の新しい盟主に浮び上がることになって後期伽耶連盟体を導いていくことになる。

このような金官伽耶と大伽耶は結局新羅によって滅亡することになる。 金官伽耶は532年新羅法興王の時降参して歴史から消え、大伽耶は562年に新羅真興王の時、異斯夫によって滅亡することになった。 両国はこのように降参と征服という別の過程によって滅亡することになるのに、これは両国出身の人々に多大な影響を及ぼすことになった。

金官伽耶は新羅に降参することになることで貴族たちは彼らの権限を認められることになる。 新羅真骨貴族に編入されて活動をすることになるのに、骨品制の新羅では正統真骨ではなかったので排斥にあった側面があるが他の下位貴族たちに比べると優遇を受けて彼らの人生を営んでいくことになる。

これに反して大伽耶は異斯夫と斯多含によって征服される。 大伽耶の首都を斯多含が率いた5千の騎兵が栴檀門という門に入って白い旗をさして、異斯夫も進撃してくることで征服されることになる。
大伽耶の貴族たちは金官伽耶の貴族のように満足な優遇措置を受けることができなくて細々とカンスなど少数の人物たちが若干の活躍を広げただけだ。 反面金官伽耶の子孫たちは以後にも彼らの権限を認められて活発な活動をしたという点で対比される。 これは新羅の政策によったのだ。
ウォルヤは仮想人物だが、彼の立場を歴史的な観点で考えてみるならば金官伽耶系のキム・ユシンとは違った意味で差別的な待遇を受けて過ごすほかはなかった。 そしてキム・ユシンと新羅に対して互いに違う認識をすることになるのは彼ら中に流れる血、すなわち血縁意識のためでもある。

キム・ユシンは自らを伽耶インでと考えたのだろうか?

私たちがよく知っているようにキム・ユシンは金官伽耶王族の子孫だ。 私たちはこのためにキム・ユシンが伽耶人としてのアイデンティティを持っていたと考えやすい。 果たしてそうだっただろうか? これに対して具体的に調べようとするならひとまずキム・ユシンの血縁関係を突き詰めて見る必要がある。

キム・ユシンのおじいさんはキム・ムリョクであり、お父さんはキム・ソヒョンだ。 キム・ソヒョンは立宗葛文王の息子の肅訖宗(スクルチョン)の娘マンミョンと結婚した。立宗葛文王は真興王のお父さんであり法興王の弟として新羅王族の一員だった。 すなわちキム・ユシンとしては新羅人お母さんの下で育ったもようであり、彼の夫人の智炤夫人もまたキム・チュンチュの娘で新羅王族の一員だった。

キム・ユシンのおじいさんのキム・ムリョクは伽耶最後の王の仇衡王の三番目の息子だ。 伽耶が滅亡する時お父さんと兄たちと一緒に降参して新羅将軍として活躍した。 また彼の息子のキム・ソヒョンも同じように新羅将軍として活躍したし、これはキム・ユシンも同じだった。 すなわち伽耶子孫3世代のキム・ユシンとしては伽耶人としての自覚よりは新羅人としての自覚がより大きかったと考えてみることもできる。

このようなキム・ユシンは果たしてどれくらい自身を伽耶人と自覚したのだろうか? 多分伽耶人としてのアイデンティティを自覚したといっても、これは肯定的な部分だけでなく彼と相反した部分での自覚だったものとみられる。 キム・ユシンをはじめとする伽耶系真骨貴族たちは新羅中央政界に簡単に融和されることができなかったためだ。

例えばキム・ユシンが歴史にその名前をあらわした初めての事例は629年、高句麗との娘臂城戦闘の時だ。 この時の活躍以後642年に達して歴史舞台の前面に出ることになる。 この時キム・ユシンの年齢が47才という点を思い出してみると、他の人に比べてその本格的な活躍がかなり遅れた時期になされたことが分かる。 サダハムの場合15才に大伽耶征伐に参加して功績を立てたという点で互いに比較できる。

キム・ユシンが中央政界に足を置いておけたのはキム・チュンチュとの政治的連係があるからだ。 最初キム・ユシンの青年時代の活躍像に対する記録が少ないのは、資料の不足から見ることもできる。 だが伽耶出身であって政界でまともに活躍する機会が少なかったためでも類推して見ることができる。

金官伽耶人と違った待遇を受けた大伽耶人

それではここで大伽耶人らをしばらく調べよう。 金官伽耶出身の伽耶子孫たちはキムムリョク、キム・ソヒョン、キム・ユシンをはじめとして数多くの人々が活動するということが分かるが、まさに大伽耶子孫たちは大きい活躍を見せられずにいる。 大伽耶出身で新羅人で活躍した人は大きく3人がいるのだが、ウルク、チュクチュク,そしてカンスだ。
ウルクの場合大伽耶滅亡以前に新羅に降参したので論外で、チュクチュクとカンスが大伽耶人たちの子孫といえる。

チュクチュクとカンスは歴史で何度か名前をあらわすが、あまり大きい比重はない方だ。 チュクチュクは大耶城戦闘で活躍したが不利な状況でも降参しないで最後まで戦って戦死した武将だ。 これによって後ほど新羅の調整によって級飡で追贈される。 級飡は新羅17等関係中9番目に該当して6頭品に該当する位だ。

カンスは新羅の優れた文章家として頭がと切れるということでその名前が由来した。 彼のお父さんのソクチェの場合17等関係中11番目の奈麻に該当してこれは5頭品に該当する位だ。 そしてカンスは後ほど実力を認められて沙飡の爵位を受けるのだが、これは8番目として6頭品に該当する。

このようにチュクチュクとカンスを見ればその位が真骨に至っていなくて5頭の中と6頭の中で留まっている。 これは先立って調べた金官伽耶の子孫たちが真骨貴族で活躍した点と対比される点だ。

最初にこれは金官伽耶と大伽耶滅亡時新羅に友好的であったか、敵対的だったかにともなう結果にも見られる。 歴史的にこのような事例は多いが猛烈に対抗して投降した場合それにともなう徹底した差別代価を払うようにしていた。

ドラマ上に出たキム・ユシンとウォルヤの対話や関連内容は仮想の内容だが、歴史的状況で推察した時には互いに違う立場であったのを明確に知ることが出来る。
新羅の貴族に編入されたが調和しなかった金官伽耶人、そして新羅の貴族では排除されて個人の能力で6頭の中程度で活躍した大伽耶人たちではお互いの立場が違わざるをえなかった。

それでは果たしてキム・ユシンの場合伽耶としてのアイデンティティを持つことができなかったのだろうか? これを調べるほどの具体的な根拠はないがそれと同様に伽耶を大事にしおうとした努力を間接的に探してみる手はある。
文武王のお母さんの文明王后はキム・ユシンの妹だ。<駕洛国期>によれば文武王は661年調書を出して首露王をチョンミョに合わせて法事を行うという意志を明らかにする。 ここで彼は庶云雜干、すなわちキム・ソヒョンと文明王后を言及するのだが、これは新羅王室の血縁に伽耶人たちが合わさったことを認めた事案だ。

伽耶滅亡以後首露王に対する祭事はまともになされることができなかったがこれから定期的に祭事がなされたという。 これはキム・ユシンの活躍で新羅が隆盛され、また彼の妹が新羅王室と婚姻することで母方の外戚一族になったので可能になることだった。 すなわちキム・ユシンはこのような努力を行ったし結局その結実として伽耶の始祖と一族に対する待遇を向上させたと見られる。

上で調べた通り当時金官伽耶人と大伽耶人の子孫はお互いの立場が違う側面があった。 だが二つとも亡国の後えいという点で新羅人たちの視線はきれいでなかったものとみられる。 事実キム・ユシンはたとえ血統的にはは伽耶人の血に新羅人の血が混ざっていて伽耶人としてのアイデンティティを大きく感じられなかっただろう。 しかしこれとは関係がなく真骨貴族内部で差別待遇があっただろう。 しかしキム・ユシンは当時政治的状況と個人的な能力を発揮して三国統一の偉業を成し遂げるのに大きい役割をした。 結局これに対する補償の一つとして首露王の陵墓と祭事が復旧したものとみられ、これは彼が伽耶人としてできる努力の結果といえる。

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